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滲んだグレーと雨の街  作者: 木邑 タクミ
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第二章


 僕は暗闇の中を歩いた。その時の雨はしとしとと柔らかに降っていて、まるで僕の身体の表面を丁寧に撫でているようだった。街灯の光が薄暗がりの中、道路をぼうっと浮かび上がらせていた。それが何だか幻想的に見えたので、僕は幽霊が出てきてもおかしくないな、と思った。そして僕は、幽霊という単語に死んでしまったアグネスを想起した。彼女が幽霊ならば、僕を見守っているのだろうか。それとも、死人相手にまた占いをやっているんだろうか。僕は骸骨を対面に座らせて占いをする美しいアグネスを思い、クスリと口の端を歪めた。……そう言えば、彼女と一緒にこんな深夜の真っただ中、初めてあれを見たんだったか。

 だとすればこれは奇妙なものだ。僕はあの場面をもう一度再現しようとしていることになる。しかも今度は僕一人だけで。コツ、コツと僕の足音が優しい雨音の中でも響いている。

 水銀の壁。僕はあれから何回も、そこに向かっていた。今日で十四回目だった。

「……」

 不気味な鋼色の壁が、僕の前に高く立ちはだかっている。表面はのたうち、ゆらゆらと揺れて反射する僕の姿をぐにゃりと歪めている。僕はそれに近づいていく。

 アグネスは一度、ここを通ることに成功している。僕は何故、彼女がそれを可能にできたのか、何度も考えてみても納得のいく答えは出ない。僕は水銀に人差し指を付ける。丸い水面がふわと広がった。ぬるりと指を押し込んでいく。

 すぐ横に、僕の指先が生えている。

「……またダメか」

 僕は嘆息する。十四回中、十四回失敗だった。もう、ここに通い続けるのはやめようと思った。おそらく原因は僕の内にあるのだ。その原因が解決しない限り、僕はここから出ることができないだろう。その原因のおそらくは……扉の、向こう側、隠された僕の過去。それを解明しない限り、僕はここから出ることができない。僕が『個性』と『過去』と『好き』を失ってしまった根本的な、トラウマ。僕はそれと向き合わなくてはならない。だが、その糸口はまだ見つからない。

「……」

 頭を振って思考を散らす。考え込むのはよそう、とりあえずは行動するのが先決だ。

 僕は、水銀の壁から生える僕自身の人差し指を見た。空いている右手で、その指先に触れてみる。左手の人差し指に奇妙な感触が走る。僕は右手でその指を引っ張ってみる。左手が壁の中に吸い込まれるような感触を味わう。僕は少しだけ気持ち悪くなり、面白くなる。右手を思い切り壁の中に突っ込んで、左腕をがっしりとつかむ。

「……っ!」

僕は見た目の気持ち悪さに面食らった。僕の左腕が壁の内側から何者かに掴まれているように見えるからだった。それはまるで、死の国へと引きずり込もうとする死神の腕。僕は右腕でぐいと左腕を引っ張った。僕は鉄色の壁の中に引きずり込まれる。僕はそうやって、少しだけ水銀の海と戯れた。





「おはようございます、クリアさん」

 家に戻ってからリビングのソファで眠ったあと、珍しい香りにつられて目を覚ますとキッチンでセナが料理をしていた。クマさんの柄が入った黄色いパジャマにエプロンを着ている。時計を見ると午前七時だった。今日の雨は小降りのようで、僕はぼうっと白く高い天井を見上げる。

 僕は、マリィとセナと同じ家に住むようになっていた。アグネスの影がちらつくあの家にいるのは辛いでしょう、とマリィが僕を誘ったのだ。その時僕は少し悩んだが、そもそもあの家がこの後どうなってしまうのかもわからないし、誰に売られるのかもわからなかったから、承諾した。その時マリィの横にいたセナは反対しなかった。セナはアグネスが死んだ日以来、僕を目の敵にしなくなっていた。僕らにはアグネスの死という一つの共有点があった。僕らはぽっかりと空いた穴を互いに埋めることは出来なくても、その穴に糸を通して、互いを寄り添わせ温めることくらいはできると思ったのだ。だから、僕とセナの関係はそれなりに良好になっていた。

「……また例の、みそしるとかいう料理かい」

 僕が奇妙な香りを嗅いで、呆れ交じりにそう呟くと、セナはふふっと笑った。

「週に一、二回は食べたくなります。美味しいんですよ?」

「……僕の口には合わなかったよ」

「もう。マリちゃんもそうやって言うんだから」

 セナはそう言って、トントンと野菜を切り始めた。あのスープはいささかしょっぱすぎると思う。ここ数日で知ったことだが、セナは日本人とのハーフなんだそうだ。母親がこっちの人で、父親が日本人。セナという少女からどこか柔らかな印象を受けるというのは、そのあたりに原因があるらしかった。生まれ育ったのは日本で、休みになるたびにこちらへ来ていたそうだ。それで母の友人の娘が、マリィ。

「ちょっとクリアさん? マリちゃん起こしてきてくれます?」

 セナの背中越しの声。

「……構わないよ」

 少し迷ったが、了承する。僕はソファから立ち上がると階段を上がり、マリィの寝室へと向かった。白く気品のあるドアを開けると、金髪のお姫様は無防備な寝顔を晒したままベッドの上に眠りこけていて、その普段の大人っぽい態度とは正反対の幼子のような寝顔、まるでアグネスみたいだった。マリィの細い足をたぐっていくと、寝間着のワンピースのがはだけて下着が見えそうになっているのが目に入る。こんなの僕じゃない男ならマリィの魔力によって襲っているところだろうと思った。

「マリィ、朝だよ。起きるんだ」

 僕がそう言うと、マリィは「ん……」と気だるげな返事をする。彼女の身体を揺らして起こすのは気が引けたので、僕はマリィがしがみついている薄い綿毛布を引っぺがした。

「……にゃにするのよ」

 マリィは目を閉じたまま不服そうな声を上げる。そして寒そうに自身の身体を抱きしめる。それによって強調された谷間が僕の目に焼き付いた。僕はその時震撼する。マリィはブラジャーを付けていない。なんて無防備な女……。

「……早く起きろよ」

 僕が目をそらしながらぶっきらぼうにそう言うと、マリィはゴロゴロとベッドの上を転がりながら、眉をひそめて駄々をこねはじめる。

「無理……起きられない……」

「あのな……」

 僕がまた、呆れながら起きろよと言いかけたのをマリィの声が遮る。

「……だっこして」

「はぁ? 何言っているんだ」

「だっこして下まで降りてくれたら、起きる」

 マリィが目を閉じたまま寝言のようにつぶやく。僕ははぁ、と嘆息する。

「わかったよ」

 それくらいでマリィが起きるなら、安いものだと思った。僕は「ほら」と言ってマリィを叩く。マリィが眠そうな声で「……起こして」と言う。僕は仕方なく彼女の手を引っ張って体を起こす。そして僕はマリィの背中と膝の下に腕を通した。僕は立ち上がる。マリィは僕が思った以上に軽かった。

 これも、ここ数日で分かったことだがマリィは朝が弱い。それも、壊滅的なほどに。だが、彼女の欠点と言えるところはそれくらいのものだった。部屋は常に綺麗で掃除が行き届いているし、ひとたび目を覚ませばいつもの落ち着きも返ってくる。

「起こしてきたよ」

 僕が階段下りてそう言うと、セナは驚いた様子で僕を見つめた。

「マリちゃんがだっこされてる……」

「駄々をこねられたんだ」

「マリちゃん、ほんと朝弱いんですよね……」

 セナがそう言いながら、僕にお姫様抱っこされているマリィをおろすのを手伝ってくれる。むにゃむにゃ言いながらマリィはおろされ、自身の前に置かれたスープをおぼろげな手つきで飲んだ。電撃が走ったように目を大きく開く。少しだけ不快そうな表情だった。その目はすでに落ち着いていて、彼女はようやく目覚めたらしかった。

「……ミソ・スープなんてまた作ったのね」

「ようやく目が覚めたのね、お姫様。クリアさんが困ってたよ?」

 セナがにやりと笑いながら話しかける。マリィはわけがわからずに眉をひそめている。どうにも、さっきの出来事を憶えてないみたいだった。

「抱っこされてここまで降りてきたんだよ? マリちゃん」

 セナの言葉に、マリィははぁと嘆息する。

「……そんなわけないでしょう。クリアくんにそんな体力があるはずないわ」

 マリィの言葉に僕はいささかむっとしたので、皮肉を言う。

「マリィの身体は想像以上に重かったよ。もう少し痩せる事をすすめるね」

 僕の言葉にマリィは唖然とする。だがその表情も一瞬で、すぐにいつもの落ち着き払った余裕の笑みに戻る。

「冗談はよしなさい。私が重いはずないもの」

「その自信はどこから来るんだ……」

 僕は呆れて呟いた。

「マリちゃん、一応言っておくけど、抱っこされて降りてきたのは本当だよ?」

 マリィの表情が固まる。目が笑っていない。だから僕は少し意地悪をしたくなる。

「……実に大変だったよ。起きろって言ったら、抱っこしておろしてー起きられないー、なんて子供みたいなこと言うんだから。まるで駄々をこねるちっちゃな子供だ」

 僕が淡々とそう言うと、みるみる内にマリィの頬が朱に染まっていく。

「……っ! そんなわけないでしょ! ……作り話も大概にしなさい」

 マリィはそう言って立ち上がり、「着替えてくるわ!」と慌ただしく去っていった。

「……珍しくマリちゃんが慌てている」

 残されたセナがぽつりとつぶやく。

「マリィにも、子供みたいな一面があるんだな」

「可愛いですね、マリちゃん」

「……だな」

 僕とセナは顔を見合わせて笑った。



「行ってきまーす!」

 セナが水色のレインコートを着て、大きな声とともに手を振り家を出ていく。

「留守番お願いね」

 黄色いレインコートのマリィも、そう言って家を出ていった。彼らは学生なのだ。当然毎日学校に行かなければならないし、勉強だってしなくてはならない。学校に行かない僕は、昼の間とても暇になる。だから、僕は黒いレインコートを着て家を出た。

 外の雨は昨日の夜と同じで柔らかだった。漂うペトリコールの香りが、優しく僕の鼻腔を刺激した。往来にはゆっくりと紺色の車が走っていて、タイヤからは時折小さな水しぶきが上がった。僕は車によってはじきあげられたそれをぼんやりと眺めていたが、その粒はすぐに降っている弱い雨に紛れてしまって、僕はあっけなくそれを見失った。はぁと嘆息すると、僕は白く、ところどころに黒いシミがある空を見上げた。

「……忘却、か」

 誰に言うでもなく僕は呟いた。白っぽい灰色の虚空に言葉が転がって、ふわふわ浮いている霧の中にそれは溶けた。言葉は泡の様だった。淡い、泡。


 ――キミは、人がモノを忘れてしまうことについて、どう思う?


 かつての、アグネスの言葉。彼女が死んだ日の夕方、僕に問うた言葉。その真意は、つかめそうでまだ、つかめない。


 アグネスが死んでから、二週間が経った。あれから僕はがむしゃらに男の影を追い続けてきた。アグネスを殺した男たちの姿を、静かでしたたかな憎しみとともに探していたわけだ。だが僕の努力をあざ笑うかのように、手がかりは少しも見つからなかった。街を出るためのヒントもなく、更に言うならば僕の過去に関する手がかりも、まるでなかった。僕はその八方ふさがりの状況に発狂しそうにこそなったものの、ぎりぎりのところで堪えた。アグネスの言葉をふと思い出したからだ。

 死に際に見せた彼女の言葉と行動には、何かしら深い意味があるのではないかというのは、容易に想像がついていた。だから僕は必死に記憶力と想像力を駆使して、彼女の言葉を敷衍するように努めた。だがこれはあくまで推測にすぎない。

 一つ、アグネスはこの街から出るための条件を知っていたという事。

 二つ、おそらくアグネスはそれを僕に伝えようとして死んだのだという事。

 満身創痍の思いでここまで把握し、僕はアグネスの記憶をまた手繰り寄せる。

 初めて僕とアグネスがあの壁に行ったとき、彼女だけがここから出ることに成功した。すぐに出ることは叶わなくなってしまったが、少なくとも、アグネスは一度ここから出ることに成功している、という事になる。それは何故か?

 僕は頭が擦り切れるまで考え続け、そしておそらくという答えにたどり着いた。それは、彼女の散り際の言葉にあった。『きっちり過去と向き合ってね』僕の想像力が言うには、これが少なくとも一つの、この街を出るためのキーワードではないかという事だ。つまり僕自身があの扉を開け、セナとマリィがトラウマを思い出しそしてそれを克服しなければ、この街から出ることができない、といった類の。アグネスは僕のこの体質も扉も全て、この街の魔力の所為だと言っていた節がある。なればこそ、僕たちがそのトラウマを真正面から受け止めるのが、この街を出る条件だというのは、実に理に適った発想なのではあるまいか?

だから、僕とマリィとセナの三人は、表面上は幸せな生活を送っている。そうすることが彼女たちと僕の過去を取り戻すためのもっともすぐれた方法であると信じて。一緒にご飯を食べ、同じ家で眠り、時折雨の街を散歩して、笑いあう。だがその表層的な幸福にまみれて僕はまた、こうも思うのだ。幸福は過去を遠ざけるのではないかと、つまり、僕らは今の幸せにかまけて、アグネスを忘れようとしているんじゃないのかと。

 僕らはあの出来事を忘れたいという事か?

 君の死が希薄になったという事か?

 アグネスという過去すべてを忘れたいという事か?

 ……わからない。僕には、わからない。

 僕の考えは、この間とそれほど変わっていはいない。人間は悲しい出来事をずっと抱えて生きていくことは出来ない。それほどまでに、人々は強くない。僕は忘却を肯定する。だからこそ、なればこそ、マリィとセナには悲しい出来事をゆっくりと心の墓場に、埋めていってほしいと思う。これからの楽しい出来事という薬で、静かに傷を癒していってほしいと思う。

 だけど、僕は別だ。僕には目標がある。アグネスが果たせなかった、疲れてしまった、目標。どれだけ苦しくたって、僕は何度もアグネスの死を掘り返さなければならない。たとえそれにどれほどの苦痛が伴おうとも、そうすることで、僕は思いを強化していく。

「……」

 僕は優しい雨の中、アグネスの家を目指した。

 奇妙なものだ。『過去』も『個性』も『好き』も持たない僕が、何かを必死にやりとげようとしている。自己矛盾も甚だしい。だが、心の奥底から湧き上がってくるこの衝動はなんなのだろう? 実は、僕にはその正体がいったい何なのかわかっていた。それは絆であり、繋がりであり、どうしようもない縁のようなものなのだ。アグネスと共に過ごした数週間のうちに、僕の一部はアグネスに渡ってしまったし、彼女の一部もまた僕の中に残されている。だから叫ぶのだ、僕の中にいるアグネスが、アグネスの中にいた、もう死んでしまった僕を悼んで。だから僕は彼女の痕跡を求める。それがどれだけ辛かろうとも。

 アグネスが埋葬された翌日、僕は書店に行き、彼女がかつて書いた小説を買おうと思った。アグネスが遺していった跡を、少しでも多く捕まえておかなければ気が済まなかったのだ。だが、それらの書籍はいくら探しても見つからなかった。書店の店員に聞いてみても、名前すら聞いたことがないと言われた。僕は怪訝に思った。

「……」

 アグネスと僕が住んでいた家、古めかしい魔女が住んでいるかのような怪しげな家。僕はそれをじっと見つめる。ドアを開けたら赤毛のアグネスが座っていて、「いらっしゃい、クリア」なんて言いながら、にっこりと微笑むんじゃないかなんて思ってしまう。だが、そんな僕の願望はあっさりと打ち砕かれた。ドアが開き、出てきたのは初老の夫婦だった。彼らは僕の存在に気付くことなく街中へと歩いていく。僕の胸の奥の何かが、泣きそうな顔をしている。

 僕があの家を出た翌日に、その家には見知らぬ夫婦が移り住んでいた。僕はその光景を見た時驚き唖然とし、数秒迷った末自分の体質を使って家に入り中を調べた。

 内装が、完全に変わっていた。かつてアグネスが来客を占った、中世風にアレンジされた高級感のあるリビングは、そこらへんに転がっているような何の変哲もないリビングに変わり、毎朝僕とアグネスが一緒に目覚めた寝室は、さみしげな書庫になっていた。当然彼女が愛用していた水晶玉もどこにも見当たらなかったし、マリィが使っていたタロットカードもどこを探しても見当たらなかった。僕はそのあまりにも変わり果てた家を見て、こらえきれずに一人で泣いた。ダメだった。マリィとセナの前では泣かないと決めていたけれど、一人になった途端涙が出るのだった。だってこんなのはあんまりじゃないか。まるで見えない何かがアグネスの存在を抹消しようとしているのだ。それがこの家を掃除した後には、たった一つのアグネスの片鱗すら、もうどこにも見受けられないのだ。塵ひとつ、赤い髪の毛一本ひとつ、この家をくまなく探したって出てくることはないだろう。彼女が残していったはずの生の爪痕は、何者かによって消滅させられたのだ。僕は悔しくって仕方がなかった。これもあの男たちの仕業なのか。ふざけるな。ふざけるな……。僕の中で、怒りが滲んだ。僕はぎりぎりと拳を握って、自分の腿を思いっきり叩いた。はぁはぁと息を吐く。

 全て、あの男の所為なのか。黒いコート、長身、感情のない声。あいつらがアグネスを殺したのか、あの小さな身体に鉛玉を撃ち込んだのか。そう思うと僕は、はらわたか煮えくり返りそうな感覚に襲われた。怒りの業火が僕の胃の中でのた打ち回っていた。その激情を落ち着けるため、ゼエゼエと肩で息をする。

「……だが、これでいい」

 僕は呟いた。その時僕はすでに冷静になっていた。重要なのは、アグネスに関する情報を更新し続ける事だ。そうすれば決して僕は彼女を忘れないだろうし、アグネスを忘れなければ僕の目標を忘れる事はない。……これで、いいのだ。これが僕の取れる、最善手。あとは、扉を開ける手段を探すこと。だけどこれに関してはろくな手がかりがない。だが焦りは禁物だ。急いては事をし損じる。何よりもまず落ち着いて心を安定させること。安定した心がないと、トラウマと向き合う事なんてできないだろうから。僕はふぅと息を吐いて、胸の内に残っていた怒りの残滓を吐き出す。マリィとセナに、心配をかけるわけにはいかない。

出来る事なら――マリィとセナと僕の三人で、この異常な街から出たいと思う。おそらくアグネスは、この街に殺されて、今なお抹消されつつあるのだから。





 その後、僕は扉の向こうの手がかりを探して街の中を歩き回った。街ゆく人々は誰も僕に興味を持たなかったし、僕も街ゆく誰に対しても興味を持たなかった。洋菓子屋から立ち上る甘い香りが僕の脳髄に刺さって、僕は歩く足を早めた。そして何のあてもなくレンガ造りの家々の間を歩き回り、時計塔がそびえる教会の裏のさびれた路地を歩きまわった。だがどれだけ探しても僕が求めているものは見つからなかった。当たり前のことだった。なんの手がかりもないのだ、僕の過去につながるものなんて。休憩するために僕は適当な大衆食堂へ行きパスタを食べ、冷たい水を飲んだ。やけにすっぱい味のするパスタだった。僕ははぁとため息をついた。家に戻ろうと思った。





 家に帰ると、横のハンガーには水色のレインコートがかかっていて、セナが帰ってきているのがわかった。今の時刻は二時半だったから、かなり帰ってくるのが早い。どうしたのだろうと思って僕はクリーム色の石で出来た階段を上がり、セナの部屋に向かった。

 ガチャリ、と金色のノブを回すと漂うのは絵の具のにおい。そこにセナの姿はない。

「……?」

 僕は部屋の真ん中に置いてあるキャンバスに近づいていった。ちょうど絵が反対側まで行かないと見ることができなかった。僕がその絵を見ようとしたその時、どんどんどんとけたたましい足音が鳴り響き、派手な音を立ててセナが入ってきた。

「――クリアさんっ、何見てるんですか!?」

 僕はその絵を横目で見――え? 肌色?

「見ちゃダメです!」

 セナがばっと僕を取り押さえ、ぐいぐい押して部屋の外まで押し出していく。顔がさくらんぼみたいに真っ赤になっている。目がぐるぐると回っていた。セナはドアを閉じてはぁ、はぁ、と荒い息を繰り返す。

「……なに勝手に見てるんですか。訴えますよ」

「いや、悪気はなかったんだよ」

 僕は答える。

「なんで音も立てずに帰ってくるんですか!? 透明人間みたいですね、クリアさんって! ほんと迷惑しちゃいます!」

「だいたい透明人間だよ」

「そういうのいらないです! 勝手に乙女の部屋に入って覗き見とか趣味悪すぎです!」

「それはすまなかったと思うけれど……」

「けど?」

 僕はおそるおそる尋ねる。

「……君はいったい何を描いていたんだ?」

 セナは目を大きく開き、「ほ、本当にみたんですか……」

「肌色がいっぱいだったね」

 ボン、と派手に音がしそうなほどセナの顔が真っ赤に染まって、口をあわあわと震わせる。

「ち、違うんですアレはそのそういうのじゃないんですだからえっととりあえず違うんです!」

 早口でセナがまくしたてる。

「うん、信用するよ」

 僕はにっこりと笑って言った。

「なんですかその言い方、絶対誤解してますよね……。もう、ホントに違うのに」

 セナはむっと口をつぐんでしばし思案し、結局すごく嫌そうな顔をして「……仕方ないです、見せてあげます」と言った。彼女は自身の部屋に僕を招き、彼女が描いた絵を僕に見せる。その絵の半分くらいは確かに肌色だった。

「これは……!」

 僕は感嘆の声を上げた。

 文字通り、透き通るような絵だった。薄暗く埃の舞う部屋の中、柔らかな月の光を受けて立つのは、透明な羽衣を着た裸同然の美女。寂しげな表情で、華奢な左手を光の方へと伸ばしている。月光に反射する彼女の金髪が艶やかに煌めき、その絵の持つ哀惜の色をより一層強めていて、その碧く綺麗な目には涙が浮かんでいるようにも見える。僕はあまりにも美しいその絵に目を奪われる。

「……」

 気まずそうにもじもじとしていたセナが、ぼそりと呟く。

「なんでそんなにじっくり見るんですか……変態さんなんですか……?」

「……すごいよ、セナ。すごくきれいだ」

 僕は呆然として答えた。セナは僕の言葉に目をぱちくりと開いてから、恥ずかしそうにうつむく。

「ありがと……ございます。それ、マリちゃんの絵なんです。ほら、目のあたりとか細い顔の線とか、そっくりでしょ?」

「だな」僕は絵を見つめながら答えた。そんな僕の態度にセナは若干嬉しげだったが、しかしぼそりと皮肉を言う。

「……クリアさんさっきからジロジロ見過ぎですよ。それってマリちゃんの全裸を見てるってことなんですよ? ……もうちょっと躊躇するとか、そういうの……気にしてください」

「僕に限ってそういうのはないよ。……それにしても、マリィがこんな絵を描くことをよく承諾してくれたね」

 僕がそう言うと、セナは「簡単でしたよ」とあっけらかんと言う。

「最初はえー、ハダカって抵抗あるのだけれど、とか言って渋ってたんですけどね。マリちゃんの美しいプロポーションを描くならハダカ以外有り得ない! って熱心に説得したら、マリちゃんちょっと変な顔して、仕方ないわね、って言ったんです。変な顔っていうのは、可愛い美しいって言われて嬉しいけど、それを表に出すのが恥ずかしいからそっけなく答えようとして、でも笑みがにじみ出ちゃってる、みたいな顔です」

「マリィらしいな、目に浮かぶよ」僕は笑った。

「可愛いでしょ? マリちゃん」

「だな」

「ところでセナ、君はア――」

 アグネスの絵を描いたことはあるのか、言おうとして、ハッとする。慌てて口をつぐむ。

「いや、なんでもない」

 僕の不自然な挙動にセナはきょとんとしたが、

「ん? なんですか? ……そうそう、マリちゃんホントに可愛くてすっごくいい子だけど、クリアさんにはあげませんよ? マリちゃんはセナのものですから」

 ふふん、とセナはにやっと笑いながら言う。

「……マリィのことがすごく好きなんだね」

 心の内で胸をなでおろす、どうやらセナは気づいていないみたいだった。

「もちろん!」

 セナは胸を張り、にっこりと笑って答えた。

「あ、それでですねクリアさん。今日セナが早く帰ってきた理由なんですけど」

「うん?」

 僕は聞き返した。

「今日はですね……なんと、マリちゃんの舞台があるんです! ピアノリサイタルです! さ、一緒に行きましょ!」

 セナは高らかにそう言うと、僕の袖をぐいと引っ張って笑った。太陽みたいな笑顔だった。



「マリちゃんは、セナにとっての王子さまなんです」

 優しい雨の中、水色のレインコートを着たセナが楽しげに話すのを見て、僕はここ二週間で起こった僕らの変化について反芻せずにはいられなかった。セナは、とても内向的で保守的な少女だった。彼女は赤の他人をとても警戒し、しかし一度仲良くなるとその関係を、親鳥が卵をじっくりと守り温めるみたいに大事にする女の子だった。セナが僕に対し心を開いていることはよくわかったし、その事実は僕にとって素直に嬉しかった。

「二人は幼馴染だったよね?」

「はい。長い休みになるたびにこっちに帰省してたんです。それで知り合ったのが、マリちゃん。セナのママはこっちの人なんですけど、パパは日本人なんです。家ではこっちの言葉を喋ってました」

「だからあんまり訛ってないのか」

「そうです。でもまだあんまり得意じゃないんですけどね」

「ふうむ」

「聞き取りはすごく上手なんですけど、話すのは少し……でも、最近はかなり慣れましたけどね。ほら、やっぱり恋人が出来ると語学が上達するって言うじゃないですか」

「恋人?」

 僕は唖然として聞き返した。

「マリちゃんですよ、マリちゃん。セナに彼氏が出来るわけないじゃないですか。男の人ってなんだか怖いし……まともに喋れるのってクリアさんくらいですよ?」

 にっこりと笑ってセナはそう言った。柔らかで可愛らしい微笑みだった。だから、僕はどう答えていいかわからなくなる。

「……そうかい」

 僕がぶっきらぼうにそう答えると、セナにやりと笑う。

「あ、照れてる照れてる」

「からかわないでくれ」

 僕が憮然としてそう言うと、セナは「はーい」と言って笑った。

「それでですねクリアさん……」

 セナはそうしてまたしゃべりだした。明るい話を続けるセナを見て、僕は何だか少し悲しい気持ちになった。何故ならそこにアグネスの話は一度も出てこなかったからだ。彼女を忘れようと僕らは必死になっていて、事実を巧妙に隠蔽するその欺瞞に、僕はアグネスにただ申し訳なくなるばかりだった。これが僕の是とした忘却だったのだろうか? わからなかった。僕だけが憶えているというのも結局は自己満足なのではないか? そんな疑問が湧いて、僕はぞっとする。慌てて首を振った。

いや、やはり僕だけが憶えていればいいのだ。マリィとセナに、悲しい出来事は早く忘れていってほしいとそう思う。そうすることが、彼女らが過去を取り戻すことへのもっとも近い道――そう思い込んで、僕は無理やり自分を納得させた。





「さ! マリちゃんのコンサートですよ! 楽しみ!」

 会場のホールに着くと、セナは水色のレインコートを脱ぎながらそう言った。僕らは入口の隣にある来客者用ハンガーにコートをかけた。辺りには既にマリィのコンサートを心待ちにしたたくさんの人々がいて、各々雑談に興じていた。高そうなスーツを着たサラリーマンに、素敵なドレスを着た女性がいて、こんな人もマリィの演奏を聴きに来るのかと僕は驚いた。

「行きましょ。身内限定のS席です」

 セナはふふと笑い、僕を連れていく。

「しょっちゅうこんなコンサートをやっているのか?」

「そうですね……二週間に一回、ってところですね。大人気なんですよ? マリちゃん。ピアノもうまいし可愛いし。すごい人気です」

「……」

 僕は唖然とした。

「その人気は彼女の見た目がとても影響していると思うんだけど、どうかな?」

 僕の言葉に、セナは幾分むっとした様子になる。

「……なんですか、その言い方。マリちゃんが下手って言いたいんですか」

「そうじゃないよ。ただ、マリィの特異体質を鑑みるに、そんな風に人気が出るのは当然のような気も……いや、今の発言はそういう風にとられても仕方がなかったね、ごめん」

 僕が謝ると、セナは困ったように笑う。

「いいですいいです、気にしないでください。でも、きっと驚くと思いますよ? マリちゃんとってもピアノ上手ですから。ほら、女性のお客さんも多いでしょ?」

 言われて僕はホールの中を見渡した。ホールの席はほとんどすべて埋まり、その中で男女比を適当に数えてみたら、確かに半分ずつくらいいるようだった。

「彼女の魔性の美貌は、女性にも効果があるのかい」

 僕が尋ねた。

「うーん? そんなことないと思いますけど。だってマリちゃんホント可愛いし。でもやっぱり、男の人に対する方が惚れさせる力は強いみたいです。男の人って外見しか見てないんだから。マリちゃん内面もとっても可愛いのに」

「ナルシストすぎるのが玉にキズだな」

「それだって可愛いんです。だってナルシストになったってしょうがないと思いません? あんなに綺麗で可愛い子、世界のどこを探してもそんなにいませんよ?」

「確かに」

「でしょ?」

 セナはにっこりと笑った。

 その時、ホール内の照明がゆっくりと落ちていった。ざわめいていたホール内が静寂に満たされる。ホール内にアナウンスが響き渡って、いよいよマリィ登場への緊張が高まっていく。セナが僕の耳に唇を近づけて、こしょこしょと耳打ちをする。

「……ドキドキしますね」

「……ああ」

 今日マリィが弾くのはショパンのエチュード十曲。有名どころをチョイスしたのは新規のお客さんにも楽しんでもらうためだという。マリィとセナの生計はほとんどここから来る出演料から来ているそうだ。もちろんセナも何かしらのバイトをしているらしいけれど。

 ホール内がほとんど真っ暗に近い状態になって、数秒。静かな沈黙が僕たちの間を通り抜けていく。皆がマリィの登場を待ち望んでいる。

 スポットライトが付く。ホールの左側に白く丸い円がぽっかりと浮かんでいる。ドアが開いて、マリィが現れる。

 観客の皆が、息を飲んだのがわかった。僕たちの視線はマリィ一点に集約される。肩口が大きく開いた、艶やかな漆黒のドレス。その碧い眼はどこまでも深く澄んでいて、緊張感というものをまるで感じさせない。薄いピンク色の唇は微笑みすらたたえていて、自身にある掛け値なしの自信を美しく体現している。この場にいる観客すべての視線を独り占めしながらマリィは悠然と歩き、中央にあるスタンウェイ・ピアノの前で綺麗な人形のように動きを止め、一礼。彼女の月を溶け込ませたような金髪がさらりと零れ落ちる。マリィはしなやかな動作で椅子に座り、背筋をすらりと伸ばしたまま、指を鍵盤にあてがう。緊張の、一瞬。

「……!」

 マリィがピアノの音を鳴らした瞬間、心をわしづかみにされたような感覚が僕を襲う。軽やかで美麗なタッチ、蝶がひらひらと舞うかのようなイントロ――ショパンによる練習曲10-5『黒鍵』。僕は優美に、可憐にマリィがピアノを弾いているのを見て、果てない草原を想起する。どこまでも、どこまでも色とりどりの花が続く草原――その中で、マリィとセナがはしゃいでいる。蝶が恋のために互いを追いかけあい、二人もきゃっきゃと嬌声をあげている。果てしなく幸福で、素敵な一瞬――僕はマリィの『黒鍵』の演奏を聞いて、そのイメージを明確に想起した。言い知れぬ高揚感が僕を包みこみ、大きな大きな情動の念が僕の体内を駆け巡っていく。僕ははっきりと理解する。マリィは、天才なのだ、と。



 演奏は観客に息つぎをさせぬほどの勢いで奏でられ、僕もセナも舞台の上で踊るみたいにピアノを弾く艶やかなマリィに魅せられて文字通り瞬きすら忘れてしまっていた。難曲のエチュードを軽々と弾きこなし、彼女自身の幻想世界に巻き込んでいくかのような旋律が僕の脳髄をびりびりと刺激して、マリィの手中に絡めとられて行ってしまいそうだった。だがそんな僕が何とか理性を保つことができたのは、曲が終わるたびに見せる「どう? すごいでしょう?」とでも言いたげにマリィが微笑を浮かべたからだ。舞台の上でも、マリィはやっぱりマリィだった。僕は苦笑した。





「言った通りすごかったでしょ? マリちゃん」

 一瞬の事のように思えたマリィのリサイタルが終わり、ホールのエントランスでセナと二人、マリィが出てくるのを待っていた。辺りには僕らのようにマリィが出てくるのを待つファンが数人。

「だな。本当にすごかった」

「ふふん」

 セナは満足げに胸をそらした。自然、彼女の控えめな胸が強調される。

「マリちゃんはセナの自慢の恋人ですから」

「うん、君の恋人はとっても素敵だよ」

 僕の言葉にセナは更に鼻高々になる。

「もっと言ってもいいんですよ」

「ああ、なんて言ったってとても可愛いし――」

 僕が言葉を続けようとしたとき、奥の関係者専用の入口が開き、二人の女性が現れる。僕は唖然とする。一人は金髪に黒のスキニーパンツに白いカットソー。マリィだった。隣にいるタイトスカートのキャリアウーマン風の女性は、恐らくマリィのマネージャーだろう。

 だが、僕が唖然としたのはもちろんマリィが美しすぎるからでも、その横にいるマネージャーが美しすぎたからでもなかった。それはもっと即物的な位置にあった。

「マリィちゃん! どうか俺とお付き合いを!」

「貴様っ! 先んじてそのような事を行うとは無礼な! マリィ殿、私こそあなたのボーイ・フレンドにふさわしい! だから私とお付き合いを!」

「見てくださいマリィ様、あなたの為に特上の花束をあつらえました!」

 ――十数人の男たちが、群がっていた。さながらハイエナのようにマリィとの交際を求めている。マリィは困り顔で、お気持ちはありがとうございます、などと言っていて、彼女の魔性の美貌もここまで来ると大変だな、と僕は思った。

「あーあ、またですよ。マリちゃんが嫌がってる」

 セナが青い顔をして呟く。

「いつもああなのかい?」

 僕は尋ねた。

「いつも通りですよ。マリちゃん可愛すぎるから、あんなリサイタルをするとみんなマリちゃんの事好きになっちゃうんです。気持ちはわからなくもないんですけど、やっぱり節度は守ってほしいですよね。だってセナっていう恋人がいるんですから」

 セナは少しむすっとして答えた。

 その時、マリィが求婚し続ける男たちの合間を縫ってコツコツとこちらへと向かってきた。顔には照れ笑いがあって、彼女は僕に対して両手を合わせて申し訳なさそうなポーズをとる。そしてそのまま両手を広げて――僕に抱きついた。マリィの柔らかな感触が僕の胸のあたりに触れる。

「皆さん、私にはボーイフレンドがいるんです。だから――ごめんなさい!」

 マリィの言葉に、男たちは阿鼻叫喚の地獄絵図を呈した。「う、嘘だろ」「ふざけるな!」「そんなああ」男たちが崩れ落ちていった。

「さ、ご飯食べに行くわよ!」

 マリィは彼らのそんな様子にはまったく気にしない風で僕の腕を絡めて、ぐいぐいと引っ張って駆けていく。僕は連れられるままだ。

「ちょっとクリアくん、もっと恋人らしくしなさいよ」

 マリィが僕にこそこそと耳うちする。

「そう言われてもね……」

「なに、私の恋人役は不服ってわけ?」

 マリィはにやりと笑いながら言う。

「……そういう意味じゃないよ」

 僕が返すと、マリィは上から目線になって言う。

「ふん、だったらもっと恋人らしくしたらいいじゃない。マリィ様大好きですぅー、愛してますぅーって」

 僕はマリィの言葉に笑って返す。

「冗談を言うなよ。それにそれは恋人関係とも言えないだろ」

 マリィが人差し指を立てて自身の頬にくっつける。

「うーん、普通の男の人ならコロっと落ちちゃうのにねぇ。それはもう簡単なんだから。コロコロコロっ、てね。一瞬よ一瞬」

「僕は普通じゃないからね」

 すると、マリィはにっこりと笑い僕の目を見て、言うのだった。

「だから私あなたの事気に入ってるのよ。好きって言いかえてもいいわ」

 さらりと言われてしまったその言葉に、僕は幾分びっくりする。

「……そうかい」

 そんな僕の様子を見てマリィは楽しげに言う。

「あ、照れてる照れてる」

「からかわないでくれ」

 僕がそう言うと、マリィは「はーい」と言って笑った。さっきも似たようなやり取りをしたような気がした。そして僕はセナの方を見た。セナが、僕とマリィが仲良くしすぎているという理由で怒っているんじゃないかと思ったのだ。だが、セナは少しむすっとした様子だったものの、

「……しょうがないです。マリちゃんの本物の恋人役は、女の子のセナにはできませんから」

 などと言って、僕に意地の悪い笑みを送った。


こんな具合にして、その時の僕は幸福だった。そして僕はこう思った。まずは、扉を開けることからだ。マリィとセナに、真実の記憶をとりもどしてもらう。そうしなければ、おそらくこの街から出ることは叶わない。それがどれだけ辛かろうとも、真摯に自分と向き合うためにはそうするしかない。そして、僕らならそれが出来る――とも、思った。そうして僕たちはアグネスを殺したこの街から、出てやる。

だが――その情動は結局のところ、一時的な幻想にすぎなかった。やはり我々に抗いがたい力というのは必ず存在しているという事を、僕は知ることになる。そうすることで僕はようやくアグネスがあの時見せた表情、言葉の意味を――少しずつだけ、わかり始める。けれど、その裏側にあるのは灰色だけだったのだけれど。







 いやに湿度の高い日だった。部屋の中で寝転がっていても肌がベタベタとしていて、僕が何かに触ろうとすると決まってじっとりと肌は張り付いた。その日の雨はほんの少しだけ弱まっていたが、それは恐らく嵐の前の静けさとでも言うべきものに相違なかった。暗い部屋の中から僕は雨が降り続く窓の外を見た。窓ガラスにはたくさんの雨粒が滴となって張り付いていて、向こう側にある茶色いレンガを逆さまにして映し出していた。雨が降るたびにそれらの滴は下に流れていき、僕は何かをするわけでもなくその様をぼうっと眺めていた。果て無い広がりを見せるグレーの空は、まるで僕の心境を表しているかのようだった。いや、いつもあんな色をした空なのだけれど、その時はそう思わずにはいられなかった。

 あれから二週間が経った。

 マリィは、僕がアグネスのかつての家に行こうとすると、それを必死に止めた。僕が何故と問うと、彼女はあなたにこれ以上傷ついてほしくない、と言った。その代わりに彼女は例の『男』を探そうという提案を僕に持ちかけた。僕はそれを承諾した。そして、例の男の話を探し回った。マリィは自身の体質を生かしていろんな人に質問したが、ろくな情報を得ることができなかった。僕だってあの男が現れたと思しき場所を何時間も張り込んだりしてみたが、まともな成果は得られなかった。だからと言って僕は特に落胆するような事はなかった。僕にはある予想があったのだ。あの男はこの街を取り囲むあの壁と同様に、人智を超えた存在であるのではないか、といった類の。得てしてそれは正解だったのだろう。僕のおぼろげな予想は、アグネスは僕らに秘密を伝えようとしたから殺されたのではないか、という事だ。そうならば、あの男が突然出てきて、アグネスを殺したことにも納得がいく。だが、もしそうだとするならば、僕はいったいどこに己の喪失をぶつければいいというのか? わからなかった。僕の胸の中には死んでしまったアグネスの残滓がいまだにくすぶっていて、それは時折僕を強く疼かせる。それは醜い殺戮衝動だった。あの男を殺してしまいたい、心臓に弾丸を撃ち込んでやりたい。アグネスと同じようにあの男も土砂降りの雨の中這いつくばって、のたれ死ねばいい。僕はその劇的な感情を自身でも驚くほど冷静に、穏やかに自身の内に抱えていた。アグネスは自身から死を選んだのかもしれない。だけど僕はそんな風に思いたくなかったし、そんなわけがないと思っていた。いずれにせよあの男の存在がなければアグネスは死ななかったのだから。僕は今でもあの男を憎み続けている。

 僕は窓から視線をそらして今一度ベッドに寝転がった。外に散歩に行くことも考えたが、あまり気分が乗らないのでやめることにした。今日マリィはピアノのレッスンに行っていて、家には僕とセナしかいない。セナは今頃絵でも描いているんだろう。

 ――セナはアグネスの死を、どうとらえているのだろう。

 何ともなしにそう思った。セナという少女は、今までアグネスの話をしたことがなかった。その記憶に触れないで、僕やマリィに笑いかけていたのかもしれない。それとも精神の奥底にもう、彼女との思い出も哀惜も押し沈めてしまったのだろうか。そうだとしたらそれはとても悲しいことだと思った。

「……クリア、さん……」

 その時だった。ガチャリとドアが開く音がして、入ってきたのはセナだった。目が真っ赤になり、顔をくしゃくしゃにして泣いている。白いフリルのワンピースを両手で握りしめて、ふらふらとこちらへ歩み寄ってくる。

「どうしたんだ、セナ」

 僕は驚いて問いかけた。だがセナが返事をすることはなく、肩で息をしながら僕のいるベッドに近づいてきて倒れこみ――僕の胸に顔をうずめた。淡い女の子の香りが広かる。

「……どうしたんだい」

 僕は尋ねた。それでもセナは答えなかった。聞こえてくるのはひっくひっくと鼻をすする音と彼女の嗚咽だけだった。僕はセナを落ち着かせるために彼女の背中を優しくなでた。驚くほどに小さな背中だった。

「……つから、いんです」

 セナはすすり泣きながらそう言った。

「……っ、みつから、ない、んです、アグネスさんのっ……」

 彼女は強く僕のTシャツを引き寄せて泣きじゃくった。だから僕はつとめて平静に尋ねる。

「何が、見つからないんだい?」

「……え、です……っつから、ないんです」

「それはどこにあるのかな?」

「……セナの、へや、です……れだけさがしても、みつからなくて……おもい、出せなくて、うぅっ……」

 そうしてセナはわんわん泣いた。僕のシャツをぐしゃぐしゃにして、嗚咽はいつまでも止むことを知らないように思えた。その様子に見ていられなくなって僕は、セナの頭をぎゅうっと抱き留め、そのさらりとした黒髪を撫でた。

「……僕も一緒に探せば見つかるかもしれない。だから一旦落ち着こう、セナ」

 その後セナは僕の胸の中で、ひっくひっくと声を荒げていたが、やがて呼吸も少し落ち着いて、「……はい」と言った。僕はセナを立ちあがらせて、彼女の部屋へと一緒に入った。

「……!」

 セナの部屋は、普段の彼女からは考えられないほどに荒れていた。びりびりに引き裂かれた紙が散乱し、パレットは裏側を向いて投げ捨てられるように落っこちていた。セナは先ほどよりは幾分落ち着いていたが、それでも嗚咽交じりの声で言う。

「……アグネス、さんの絵、描こうと、思って……でも、思い出せなくて」

「……」

「っだから、昔描いた絵、あると、思って。でも、どれだけ探しても、みつからなくて……」

 セナの言葉を聞いて、僕は愕然とする。

 セナが昔描いた絵が見つからない? アグネスの、絵が? 何故だ、何故、見つからない?その時僕はハッとする。そうか、これも、全て一連の流れなのか。セナが昔描いたアグネスの絵が今なくなっているという事は、アグネスを殺し、僕らの内にいるアグネスを殺すためのこの街の策謀なのだ。あの男達はこんなところにまで手を伸ばしているのか。それに気づいて僕は息が荒くなる。くそ、あいつらこんなことまでしやがって。僕はセナを落ち着けるためにセナの背中をまたさすった。だがその行動は、僕自身の心を落ち着けるために他ならなかった。

「……大丈夫だ、セナ。僕たちの中にアグネスはいる。だから――特徴を思い出して、絵を描けばいい。ほら、アグネスと言ったらなんといってもあの――」

 僕はそう続けようとして、アグネスの特徴を思い出そうと頭の中をかき回すが――その手は何にも触れなかった。何かが、おかしかった。僕の目の前が真っ白になった。アグネスの具体的なイメージは、薄暗い煙の中にまるで浮かんでこなかった。

 ――アグネスはどんな顔をしていた? 目の大きさは? 虹彩の色は? 更には髪の色は? 髪の色、髪の色……確か、赤だったか、そんな……気が、する。メガネをかけていた? ……かけていたような気もするし、かけていなかったかもしれない。わからない。身長は? スタイルは? 背は高かったか? 低かったか? どんなふうに喋った? どんなことを言った? どれだけ頭を捻っても、まるで、わからない、何もかもが白い霧に中にあるようで、その中で手を振り回しても、僕は何にも触ることができない。息を止めて記憶の奥底をすくう。だがその中には何も残ってなどいなかった。

「……!」

 僕はぞっとした。なんだ、これ。なんだ……これ。僕はハッとする。今隣にセナがいることをようやく思い出す。

「……セナ、落ち着いて、この部屋を掃除しよう」

「……はい」

 セナが頷いて、僕とセナはこのあまりにも散らかった部屋を掃除し始めた。その間アグネスの話を僕らはしなかった。僕らは互いに認めたくなかったのだ、彼女の特徴をもう忘れてしまっているなどという事実を。だから僕はセナの部屋がある程度整理されると、

「散歩に行ってくる」

 と言って黒いレインコートを羽織り、外に繰り出した。早急にアグネスに関する記憶を取り戻さなければならなかった。

 急ぎ足で僕は、かつてアグネスが住んでいた筈のうら寂びれた区画を歩き回った。だが、数日前までは目を閉じてもたどり着くことができたアグネスの家に、僕は決してたどり着くことができなかった。彼女の家までの道を思い出そうとすればするほど道と道がぐちゃぐちゃに混じりあって、僕の行く末を阻むのだ。僕は苛立ちなおも散々動き回ったが、アグネスが死んでしまった道路も、彼女の家も、何もかもが思い出せなかった。ここが、彼女が死んだ場所だと言われればそうなのかという気がしただろうし、そうじゃないと言われてもその通りだと思うような気がした。つまるところ、僕には何もわからなくなっていた。つい先週までどこまでも克明に僕を駆り立てていた事象全てが、濃霧の中に溶け込んでしまっていた。僕は呆然とする。

 ――僕は、アグネスの家の場所すら忘れてしまったというのか?

 僕は路地の横にあるコンクリートに座り込んで曇り空を見上げ、一人でさめざめと泣いた。雨は強く降り続いていた。





「クリア、くん……? クリア、くんっ」

 僕を呼びかける声が聞こえてそちらを向くと、黄色のレインコートが目に入った。そこにいるのはマリィだった。

「……どうしたの? こんなところで」

 マリィが心配した口調で僕に尋ねる。

「……見つからないんだ」

 言ってから思った。なんて乾いた声色だろう。

「なにが、見つからないの?」

 マリィが僕の顔を覗き込んだ。その時、マリィが息を飲んだのがわかった。きっと、僕が泣いているのが見えたからだろう。

「……アグネスの家が、どれだけ探しても、見つからない」

 僕は呆然と呟いた。マリィは目を開き――そしてそれを、悲しげに伏せる。僕の手を取る。ぐいと引っ張っていく。

「マリィっ」

 マリィは僕の問いかけに答えず、しかし彼女の後ろ姿から飛んでくるのは罵声だった。

「なんでクリアくんは、いつも一人で抱え込もうとするのかしら! そういうのってすっごく……腹が、立つわ。一人で探して見つからなかったら……私を頼ったらいいじゃない。そんなこともまったく考えずに泣いていたっていうのが……余計、腹立つ」

 マリィの怒鳴り声、僕はその言葉に驚き、自嘲し……うなだれる。

「……ごめん」

 僕が謝るとマリィはこちらに振り向いた。その碧い眼にはまだ幾分怒気が含まれているように見えたが、彼女は言う。

「いいわよ! もう。ほらクリアくん探すわよ、アグネスさんの家。あなた見つけないとどうせ帰らないでしょ? だから探すの。当然私も一緒に探すけど文句ある?」

「……ないよ」

 マリィは僕の手をぎゅっと握って、アグネスの家を探し始めた。僕は彼女の黄色い背中に着いていくばかりだった。



 当然、そう簡単には見つからなかった。僕らは同じ路地を何度も行き来し、見覚えのある街灯や風景を探し回った。僕らの内に残っていた、塵のようなアグネスの手がかりを手繰り寄せて、何時間もそれとにらめっこした。だが、時間が経つにつれて僕は見つけるのは無理なんじゃないかと思ったけれど、あまりにも真剣に捜索するマリィを見ていると、僕がこんなことじゃいけないな、と思って僕は気を引き締めなおした。元より、そうする以外に方法はなかった。僕とマリィの二人は五時間にわたり、アグネスの家を探し続けた。

 時刻は八時を過ぎて、あたりを照らすのは青白い街灯だけになっていた。だけど僕らは諦めることなく怪しげな通りを探し回った。そしてついに……その成果が、出た。

「やった……!」

 僕とマリィは歓喜の声を上げた。僕らの前にはさびれた魔女の家のような廃屋とも取れる家が鎮座していた。そう、それは紛れもなく、アグネスの家。

「見つかった、見つかった……アグネスが、昔住んでた家!」

 僕とマリィはハイタッチして、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。マリィが嬉しげに僕に言う。

「ほら、言ったでしょ? 二人だったら、なんでもできるって。だから、これからだってうまくやっていけるわよ。私もセナも、クリアくん、あなたも。だから一人で抱え込むのはやめなさい? そうしたほうがいいでしょ?」

 彼女の言葉に僕は笑う。

「……これからは君達にも伝えるようにするよ」

 僕がそう言うとマリィはにっこりと微笑んだ。それは、一輪の白く上品な花のようだった。そのあまりの美しさに僕は目を見張る。そしてこんなに嬉しそうなマリィを見たのは久しぶりだと思った。

「ほら、じゃ帰るわよ。セナが家で待ってるわ」

「あ、ちょっと待ってくれないか。この場所を地図に描いておきたいんだ」

 僕はそう言って、マリィから紙とペンを借り、この家への行き方を記した。

「よし! これでもう、忘れない!」

 僕とマリィはにっこりと笑って、顔を見合わせた。

 


 家に帰るとセナが僕に飛びついてきた。

「見てくださいっ! 思い出したんです! アグネスさんの見た目!」

 彼女はそう言って、僕とマリィに一枚の絵を突き付けた。そこには赤毛、紫色のドレスを着た小さな女の子が描かれていて――僕は目を見開く。

「……!」

 そうだ、これがアグネスじゃないか。何を忘れていたんだ、僕は。赤毛、赤い瞳、妖しげな笑み、年齢を悟らせない喋り方――アグネスに関する情報の一部が僕の内側に蘇ってくる。その感覚があまりにも懐かしく愛おしいものだったから、僕は感極まってしまう。

「セナ、ありがとう……」

 僕は呆然として呟いた。セナは嬉しそうにぱぁっと笑う。

「ふふっ、もっと褒めてくださいですっ!」

 セナがそう言うので、褒めちぎることにする。

「ホントに君はすごいよ」

「ふふふ」

「料理できるし、絵は上手いし」

「ふふふ」

「……おまけに可愛いし」

 僕はにっこり笑って言った。セナは目を開いて、顔を赤らめる。

「か、可愛いなんてそんな……!」

「あら、セナはとっても可愛いじゃない」

 横からマリィが口をはさんだ。セナの表情がぱあっと明るくなる。

「マリちゃんー!」

 セナががばっとマリィに抱きついた。マリィが彼女を優しく受け止めて頭を撫でる。そうして僕ら三人は笑いあった。

 そうだ、こんな風にしていけばいい。こうやって、何とかみんなでアグネスを共有していくことができれば、それが一番なのだろう。こんな幸福な日々の果に、トラウマを克服し、壁からの脱出を成功すること――それが僕の、悲願。もちろん三人一緒でだ。自身とアグネスに関する記憶を抱えたまま、外へ出て、彼女の本や彼女の生い立ちをしっかり刻み込む。そうすることが僕の望みだ。大丈夫、僕らならやれる。うまくやってやるとも――僕はそう、思った。






「クリアさん、お買い物に付き合ってください!」

 セナが唐突にそう言ったのは、それから数日後の昼ごろだった。その時僕は本を読んでいた。

「どうしたんだい? 突然」

 僕は尋ねた。

「ちょっと絵の具とかなくなっちゃったんですよ。あと画用紙とかも」

「いいけど、それって僕が行く必要ある? そういえばマリィは?」

 僕がそう言うと、セナは少し不機嫌そうに唇を尖らせた。

「……マリちゃんは今出かけてるんです。コンサートの打ち合わせとか、大変そうですし」

「なるほど」

 セナはにっこりと笑った。

「だからお買いもの、手伝ってくれません?」

「……構わないよ」

 そうして僕とセナはレインコートを着て、街中へと繰り出した。



 僕らが行ったのは街の中心地だった。そこにはいろいろな雑貨があり、喫茶店があり、たくさんの人が行き交っていた。雨足はそれほど強くないようで、僕たちもあまり不自由なく街の中を歩き回ることができた。セナはここらにたどり着くと、手っ取り早く絵の具関連のお店を回り、必要と思われる品々を買い求めた。確かに僕の手が必要なほどにたくさんの絵の具やその他機材の数々だった。雨避けのカバーが付けられた袋をたくさん持った僕を連れてその後セナは、

「お腹すきましたね」

 と言った。僕はそうだね、と答えた。時刻はもう二時を過ぎていた。お昼を食べるにはちょっと遅いくらいだった。セナはぽんと手を叩いて、僕の袖を掴む。

「あそこにご飯食べに行きましょう」

「あそこ?」

 僕が尋ねると、セナはにやりと笑った。

「この街に一つだけあるんですよ……ジャパニーズ・レストラン」

 彼女の提案に、僕は思わず眉をひそめる。

「日本食……本気で言っているのかい?」

「もちろんです。ほらこの間、クリアさんナットー食べるとか言ってたじゃないですか」

「それは言ったような気がするけれど……」

 僕は言いよどむ。

「ほらほら、さっさと行きますよっ!」

 セナはそう言って、袖口を掴んでその店まで僕を連れて行った。



 セナと僕がたどり着いたお店の名前は『こけし』と言って、日本食なら何でも扱うジャパニーズ・レストランらしかった。中からはうっすらと僕の苦手とするみそ汁のにおいが漂っていて、僕は思わず顔をしかめる。

「みそ汁のにおいがするじゃないか……」

 僕が言うと、セナはあっけらかんとした様子で、

「当たり前じゃないですか。日本食の料理屋さんなんですから」

「……」

 僕は沈黙した。

「ほら、さっさと何食べるか決めちゃいましょ。クリアさん何食べます? お寿司? 焼きそば? それともホントにナットー食べます? でもあんまりおすすめしませんよ。あれって日本人でも食べれない人多いんですから」

 セナが楽しげに喋ったので、僕も少し笑う。

「……うん、遠慮しておくよ」

 向かい合うセナはぽけーっと店内を見渡しながら言った。

「ほんとこっちの日本食の料理屋さんってなんでもアリなんですよねー。初めて来たときはびっくりしちゃいました。だって寿司もラーメンも焼きそばも全部メニューに載ってるんですよ?」

「……それは珍しいことなのかい」

 見知らぬ単語の連打に僕はいささか驚きながら尋ねると、セナはあ、という顔をしてこちらを見る。

「……すいませんクリアさん。つい喋っちゃいました。でも、初めてこっちのお店に来たときは、他にもびっくりしたことありましたね」

「たとえば?」

「そうですね。このメニュー表あるじゃないですか」

 そう言って、セナは手元にあるプラスチックのカバーがかかったメニューを指さした。

「あるね」

「日本だとこれですね、一人一枚じゃないんですよ。みんなで一つのメニューを見るんです」

 僕は驚いた。

「……そうなのか。そんなの不便だと思うけれど」

「よく考えればそうなんですけどね、でも日本は一枚なんです」

「へぇ……」

 その時、僕は素朴な疑問を思いつく。

「あれ、セナは昔からしょっちゅうこっちに来てたんじゃないのかい?」

 僕の言葉にセナはきょとんとしている。

「え、そうですけど。それがどうかしたんですか?」

「いや、昔からこっちに来ているなら、そんな風に日本との違いにびっくりするのって、なんだか不自然なような気がして」

 僕がそう言うと、セナは目を丸くする。

「……」

 そして沈黙する。

「どうかしたのかい?」

 僕が尋ねると、セナは目を真ん丸に開いたまま言う。

「……確かに、不自然ですね。クリアさんの言うとおりです」

 その真剣な表情に僕は笑ってしまう。

「……そんなに驚かないでくれないか。本当に唯の思いつきなんだから。物心ついて改めてみるとやっぱり変だと思った、っていうのも十分に考えられるだろう」

 僕の言葉にセナは、ずっと開けていた目を細めて言った。

「……そうかもしれませんね。うーん、やっぱりなんでもいいや! ご飯食べましょうよ、ご飯!」

 そう言ってセナはウェイターを呼び、キツネうどんという耳馴れない料理を頼んだ。僕は適当に寿司を頼んだ。寿司は何度か食べたことがあるような気がするが、具体的な記憶は思い出せない。その記憶も扉の向こうなんだろう。僕がワサビを苦手としていたことは、ぼんやりと記憶している。

「日本人はこういう麺類を思いっきりすするんですよ」

 セナは、うどんと呼ばれる麺を一本一本ゆっくりと食べながらそう言った。

「それはマナー違反じゃないのかい」

 僕が尋ねると、セナは笑って言った。

「日本ではそれが普通なんです。こっちでは恥ずかしくてしませんけどね。ローマに行くならローマ人のフリをしろ、です」

「なるほど」

「あとお寿司も手で食べたりします」

 セナのその言葉を聞いて、僕は使い慣れない箸とかいう器具を置き、手づかみでマグロの寿司を口の中に放り込んだ。そんな僕の様子を見てセナはクスリと笑う。

「言ったそばから手で食べ始める」

僕はそれには答えずに、マグロの握りを口の中で咀嚼する。それなりに旨い寿司だった。

「うまい」

 僕は呟いた。

「それは何よりです」

 セナはそう言って笑った。



「最近クリアさんとマリちゃんが仲いいじゃないですか」

 セナがそう言ったのは、日本食の料理店を出た後の事だった。空は白んでいて雨は少なく、この街としてはいい天気だと言えるだろう。

「そうかな」

 僕は答えた。

「そうですよ。この間なんて五時間もセナ一人っきりで待たされたんですから。いったい何をやっていたんです? いちゃいちゃ二人でデートでもしてたんですか? 五時間も?」

 セナはぐいぐいと僕の方に詰め寄ってくる。

「そ、そういう事じゃないよ。あの日はただアグネスの家を探していて……」

 僕が慌てて言い訳をしようとすると、セナはふふんと笑った。

「だから今日はこんな風に出かけてるんです。マリちゃんをクリアさんに独占されたらたまりませんからね。セナはマリちゃんの恋人ですから!」

 そう言ってセナは笑った。でもそれだとマリィと出かけるべきなんじゃないか、と僕は思ったが、それを言うのは何だか野暮な気がしたので、やめた。

「……そうかい」

 そんな僕の様子も無視してセナは楽しげに言う。

「あ! あそこに良い感じのお店があります! 入りましょう!」

 セナが指さしたのはどこか怪しげな雰囲気のある店だった。全体的に薄暗く、高価そうな壺や雑多な商品が統一性なく置かれている。骨董品屋だろうか。

「構わないよ」

 僕が言うとセナはたっと駆け出して、その店の方まで向かって行く。水色のレインコートも楽しげに見えた。

 店に入るとその暗い店内の奥に髭を生やしたどこか恐ろしげのある店主がいて、右腕をカウンターに預けながら、店に入ってきた僕らをじろじろと見つめていた。その目は、僕が不審に思ってしまうほどに懐疑的な色を灯していた。眉間による皺、不機嫌そうな唇。セナはそんな店主に気づく様子もなく店内をくるくると見て回った。

「すごいですよ、みてくださいこれ!」

セナが持ってきたのは、黒い木で出来た人形だった。何やら不気味なポーズをとっている。どこかの民族の工芸品だろうか。僕は、今持たされているたくさんの荷物を見つめながら、

「……買うのかい?」

 と笑いながら問うと、セナも笑って、

「まさか」

 と答えた。

「こういうのは、ウィンドーショッピングするのが楽しいんですよ」

「なるほど」

 そう言ってセナはまた店のあちこちを歩き回った。僕もずっと待っているのも退屈だったから、店の商品を見て回った。どこの国から発見されたのかもわからないような、奇妙な装飾をされた鏡がとても高価で売っていたり、魔術書かと見まがうような分厚い本が安価に売られていて僕も楽しげに見ることができた。セナはたびたび僕の方にやってきて、こんなものがあるんですよ、とか、これ見てください変ですよ、なんて言った。

「それじゃ、そろそろ帰りますか」

 セナがそう言って、僕たちがその店を出ようとした、その時だった。

「そこのアンタ」

 低くどこか棘のある声が、僕たちを呼びとめた。

「……?」

 僕が振り返ってみると、そこにはさっきまでカウンターに座っていた店主が異様な存在感を放ちながら立っていた。さながら壁のようでもあった。目は驚きによって少し開かれている。

「なんだお前、いきなり現れやがって」

 その男は僕に悪態をついて、

「……それに、お前じゃない。用があるのはそっちの女の方だ」

 その男はぶっきらぼうにそう言うと、僕の肩を掴んでぐいとどかした。セナの前に大きな影が立ちはだかった。

「お前、カバンの中見せてみろ。さっき、入れただろ」

 男が低く冷徹な声で、セナに向かってそう言った。対してセナは少し怯えた様子で、しかし不快そうな表情で言い返す。

「……な、なんなんですかいきなり」

 男はあくまで冷静な表情で言う。

「だから、カバンの中身を見せろ、そうすればはっきりする」

 男の有無を言わせぬその態度に、セナは怯む。

「……イヤです。な、なんでそんなことしなくちゃいけないんですか」

 そんなセナの態度に、男はどんどん語気を強くしていく。

「お前がこの店の品を盗もうとしてるんじゃないかと、俺が思ったからだ」

「そんな……!」

 セナが悲痛に顔を歪める。

「……ちょっと、店主さん、いくらなんでも言いがかりが酷いんじゃないですか」

 思わず僕は口を挿んでいた。男は眉をひそめたまま僕を睨み付ける。お前は関係ないだろとその目は言っている。

「……セナもカバンの中身くらい見せたらどうだい。それで話がまとまるなら」

 僕の提案に、セナは弱々しく首を横に振る。目が虚ろになっている。

「……」

 セナの言葉に、男は笑いながら言う。

「ふん、うんともすんとも言えないか……盗った証拠を見つかるのが嫌なんだろ?」

「ち、違います……。と、盗ってませんから。変な言いがかり、つけないでください……」

 セナは冷静さを欠き、しおれるように反論する。それがきっかけだった。男の態度が豹変する。一瞬のうちに男の野太い腕が、セナの胸ぐらをつかんだ。そのままがっと引き寄せる。男の顔とセナの顔が数センチほどの距離まで近づく。

「盗ったなら、盗りましたって正直に言ったらどうなんだよ!」

 男の荒々しい叫び声がセナに襲いかかる。それは文字通り咆哮だった。店内にぐわんぐわんと反響するその声に、セナは目を白黒させて口をわなわなと震わせた。

「おい! いい加減にしろよ!」

 僕は叫び、セナを掴む男の手首を無理やり引きはがす。ばたりと座り込んでしまった放心状態のセナから茶色いバッグを外し、開ける。当然中には財布と幾つかの化粧品だけが入っていて、他のものは一切存在していない。

「これでも文句を付ける気か!」

 僕は男を思い切り睨み付けてそう言った。すると男は興ざめしたように、「……あ、そう」と言って、カウンターへと戻っていった。そのあまりの変わり身の早さに僕は、あいつの後頭部を殴ってやりたい衝動に駆られたが、そんな行動に何のメリットも存在しないことを知っていたから、必死にこらえた。クソ、いったいなんなんだ。

「……立てるかい」

 努めて優しげな声で、まだへたり込んでいるセナに問いかけた。セナは心ここにあらずといった様子で、はるか遠くをぼんやりと見つめているように見えた。僕はそんな彼女を心配に思い、ぽんぽんと肩を叩いて体を揺らした。それでもセナの目の焦点は合わないようだった。壊れた人形みたいに、目から生気が完全に抜け落ちていた。まるで何かに憑りつかれたように。

「……大丈夫かい? セナ?」

 僕はそう問いかけて、セナを真正面から見つめて肩を揺らした。その時になってセナの意識はようやく戻ってきたようで、僕の顔を見て、どんどん目を見開いていき、口をわなわなと震わせ、恐怖におびえる悲痛な表情を浮かべた。

「あ……あ、あぁぁぁぁぁぁぁあ!」

 セナは自身の頭を抱えて叫び声をあげ――そして糸が切れたようにばたりと、倒れこんだ。



 その後僕は、セナをおぶって家に戻った。医者を呼ぶことも考えたが、僕はこの症状に心当たりがあったから、やめた。動揺していなかったと言えば、嘘になる。あいにく家にマリィはいなかった。すぐにでもこの事を彼女に話したかったが、いないのでは仕方がなかった。セナをベッドに寝かせてから僕はその横に椅子を持ってきて、一人でいろいろな事を考えた。あんなことがあって僕がこんな風に少しでも冷静でいられたのは、なんとなくという推測が僕の内にあったからだ。

 ――僕の予想が正しければ。奇妙な偶然にも、セナは過去を取り戻した可能性が高い。

 そう思う理由はこうだった。まずはセナの性格。もともと彼女は男性を避ける癖があった。そしてセナは、あの男に詰め寄られた時に、普段からは想像できないほどの狼狽を見せていた。そこから推察できるのは、セナは昔――少なくとも男というワードが関連する中で――トラウマがあるかもしれないという事。そして、奇しくも先ほどの出来事が、それを思い出すきっかけとなった可能性がある、という事。

 だからと言って素直に喜ぶことは出来ない。当たり前だ。あんなきっかけで思い返すトラウマなどろくなものであるはずがない。それにセナはこうして、取り乱してしまっているのだ。少なくともそれは幸福などではない。僕は窓の外を見て、自嘲気味に笑った。

――考えが、あまりにも浅はかだった。そもそも、幸福な生活の中に過去のトラウマを想起する機会などあるはずがないのだ。安定した生活の中で過去と向き合うことができるのは、そもそもその当人が過去を憶えている場合に限られる。僕らのように何もかも忘れてしまっていては、思い出す可能性がないのは当たり前ではないか。過去から逃げて、幸福というぬるま湯につかり続けるのは自明の理ではないか。嗚呼、すべては根本から間違っていたのだという事を、僕は今更にして悟ったわけだった。

「……ん」

 セナが苦しげに身をよじった。僕は意識を彼女に向ける。セナは唸りながらうっすらと目を開けていく。僕と目が合う。

「……っ!」

 セナがベッドの上で、ずっと後ずさった。その目は恐怖に震えていて、黒い瞳の奥にははっきりと怯えの色が浮かんでいる。

「……落ち着きなよ、セナ」

 僕がきわめて冷静な声でそう言うと、セナははぁ、はぁと深呼吸して、じっと僕を見た。

「……ク、クリア、さん……です、よね?」

 セナは確かめるように、僕に問いかけた。

「そうだよ」

 僕が平然と答えると、セナは視線をいろいろなところに移しながら言う。

「ご、ごめんなさい。今、頭の中がぐちゃぐちゃで……」

 その言葉を聞いて、僕は確信した。

 ――どうやら、僕の予想は正しかったらしい。セナは恐らく、トラウマを取り戻した。

「セナ」

 僕は言った。真剣なまなざしで、セナを見つめる。セナも、僕を見ている。瞳は不安げに揺れている。雨の音が、穏やかに耳に入る。

「――落ち着いて、自分の中を整理するんだ。そして、しっかり自分と向き合うんだ。もし辛くなったら、僕かマリィを頼ってくれて構わない」

 僕が言うと、セナは困惑の中にも、首をかしげる。

「マリィ……? 誰……?」





 玄関のドアが開いた音がして、僕は階段を降りた。僕がセナにマリィの話をしようとすると、彼女は耐えられない頭痛がするかのように頭を抱えて混乱した。嫌な予感がして僕は、セナにマリィの話をすることをやめた。セナはたまごの殻に閉じこもるみたいに、毛布で自身をくるんで震えていた。それはまるで見えない何かから自身を守っているかのようだった。

「マリィ」

 僕は玄関横のハンガーに濡れた黄色いレインコートをかけるマリィに声をかけた。

「……?」

 マリィは首をかしげた。

「……大変なことに、なった」

 僕はそのままリビングに入ることもせず玄関内で、起こった事をそのままマリィに伝えた。画材を買いに行ったこと、店の男にセナが怒鳴られたこと、おそらくそれがきっかけでセナのトラウマが想起されてしまったこと、マリィは驚きに満ちた表情で僕の話を聞いていた。僕は渋い顔で、マリィに告げる。

「……そして、言いにくいことなんだけれど、マリィ――セナが、君を忘れてしまっている、可能性がある」

 マリィは目を見開いた。だがその表情は一瞬で、今度は呆れたように言う。

「冗談を」

 僕は目を伏せて首を横に振る。

「君は、冷静だろう」

「ええ」

「……セナはね、君の名前を出すとひどく怯えて、混乱するんだ。頭を抱えて、耳を塞いで」

 マリィは僕の言っていることがわからないとばかりに、首をかしげる。

「そんな……そんなわけ、ないでしょう」

 僕はできる限り落ち着いた口調で、マリィに告げる。

「事実、なんだ」

「……!」

 マリィは目を見開いて、階段を上がった。僕は慌ててマリィのあとを追いかけた。マリィにありのままを告げるのは早計だったかもしれない。嫌な予感が僕の内にじわりと滲んでいった。


 ガチャリ、とドアを開ける。耳に飛び込んできたのは悲痛な叫び声。

 ベッドで震えるセナが、顔を真っ青にしてマリィを見つめている。一方、マリィは立ち尽くしている。マリィは両方の手のひらをセナに見せるようにして、友好的な姿勢を取っていた。しかしそれはなんでかとても儚げで脆く見えた。

「セナ……」

 マリィがじりじりとセナに近づいていく。セナは毛布で耳を塞ぐ。

「やめて……ください」

 セナの弱々しい叫び声。しかしマリィの耳には届かない。

「ほら、セナ……」

 マリィはそれでも近づいていく。嫌な予感がして僕は、とっさにマリィの腕を取る。ダメだ、これ以上ここにいてはきっと――

「やめてください!」

 セナのつんざくような叫び声が、僕と、マリィを貫いた。体の芯にびりびりと響くセナの声。その時僕は――マリィの表情を見た。その目は驚きと絶望の色で黒く染まっている。僕は強引にマリィを部屋から連れ出し、僕と彼女のレインコートを取って外へ出た。

マリィを落ち着けるためにレンガ建ての家々の隙間を縫うようにある程度歩き、枯れ果てた木がぽつんと立っているところに到着した。木の枝の先には、いくつものヤドリギが不気味な様子でしがみついていた。雨は、いつもより強かった。

「信じ、られないわ」

 マリィが呆然として、そう言った。

「……だろう」

「……セナが、私の事を、わからなくなる、なんて」

 マリィは涙をこらえてうつむいた。目が赤くなっている。当たり前だ、セナはあんなにもマリィの事が好きだったはずで、その態度が唐突にここまで変わる、ということの衝撃は僕にもありありと理解できた。だから、

「大丈夫だよ。これは、一時的なものだろう」

 意図的に落ち着いた声色を出す。マリィが救いを求めるような目で僕を見る。

「……ホント?」

 僕はもっと語調を柔らかくする。マリィを教え諭すように、僕自身を諭すように。

「ああ。セナは今昔の出来事を思い出して、頭が混乱しているだけなんだ。だから、君を見ても混乱してしまう。だがそれも整理がつくまでの話だろう。セナの中できっちり話がまとまったなら、きっと、今までみたいに生活できる」

 なんの根拠もない仮説を、あたかも真実であるかのように、つらつらと並べ立てた。

「信じて……いいわよね?」

 マリィの訴えかけるような瞳、僕は落ち着き払って言う。

「……ああ」





その日の夕食は、まさかマリィとセナを同じテーブルで食べさせるわけにはいかなかったから、マリィには申し訳ないが一人で食べてもらった。僕はセナと有り合わせのパンやサラダなんかを作って食べた。セナはやけに僕と一緒に居たがった。

「クリアさんといると安心できるんです」

とセナは言ったから、僕も一緒にいないわけには行かなかった。しかし、どうしてマリィは駄目で、僕は大丈夫なんだろう? 不意に僕は考えた。セナはトラウマを取り戻したはずだ。その上で僕なら話せてマリィとは話せない理由――なんだろう、わからない。だが、マリィと僕とのセナに対する明確な違いを考えてみるにおそらく、彼女たちが幼なじみであるということが深く関わっているのだろう、ということはなんとなく想像がついた。



僕はベッドに横たわって考え事に耽る。正直なところ、不安の種は尽きなかった。セナのトラウマ、そして彼女とマリィの関係性。少なくとも僕が今出来ることというのは、セナを安静に見守ること以外ないのではないか、と思った。――いや、ならば尚更今やるべき事をやるしかない。現状は、セナの精神状態の安定が最優先なのだ。

「……クリアさん」

突然ドアが開く音がして、中へ入ってきたのはセナだった。

「どうしたんだい」

 僕はさっきまでの考え事を全て頭の隅っこに押しやって、温かな笑みを浮かべた。少なくとも、そのような演技をした。

 セナは子猫みたいに黙って歩いてくると、ちょこんと僕のベッドの端に座った。彼女の柔らかな重みでベッドが少しだけ沈んだ。僕らの無言の沈黙を、雨音だけが支配していた。

「……一緒に、眠ってもらって、いいですか」

 セナは体の内側にある重たい塊を吐き出すかのように、そう言った。

「……うん」

 僕がそう呟くと、セナは少しずつ、ほんの少しずつ――僕への距離を縮めて行った。その間僕はまったく動かなかった。そうすることが正解のような気がした。やがてセナの体温が、ぴったりと僕の左腕を添うようにくっついた時、僕は自分の腕をセナの背中に回していた。そうせずにはいられなかった。セナは僕が驚いてしまうほどに、震えていたのだから。セナは怯える子供の様に身を縮こまらせて僕に寄り添った。

「……怖い」

 はっきりと、明瞭な声でセナが言う。僕は黙ったままだ。

「突然、光るの。真っ白な光が目に飛び込んできて、すっごく怖いことを、思い出す」

「……」

「……お父さんが、怒鳴る。それでセナを、蹴ったり、殴ったりする。痛くて、苦しくて、悲しくて胸がきゅうっとするけど、声なんか、出なくて。お母さんがやめてって叫ぶと、お母さんも、殴られる。その、繰り返し」

 凄惨な、トラウマ。

「いつもはお母さんと二人で暮らしてて、でも突然、あいつは帰ってくる。いっつもお酒の匂いがして、当たり散らして、セナを痛めつける。お腹を思いっきり蹴られて、息ができなくて、でも、誰も助けに来てくれない」

 セナは、そう言って僕を見る。救いを懇願するように揺れる瞳。

「……あいつが来るのが、とても、怖い。だから、隣で眠ってくれませんか?」

 セナの小さな声が、ガラスの破片が散らばるみたいに、僕の胸に響いた。

「――君を傷つける奴なんて、ここにはいないよ」

 僕は目を伏せ、視線を床の木目に這わす。

「だけど、セナがどうしても怖いと言うなら、隣で眠ることだって、僕は構わない。――だが、マリィでは、ダメなのか?」

 僕は問いかけた。マリィをあんなふうに突っぱねてそのまま、というのはやはりひどい。しかし、目の前のセナは眉をハの字にして困惑する。

「……ごめんなさい。あの人――マリィ、さんがまだ、セナにはどんな人なのか、わかっていないんです」

 僕は息を飲んだ。

「……今ならきっと、会話することくらいなら何とか混乱しないで出来ると思います、けれど。そんなに、セナとあの人は、親しかったんですか?」

 こんなこと、マリィが聞いたらきっと泣き出すだろうな、と思った。僕は落胆を顔に出さずに言う。

「――ああ。とても、親しかったよ。うん……とてもね」

 僕がそういうと、セナは首を横に振る。

「……もう、何が何だか、わかりません」

 セナはそう言って、弱々しく笑った。そして、ベッドにばたりと倒れこむ。女の子特有の淡い香りがふわりと広がった。

「ここって、どこなんですか? セナたちは、なんでこんなところに住んでいるんですか? あの学校は、いったいなんなんですか? ……わからない事、だらけです。なんで今まで不思議に思わなかったのか、わかりません……だからとっても、怖い」

 セナはそう言って僕のシャツをつまんだ。僕はセナの問いかけに、彼女がかつて言った言葉を、補おうとする。

「……君は、こちらに留学してきて、絵を習いに来たと言っていた。マリィと君は幼馴染で、だから、一緒に住んでいる。少なくとも君は、そう言っていた」

 僕の言葉にセナは、そうなんですか、と気のない返事をする。まるで自身とは全くかかわりのない、他人の生い立ちを聞かされているかのように。だから僕も、不安になる。

「君は本当にセナ……なんだな?」

 僕の問いに、セナは笑った。

「なんですか、それ。セナは、セナですよ。他の誰でもありません。じゃあ、クリアさんは本当にクリアさんなんですか?」

「……うん、たぶん、僕は本当に、クリアだよ」

「でしょ?」

 セナは笑った。

「そろそろ眠たいので、眠ります。話、聞いてくれて、ありがとうございました。クリアさん」

 セナはそう言って、僕の腰に細い腕を回し、まるで僕をぬいぐるみとでも思っているかのように、顔をくっつけて寝息をたてはじめた。その無防備な寝顔を見て僕は何だか切なくなって、彼女の頭をそっと撫でた。今日見せたセナの記憶の錯乱は、近いうちに整理されることだろう。安易にも僕は、そう思った。それまできっとセナは苦しみ続けるだろうし、僕はそれを見守っていなくてはいけない。彼女も彼女なりの、地獄を抱えて生きてきた。じゃあ、僕とマリィが持つ地獄とはいったい、どんな色をしているのだろう? 当てもなく、そんなことを考えた。雨の音は、例によって静かに鳴り響いていた。





 それからセナは学校に行かなくなった。僕がセナに理由を尋ねると、彼女はこめかみに指を当てながら「セナには行かなきゃいけないところがあったんです。でも、あの学校はその場所じゃない。それがわかるんです」と言った。大方トラウマ想起による錯乱だろう、と僕は思った。だから僕はセナの精神の安定のためにも彼女が学校に行かない事を承諾した。


 しかし数日が経っても、セナの記憶の錯乱は収まらなかった。

 セナは昔の事を思い出そうとすると頭が痛み、漠然とした不安感に襲われると僕に話した。そしてその恐怖を少しでも和らげようとしてよく僕の部屋を訪ねた。僕は何も言わずにセナを受け入れて彼女を安心させた。僕はふと思った。彼女が求めているのは僕の温もりではなくて誰かの温もりなのではないか、と。わからなかった。いずれにせよ、セナに温もりを提供することができるのは僕以外にいないようだった。僕は毎晩交わすセナとの数少ない会話の内から、彼女の精神状態を推し量った。ほとんどの場合安定を見せていなかったが、その中でも一つ言えることは、セナはまるでマリィのことを思い出していない、という事だった。僕はあれ以来なるだけセナとマリィを接触させないように努めてきた。何故ならマリィがきっかけとなって、セナを混乱させてしまう可能性が十二分に考えられたからだ。しかしそれは、当たり前の事だが、マリィにとっては辛い事実だったに違いない。だからある日、マリィはリビングで本を読んでいた僕に対してこう言った。

「セナと喋ることは、できないかしら」

 家に着いたばかりで少し濡れた金髪が、高級感を伴った色合いで光っていた。僕は眉をひそめる。

「……あまり望ましいことじゃない、かもしれない」

 僕が否定的な意見を口にすると、マリィは僕の目をじっと見つめて言った。

「でも、セナ、最近学校もまったく行ってないじゃない。心配なのよ。それに、ほら、あれから何日も経ってるし、私を見たら私のこと思い出すかもしれないでしょ? 何か、試せることから試していかないと、ずっとこのまま塞がったままだと思うの。だから……セナと、喋らせてもらえない?」

 最後の方は、僕には懇願のような響きを伴って聞こえた。セナはあんなにもマリィに懐いていたのだ。それが突然マリィのことを忘れ、話す様な事もまったくなくなってしまった。それに対するマリィの心情は、彼女の訴えるような瞳を見れば、僕にだって、いやでもわかってしまった。

「……そうだね。もしかしたら、それが引き金となって、セナが君の事を思い出すかもしれない」

 だから僕はそう、答えた。マリィは、とても嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、クリアくん」

 僕らは階段を上がってセナの部屋の前に立った。僕はマリィに少しここで待っていてくれ、と言って部屋の中に入った。

「セナ」

 僕が声をかけると、ベッドの上で廃人のようにぼんやりと上を見ていたセナが、僕の方を向いて、ほんの少し笑う。

「あ、クリアさん……」

 その弱々しい声に一抹の不安を感じながらも、僕はセナの方に歩いていく。

「体調は、大丈夫かい?」

「……はい。大丈夫です。そんなに怖く、ないです」

「そうかい」

 僕は微笑みながら、セナの隣に腰を下ろした。ベッドが柔らかく沈んだ。セナは起き上がって、ぴったりと僕に体を寄せた。すっと僕のシャツの匂いを嗅いで、嬉しそうに言う。

「やっぱり、安心する……クリアさんのにおい」

 僕はその言葉を聞いて、悲しい気分になった。今僕がいる場所に、本来あるべきなのはマリィの身体なのだ。僕ではない。セナが温もりを求めるべき相手は、マリィだったはずなのだ。

「なあ、セナ。マリィという人について、何も思い出さないかい?」

 僕の唐突な問いかけに、セナはきょとんと目を丸くする。そして、少し辟易した表情になる。

「……またその話ですか。クリアさんは、そのマリィさんっていう人と、とても仲が良いんですね」

「そういう意味ではないけれど……そりゃ、僕も、彼女も、君も、同じ家に住んでるんだから」

 僕がそう言うと、セナはむっとした表情になる。

「ふーん……クリアさん、セナといるときよくその人の話しますよね。それってどういうことなんです? ひょっとして、その、マリィって人が恋人だったりするんですか?」

「違うよ」僕はつとめて冷静に、そう答える。だが、セナの瞳はまだ懐疑的だ。

「本当ですか?」

 だから僕は更に、ことさら冷静に告げる。

「本当だよ、まったくの真実だとも。僕とマリィは同じ家に住んでいる以上の関係じゃない」

僕が淡々とそう言うと、セナはゆっくりとこわばっていた表情を和らげていって、やがてにやりと笑う。そして、僕の腕をぎゅっと抱きしめる。

「そうですか。それは良かったです。クリアさんは誰にも渡しません。だってクリアさんは、セナのものなんですから」

 その言葉を聞いて、僕は戦慄する。『マリちゃんはセナのものですから』かつてセナがマリィに抱いていた感情を、思い出す。

「……セナに、会わせたい人がいる」

 僕はそう告げた。告げずにはいられなかった。これ以上セナと喋っていたら、僕が壊れてしまうような気がした。

「はい?」

 と首をかしげる彼女を置いて、僕はドアを開け待っていたマリィを招き入れた。マリィは落ち着いた口調でセナに、「こんにちは」と言った。セナは驚いて固まっていたが、マリィをむっとした表情で睨み付ける。

「……どういうつもりですか、クリアさん」

 ひどく攻撃的な声色だった。僕はその言葉に一瞬顔を歪めて、しかしすぐさま平静を取り繕う。

「セナ、この人は大丈夫だよ」

「さっき、言いましたよね。その人とは無関係だ、って」

「……落ち着きなよ、セナ。別に僕は、君から離れて行ったりしない」

 歯が浮くような、セリフだと思った。隣のマリィを見る。彼女は表情こそ冷静そのもので、僕は暗い気分になる。

「セナ、マリィは君の過去を知っている人物だ。だから、君の今の錯乱も彼女と話すことで、落ち着きを見せるかもしれないと思って、こうしてマリィを連れてきた」

 僕は部屋にあった椅子をベッドの前に置いて、マリィにすすめる。僕はセナの隣に座る。僕がああして言ったにもかかわらず、セナはマリィを不快そうに見つめている。しかし対するマリィは、そのことで表情を微塵にも変えることがない。

「……改めて言うわ、私はマリィ。こんにちは、セナ」

「馴れ馴れしくセナって呼ばないでください」

 セナの言葉がマリィに突き刺さる。僕はとっさにセナに言う。

「セナ、失礼だろう」

「知りません、そんなの」

 セナはぷいと横を向く。険悪な空気が漂い始めて、重苦しい心境でマリィを見た。彼女は僕と目が合うと、ほんの少しその目を悲しみの色に染めたかと思うと、次の瞬間にはゆっくりと頭を下げていた。

「ごめん、なさい……セナさん」

 僕は驚いた。そうして驚いたのは僕だけではなく、セナもだったようで、彼女も目を丸くしている。

「私は……セナさん、あなたと幼馴染だったんです」

「そう……なんですか」セナが言葉を返す。マリィの表情に変化はない。

「……初めて私たちが出会ったのは、私たちがちょうど、五歳の時でした。あなたの母親がこちらの人間だから、帰省、という形で夏の日にセナさんと出会ったのを、今でも憶えています。ちょっと臆病そうで、お母さんの着ていたワンピースの裾につかまり、不安そうに私を見つめているのが印象的でした」

「……」セナの表情に変化はない。

「今でもその光景を憶えているのは、きっとセナさんが黒髪と濃い茶色の瞳、というこちらでは珍しい見た目だったからでしょう。私たちは、すぐに打ち解けていろんな遊びをしました。セナさんは絵を描くのがとっても上手だったから、私に日本の事をたくさん絵に描いて教えてくれました。私もセナさんに、練習し始めたピアノをおそるおそる披露したのを、憶えています。あなたはその時「マリちゃんのピアノ、とっても上手だね」と笑いながら褒めてくれました。きっと私もとても嬉しかったんでしょう。だから今でも、こんなに憶えている」

 マリィが少しずつ語る想い出話に、セナは先ほどの攻撃的な姿勢はどこへ行ったのか、ぼうっと放心したように聞いている。僕はそれが良い傾向なのか悪い傾向なのか、判断が付かない。マリィに目線で、話を続けるように合図をする。

「……二か月の長い滞在でしたから、私とセナさんはすっかり仲良くなりました。セナさんが日本へ帰ってからもずっと手紙のやり取りをしていて、好きな男の子の話や、学校であった出来事のことなど、色んなことを文字の上で話しました。あなたから送られてくる手紙は可愛らしいイラストが描かれていたから、送られてくるのがとても楽しみだったことを憶えています。たまに、あなたが日本語について教えてくれたりも、しましたね」

「……!」セナが目を見開いた。頭痛がするように、右手で頭を抱えるようにする。僕はセナの背中をゆっくりとさする。「大丈夫かい?」僕が尋ねると、セナは微かな声で「……大丈夫です」と答えた。マリィはまた、ゆっくりと話始める。

「……そんな風にして、夏になるたびにあなたはこちらへ来て、私たちは仲良く遊びました。次の夏が早く来てほしいなぁと、待ち遠しいほどでした。今から数年ほど前の事でしょうか。あなたが、私のピアノの発表会に来た日の事を、話そうと思います。

昔の私はとてもあがり性で、人前でピアノを弾くのに緊張して仕方がありませんでした。だから発表会などは大の苦手で、もう弾く直前なんて、心臓がバクバクと鳴り響いて目が回ってしまいそうなほど。このことをあなたに話したら、何故かあなたは「マリちゃんを応援したげる!」と言って、発表会を見に来たのです。それも、最前列で」

セナは困惑した表情でマリィをじっと見つめている。その表情がいったい何を意味するのか、僕にはまるで見当がつかない。

「当然私はより緊張しました。でも、綺麗な服を着て、心臓をバクバク言わせながら舞台に立って、おじぎをした時に見えたセナさんの顔、大きく口を開いていたんです。私の方を見ながら。そして、満面の笑みで、「か、わ、い、い!」と口の動きだけで伝えてきました。私はそれを見てなんだか笑ってしまって、緊張していたのが馬鹿みたいに思え、すらすらとピアノを弾くことができたのを憶えています。それから、私のあがり性はすっかり鳴りをひそめました。……セナさん、ここまで聞いても、何も思い出しませんか?」

聞かれたセナは人差し指を額に当てて、小さなうめき声をあげた。

「わか、りません……そんなことが、あったような気もするし、なかったような、気も、します……」

「……!」

 僕とマリィは目を見合わせた。マリィの碧い目の奥底に漂うのは、淡い希望の光。僕はマリィに目線でメッセージを送る。これはもしかしたら、行けるかもしれないと。マリィも無言で頷き返す。

「ほら、二年前セナさんがこちらに来たあの時――」「一緒に行った海で――」「初めてセナさんがこちらの冬に尋ねてきたとき――」

 セナは少しずつ混乱を見せ始めていた。目はどこかうつろで、首筋に冷や汗が垂れている。息もどこか浅くなっていて、

「……マリ……ちゃん?」

 ぽつりと、呟いた。僕とマリィは驚く。

「そうよセナ! ようやく、ようやく思い出してくれたの……?」

 マリィが今にも泣き出してしまいそうなほど嬉しそうな表情で、セナの手を取った。セナはそれを拒まずに、しかし表情はうつろな様子で、視線は明後日の方向を向いている。僕はそれを、マリィの事を思い出そうとする兆候であると、判断する。

「マリィ、話を続けてくれ」

 マリィはまた気を引き締めるように一度表情を冷静に戻すと、また昔話を始める。

「……特に、セナさんのお父さんは、とても優しい方だったことを記憶しています」

 そのことを聞いて僕はぎょっとする。以前聞いた、セナのトラウマ。

「マリィ、それは……」とっさに言いかけて、しかしやめる。そもそもセナのトラウマと、マリィが知っているその父親が別人の可能性だってあるではないか。

 だが、セナの反応は異常だった。

 両手で自身の耳を覆い、しかし目は見開いてマリィを見つめていた。ぴったりとくっついたセナの身体から小さな振動が伝わってくる。それが激しく脈打つ心臓の鼓動であることに気が付くのはすぐだった。

「マリィ、その話は――」僕はマリィを止めようとする。

 しかしマリィは、僕の様子なんて目にも入らない様子で、セナに話を続ける。

「……昔は一緒に遊んだりもしました。鬼ごっこだ、なんて言って。ちょっとだけ言葉が訛っていましたけど、人格の優しさが雰囲気にあらわれていてとてもいい人だった」

 セナは耳を塞いで苦しげにハァハァと息を吐いて、顔を歪める。汗がダラダラと流れている。

「おい、マリィ――」僕が声をかけようとしても、マリィは僕の方に目もくれず、話を続ける。

「私の父ともとても仲が良くて、一緒にご飯を食べに行くこともよくありました。バーベキューなどをする時も、火を大きくするのがとっても上手だったのを憶えています。他にも――」

 マリィはとどまる所を知らずにセナの父親の話をし始める。セナはカタカタと震えながら耳を必死に塞いでいる。顔は青白くなって、足が苛立ちを表現するかのように震えている。そんな状態の中で、セナがキッとマリィを睨み付けるのと、僕がセナをかばうのは、ほぼ同時だった。

「マリィ! やめないか!」「やめてください!」


 僕とセナの叫び声が、ぐわんぐわんと、部屋の中で反響した。まくしたてる様に喋りつづけていたマリィは呆然と口を開いて、白い像のように動きを止めていた。その空白はあまりにも長い時間持続しているようにも思われたから、世界のすべてのものが、一度に動きを停止してしまったかのような感すらあった。しかしその中でも雨が屋根や道路を打つ音だけは、やけにはっきりと僕の耳に届いた。その間ずっと、マリィは寸毫も動くことがなかった。その目はセナをとらえたまま、生気を見せることなく活動を停止していた。

「……マリィ、失敗だよ。一度、頭を冷やした方がいい」

 僕は淡々と、マリィにそう告げた。彼女は目の焦点を合わせないまま、ゆっくりと、ふらふらとおぼつかない足取りで部屋を出て行った。その陶器のような白い頬に、一筋の涙の痕を残しながら。僕は数分かけてセナの様子を落ち着けると、マリィを追いかけて部屋を出た。



 家の中を探してみてもマリィの姿はなかった。おそらく外に出ているのだろうと予想するとやはり、黄色のレインコートはなくなっていた。僕は自身のレインコートを着ると外に出た。彼女はひどく目立つだろうから、道行く通行人に黄色いレインコートの美女を見なかったか、と尋ねると、彼らは僕に話しかけられたことを驚きながらも、何人かの男は見かけたと言っていて、その道筋をたどるとすぐにマリィの姿は見つかった。

 彼女は人ごみの中を一心不乱に歩いていた。その黄色い背中から、何かを読み取ることは出来ない。僕は彼女の細い手を掴んだ。

「……マリィ、さっきはごめん」

 僕がマリィにそう言うと、マリィはうつむいたまま、僕に目を合わせずに言う。

「……うん、いい。私も、悪かった。ごめんなさい。」

「セナにとって、父親の話というのは、彼女の持つトラウマだったんだ。……だからセナは、君がその人の話をすると、混乱した」

 マリィは僕に目を合わせないまま、目を大きく開いた。

「あれは、混乱していたのね……」

 そして、苦々しく唇を噛む。彼女は僕を見る。深海のように碧い瞳が、僕をじっと見つめる。

「ねぇ、クリアくん」

「? なんだ?」

 マリィはほんの少しだけ微笑んだ。切なく儚い、微笑みだった。

「……今、私の中に、二つの思い出がある、って言ったら信じられる?」

 彼女の言葉の意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。



「君は、強い女の子だね」

 僕はマリィに、そう言った。僕とマリィの間には雨が降っていて、それは僕たちを分かつ透明な壁のように思えた。マリィは目を伏せて首を振る。

「……そんなこと、ないわよ」

「セナは過去を取り戻した時、叫んで気絶した。それに比べて君は、とても落ち着いているように見える」

 僕の言葉にマリィは苦笑いを浮かべる。

「落ち着いている……ね。違うわ、理解できていないのよ。自分の中でぐちゃぐちゃになってろくに整理がつかないから、かえって冷静に見えるだけ。だって私今、とっても混乱しているもの。あなたが気づけないくらいに」

「……そうかい」

「……ねぇ、もう一つ、とってもおかしなこと言ってもいい?」

 マリィはそう言ってまた弱々しく笑った。僕は頷いた。


「セナって誰のことなのか、私にもわからなくなってきちゃった」

「……!」

 僕は目を見開いた。

「クリアくん、今の私の感じをね、説明するとこういうふうなのよ」

そう言ってマリィは、両方の手のひらで丸く球体を囲むようにする。

「これがね、昨日まであった私の心。そこにもうひとつの心が、ねじ込むように入り込んできているの。それでね、そっちの方の心が言うの。セナなんて子は知らない、誰なのかわからない、って。……こんなのおかしいと思うでしょう?」

マリィの言葉に僕は頷く。

「ああ……おかしいな、とても、おかしいよ。君たちは僕から見れば本当の親友だったし、事実君だって数分前まではそう信じていた」

僕の言葉にマリィは少し考える素振りを見せる。

「……あれはね、たぶん、前の私」

「新しい君の心は、君がセナの友人ではないと言うのか?」

「そうよ」

「……無茶苦茶だ」

僕は吐き捨てるようにそう言った。マリィは苦笑する。

「私ね、やっぱり、意外と強い女の子だったみたい」

「……どういう、意味だ?」

僕は尋ねた。

「さっき、セナとあなたに怒鳴られた瞬間にね、一つの光景が映画のワンシーンみたいにパッと浮かんだのよ。たぶん、それがあなたやセナが抱えている、トラウマと同じもの。……確かにこれはひどい過去ね。忘れたくなるのも無理ないわ」

「……随分冷静なんだね」

僕がそう言うと、マリィは横に首を振る。

「いいえ、まだそのもう一人の私の心が、完全に馴染んでないのよ、きっと。だから昔のトラウマだって、それほど実感が湧いてこない。人の記憶を盗み見してるみたいで、リアリティが足りていないの」

「……」

「とりあえず一旦家に帰りましょう。たぶん私は取り乱したりしないわ。セナと違ってね」

マリィはさらりとそう言うと、僕の手を握って歩き始めた。





 マリィは家に着くと、僕を自身の部屋へと案内した。マリィ自身に案内されてその部屋に入るのは初めての事だった。彼女は自身のベッドに腰を下ろすと、僕に向かってこう言った。

「セナって子は、随分とクリアくんのことが好きみたいね」

 僕はぎょっとする。『セナって子』

「……おい、君はまさか」

 僕の問いかけに、マリィは笑って首を振る。

「私はマリィよ、マリィ。でもね、さっきとはちょっとだけ違う、マリィ・シャミナード。……でも安心して。私のあなたに対する感情というのは、ほとんど変わってはいない」

 マリィのその言葉を聞いて、僕は少しだけその意味を考える。

「……そうかい。君は、セナと親友ではないのか」

 僕の問いかけに、マリィは首肯する。

「たぶん……そう、ね」

 僕は目を見開いた。もう、何がどうなっているのか、まるで分らなかった。

「セナって子、あなたのことが大好きみたいね」

 突然話し始めたマリィの言葉に僕は、沈黙以外の行動をとることができない。

「……」

「そうよ。セナって子は、あなたが好き。それは間違いないわ」

 僕はその言葉にもやはり返事をしなかった。マリィはまた唐突に話始める。

「……ねぇ、クリアくん。ちょっと、話聞いてもらっていいかしら」

「? ……ああ、構わないよ」

 僕がそう言うと、マリィはにっこりと微笑んで、天井を見上げた。目は悲しげに細められ、しかし口元はほんの少し笑っている。それが自嘲であることに気が付くのに、そう時間はかからなかった。彼女の艶やかな金髪が、哀愁を表現するかのように揺れていた。

「私のこの体質って、ちゃんとした理由があったみたいなの」

 マリィが持つ、異性を皆虜にしてしまうという、体質と、その理由。僕は少し考えてみる。

「異性の注目を引きたい、って願望とか?」

 マリィは首を横に振る。

「いいえ、そういうことではなかったのよ。それも正しくはあるのでしょうけど、もっと確固たるトラウマが、内側にはあったの」

「……というと?」

 僕が聞くと、マリィはまた笑った。例によって、弱々しい苦笑だった。

「……なんで私、あなたにこんな話をしようとしているのかしらね。こんな話、したってこれといった意味があるわけじゃないのに」

「……」僕が沈黙していると、マリィは首を横に振る。

「ううん、違うわね。私はきっと悔しいだけ。セナって子のトラウマをあなたが知っていたという事実が、その悔しさの根源。だから、あなたに聞いてもらいたいと思っている。……ねぇ、クリアくん、今から半年くらい前ね、私には好きな人がいたの」

「……」僕は黙って話を聞いている。

「サッカークラブに入っていてね、とってもカッコいい人だった。彼がコートに入るとね、空気が変わるの。それでスカッとゴールを決めちゃうの。その瞬間の笑顔がとっても魅力的でね、だから私はその人のことが大好きだったのよ。

 当然、私は親友にそのことを話していたわけ。その子もとっても可愛い女の子で、私よりも可愛かったかも――その恋を応援してくれていたのよ。少なくとも、表面上はね」

「表面上?」僕は尋ねた。

「そう、表面上は。その子とは中学校に入ってから仲良くなったんだけど、話すことだって面白かったし、それに見た目も可愛かったから私だってその子のこと、好きだったのよ。ちょっとスキンシップが過ぎるようなところがあったり、私が他の女の子と喋ったりしていたら少し拗ねたりしたようなところは、あったんだけどね。でもまぁ、そういう女の子だって世の中にはいるじゃない? ほら、セナって子も、そうみたいだし。

 最初に私が異変に気付いたのは、その子に、私の好きな彼のことを話している時だったかしら――とっても不機嫌そうな、顔をするのよ。はじめの方はそうでもなくて、むしろ応援してあげる! って感じだったんだけどね。拗ねて、むっとした表情で私の話を聞いてるの。私最初不思議に思ったわ。なんで嫌そうな顔するんだろう、って。だから私、その話題を意図的にやめるようにしたのよ。そうしたら彼女の機嫌は戻ったわ。いつもぴったり私にくっついて、子猫みたいに甘えてくるの。やっぱり可愛いなぁって思ったわよ、私も。

 そんなある日ね、その子が、私が好きな彼に会いに行きましょうって言い出したのよ。私困惑しちゃったわ。でもまあ、私だって当然その彼のこと好きだったからいいよ、って言ったの。それで三人で楽しく喋ったわ。その彼って、喋ってみても面白い人でね。ますます私の恋心に火が付いちゃった感じだった。それで、それからよくその三人で一緒に遊んだり、学校から帰ったりするようになったの。その頃は楽しかったわよ。その彼とだんだん距離が縮まっているような気がして……ねぇ、ここまで聞いて感想は? クリアくん」

 マリィの問いかけに、僕は答える。

「……先の展開が予想できるよ」

「どんな?」

「その子が、彼と付き合ってしまう。それがマリィの、トラウマ?」

 僕がそう言うと、マリィは微笑んだ。そして首を振る。

「ふふ、どうかしらね。でも、もっとね、もっと――現実は、ひどかったのよ。

 ……そんな風にして、恋心募る頃、当然受験を控えていたからピアノのレッスンだってたくさんしなくちゃいけなかったわ。だからその子もよくうちに来て、私のピアノを聞いていたってわけ。そんなある日のことよ。すべてが変わってしまった、ある曇りの日。

 その子はとっても深刻そうな表情で私に、『彼、付き合ってる子が、いるんだって』って言ったの。驚いたわ。彼は私たちと遊んだ時、そういう子はいない、って言っていたもの。なんでもその子によると、その彼と女の子が一緒にいるのを見た、っていう人がいたらしいの。でもそれだけだったらまあ、なんでもないことじゃない? でもね、キスしてたらしい、ってその子は言った。私びっくりして、それで、落ち込んじゃってね。だってすごく好きだったんだもの、その彼のこと。悲しくて、ピアノも弾く気がなくなっちゃって。それで、きゅっとその子が私の手を握ったのよ。落ち込んだ私を慰めてくれるのかと思って、その時は嬉しかったわよ。でもね――次の瞬間には、その子の顔が、私の目の前にあったの。キス、されてたのよ。それで私に、『もういいでしょ?』って涙声になりながら懇願してきた。私きょとんとしちゃったけど、すぐに気が付いたわ。この子、同性愛者なんだって。そのまま彼女、私にディープキスしてきて、私もその時は彼のことで傷ついてたから、もうどうでもいいやって思ってたのよ。でもね、彼女が私のブラジャーのホックを外そうとした時に――ハッとして、その子の頬を打ったのよ。

 その子、呆然として私を見つめたわ。だから私言ったの、『ごめんなさい、あなたとはそういう関係にはなれない』って。そしたら彼女、虚しげな目で『……そう』って言ったの。そのあと、乱れてた服を直して、何も言わずに帰っていったわ。

 それから、その子とは付き合わなくなったの。まわりは少し不思議そうな顔をしたけれど、仲たがいってよくあることだから、特に何も言わないで私を受け入れてくれた。

 それでその子から離れて二週間くらい経った頃かしらね、私が好きな彼が、突然『大事な話がある』って私を呼び出したの。私びっくりしちゃったわ。だってあの子の話を考えたら、彼には恋人がいる筈じゃない? でもそれもあの子の、私とああいうことをするための口実だった、って考えたら、ああ、あれは嘘だったのか、って私は思ったの。だから私すっごいわくわくしちゃったわ。彼から好きって言われるんじゃないか、私の手をきゅっと掴んで、恋人になってくれって言ってくれるんじゃないか、ってね。あの日のドキドキは本当にすごかったわよ。もう、ピアノも勉強も手が付かないくらい。だって大好きだった彼から、『大事な話がある』なんて、そう想像せずにはいられないじゃない? それで私はしゃいじゃって、ドキドキしながらその指定の場所に行ったわ。ちょどその時は夕暮れ時でね、ああ私こんな素敵なところで告白されちゃうのかなぁ、なんて胸を高ぶらせながら思った。もしかしたらキスなんてしちゃうのかも! とかも思ってたかしらね。

でもね、その待ち合わせ場所には二人の影があったの。彼と、その後ろに、あの子がいたの。彼はとても冷たい表情で言ったわ、『もう近寄らないでくれ』って。ねぇクリアくん、ちゃんと聞いてる?」

「……聞いてるよ」

「そう、ならいいの。私最初何言われたのかわからなかった。それで私がずっと困惑しているとね、彼すごく怒りはじめたの『お前が俺の彼女に手を出したんだろ』って怖い顔でね、詰め寄ってくるわけ。私もうわけわかんないのよ。なんでこんなことになってるんだろうって、頭が真っ白になってくらくらするの。私がしきりに、『何もしてないわ、何もしてないわ』って繰り返すんだけど、彼はそんなのまったく聞く耳を持たないのよ。『嘘をつくな、あいつから話は聞いてるんだ』って後ろで寂しそうに涙ぐんでるあの子を指さすの。それでね、私その瞬間にいろいろ気づいちゃった。あの子が言ってた、彼の恋人って、あの子自身のことだったんだ、って。でも本命は私で距離を縮めようとしたけど、私に裏切られたからこんなことになってるんだ、って。きっとあの子は、私がレズで、彼女に接近しようとしたとか、涙声で言ったんでしょうね。そう思うと怒りが湧いてきてね、怒鳴ろうとも思ったわよ。でもね、彼は完全にその子の言うこと信じ込んじゃっているし、彼がその子のこと本気で好きなのも、そのあの子の為に怒ってる顔からよくわかるのよ。そう思ったらすごくやるせなくなってきてね、悲しく、なってきて……」

 そのままマリィは、ひっく、ひっくと静かに涙を流し始めた。いたたまれなくなって僕は、マリィの背中を優しく撫でた。マリィは目尻の涙をぬぐうと、僕をじっと見つめる。

「……つまりはね、私のこの体質は、好きな人に選ばれたい、っていう願望の表れなのよ。だから、どんな男も私を好きになってしまう。あなただけが、唯一の、例外」

 マリィはそこまで言って、言葉を切った。碧い瞳が、じっと僕を見つめる。

「ねぇ、クリアくん」

「……なんだ」

「……私を、見て」

 マリィはそう言って、僕の腕を掴んだ。そのままゆっくりと引き寄せて、自身の胸にあてがう。柔らかな彼女の胸の感触が、僕の指先から伝わってくる。僕は息を飲む。

 マリィの顔が僕の目の前にある。彼女は涙に目を赤く腫れさせていて、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに儚く脆く美しい。マリィが目を閉じたその瞬間だった――唇に、柔らかい何かが触れる。マリィからほのかに漂うシャンプーの香り。僕はキスを――されていた。

 ガタンッ!

 部屋の入り口から派手な音が響いた。とっさに見るとセナが立ち尽くしている、ふらふらと揺れ、駆け出していく。階段を駆け下りる音が鳴り響く。

「セナッ……!」

 僕がつられて駆け出そうとしたその時だった、マリィの細い手がぐっと、僕の動きを止めた。僕はマリィを見る。彼女はうつむいたまま言う。苦しげで、切なげな声色。

「待って……行かないで」

 マリィは震えながら絞り出すように声を出す。

「……ねぇ、クリアくん。私の事を、選んでよ? もう、裏切られるのは……嫌、なのよ」

 彼女の悲痛な懇願は、僕の胸の内をぐるぐると回り続けた。




 セナから似たような告白を受けたのは、それから数日後の夜のことだった。マリィとのことがあってから、セナは夜僕とともに寝ようとしなくなっていた。その理由はなんとなく僕にも察しがついた。僕がシャワーから上がって自室の電気を付けると、ベッドには座っているセナがいた。セナはにこりと笑う。

「こんばんは、クリアさん」

「……どうしたんだい、突然」

 僕は少し驚きながら、呟いた。

「なんとなくですよ、なんとなく。最近クリアさんと喋ってなかったから、喋りたくなっちゃったんです。ほら、クリアさんも座って座って」

 セナはそう言って手招きをした。僕は彼女の隣に腰を下ろす。するとセナは横に置いてあった紙袋の中から、丸めた一枚の紙を取り出した。

「見てくださいクリアさん。暇だったからセナ、描いたんですよ」

 セナはそう言ってその紙を広げた。そこには、ソファに座って本を読む男性が描かれていて、

「……これは、僕かい?」

「そうです」

 と言って、セナはにこりと微笑んだ。しかし僕は、かつてセナが描いていたマリィの絵を思い出してしまう。光に手を伸ばす、美しいマリィの絵画。果たしてあの作品はすでに完成したのだろうか。それとも未完のまま、埃をかぶってしまっているのだろうか。僕は少しだけ悲しい気持ちになってしまう。

「うーん、ありがとう、と言っておくよ」

 何とか笑みを作ってそう答える。僕のその反応が気に入らないのか、セナはむっとする。

「……なんですか、いらないって言うんですか」

「そんなことは、ないけれど」

 僕が取り繕うようにそう言うと、セナは悲しげに目を伏せる。

「じゃあ、なんでそんなに嬉しくなさそうなんですか。……恋人以外から、プレゼントをもらっても、嬉しくない、ってことなんですか」

 セナが、絞り出すように、そう言う。だから僕は、努めて冷静に告げる。

「……誤解だよ、僕はマリィと、恋人じゃない」

 しかし、セナは喋り続ける。

「いいんですよ? 認めても。……セナは、ちょっと、ほんのちょっとだけ、悲しい、けど。でも、負けを認めてあげても……いいです。だってマリィさんってすごく綺麗だし、クリアさんとこないだ、キス、してたし……それに、クリアさんとマリィさんが喋ってる時って、セナは除け者みたいな感じも、しますし」

 言葉の後半は、ほとんど消えかかってしまっていた。僕は首を横に振る。

「セナ」

 セナの肩を持って、ぐいと顔をこちらに向ける。

「……?」

 セナの黒い虹彩が、うすい涙の波で揺れている。

「……確信を持って言うけど、僕はマリィと恋人じゃない」

 努めて誠実に、嘘偽りに聞こえないように、セナに告げる。セナはまだ泣きそうだ。

「……ホント、ですか?」

「本当だよ。嘘じゃない」

 僕がそう言うと、最初はピタリと静止していたセナの顔が、ゆっくりと変化していく。涙で濡れていた瞳が、みるみるうちに明るくなっていく。

「……クリアさん、今恋人いないっていうことですか」

 ぽかんとセナは、言う。

「……そうなるね」

 セナは先ほどの涙はどこへ行ったのか、目を真ん丸に開いて笑みをこぼしている。

「じゃあ、まだセナにもチャンスがあるってことですね!」

 どうやらセナの悲しさの原因は、全てそこにあったらしかった。僕はどんな表情をするべきなのか、見当がつかない。

「そう……だね」

 僕が首をかしげながらそう答えると、セナはにやりと笑って、僕にびしっと指を差す。

「……ふっふっふ、クリアさんの心を掴むのはセナですよ! あんな金髪美女に負けてたまるものですか! ほら、セナだってマリィさんほどではないですけど胸はありますし? それに顔だってけっこう可愛いし?」

 と言ってセナは胸をそらす。そんなセナがおかしくって、僕は彼女を茶化してしまう。

「うんうん、可愛い可愛い」

セナは、むっとする。

「もーなんでそうやって子供扱いするんですか。セナだってクリアさんと同い年なんですよ? いちおう」

「セナが子供っぽいのが悪いんだよ。見た目も言動も」

「むーっ。セナは大人ですから! みそ汁を好き嫌いするようなクリアさんこそ子供です!」

「そんなこと言い出したら、夜怖いから一緒に寝てくださいなんて、子供そのままじゃないか」

「ふんっ、うるさいです。もう一人で寝れます。クリアさんはいりませーん」

「僕も一人で寝れて気分がいいとも」僕も笑って返す。

「クリアさんだってその内寂しくなって、セナのベッドにもぐりこむんじゃないですか? ありありと見えますよ、クリアさんが、セナより先にセナのベッドで寝ている未来が」

「ないね」僕はあっさりと即答する。

「もーっ、ちょっとくらい悩んでくれたっていいじゃないですかっ」

 セナはぷんすか怒っている。僕はそれに呆れて笑った。そんな風にして、僕とセナは互いをからかいあった。でも、ふとした拍子にセナは喋るのをやめて、僕の瞳をじっと見つめる。

「……でも、良かったです。クリアさんとマリィさんが恋人なんじゃないかって思うと、本当に、夜も眠れませんでしたから」

「……」僕は驚いて、返事をすることができない。セナはしばしもじもじと身をよじった。そして右手で、僕の手首をきゅっと掴む。

「ねぇ、クリアさん……好きです」

 セナの深い茶色の瞳が僕をじっと見つめている。その目に迷いの色はない。セナの言葉が僕の胸の内側をぐらぐらと揺らしている。

「セナと……恋人に、なってください」

 彼女の小さな口から紡がれたその言葉は、その実しっかりとした決意の塊だった。だから僕は、うつむく。ここで安易に、決めるわけにはいかなかった。僕にはいろいろと考えるべきことがらが、たくさんあった。

「……少し、考えさせてくれ」

 だから僕は、そう言った。
















 僕は行くあてもなく街の中をふらふらと歩いた。雨は相も変わらず降りつづいていて、空模様はひどく無機質なグレーだった。その空の様子はまるで、白い泥が固まってそのままふわりと浮かんでいるみたいだった。あたりは例によってレインコートを着た、顔も覚えることができない人々が行き交っていた。電灯からオレンジ色の光が漏れ出していて、それらは人々の頭に降り注ぎいやに陰鬱な風景を演出していた。

 ――僕の目的とは、いったいなんだった。

 僕は人ごみの中を歩きながら、自身に問いかける。前から歩いてきた黒いレインコートの男に肩がぶつかって、舌打ちをする音が聞こえる。僕はそんなことお構いなしで、自身の意識を深く深く降ろしていく。僕は先ほどの問いに答えている。

 ――この街から、出ることだ。少なくとも、僕と、セナと、マリィの三人でこの街を出ることができたらと、そう思っていた。

「三人で街を出る」

 僕は呟いた。言った途端、自嘲じみた笑みがこぼれはじめる。こんなものが理想に過ぎないなどという事は、僕にも良くわかっている。

 あれから、マリィさえも学校に行かなくなった。理由を聞こうと思ったが、その機会はついに訪れなかった。僕と彼女の関係はあれ以来冷ややかな風が入り込んでくるかのようで、端的に言うと僕はマリィに避けられていた。僕が何かをしようとした時、そこにマリィの姿はなかった。マリィがそういった態度を取ることが、僕には少し意外だった。彼女が学校に行っていない間いったい何をしているのかと思ったら、時折聞こえてくるピアノの音が彼女の状況を僕に知らせた。

 だから必然的に僕はセナと一緒にいる時間が増えた。あの日以来セナは僕に積極的なアピールをしてくることも、マリィに対する嫉妬を燃やす様な発言をすることもなくなっていた。セナは僕の前でただひたすらに明るく振舞っていた。僕は何だか申し訳ない気持ちになった。

 当然、セナとマリィが会話をするようなこともなかった。彼女たちの間をかつて繋いでいた太い絆のようなものは完全に断ち切られてしまっていた。あとに残ったのは千切れてボロボロになった人間関係の残滓だけ。こんなものが……この街を出るための、条件だと言うのか? 考えてみても、僕にはわからない。

 その上僕は、マリィとセナから告白を受けている。だが――はっきり言ってしまうと、一方を選びたくなど無かった。彼女たちの内どちらかを選んでしまった時点で、僕の最初の願いであった『三人で街を出る』という悲願が達成されないような気がしてしまうから。彼女たちを選んだ時、選ばれなかった一方はこの街に置き去りになってしまうのではないか? そう、思わずにはいられない。それに、そもそも僕の目標は三人で街を出ることだ。彼女たちと戯れの恋をすることではない。

 その時、僕の心の内に、一つの疑念が浮かんだ。

 ――どうして僕は、この街から出ようと、盲信的なほどに、そう思っているんだ?

 よくよく考えてみれば、おかしなことだ。僕には『過去』がないし、『個性』もない。ならばなぜ僕はこれほど熱心にその目標を掲げている? ……わからない。因縁も信仰も持たない僕が、どうしてそこまで何かを熱心に探究している? 何故だ? わからない、わからないわからない――僕の脳内が疑問の渦にのまれそうになったその時、ふと浮かんだ一つの言葉。


 クリア。


 クリアとは、なんだ。僕の、名前だ。どうして、クリアなんて名前なんだ。僕は考える。そこに何か手がかりがあるような気がして頭を捻って考える。

――名付け親が、いたのではないか。

「……!」僕は目を見開く。頭の中に変なとっかかりがあって、それが僕の記憶を塞いでいる。僕はその蓋を何とかこじ開けて、腕を突っ込んで中を探る。いくつかの記憶の塵が僕の中に蘇ってくる。僕は何か、とても重要なことを、忘れてしまっている。

 そうだ、あの人は僕に名前を……与えた。そして、人の温かみを忘れてしまっていた僕に――幸福を、与えた。どんな顔をしていた? どんなふうに喋った? どんな風に笑った? ……皆目、思い出すことができない。僕は苛立って膝を殴りつける。そして街の中を歩き回った。ほんの少しでも、『その人』の残り香を求めるかのように。

 ボロボロの路地裏、レストラン、お店、街灯、黒いレインコート――何かがある、僕がそれらのところに着いた時、ほんの少しの違和感が僕の胸中に広がった。何故だ? ここに何がある? クソ……もう少しで、思い出せそうなんだ。『ビリヤード場』突然浮かんでくるセンテンス。紅い髪の毛、ひどく弱々しい言葉。あと……少し、あと、少し。僕は散々街の中を歩き回る。そうしてようやくたどり着いた場所――そこは小さな、本屋だった。

 本屋に入った時、僕は何かを求めて過去にこの本屋に来たことがあることを悟った。それは奇妙な違和感が表出したということであり、ここには何かがあることを表していることに他ならなかった。僕は食らいつくかのように本棚を見回した。ほんの一つの手がかりも見逃さんとして。AからZにかけて、全ての著者を凝視するように見回して行く。何かがあるはずだ。ここには何かがあるはずだ、とそう信じて――しかし、Zまで行っても違和感の正体となるような名前には、見当たらなかった。僕は愕然とした。ここには、何か必ず大きな手がかりがあるはずなのだ。僕の勘が、強くそう告げている。だから僕はそう簡単にはこの店から出ようとしなかった。粘り強くもう一度著者の名前を睨み付けていく――その時、耳に入った店員の言葉。

「スティーブン・キングの新作が出たらしい」

「うおう、そうなのか。まぁ俺はあの作家の作品あんまり好きじゃないんだけどな」

「売れるから並べといてくれよ」

 ――スティーブン・キング?

 僕はひどいとっかかりを覚える。そしてもう一つ現れる言葉『ショーシャンクの空に』僕はそこにいた店員に慌てて声をかける。

「ショッショーシャンクの、空に、っていう作品を知っていますか!?」

 僕のその、叫ぶような声に店員は少し驚きながらも、

「そりゃ……知って、ますけど。すごく、有名な映画ですし」

 映画……? 僕はまた頭に痛みが走る。何か、とても重要な映画ではなかったか?

「売ってますか?」

「あー、有名作だから、たぶんあると思いますよ」

「買います」

 会計を終えて、僕は一枚のビデオを抱え、雨の中家まで走っていった。



「……!」

 僕はその映画『ショーシャンクの空に』を見終えて、愕然とする。すべてには、意味があったのだ。そう、文字通りすべてには、意味があったのだ。僕ははやる心を落ち着けることもなく、引き出しの中を開ける。そこに入っているのは一枚の手書きの地図。以前、マリィとともに描いた、今は思い出せない誰かの家への地図。

 僕はレインコートを羽織りながら家を飛び出した。

 『ショーシャンクの空に』という映画は要約するとこういう映画だ。

 銀行員のアンディは、妻とその愛人を殺した罪でショーシャンク刑務所に投獄される。しかしアンディは本当に殺人を行ったわけではなく、冤罪によって刑務所に入れられてしまったのだった。度重なる看守からの暴力、同性愛者による性的行為の強要によって、アンディの心はますます苦しいものになっていく。ようやく、アンディの冤罪の証拠を知る囚人に、アンディは出会うことができたが、元銀行員のアンディの能力を失うことを恐れた所長は、その囚人を殺してしまう。その日の次の朝、アンディは点呼に出席しなかった。自殺したのかもと親友は思い、看守がどれだけ探してもアンディは見つからない。ところが部屋の中に貼ってあったポスターの裏側に、大きな穴が空いているのを発見される。アンディはそこから脱獄したのだ。アンディは毎日、夜になるとロックハンマーを使って少しずつ穴を掘ってついに、排水溝に達したのだった。


 ――まず、この映画は今の僕たちの状態とモチーフが似通っている。アンディが無罪なのにも関わらず所内に閉じ込められているように、僕たちもこの街の中に閉じ込められている。

 僕は地図を見ながら考える。もうすぐ、その家にたどり着く。


 さて、そしてこの脱獄に使われた道具『ロックハンマー』だが、こんなものは本来囚人が持っていて良いものではない。この道具は、アンディの親友レッドが外部から調達してきてくれたものだけれど、もし見回りで見つかればすぐに看守たちに奪われたことだろう。では、アンディはそのロックハンマーを、いったいどこに隠していたのか。


 僕は魔女の家のような風格を持つその家にほんの少しのなつかしみを覚える。ガチャリとドアを開ける。内装に見覚えはない。中に老人がいるが、僕の存在には気づかない。僕はずんずん中に突き進んでいく。目指すのは――書庫。


 アンディがロックハンマーを隠していた場所、それには一つのトリックがある。まず、ショーシャンク刑務所の所長がクリスチャンであったという事、そしてそれゆえに、『囚人たちに聖書の携帯が許されていた』こと――それが重要な、要素なのだった。そう、アンディは聖書のページをくり抜き、その中にロックハンマーを隠していたのだ。


 ――閉じ込められたところから出る鍵は、聖書の中に隠されている。


 僕は書庫の中から赤く、留め具が付けられて開きづらくなっている重厚な見た目の聖書を取り出す。僕は焦る気持ちを抑えて留め具を外し開く。くり抜かれた聖書、敷き詰められた綿、一番上に見えるのは――茶色いこぎれいな、手帳だった。僕はそれをわしづかむ。体がわなわなと震えている。僕はゆっくりと、ページを開いていく。





『……キミが、もしこの文章を読んでくれているとしたら、それは大変喜ばしいことだ。ボクはそうなる事を心から願っているし、きっとそうなってくれると信じてもいる。キミが今いったいどんな状況にあるのかボクにはわからないけれど、少しでもその解決に貢献したいから、この手紙を書こうと思う。少しは喜びたまえよ? クリア。

 まずは、言い訳から入らせてもらおうと思う。キミはたぶんボクが死んでしまったことで、ひどく動揺しているだろう。それに関してはボクも悪いと思う。でもね、これは仕方がないことだったんだ。そもそもね、ボクのこの自殺衝動というものはもう回数だけで言うなら三十回を超えるほど起こっていたんだよ。その中でボクが一度も死ななかったというのは、もはや奇跡に近い。そうは思わないかい? ……でも、睡眠薬を大量に服用したり、毒薬を飲んだり、ガスの中で何時間も息をしているようなことを、三十回以上も行ったんだ……わかるかい? ボクの身体はね、もうボロボロなんだ。まだ生きているのが不思議なくらいに、ね。もしボクがこのまま生きて、無事に街の外へ出ることができたとしても、キミに迷惑をかけてしまうというのはボクにもわかる。そしてボクは……そんな自分に、どうしても耐えられそうにない。だからせめてボクは、キミ達の手助けをする側に回りたいと思ったんだ。この残り少ない余生でね。


 さて、この街を出る方法について書く前に、まずこの街について書かなくてはならない。

 この街はね、端的に言うと、『精神療養所』なんだ。精神病患者を、治療するところだ。

……クリアくんは今きっと不思議そうな顔をしているだろう。でも、この街の起源はとっても単純に違いないんだよ。誰かが、思ったんだ。『嫌なことは、忘れてしまいたい』とね。狂った願望には違いないけれど、僕らだって多かれ少なかれ、そんな風に思って生きている。そしてその魔力が集った街が、ここなんだ。

 心に傷を持つ者は、導かれるようにこの街へやってくる。キミやセナやマリィやボク――ほとんどが、そんな風にしてこの街にやってきた。観光客なんかは違うけれど。

 この街に来るとね、嫌な記憶が消えていくんだ。まるで、洗い流されて行くかのように。そしてその代わりに、幸福に生きるための、つじつま合わせの記憶が補填される。そう、雨が大地を潤すように。それが――この街の、本質だよ。ここに来た人たちは皆本来の居場所があったはずなのに、それにまるで気が付かずに毎日働いて、笑いあっているんだね。恐ろしいことだろう? だからクリア、キミのような人はとても珍しい。洗い流されただけで、代わりの記憶が補填されてないんだからね。僕の予想ではそれはキミのトラウマの凶悪性を物語っているのではないか、とも思う。そしてキミはそれに、向き合わなくてはならない。


 マリィやセナとは、今でも仲良くしているかい?

 彼女たちが過去を取り戻しているか、取り戻していないか、キミがこの手帳を読んでいる時にどうなっているかは、ボクにはわからない。でも、彼女たちが現在行っている学校だって、虚構が作り出した偶像のようなものだよ。あそこは本来彼女たちが行くべきだった学校ではないし、そこで生まれる人間関係も偽物に過ぎない。これを、心に留めておいてくれたまえ。だからキミは彼女をこの街から連れて行くべきなんだ。そして、もう一つ言えることは、おそらく二人の今の関係は崩壊するだろう、という事。……驚いたかい? でもね、これは恐らく、事実だよ。前に、こんなことがあったんだ。心して読むといい。

 ボクは以前、セナのパスポートを見たことがあるんだ。特に興味があるわけでもなかったけどパラパラとページをめくって気が付いたのはね、彼女のパスポートがあまりに綺麗すぎることだったよ。そのパスポートにあったスタンプは一個だけ。つまり、彼女が日本からこちらに来た時に押されたスタンプに違いない。これが何を意味するか、分かるかい?

 ……そもそも、この街の記憶操作はずさんなことが多いんだ。大雑把で、細部までこだわるとあっさりとあらが見つかる。でも、当人たちは気づかない。なんでかって、おかしいとも思えないんなら、気づくこともできないという理論なんだよ。セナのこれも、その例に当てはまる。

 もしセナがこの国に、ついこの間、初めて来ていたとしたら――

セナは、マリィと幼馴染などではない、という事なんだ。……酷なことを言っているのはわかっている。彼女たちはとても仲がよいし、親友にしか見えない。だけど、このボクの予想は恐らく――正しい。だから彼女たちにトラウマが返ってきた途端に、仲が壊れてしまう可能性も、覚悟しておいてほしい』


 僕は、愕然とする。セナと、マリィの、もう冷え切ってしまった関係性。僕がしがみつこうとしていた現実の方が、ただの、虚構だったらしかった。なんだよ、それ。なんだよ……それ。三人でもう一度仲良く、なんてのはもう不可能だと言うのか? クソ、クソ、クソ――しかし僕は頭を横に振る。考えるのは後だ。今はまずこの人物の手紙を読むしかない。


『では、本題だよ。この街を出るための方法について、だ。

 条件は二つだ。一つはキミも気が付いているだろう――正しい過去を、取り戻すこと。じゃあ、もう一つはなんだろう? 少し、考えてみるといい。

 ボク達に欠けていて、街の外にあるもの、それっていったいなんだろう? 正しい記憶? 違うよ。ボクはこれがわからなくて、ずっと研究を重ねていた。だから占い師なんて職業をやっていたんだ。そうすれば、どんな人間がこの街を出ていくことができるのか、ほんの少しでも知ることができるかもしれない、と思ったからね。文字通り何年も考えたよ。どんなふうにしたらあの銀色の壁を潜り抜けることができるのか、この街の外へ脱出することができるのか、とね。そしてボクはようやく発見したんだ。あの壁を抜けるもう一つの条件を――。


 この街を出るために必要なこと。それはね、キミ達が―――――――――なんだ』


 僕はそれを読んで絶句する。なんだ、当たり前のことじゃないか。当たり前だから、見落とす。わからなくなる。そうか、そういうことだったのか。


『この街の発生原因を鑑みれば、すぐにたどり着きそうなものだったのだけどね。ずいぶん長い足を踏んでしまった。この条件を満たせば、キミ達はこの街から、抜け出すことができる。これをキミが読んでくれていると、ボクは信じているよ。ボクからは、これくらいにしようと思う。おっとそろそろキミが散歩から帰ってきそうだ。

あと、黒服の男たちには注意したまえ。おそらく聖書を捨てるようなことを彼らはしないと思うが、念のためこの手帳は読んだ後ビリビリに破いて捨てておいてくれ。この無駄に大きな聖書の中に入っているもう一つのアイテムは、キミへの餞別だ。きっとキミの脱出に役立つだろう』


 僕は、くり抜かれた聖書の中に入っている綿を一つ一つ取り除いていく。そしてその一番下に姿を現したのは、黒光りする鉄の塊――拳銃だった。


『ずっと前にね、気が乗って、作ってもらったんだ。使う機会は一度もなかったけれどね。取っ手のところに、ボクの銘が刻んである。それをボクだと思って、大切に扱ってくれたまえよ?

 それじゃ、ボクからはこれだけだ。あとはせいぜい頑張るんだね――クリア。ボクは今から、キミを騙してくるよ。強く生きるんだよ、諦めるんじゃない。キミならこの街を出てくれるとボクは信じている。ボクみたいに負けないでくれよ、クリア』



 手帳は、そのように締めくくられていた。僕はぽとりと、手帳を取りこぼす。僕の手のひらにはずっしりとした重みをもった、一丁の銃が握られている。その持ち手に掘られた銘『Agnes』

「アグネス……っ!」

 僕は一人で泣いた。何故だかわからなかったが、涙が溢れて仕方がなかった。激烈な感情の塊が僕の内側をぐちゃぐちゃにかき混ぜていった。どう対処すればいいのかもわからないほどに暴れ出してくる想いが、僕の身体を蹂躙し続けた。僕はその暴風の中で、一人泣いていた。













 ふらふらの体で、外に出た。アグネスの手帳は当然処分した。だけどおそらく、もう僕が彼女を忘れるような事はないと、ポケットに入る重たい感触が言っている。僕はコンクリートの上に座り込んだ。いろんなことが起こりすぎて、頭がついていかなかった。マリィとセナの関係性、この街の魔力、アグネスの想い、そしてこの街を出るための、条件。いろんな情報が同時に頭に押し寄せてきて、パンクしてしまいそうだった。とりあえず、誰かと話をして、心を落ちつけたいと思った。だけど僕は首を横に振る。そもそも認知すらされない僕が、誰かと会話をしようという試み自体無謀に近いのだ。クソ、と悪態をついて僕が立ち上がろうとしたその時――

「クリア……さん?」

 可愛らしい声が、僕の耳に届いた。前を見ると、そこに立っているのはセナだった。

「……どうしたんだい、こんなところで」

「いえ、クリアさんが慌てて家を飛び出して行って、なかなか帰ってこなかったから……。あ、別に心配してたとかそういうのじゃないですよ」

 セナはそう言ってつんと僕を睨んだ。そんな可愛らしいセナの冗談が、今はありがたかった。

「……そうかい」

 僕が少し微笑しながらそう答えると、セナは目を丸くする。

「……? どうかしたんですか? クリアさん」

 僕は驚く。

「どうかしたって、なんで?」

「いや、さっきの言葉のあと、いつものクリアさんなら果敢に言い返してくるだろうと思ったからですよ」

「ああ、それは……いろいろあって今、僕は混乱してるんだ。さっき僕は……」

 と言いかけて、ハッとする。アグネスが街に関する秘密を言おうとした時、あの黒い服の男たちは現れた。今ここでセナに話して、あの男たちが現れないという保証はない。

「いや、なんでもないよ。夕飯の材料を買いに行こう、セナ」

 僕が取り繕うようにそう言うと、セナは少しだけ戸惑ったが、

「……はい、今日はみそ汁作りましょうかね?」

 なんて冗談を、僕に飛ばしてきた。

「遠慮しとくよ。適当に肉と野菜を買って簡易な食事を作ろう」

「もーう。こっちの人は食事に無頓着すぎです。もっとちゃんとしたもの食べないと死んじゃいますよ? セナびっくりしたんですから。こっちの人って、セナがキャベツのみじん切りをするだけで目を丸くするんですよ? どれだけ料理ができないの、って感じです」

「みじん切り、ってなんだい」

 僕は首をかしげながら尋ねる。

「――ああもう、ここにも料理難民がいました。うーん…………ふふ、やっぱり日本人は最強ですね」

 セナはにやりと笑う。

「それはどうかな」

 僕が言うと、セナは胸を張る。

「いいえ、最強ですとも。まず何より礼儀正しいですし? マナーは守りますし? 他にも――」

 セナが、そうやってまくし立てようとしたその時だった。僕の視線は、街の中を歩く一人の男に、釘付けになる。その人物は僕と視線が合うと、驚きの表情を浮かべた。そしてぐいぐいとこちらに接近してくる。ぞわりと背中に寒気が走った。

「――よう! ××。お前、こんなところにいたのか!」

 明るい声、茶色い髪の毛。僕は、この男を知っていると、直感的に悟る。

「お前、それにしてもたまには連絡入れろよー? かーさんが困ってるじゃねぇか。やっぱり親は大切にするもんだぜ? まったく」

 セナも口を開けて、その人物を見つめている。僕の心拍数がどんどん上がっていく。口の中が乾いて、上手く息をすることができない。

「お、××お前恋人がいるのか? なかなか可愛い子じゃねぇか。ちゃんと大事にしろよ?」

 僕は驚いたまま固まっている。

 その時、後ろの方からその男を呼ぶ声がする「フェリック!」

「おっと、俺はそろそろ行かなくちゃいけないみたいだ。御嬢さん、××を大事にしてやってくれよ。おい、××、お前かーさんにちゃんと連絡しろよ? あ、あとこれ俺のいるホテルの場所。じゃあな!」

 男はそう言って僕に一枚の紙を握らせてくしゃっと笑うと、駆けて女の方へと向かって行った。そのあと僕らは立ちすくんでいて、でも僕の心臓はまだずっと高鳴り続けていた。冷汗が止まらなかった。体中から立つ鳥肌が、収まりそうになかった。セナは僕に問いかける。

「あの人……誰ですか?」

 僕だって、わかりたくなんか、なかった。だけど、恐ろしく克明に、僕はあいつのことを知っていると、直感が告げていた。そうだってあいつは僕の――


「兄だ、僕の――兄さん、だ」

 僕の意識はそこで、ブラックアウトする。



                                     第二章 了


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