第56話:呼び名(挿絵あり)
※ ※ ※ 都 教会 ※ ※ ※
今の時間の教会は誰もいない。
少年と少女は信者席について、この7日間の事について話し合っていた。
修行、苦労話。
「つまり修練場で水入りの樽に入ったのは心を鎮めるためってこと?」
「ああ。思考には酸素を使うから、水に長く潜ることで余計な思考を切り捨てられると考えたんだ。肺活量には自信があったから10分以上は潜れた。効果があったかは分からないが作戦に必要な経絡は打てるようになったよ。」
ならば風呂場でも良かったんじゃ、と思うが修練場なら気が入るかららしい。
おかげで騎士たちは気が散ってしょうがなかったが。
「すごい。この数日で統身道を体得出来るなんてあなたは天才だわ。」
「もしかして俺には徳の高い守護霊がついてるのかもな。司祭様がそんなこと仰ってたから。」
便利屋はマデリーンの発言が忘れられなかった。確かにこの驚異的な伸びは異常だ。
才能、経験、そして守護霊。どれが理由にせよ、作戦に役立てるまでだが。
「良かったら私が調べてみるわ。肉体に宿る霊を調べることが出来る魔法陣があったはずよ。作るのに半日ぐらいかかるけど。」
「そんな事が可能なのか?」
「私はまだ未熟者だけど魔法陣で準備を整えたり、魔力の満ちたパワースポットでなら高度な術を扱えるの。それに魂を御することなら得意になったから。見て。」
ロレインは目を閉じて、両手を掲げて念じ始めた。
便利屋にも分かる。彼女の周囲、そしてこの教会内にエネルギーが集まっていることが。
「おお…。」
ロレインの周囲に小さな光の粒が出現し、蛍のように飛び交い始めた。
その数はみるみると増えていき、その範囲が広がっていく。
ついには教会内全体に光の粒が飛び交っていた。
「どう、綺麗でしょ。」
赤、青、黄、緑、白。色は様々だ。
色鮮やかな光の粒が漂う幻想的な世界が視界いっぱいに広がっている。
静寂な教会の雰囲気も手伝い、神秘に満ちている。
「都にいる微小な精霊を呼び寄せて光を付けたの。あの奇跡で都が浄化されて、無害な精霊が増えたからこんなに綺麗なのよ。」
「へえ…。」
原始的な精霊には善悪の観念などない。
ただ人に有害か無害かそれだけだ。危険地帯が健在なままで、こんな真似をすればとんでもないことになっていただろう。
この光景は都が浄化されたことによる賜物だ。
「これは光の魔術と、魂を御する魔術の複合なの。私はお母さまから光の魔術を教わったわ。そして魂を…。」
ロレインの言葉が止まった直後、教会に漂う美しい光の粒が次々と消えていく。
神秘の世界があっという間に半減してしまった。
「うん?どうしたんだ?」
便利屋が横に座る少女の姿を確認すると絶句した。
ロレインは震え、大量の汗をかき、息も絶え絶えだ。
今にも発狂してしまいそうなほどに混乱している。
「ロレイン?」
ロレインは便利屋の手を痛くなるほどに握りしめると、教会の床の一部を指差して必死に恐怖を堪えて口を開いた。
「ね、ネズミが…、あそこに…。」
便利屋は彼女が指差した床を見ると、優しく横にいる少女に語り掛けた。
「心配するな。あれはネズミじゃなくて、ただのゴミだ。」
「本当なの…。」
「ああ。信じろ。」
ロレインは便利屋の手を強く握りながら、ゆっくりとネズミらしき物をよく確認すると胸をなでおろした。何のことは無い、ただの大きな埃の塊だ。
「落ち着いたか?」
「分からない…。あの実験からネズミの姿を見たり、鳴き声を聞くだけで何も考えられなくなったの。」
便利屋や騎士達の修行は達成感のあるものだったが、ロレイン達はそうはいかなかった。
武器を作るためにあの魔物に多大なる犠牲を強いることになった。魂を御する魔術が上達したのもそのおかげだ。
助祭や修道士たちはそこまで動じることはなかったが、まだ純粋なロレインは心に大きな傷を負う事となった。
「道や廊下を歩いてても鼠がいないか気にするようになったわ。部屋にいても隅を何度も確認するの。黒いゴミを見つけるだけで震えるのよ。これは一生続くの?」
罪を犯したり、大きな喪失をした者は生涯に渡る呪いを受ける。
その呪いを解くために誰かと相談したり、神に祈ったり、酒に溺れる。
ロレインもまた呪いを受けたのだ。
「時の経過や心の在り様で苦痛は和らぎもするし、深まりもする。その心の傷は伯爵を助けるためだろ。彼を必ず助けよう、そうすればきっと納得できるはずだ。」
当初の目的を忘れてはいけない。そのためにこの呪いを引き受けた。
ロレインは使命感を呼び起こし、恐怖を塗りつぶした。
「そうだったわね…。少し落ち着いた。ありがとう、スラフ。」
気が付けば自分の震えが止まっていた。
彼の手を握っていると安心する。
「ようやく名前を呼んでくれたか。出来ればラフィの方がいいな。俺のことはみんなそう呼んでたから。」
「みんなって家族や友達?」
そりゃそうだろう。
それ以外に誰がニックネームで呼ぶというのか。
「もちろん。父上や母上、兄上に姉上は元気にしてるかな。」
便利屋はまだ光が残る天井を見つめていた。
ロレインは気になってしょうがない、彼は何者だろうか。
「恋人も…、あなたをそう呼んでるの?」
「ああ。呼んでたよ。」
なら今は別れていると受け取ってよいだろう。
自分にもそう呼ぶチャンスはあるのか。
分からない。恐怖から復帰した直後で混乱してるだけなのだろうか。
だがそばにいる彼にこれからもずっとそばにいてほしいと思う気持ちは確かだ。
お互いの呪いを支え合って生きていきたい。想いが溢れそうだ。
もっと時間をかけるべき、いやもうこの気持ちを抑えることが出来ない。
「じゃあ私もそう呼んで…。」
意を決して便利屋の目を覗き込んだ時、ロレインに絶望が走った。
「ああ、いいぞ。」
彼女ほどの可憐な少女と見つめ合っているというのに彼は顔を赤らめもしてないし、ドキドキもしていない。
いつもの彼とまるで変わらない。
「嬉しいな。ラフィって呼ばれるのは随分と久しぶりなんだ。」
「いい。今のは忘れて。」
彼の目には慈しみがあるが、それは親が子を見守るときと同じだ。
ということはそれ以上の関係にならないという事。
彼はロレインを女性として見ていない。
「やっぱりあなたの事は便利屋と呼ぶわ。」
「そうか。」
ロレインは期待を捨てて、いつものように呼ぶ事にした。
2人は依頼人と請負人でしかないのだから。
「お嬢様、便利屋様!ここにおられましたか!」
「探したのですよ!」
陰鬱になりそうな空気を破ったのは教会に入って来た2人の老人だった。
「爺や、司祭様。どうしたの!?」
2人は血相を変えながら、ロレインと便利屋の元へと走った。
その形相を見るにただならぬ事が起こったに違いない。
「アウェイクニング作戦は…、中止です…!」
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