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滲んだグレーと雨の街  作者: 木邑 タクミ
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第一章



 君は今、幸せですか? 僕はあいつを殺したくって、しょうがない。


 僕の心の独白はどろどろのグレーに滲んで、空がすべてを融かしてしまう。無意識に手を伸ばすと、雨が僕の手のひらに触れる。それはずいぶんひんやりとしていた。

 僕は降り注ぐ雨の中を女の子と二人で歩いていた。いつも通り重たい雨が降っていたが、しかし隣にいる少女は楽しげに笑っていた。僕は、そんな少女の様子を見て安心する。何故なら彼女はとっても幸せそうだったから。それを見ると、僕の気分もほんの少しだけ明るくなった。

僕は、ふと灰色の曇り空を見上げた。例によって、雨粒たちが僕の顔を叩いていった。それらは僕の身体をしたたらせ、やがて地に流れ落ちていく。僕は雨によって洗い流されてしまった君を、思い出す。涙が頬を、つたう。

 何故こんなものが流れるのか、僕にはわからない。君がいなくなってしまったことが悲しいのか、それともあいつを殺せないのが悔しいのか。――隣の少女が、不安げな瞳で僕を見つめている。僕は彼女を見て、歪んだ笑いを形作る。彼女はそれに気がつかない。前を向いて、もう一度喋りはじめる。僕はポケットに入っている武骨な感触を確かめる。どうして君は、こんなものを僕に渡した? 君はこうなることをわかっていたんじゃないのか? ……今となってそんな詮索は、もはやなんの意味もなさない。僕はもう一度、雨雲に向って問いかける。



 ――君は今、幸せですか? 僕はあいつを殺したくって、しょうがない。



 雨音が体の芯へと響く中を、僕と少女は歩いていった。少女はいかにも幸福そうに。一方僕は、醜い殺意をたぎらせながら。









第一章



僕はふと周りを見回した。そこにあったのはどこまでも薄っぺらい空白だけだった。またこの夢か、と僕は思った。広さも形状もわからないこの部屋の中に鎮座しているのは、茶色く古めかしい扉だけだ。これもいつも通りのことだった。僕はその扉に近づいてノブを回そうとするが、僕の手はノブに触れない。見えない何かが僕の邪魔をして、その扉に触れることすら僕は許されないらしい。でも僕はこの扉をいつか開けなくてはならないし、開けたいとも思う。

この扉が開かれるとき、それは僕が過去を取り戻すときだ。

僕は名前を持たない。ついでに言うなら過去も持たない。だから個性を持たない。よって何かを好きになることもない。それらをいつか僕は、取り戻すことができるのだろうか。

僕はもう一度扉を見つめた。茶色くて少し時代を感じるデザインの扉。僕のすべてはこの奥に詰まっているらしい。でも、それを手にするのはもう少しあとになりそうだった。





雨のやまない街。僕が今住んでいるのは、そういうところだ。

 とある国の小さな街。そこはどんな季節にも雨が降る。常に雨が降っているからといって、特に困るようなことがあるわけでもない。ほんの少しだけ観光が得意で、と言っても湿っぽい雨の景色しかないのだが、それが良いという事で訪れる人も少なからずいるそうだ。

 僕はそんな雨から逃れるようにして、あるレストランに入った。例によって誰も僕に注目しなかった。ウェイトレスだって僕に気付かなかっただろう。店内は僕が予想したよりも上品な佇まいで、僕はすぐに引き返したくなる。しかもわけがわからないことに、中の客は全員立ち上がっていた。立食形式というわけではなかった。皆部屋の中の一点を見つめながら、立ち上がって拍手をしていた。その視線の先にいるのは――黒いドレスを着てピアノの隣に立つ、一人の女性だった。

「――本日はマリィ・シャミナードの即興コンサートにお越し頂き、ありがとうございました」

 柔らかく頭を下げた。彼女の金髪がさらりと揺れる。

「マリィさん! マリィさん!」野次が聞こえた。どうやら、熱狂的なファンがいるらしい。それほど見目に優れているのだろうか。僕は彼女の顔をじっと観察する。そしてマリィと目が合う。目が合う? 綺麗な蒼の瞳だった。顔つきはビスクドールのように精巧で均整がとれて美しく、あたたかな色を丁寧に塗られた名画から抜け出してきたような、そんなお茶目さをも感じさせた。だけど僕にはそれだけのことで、だからと言って何か思うようなことは、なかったのだけれど。マリィはそのままにっこりと微笑んだ。普通の男なら、恋に落ちるほど素敵な微笑みだったように思う。繰り返し言うけれど、僕にとってそんなものに大した価値はなかった。僕は視線を逸らすと、レストランを出て行った。レインコートを羽織って、他の店を探す必要がありそうだった。あの店は今騒がしかったし、それに値段もそれほど安くはなさそうだったからだ。

 その時だった。背後から盛大などよめきが聞こえてきた。

「……?」

 怪訝に思って振り返った。そこには先ほどまでピアノの前で挨拶をしていた女――マリィと言ったか――がのけぞりながら僕を見つめていた。僕は驚愕する。彼女は粗い息のままに問いかける。

「ねぇ、私のこと好き!?」

「……は?」

 それが僕と、マリィ・シャミナードの出会いだった。





雨が降る中、マリィが黄色いレインコートを着て僕の目の前に現れたのは、それから五分ほど経った時だった。彼女の顔は綺麗という言葉も可愛らしいという言葉も両方兼ね備えていて、よく見れば見るほど、現実味を欠いた美貌だと思った。

「……君は僕が見えるのか」

 僕の言葉にマリィは眉をひそめた。

「……? 何を言ってるのかしら」

「文字通りの意味だ。君は僕が見えるのか」

 マリィは、しばしあっけにとられたように目を丸くした。

「……見えるわよ。普通に」

「……この街に来てから一か月が経ったが、まともに喋りかけられたのは君が初めてだ」

「何それ、冗談?」

 マリィは茶化すような口調で笑った。小さな形の良い唇がくいっと曲がる。

「……ねぇあなた、本当に私のこと好きじゃないの?」

 先ほども聞いたその質問に、僕は唖然とする。

「好きとか嫌いとか、初対面の人間にそうやすやすと抱く感情じゃないだろう」

 僕が吐き捨てるようにそう言うと、マリィはびっくりしたように目を見開いた。

「ま、まさかとは思ったけど、あなた本当に、私のことが好きじゃないの?」

 僕の表情は固まった。……この女は、僕をおちょくっているのだろうか。

「……君は確かに綺麗かもしれないが、少し自意識過剰すぎやしないか?」

 僕は淡々とそう告げた。マリィは気分を害されたような顔をするでもなく、また目を真ん丸にした。まるで気が付かなかった、とでも言いたげだった。

「あ、そういうのじゃないのよ」

 マリィはそう言うとキョロキョロとあたりを見回した。近くを歩く黒いレインコートを着た男性を発見すると、僕に「ちょっと来て」と言ってから、その男性に歩み寄っていった。

「こんにちは」

マリィが男性に話しかけた。男性は驚いた様子だった。

「……こんにちは」

「すいません、道がわからなくって。今、バス停を探しているんですけど、どうやって行ったらいいか教えてもらえますか?」

 マリィという少女は異常だった。いや、というよりむしろ異常なのは話しかけられた男の方だったのかもしれない。マリィと話すにつれて、男の表情はどんどん情けなくなっていった。最初は硬い表情だった彼は、ふにゃふにゃと食べやすそうに懐柔されていった。やがて頬の筋肉は緩み、だらしないにやけ顔を露呈させた。男性の説明が終わると、

「ありがとうございます。ところで、もう一つだけ質問していいですか?」

 とマリィは聞いた。男性は夢心地な様子で頷いた。

「私のことが好きですか?」

「もちろん」

「ありがとうございます」

マリィはぺこりと礼をすると、こちらに小走りで近づいてきた。男性はにやにやと幸せそうに笑いながらどこかへと姿を消した。なんだかくだらない小芝居を見せられたような気分だった。

「……なんだ今のは」

「べつに、私にとっての日常よ」

 なんてことなしに、つまらなさそうにマリィは言った。

「随分と変わった日常だな」

「そうね。だから、新鮮なのよ」

「何がだ?」

「私と、普通に喋れる男の人って」

「ああ、そう」

「絶世の美少女にそういう風に言われて、あなたは嬉しくないわけ?」

「別に、嬉しくなんかない」

 僕はぶっきらぼうに答えた。



「美しいっていうのは罪なのよ」

 マリィが誘うままに僕らは喫茶店に入った。正直僕はこれ以上彼女と喋りたいとは思わなかったが、強引に彼女が誘うので僕も仕方がなくついていくことになった。僕には本当にどうでもいいことなのだ、街中で美少女にお茶に誘われることだって。フードを脱いだマリィは金髪で、高級感の伴った髪の毛を下ろしていた。彼女の身体はほっそりとしていたが、けれども女性としての魅力に欠けるという事はなかった。強調すべきところはきっちりと強調されていたし、だからといって品が欠けるような低俗さも持ち合わせてはいなかった。白いニットにミニスカート、黒いスパッツで覆われた艶めかしい両脚、なるほど男が好きそうな服装だった。だけど僕にはどうでも良かった。

「ああ、そう」

 僕は興味なさ気に呟いた。ウェイトレスが水のコップを一つ置いた。その男性のウェイトレスはマリィの方をちらりと見た。その目に好奇の色が含まれていることを、僕は確認する。

「君は何歳なんだ?」

「初対面の女に年齢を聞くなんてね、男としてどうなのかしら」

「なんでもいいだろ」

「十六歳よ、華の十六歳。商業的価値が多大に発生する女子高生」

 ふん、とマリィはにやりと笑った。

「良かったな」

 僕がそう言うと、マリィはむっとした表情になる。

「何それ、腹立つ」

「そうか」

 僕の言葉に、マリィはピクリと眉を動かした。僕はその表情を見て安堵する。――誰も僕に興味を持たなくていい。

「私はね、私を見た人すべてを惚れさせてしまうの。――あなただけが例外だけれど」

「大変だな」

「……一か月くらい前からかしら、突然とんでもない数の男のひとから告白されるようになったわ」

「つまり四月か。高校一年生、さぞやクラスの人気者だろう」

 僕の言葉に、マリィはむっとした表情になる。

「……そんなことないわよ、嬉しくなんかないわ。つまらないものよ、みんなが私の事を好きっていう状況って。どんな男の子も私に一つでも多く話そうと必死なのよ? そういうのってなんだか全くありがたみがないの。少しくらいはわかるでしょ?」

「全然わからないな。それに、それは随分贅沢な悩みだな」

「……ラブレターも大量にもらった事あるわよ。辟易するくらいの量のラブレターを目にしたわ。もし私に告白するならラブレターはやめた方がいいわよ。私あの紙でお茶沸かしたことあるんだから」

「ああ、そう」

 マリィは眉をしかめて僕を睨んだ。僕は感情のない瞳で、情感豊かなマリィの表情を観察した。彼女は苛立っている。だが、これでいい。

「……あなた、かなり変わってるわね」

「そんなことない。僕は普通だ」

 僕は自分の事を、切り刻んだ『普通』を、くたくたになるまで煮込んだような人間だと自負している。無色透明、どこまでも薄い。しかしそれは普通とは程遠く、また途轍もなく普通であるとも言える。無限に広がる一般性。

「……ねぇ、幾つか質問してもいいかしら」

「……」

 僕は返事をしなかった。正直なところ詮索なんてされたくなかったが、流れでここまで来てしまったのだ。僕は嫌々口をつぐんで彼女の次の言葉を待った。

 マリィはコーヒーカップを抱えて、じっと僕の目を覗き込んだ。例によって僕は、その美しい碧い瞳に吸い寄せられる。その底知れない感覚は、まるで深い海をぼんやりと眺めているみたいだった。だからと言って、何か思うところがあるわけではない。

「あなたの名前は?」

「ない」

 正確には、もう忘れてしまった。それらの僕を構成する諸要素は、すべてあの扉の向こうにしまってある。だから僕はそこからそれらを取り出して、自由に扱う術を知らない。

「……じゃあなんて呼んだらいいのよ」

 マリィは先ほどからの苛立った表情のまま僕に尋ねる。

「呼ばなくていいさ。そもそもここで別れる二人だ」

 僕が冷たく言い放つと、マリィはキッと僕を睨んだ。唇がわなわなと震えている。どうやらこれが、きっかけだった。

「あなた……さっきから私に対して失礼だとは思わないの?」

「思わないな」

 実際のところ思っていたが、相手を怒らせるとしたらこちらの方が優れた選択だった。そもそも、どうしてこの金髪美少女は僕なんかに興味を持ったんだ? 僕なんてどこにでもいる十六歳の少年に過ぎないし、それに僕は誰とも関わりたくなんかない。

 ふるふると震える眼前の金髪の美少女を見て、僕はつまらない気分になりつつあった。こいつはいったい何がしたいんだ? 何のために僕に話しかけた?

「あ! マリちゃん~」

 喫茶店のドアを開ける音と共に入ってきた女の子は、満面の笑みでぶんぶんとこちらに手を振った。

「……セナ」

 マリィがしかめっ面のままその声の主に顔を向けると、セナと呼ばれた女の子は水色のレインコートを入り口にあるハンガーにかけ、こちらへと歩み寄ってきた。紺色のロングスカート、白地のカットソーにグレイのベスト。人当たりの良さそうな、無邪気な笑顔が印象的な、黒髪の女の子だった。

「マリちゃんどしたの? 怖い顔して。こんなところに一人でいるなんて珍しいね」

 僕は黙ってエスプレッソ・コーヒーを啜った。渋い苦味が口の中にじわりと広がった。

「今日は、私ひとりじゃないのよ。ほらそこに……」

 とマリィが僕に指さした時だった。セナはきょとんと固まってしまう。

「え……?」

 これが、僕の良く知る通常の人間の反応だった。一般人には、僕の存在を認知することすら難しい。僕が喋りかけると、ほとんどの場合こういった驚きが返ってくる。だから、僕自身が話しかけることなく、あまつさえ話しかけてきたマリィはかなり異質なのだ。そしてついでに言うと、それが却って迷惑なのだった。

「……」

 僕は押し黙った。これ以上新しい人間に認知されるのか、冗談じゃない。見ると、セナの方は動きがない。まだ僕の存在に気が付いていない? そんなことはないはずだった。目が合っている。そう、彼女の深い茶色の瞳はまるで、宝石のように固まっていた。

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 絶叫。セナはどたばたと大きな音を立ててのけぞった。いやに大げさな女だと思った。

「お、っおとこのひとっ!」

 喫茶店の茶色い壁に背中を預けながら、こちらを指さしてくる。失礼な女だ。前に座るマリィは落ち着き払っていて、はぁと嘆息する。

「こら、セナ失礼でしょう。注目されちゃってるし。早く座りなさい」

 マリィがぴしゃりとそう言うと、セナはまるで毒気を抜かれたように立ち上がり、するすると僕らの余っている席に腰かけた。その比類なき主従関係は、僕を多少驚かせた。

「……この子はセナ、私の友達よ」

 ぶっきらぼうな、マリィの紹介。セナが俯きがちに僕を睨んだ。

「マリちゃん……こいつとはどういう関係なの」

 僕はコーヒーを啜った。

「あのね、セナ……どうしたのよ、突然こんなところに来るなんて」

 マリィの問いかけを無視して、セナは口を開いた。

「……こいつは誰」

「知らないわよ、私も」

「説明して」

 セナが食い下がった。僕は初対面なのに彼女に嫌われているみたいだった。このまま二人とも帰ってくれないだろうか。僕としてもそれが一番楽だった。

 気まずい沈黙が場を支配した。無理もない、マリィは怒っていたし、セナも怒っている。このまま分かれて二度と会う事なんて無いだろう、僕はそう思った。

「こいつはマリちゃんの事好きじゃないの?」

 唐突にセナがマリィに質問をした。琥珀色の瞳はじっとマリィの方を見つめている。

「……そうみたいね。本当に珍しいことだけど」

「そういう演技をして、マリちゃんに近づこうとしてるんじゃないの?」

 セナは胸の前できゅっと握り拳を作った。

「それはないわ。だって彼、まるで私なんて興味ない様子だもの。おまけにとっても失礼だし」

「死んだマグロみたいな目ですしね」

 随分な言われようだった。

「……なんでもいいけれど、早く本題に入ってくれないか。いい加減退屈すぎる。君は一体どうして僕をカフェになんか誘ったんだ。僕にだって都合があるのを考えないのか」

 僕がぶっきらぼうにそう言う。

「こいつ……」

 怒りを露わにしたのはマリィではなく、セナの方だった。

「セナ、落ち着きなさい。時間をもらっているのは私の方なの」

 マリィがぴしゃりとそう言った。そしてじっと僕に向かい合う。

 マリィという少女は、よく見れば見るほどに現実味がなかった。白磁みたいに透き通る肌も、満月を溶かしたような金髪も、深いコバルトブルーの双眸も。この美しさそれ自体が、彼女の魔力とでも言うべきものなのだ。普遍的な男にとっては、決して抗いがたい類の。マリィの形の良い唇が、言葉を紡ぐ。

「あなたは、何かを好きになる気持ちを持たない。違うかしら」

「さあな」

「だから、こんなに可愛い私と喋ってもまったくときめかない。違う?」

「……さぁな」

「何も答えないのね」

「ああ」

「……ふうん。なんでもいいけど、ここからが本題よ」

 マリィは恐ろしいほどに冷静だった。先ほどまでの僕の無礼をまるで気にしていないかのように。僕はそれが想定外で、更に次の言葉は僕の予想の範疇をはるかに超えていた。


「私とあなた、協力すべきだと思うの」


 マリィのその言葉に、最初に反応したのはセナだった。

「なっ! マリちゃん何言ってるの! こんなやつと協力するなんて危ないよ!」

「セナは黙ってなさい」

 マリィの有無を言わせぬ声色に、セナはしゅんと口をつぐむ。いや待て、こいつなんて言った?

「……僕と協力するだと?」

 一体何を言っているんだこの女は? さっきまでの僕の言動を全く気にしていないのか?

「そうよ。見たところあなた特異体質みたいじゃない。他人に気づかれないっていう可哀そうな特異体質」

「……余計なお世話だ」

「だから、お互いに情報を提供し合って現状の改善を目指すべきだと思うの」

「余計なお世話だと言っている。僕は現在の自分に満足しているんだ」

 人と深くかかわるのは、何故だかとても恐ろしい。それに、僕が興味を持つのは、あの扉の向こう側だけだ。

「じゃあ言い方を変えるわ。私に付き合いなさい」

 なおもマリィは食い下がる。強い意思のある凛とした表情だ。だから僕は困惑する。

「……何故君はそうも僕に構うんだ?」

マリィは目をぱちくりと瞬かせた。そして唇に細い指を当てて、呟く。

「あなたが初めてだからよ」

「……? 何がだ?」

「……私とまともに喋ることができる男のひとって、あなたが初めてなの。この一か月で」

 僕は目を見開いた。純粋に驚いたのだった。

「そんな……」

 マリィは僕を見て、にっこりと微笑む。

「だから、嬉しいの。ねぇ、ちょっとついてきなさいよ」

「なっ……」

 僕はなされるがままにマリィに連れ出された。隣のセナはむすっとこちらを睨んでいた。


 喫茶店を出ると時刻は午後六時で、次第に夜のとばりが落ちてくる頃合いだった。外の雨音は穏やかで、セナはずっとマリィのそばにくっつき、腕をからめて何事かをこそこそと喋っていた。それはまるで何かを守っているかのようだった。僕は、密接し合う黄色と水色のレインコートをぼんやりと眺めながら、彼女らについて行った。周囲の景色は代わり映えすることがなく、どこに行っても茶色いレンガ造りの建物があり、そびえ立つ時計塔があった。びしょびしょに濡れた小さなネズミが、グレーのタイルの隙間を行ったり来たりしていた。

「僕らはどこに向かってるんだ?」

 僕は尋ねた。

「私の知り合いの占い師のところ。なんでも当てるのよ」

 マリィがぶっきらぼうに答える。

「……占い、か」

「仕方ないでしょう。あなたも私も、存在が人智を超えているんだもの」

「……そうかもな」

「だから、あなたも占ってもらいなさい」

「……」

 そうやって僕らが喋っている間も、セナはじっと汚物を見るような視線を僕に向けていた。彼女のそういった視線が、どういった意味を持つのか今の僕にはわかりかねた。

 その後ほどなくして、入り組んだ裏路地の途中でマリィが足を止めた。

「着いたわ」

 そこはこの街の中でも、外れの外れに位置する区画だった。猥雑な商店やレストランなどは見る影もなく、何もかもがダークトーンで構成されているような風体だった。さらに僕が一番驚いたのは、マリィが入ろうとしている店は塗装が剥げ落ち木目は粗く、魔女の家という表現以外にありえないような見た目だったからだ。

「こんにちは」

 品のある声と共にマリィが戸を開けた。薄明りが開くドアの隙間から漏れ出す。

 入るとそこは、家の外見からは想像もつかぬほどに豪華な一室だった。紫を基調にしたカーペットは鮮やかな幾何学模様に彩られ、その上には優美な曲線を描く机と椅子があり、そしてシンプルで高級感のあるホワイトカラーのティー・セットがあった。部屋の至る所に火のつけられた赤いキャンドルが置いていて、そこはかとなく、甘く淡い香りが漂っていた。

「おや、いらっしゃいマリィくん」

 奥のドアからとことこと歩いてきたのは赤毛の少女だった。体躯は小さく、僕よりも三つも四つも年下の様に見える。その目は紅く澄んでいて、その身長に相応しくない落ち着きを見せていた。赤い煌びやかなドレスをぴったりと身にまとっていて、露出の多いそのドレスは、控えめながらも胸部が強調されている。腰回りのラインはいやに女性的だった。

「今日も二人で来たのかい……ん?」

 少女が首をかしげ、いぶかしむような顔つきになる。綺麗な赤毛がゆらりと揺れた。

「今日はまた、随分と変わった子を連れてきたんだね……」

 にやりと微笑む少女の笑みは、小悪魔的な妖艶さが内包されていた。……どうやらこの少女、僕の事をあっさり認知したらしい。また僕を知る人間が増えるのか。

「察しが早くて助かります。今日は変わった人に出会ったんです」

 マリィが返事をした。

「……どうも」

 僕の気のない挨拶に対して少女は、

「ボクはアグネスだ。占い師をやっている」

 アグネスと自己紹介した少女は、まっすぐな瞳で僕を見据えていた。彼女は何もかも知っているというような雰囲気を醸し出していて、当然僕はその雰囲気に警戒する。余裕ある態度、年齢不詳の風貌、赤一色で染められたその衣装。いずれにせよ頭の良さそうな少女だと思った。

「キミは、どうしてこんなところに来たんだい?」

「……そこにいる金髪の女に連れて来られました」

 そんな僕の何気ない一言に反応したのは、アグネスでもマリィでもなく、セナだった。

「金髪の女……?」

 その毒々しい声色からして、どうやら僕はセナの機嫌を損ねてしまったらしかった。彼女はマリィが侮辱される、もしくはぞんざいに扱われる程度のことでも怒りを覚えるようだった。セナは苛立ちと共に、僕へ非難の視線を送る。僕は静かにその視線を受け止める。空気がピリピリと振動しているかのようだ。実に居心地の悪い一瞬だった。その緊張状態を破ったのは、アグネスの理性的な声だった。

「落ち着きたまえよ、セナ。彼は別にマリィを侮辱したわけじゃない。そうだろう?」

「……ええ」

 僕が答える。だがなおも、セナは僕を睨むのをやめようとしない。今度は、見かねたマリィが口を開いた。

「セナ、別に私は、彼の発言を不快には思っていないわ。あなたの気持ちは嬉しいけれど、やっぱり失礼よ」

 マリィの言葉に、セナがぱちくりと瞬きをして、やがてしゅんとうなだれる。指先で髪の毛をくるくると弄び始める。気まずい雰囲気が立ち込めた。その空気を払拭したのは、またしてもアグネスだった。彼女はどうにも場を和ませる才能があるらしい。

「……セナ、マリィくんと、まともに会話出来る男が一人くらいいたっていいじゃないか。キミたちは十分仲が良いんだから、少しくらいは信頼というものを憶えたらどうだい。ボクに言わせれば、キミたちはボクが妬いてしまうほどの親友に見える。正直言って羨ましいほどだ」

 アグネスが落ち着き払った口調でセナに話す。それはまるで諭しているかのようでもあった。対するセナは最初むすっとした表情だったが、やがては頬を赤らめてうつむいた。その喜怒哀楽がころころと変わるさまは、小さな幼子を思わせた。

「本当ですか? あ、ありがとうございます……」

 赤い顔で小さく答えるセナの様子を見て、アグネスはにっこりと微笑む。

「いい子だ。だから、いい子にはお菓子をあげよう。確か応接用に余ったクッキーがあったはずだ。キッチンにあるよ、取ってくるといい」

「ク、クッキーですか!?」

 セナは顔をぱあっと明るくさせて、慌てて部屋を飛び出していった。忙しい少女だった。

「……ごめんなさいね。昔からずっとあの調子なのよ、セナって。甘えん坊っていうか、べったりっていうか……まぁでも、愛されるのは悪い気がしないものよ」

 マリィが僕に微笑みながら話した。だが僕は素朴な疑問を思いつく。

「男には愛されるのに、か?」

「だからこそ、よ。……私ってこういう体質だから、女の子の友達が少ないの。わかるでしょう? 他の女の子からしたらモテモテの美少女なんて、目障りでしかないわけ」

「それは……大変だな」

 その言葉を言ってからハッとした。僕は、今の僕自身の言葉に憐憫の情が紛れ込んでいることに気が付いた。早くも僕は、このマリィという少女に好感を抱き始めているというのか?

「ありがと。あなたの体質も似たようなものでしょう? 他人に気づかれないなんて悲しくてしょうがないんじゃない?」

 だから、僕の言葉は冷たくなる。

「そんなことない」

 僕の一言で、部屋の中にひんやりとした沈黙が訪れる。アグネスが僕に声をかける。

「キミたちは、出会ったばかりだね?」

 小さな彼女の指摘を受け、

「はい。彼、かなりの特異体質みたいなので、アグネスさんに占ってもらえれば、と思って」

 マリィが答えた。

「……なるほど。確かにかなり変わっているようだ」

「……どうしてそんなことがわかる」

 僕は刺々しく言い放った。

「見ればわかるのさ。なんてったってボクは占い師だからね」

「……意味が分からない」

「キミにとっては意味が分からなくても、ボクには明確にわかるんだ。それにしても、キミは随分と攻撃的な態度を取るんだね。まるで番犬の相手をしているかのようだよ」

「……そうか」

 僕はこの女が恐ろしくなった。どうして僕を占おうとするんだ。

「ふむ、キミを占う……か」

アグネスは顎に手を当てて思案顔になった。その理知的な表情は、小さな彼女を数段大人っぽく見せていて、実際の年齢は計り知れない。アグネスは近くにあった戸棚を開くと、その中にあるいくつものガラス細工……もとい水晶玉を吟味した。そしてまたこちらを見て妖しげに笑う。

「ためしに、やってみるかい? キミの症状が少しでもわかるかもしれない。でも……あまり効果は期待できなさそうだ」

「……」

「何故そう思うんだ、と顔に書いてあるよ。だからね、見たらわかる。占い師というものはね、相手を見ただけでおおよその事はわかってしまうものなんだよ。それは主にキミの立ち振る舞いや言動、雰囲気などから推察されるのだけれど。キミのそれは、占いなんかでどうにかなるものじゃない。違うかい?」

「……」

「ボクの見立てが間違いなければ、そうだよ。他人からほとんど認知されない存在感のなさ、それに他人を拒絶し続けるその態度。ボクはそれらに関係があると見た。と言ってもキミはそんな推察自体が鬱陶しくて仕方無いんだろう?」

「……」

 僕はアグネスをキッと睨み付けた。

「おうおう怖い怖い。……それにね、キミにとっても悪い話ではないはずだ。キミは自身がそんな風になってしまったという理由くらいは知りたいはずだ。――つまり」

 アグネスはそこで一度言葉を止め、

「どうやってそれを手にするか、という事だよ」

 まっすぐな赤い目が僕をじっと見つめていた。

「なんてことはない。キミの能力を確かめたいだけさ。どうせ暇なんだろう?」

「……」

「ボクはキミに興味がある。この興味が薄れてしまう前に、ボクはキミをもっと知りたいと思う」

 僕は小さな赤毛の少女に引っ張られるまま、雨の中外に連れ出された。



 アグネスは外に出ると僕を連れて雨降る街をぐるぐると徘徊し始めた。僕は黙ってそれについていった。何分も歩いた後、アグネスは唐突に喋り出した。

「……うん、外で話をした方がいい。あそこではセナが突っかかるだろうから」

「……」

 僕が反応をしないでいると、

「キミは人から気づかれない、というのは本当かい」

アグネスは、出し抜けにそう問いかけた。

「……ああ」

 僕はぶっきらぼうに答えた。するとアグネスは、顎に手を当てて何かを考える素振りを見せた。つかの間の沈黙が、場を支配する。

「……どうしたんだ」

「いや……なんてことはない、ただの馬鹿げた妄想、空想だよ」

 アグネスはそう言い、また僕に質問をする。

「キミは本当に人間からもほとんど認識されないのかい?」

「……ああ」

「じゃあ、なんでボクはキミを認識できた?」

「……マリィとか言う女、いただろ。たぶん、あいつの所為だ」

 僕は答えた。

「ふむ……仲介人がいると、認識される可能性がある、と」

「……」

 僕が黙っていると、アグネスはにっこりと笑って、こう言った。

「そうか……なら、十分だよ。戻ろう」

「……この質問に何か意味があるのか?」

「あるとも。……もしかしたら、とっても重要な意味がある」

「それは僕に関することか?」

「そうだよ。それは間違いない。ところで」

「……」

 僕は答えない。

「キミは聖書を読むか?」

「……読まない」

 僕が答えると、アグネスは笑った。

「そうか、ならいいんだ」

 さらりとアグネスは言い切ると、元来た道を引き返し始めた。僕は釈然としない思いを抱えたまま、雨の中彼女の小さな背中を追った。



「ただいま戻ったよ、マリィくん。店番ありがとうね、客は来たかい?」

 中世の王室みたいな部屋に戻るとアグネスは、レインコートを脱ぎながらそう言った。応接用のソファに座るマリィの服装は出る前と少し変わっていて、先ほどスカートをはいていたのが今では黒いスキニーパンツになっているのだった。それだけで印象が大人っぽくなるものだと僕は思った。

「ええ。ブラウンさんがいらっしゃいました。ちゃんと代金も頂きました。……ふふ、彼らの目的は占いじゃなくて私の美しさなんですけどね」

 と言ってマリィは得意げに胸を張った。アグネスは呆れ笑いを浮かべる。

「キミはもう少し謙遜というものを憶えたらどうだい……」

「……マリィが店番をしてるのか?」

 僕が尋ねた。すると、アグネスが僕にタオルを渡しながら答える。

「ああ。彼女は社交性に優れているからね。ただの客にしておくには惜しいと思ったんだよ。それに、思わぬ固定客も増えたことだし」

「私の可愛さによってね」

 マリィがちろりと舌を出す。

「……君が同性に嫌われる理由がわかった」

 僕は呆れ気味にそう言った。

「え! なにそれ! ちょっと私に対して失礼じゃない?」

 マリィががばっと立ち上がって僕に抗議する。

「文字通り、失礼な事を言ったんだ」

「撤回しなさい! 今すぐ!」

 そんな風に僕らがいがみ合っていると、横からアグネスの声が入ってきた。マリィはそちらを振り向く。

「セナはどうしたんだい?」

「リビングで寝てます。なんだか疲れちゃったみたいです。画材も片づけてないみたいですし」

 アグネスは笑みをこぼした。

「ホントにセナは子供だな」

「ね」

「マリィくん、彼女を起こして、絵の具を片づけるよう言ってくれ。そして夕食にしよう。今日は美味しそうな惣菜を見つけたんだ。もちろん、キミも食べるんだよ」

 言い聞かせるように、アグネスは僕に告げた。



「……なんでコイツがここにいるんですか」

 セナは起きぬけ早々、僕に向かってそう言った。寝ぼけ眼が赤く腫れていて、そのむすっとした表情はいかにも不機嫌そうだった。黒い睫毛に黒い大きな瞳。

「まぁセナ、そうかっかするんじゃない。食事は大勢でとったほうが楽しいものだ。当然の事だろう?」

 アグネスがあやす様な口調で言うと、セナは目線を落としてポトフを口に運んだ。

「……セナは別にたのしくないです」

 セナがそう呟いたことを皮切りに四人の中に沈黙が訪れて、やっぱり僕という存在はいない方がいいんじゃないかなんて思った。だから誤魔化すように、グラスに入った水をぐびぐびと飲んだ。それは数秒間の事だったが、オレンジ色の灯りが食卓を照らす中時折響く皿とスプーンが触れ合う音と雨の地を打つ音だけを聞いていると、僕はいったいここで何をしているのだろうという気分になった。だがアグネスが作ったポトフの味は、それなりに旨かった。

「……キミは、この街に来てどれくらいかな?」

「……一か月くらいだ」

「その体質はいつから?」

 アグネスは僕の目を見て尋ねた。

「……わからない」

「ふむ……住むところはどうしているんだい?」

 アグネスの言葉に、僕は警戒する。

「……どうしてそんないろいろな事を知りたがる?」

 アグネスは、ぱちくり、と瞬きをした。彼女の紅い虹彩がゆらゆらと揺れた。彼女は気まずそうに頭を掻いて、上目づかいで僕に言うのだった。

「……いや、キミにボクとマリィの助手を頼もうかと思っていてね」

 僕は驚いた。

「何故僕なんかを助手に?」

「助手と言っても、これと言って特にやることがあるわけじゃない。むしろボクはキミという存在それ自体に興味があるんだ。影が薄くて今にも消えてなくなってしまいそうな青年なんて、マリィくんに勝るとも劣らないほどに珍しいだろう? ……おまけに美少年ときている」

「……!」

 目を見開いていたのは、先ほどまで黙ってスープを飲んでいたマリィとセナだった。

「仕事はこれと言って特に与えない。その代わり、この家に住むというのはどうだろう? マリィはここを毎日訪れるし、ボクにはそれなりに教養もある。キミという存在を解明する上で悪くない話だと思うんだが、どうだろうか?」

「……結構だ」

 僕は突き放すように言った。いろいろな点で、今日という日は異常だった。どうしてこれほど彼らは僕をそっとしておいてくれないのだろうか。いや、答えはわかっていた。僕という存在が異常なだけだった。

「……なぁ、キミ」

 僕の対面のアグネスが口を開いた。艶やかな赤毛が明かりに照らされている。

「なんだ?」

「どうしてキミは、そんなにも人との関わりを避けるんだ?」

 アグネスは僕の目を見つめながらそう言った。ルビーのような真紅の瞳。

「それは……」

 僕は何かを言いかけて、言葉に詰まる。

「それは?」

「……わからない」

 ただ、他人と交わるのが言い知れぬほどに恐ろしい。そんなこと、言えるはずもなかったけれど。

「……分からない、か。ますますキミは不思議な男だな。ボクはこれまでの人生で何度もキミのような人間を目にしてきた。つまり、他人と関わるのを避けようとする人間にね。だがね、そんな彼らの中の極一握りだが――ボクと仲良くなった人間もいる。そうした連中は皆、過去に人間関係において治癒できぬほどの傷を持っているのだ。そしてボクにそれを開示することで、ボクを親友だと認めてくれた。だが、キミは原因がわからないと言う。言いたくないではなく、わからない、と」

「……」

 アグネスはにっこりと微笑んで、僕に言う。

「ボクは、キミの症状に心当たりがある。キミのその原因不明の対人恐怖症も、ひいてはキミの過去それ自体を取り戻す方法にも」

「……」扉の、向こう側。僕が最も興味がある、古めかしい木製の扉が隔てる先。

「ひとまず、キミの名前を決めよう。いつまでもキミや彼と言うのではややこしい。そうだな……『クリア』というのはどうだろう。『過去』も『好き』も『個性』も持たないキミにぴったりの名前だ。異論はあるかい?」

「……なんとでも好きに呼べばいい」

 ぶっきらぼうに僕が答えると、アグネスはにぃっと笑った。

「そして、キミは今日からここに住むんだ」

「そんなのダメですよ。……一つ屋根の下に男女が住むなんて」

 抗議の声を上げたのは、マリィだった。隣にいるセナがうんうんとしきりに頷いていた。

「マリィくん、キミも随分と古風な考え方を持っているんだね。……キミが、もしボクと彼の間でそういう関係になるという危惧を微塵にでも抱いているとしたら、それは大きな間違いだ。というのも彼は恐らく性欲を持たない。合っているかな?」

「……ああ」僕は同意する。

「さすがだなクリアくん、ボクの見立て通りだ。キミは『好き』を持たないから、したがって性欲も希薄なのだろうという見立ては容易につく。マリィくん、だからここに彼を住まわせようと思うんだ。何か問題があるかい?」

「でも……」

 マリィはそれでも何かを言いたげだったが、やがて口を閉じて押し黙った。隣のセナは何事かを言おうとしてあわあわと口を動かしていたが、結局何事も言うことはなかった。

「……なに、問題は起きないさ。それにね、マリィくん。彼の事が正確にわかれば、キミのその症状を解消することにだって一歩前進するだろう。だからこそ、これは最良の手段なんだよ、きっと」

 そうやってアグネスが結論を下した。この女は何かを知っている。僕はそれを知りたく思う。ならこの関係も受け入れよう。構わないさ、構わないとも。





 僕が朝目を覚ました時、風景はいつも変わっている。ある朝は雨が激しく屋根を叩く音が僕の脳を刺激し、ある朝は頼んでもいないモーニング・コールが僕の神経を揺さぶる。だから、目を覚ました時に周りの景色が見慣れぬからと言って、僕はこれといって動揺するようなことはない。というより、僕はいつも同じ場所で寝起きするわけではないから、いつもと違う、なんていう感想は抱きようもないのだ。昔も僕は同じベッドで眠って、同じ朝を迎えていたのだろうけれど、そんな記憶は扉の奥に封じ込まれてしまっている。


 だけど、幼女が僕の上で眠っているのは、さすがに予想外だった。

 赤毛の幼女が、僕の身体の上で猫みたいに丸まっていた。小さく柔らかい重みが、僕の上に乗っかっていた。彼女は黄色いパジャマを着ていて、すやすやと寝息を立てている。そのあどけない無防備な寝顔は、彼女が昨日見せた理知的な態度とは全く相反するもので、見た目通りただの子供だった。

「……むにゃ」

 何事かアグネスがむにゃった。そういうところも含めて、ほんとに子供みたいだった。実際に子どもである可能性すらあった。僕はアグネスを上からそっとどかして薄い毛布を掛け、ベッドから立ち上がった。朝食の準備をしようと思った。


 僕がアグネスの家に住むようになってから、五日が経った。

 僕がここに住むことが決まったあの日、泊まっていたホテルから僕の数少ない荷物を取り出し、ここに持ってきた。僕には部屋が一つ与えられ、それはアグネスの隣の部屋だった。いくつからの占いの本や聖書が並べられた本棚があり、窓の外には降りつづける雨の様子があった。ベッドがありクローゼットがあり、一通りのものが揃ったシンプルな部屋だった。

「……ここに誰か住んでいたのか?」

 と僕は尋ねた。

「さぁね、どうだったのだろう。ボクも憶えていないよ」

 アグネスはぶっきらぼうに答えた。僕は多少の困惑を憶えながらも、

「……そうか」

 と答えたのだった。


「お、はようクリアくん」

 アグネスが目を擦りながらリビングに顔を出した。ふあと子猫みたいにあくびをして、ぐっと背伸びをした。僕は丁度作っていたサンドウィッチを皿に載せてテーブルに持っていった。パンにトマトと少し焼き目を付けたベーコンにキャベツが挟まれた、ごくありきたりなサンドウィッチだった。アグネスはそれを両手で頬張り、実に美味しそうにそれを食べた。

「……キミをここに住まわせて正解だったよ」

「そうかい。……ところで、どうして今日は僕のところで寝ていたんだ?」

「ふむ」

 アグネスはそう言うと、顎に手を当てた。

「……あれも一つの実験なのだよ。キミは本当に女体に興味がないのか、という類のね。考えてみればおかしな話じゃないか。我々には抗いがたい欲求として睡眠欲、食欲、性欲があるというのに、キミは性欲だけをなくしたと言う。だから、もしかしたら性欲が復活すればキミの失った『好き』という気持ちも取り戻せるかもしれないと思ったわけだよ」

「君自身の身体を使って僕を欲情させるために?」

 僕が言うと、アグネスはえへんと胸を張る。

「ふふん、そうだとも。ボクは確かにちっちゃいかもしれないが、胸は一応そこそこ膨らんでいるし、全体のラインもそれなりに女性的だ。キミが獣となってボクを襲う可能性も十二分にあった」

「……君もマリィに負けず劣らずのナルシストだな」

「そんな事はない。客観的事実だとも。それに顔もそれなりにかわいい」

 そう言ってアグネスはにっこりと微笑んだ。それは確かに可愛かったが、僕は呆れる。

「……僕が本当に襲ったらどうするんだ」

「なぁに、その時は大声をあげれば誰かが来るんじゃないのか。もし現場を見られても傍目から見ればキミがボクという幼女を襲おうとしているようにしか見えないわけだし」

 僕はどうにもアグネスの話が嘘くさく思った。

「幼女に見えるという自覚はあったのか……それで、結局僕のベッドにもぐりこんできた本当の理由はなんなんだ?」

「寒かったから」

 僕はいささか驚いたが、確かに雨しか降らないこの街の夜はひどく冷えた。

「……それだけか」

 アグネスはにっこりと笑った。

「うん」

「……もし僕が君を襲ったらどうするんだ」

 僕は呆れ気味につぶやくと、彼女は紅茶のカップを持ち上げながら答えた。

「キミに性欲がないのはまぁわかっていたし、多少あったとしても嫌がる少女を無理やり犯すような趣味はないだろう?」

「ないよ」

 僕が淡々と答えると、アグネスは言う。

「だからボクも安心してもぐりこんだんだ。ほら、開店準備をするよ。今日は土曜日だ、忙しくなる」



「占い師というのはね、とても簡単な職業なんだ」

 アグネスはそう語った。

「ある調査によるとね、高名で人気のある占い師が、一か月間占いの結果と全く反対の結果を客に言い続けたことがあるそうだよ。それでもね、その占い師の人気は全く変わらなかったそうだ。これはどういうことだと思う? クリアくん」

 僕は少し考えてから言った。

「……人々は皆二面性を持っている、という事か?」

 アグネスは惜しい、と言った。

「……半分正解だよ。人々の高名な占い師に占われたいと思う心理はね、つまるところ行先を探しているだけなんだ。自分では問題の前にどうしようもないから、わかりやすい指標が欲しいだけなんだよ。そこで大事になってくるのは占い師の演技力だ。つまり、相手の格好や言動、仕草を精緻に観察して、それっぽいことを言い当てるんだ。それだけで、客はこの占い師はすごい、と錯覚するわけだ。雰囲気に飲まれるとはこのことだね。そうなったら何を言っても当たっているように感じる」

「なるほど……相手の格好で何かを言い当てる、っていうのは具体的にはどうするんだ?」

 僕が尋ねると、アグネスは少し考え、

「たとえば……見た目と服装がきっちりとして、髪の毛もきちっと整えられた男が来たとするだろう。ボクの見立てではね、そういう男の八割は恋愛で悩んでいる。もしやけに饒舌だったりしたらほとんど百パーセントだね」

「へぇ……」

 僕は感心した。彼女の言葉はとても説得力があった。

「ボクがこういう喋り方をするのも、全部そういう事なんだよ。何もかも知っているような感じがするだろう?」

「……ああ」

「それもね、全部フリなんだ。知っているようでいて、本当は何も知らないんだ。それを客に悟られないと必死なわけだね。ボクなんかちっぽけな存在だよ」

 アグネスはそう言って、弱々しく笑った。



 昼過ぎになると、例によって黄色と水色のレインコートを着たマリィとセナがやってきた。マリィはキャミソールにジーンズという大変ラフな格好で、けれども気品を損なうようなことはなかった。隣のセナは、今日は花柄のワンピースで、その体に不釣り合いなほど大きなカバンを持っていた。マリィが僕らに挨拶をする。

「こんにちは。アグネスさんに……クリアくん」

 アグネスは、待ちかねていたかのように目を大きくする。

「おお、やっと来たかマリィくん。……ではあの作戦を決行するとしよう」

「ええ……またやるんですかアレ」

 マリィは苦い顔だ。

「……いったい何が始まるんだ?」

「見ていればわかるのだよクリアくん……さあ、マリィくんソファに座りたまえ」

「はぁ」

 マリィはソファにちょこんと座った。

「少し興味があるから、僕も部屋の中で見ていていいか?」

 僕がマリィに尋ねると、マリィは不思議そうな顔をする。

「……あなたってそんなところにいても気づかれないの?」

「……そうだな」

「なんてったって半裸で絶叫しても気づかれないんだからね」

 アグネスが茶々を入れる。

「なんですかそれ、信じられないくらいにキモいんですけど……」

 今度はセナがぼそりとツッコミを入れた。変質者を見るような目だった。

「半裸で絶叫なんてしたの? クリアくん。それでも気づかれないなんて、存在感たりてなさすぎじゃないかしら? 私の余ってるから分けてあげるわよ?」

 マリィが憐れむような目で僕を見ていた。

「さりげなく自慢を入れてくるのが君らしい」

 マリィはふっと笑うと、くるっと指をこちらに向けた。彼女の金髪がふわっと揺れる。

「それじゃ……見ていなさい。私の占い師としての実力をね」



「こんにちは」

 ドアが開き、朗らかな声で入ってきたのは、黒いレインコートの黒人のお兄さんだった。背が高く体格ががっしりとしていて、なんだかそれは傭兵を思わせた。

「まぁ、今日もいらしてくれたんですかブラウンさん!」

 マリィが大げさに目を開いて、喜びを表現した。もちろん今のマリィは着替えていて、占い師らしい紫色のローブを身にまとっている。確かにそれは、大魔導師だと名乗られてもおかしくないほどのミステリーさと、美しさをほこっていた。

「いやぁ……今日も、君の顔が見たくてね」

 ブラウンと呼ばれた男は頭をかきながら、照れたように顔を赤らめてそう言った。

「まぁ……ありがとうございます! では、今日もいつもの占いでいいでしょうか?」

「ああ、構わないよ」

「では、私の前のソファにどうぞ」

 マリィはブラウンをそこに招くと、自身のポケットの中から黒いカードを取り出した。マリィは、そのカードの束を二つに分けては入れ替えて重ね、その手順を繰り返した。世間で言うところのシャッフルというやつだった。

「ブラウンさんのお悩みは、仕事の悩みで間違いなかったですよね?」

 マリィが真摯な瞳で問いかける。ブラウンは頷いた。

「はい……上司と、最近うまく行ってないんです。だから、助言を頂ければと」

「なるほど」

 マリィはシャッフルしていたカードをテーブルの上に置いた。じっとブラウンの目を見つめて、その心に話しかけるように一言一言、言葉を紡いでいく。

「この占いは神に問う儀式なので、準備が必要です」

 マリィはテーブルの端においてある赤いキャンドルを手繰り寄せると、マッチでそれに火をつけた。ぼうっと明かりがついて、あたりにいい匂いが立ち込める。

 マリィが次いで取り出したのは薄く白い布だった。しっとりと湿っている。

「これで手を拭いてください」

 ブラウンは、言われたとおり、丹念に手を拭いた。マリィも別の布で自身の手を拭く。そして、もう一度カードに手を付ける。

「このカードはブラウンさんの現在と、未来を占うものです」

 マリィはそう言うと、金色の指輪を付けられた細い指で、一枚をテーブルの右側に、もう一枚をテーブルの左側に置いた。確か、これはタロット占いというものだ。出たカード、それが正位置にあるのか逆位置にあるのかによって、相手の現在と未来を占う。

「では、ブラウンさん。左側のカードをめくってください」

 マリィがそう告げ、ブラウンがその大きな手でカードをめくった。そこに現れたのは、玉座に腰かける王、その前に鎮座する二頭のライオン――『戦車』のカード。位置は、正位置。マリィはブラウンの顔を見て笑った。

「――ブラウンさん。良かったですね、あなたは現在それほど悪くない立場にいます。あなたが携わっているプロジェクトを進めるうえで一番大事なのは、堅実に仕事を進めていくことです。上司との馬が合わなくても、一旦は我慢して現在の仕事の完遂に向けるべきでしょう。それに、普段からいろいろなところに目を向けてみるべきです。そうすれば、新たな発見があり、それがあなたの仕事とをより良いものにするでしょう」

 マリィの好意的な意見に、ブラウンはホッとしたような表情を見せる。目がキラキラと輝いている。

「そうですか! それはとても心強いです……なるほど、新たな視点ですか。これから気を付けていきたいと思います」

 ブラウンの言葉にマリィはにっこりと微笑み、

「では……未来のカードを、めくってください」

 ブラウンはゆっくりともう一枚のカードに手を伸ばした。筋張った指が、ぺらり、と彼の未来を占うカードをひっくり返す。そこに現れたのは、真っ白い円、青い空――『太陽』のカードだった。

「これは……!」

 ブラウンの顔が輝く。

「……」

しかし、マリィの表情は浮かなかった。まるで恐ろしい物を見たかのように、目を見開いている。彼女はまるで自身を落ち着けるように、ひどく冷静な声色で言う。

「……ブラウンさん、落ち着いて聞いてください。このカードは確かに『太陽』ですが、逆位置なんです」

 逆位置。タロット占いでは、いい意味のカードは正位置で良い占いが導かれ、悪い意味のカードは逆位置で良い効果がもたらされるとされている。つまり、幸福の象徴である『太陽』の逆位置とは……? 悪寒が走った。マリィは、ふぅと息を吐き、ブラウンの瞳を見つめる。そして諭すように、ゆっくりと声を出していく。

「太陽とは昔から、常に私たちを支配してきました。食べ物、睡眠、気温に至るまで……ですから、太陽のカードには『不可抗力』である、という意味合いが込められています」

「それは……?」

 唖然とした様子でブラウンが聞いた。

「ブラウンさん、これは大変言いづらいことなのですが……」

 ごくり、とブラウンが唾を飲む。

「事態は思った以上に深刻です。『不可抗力』――つまり、あなたの努力や意志や行動を全てないがしろにしたうえで、計画が総崩れする可能性がとても高い。それも、そのあなたとうまく行っていないという、上司の手によって」

「なんだと……!」

 ブラウンは目を見開いた。

「……これも運命の定めなのかもしれません。でも、まだ何とかなる可能性はあります、これを身に着けていただければ――」

 マリィはそう言うと、椅子の後ろから四角い箱を取り出した。中を開けると石で出来たブレスレットが姿をあらわす。丁寧に作られた装飾品のようで、見るからに高級そうな輝きを持っている。僕は勝手に得心した。



 バタン、とドアが閉まって、ブラウンは出ていった。多額の金をテーブルの上に置いて。

「ふははは! よくやってくれたマリィくん! キミは相変わらずいい働きをするじゃないか! ふははは!」

 高笑いをするのはアグネスだった。テーブルの上に置いてある札束を数え、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべている。

「あの男、なかなか良い金ヅルになる可能性があるな……マリィくんのこれからの活躍に期待というものだね、ぐふふ」

 そんな様子のアグネスを見て、マリィははぁと嘆息する。

「だから嫌なんですよ、これ。騙してるみたいじゃないですか」

 マリィはそう言って、先ほどのタロットカードの束を裏返して僕に見せる。そこにあるのは、『戦車』『太陽』『戦車』『太陽』……。

「詐欺じゃないか!」

 僕の絶叫に、アグネスは胸を張る。

「ふふん、キミも見ただろう。ブラウン氏のあの満ち足りた表情……彼はきっと仕事がうまく行くに違いない。マリィはちゃんと彼を救済したのだよ。それにあのブレスレットもそれなりに良いものだ。ボクら占い師は彼を幸福に導いたのさ……!」

 怪しげな笑顔でアグネスは告げる。僕も何故かそんな気がしてしまう。

「幸せならそれでいいのか……」

「いいわけないでしょ!」

 横からマリィの冷静な声が刺さった。

「人をだますのはよくないと思いますよ、アグネスさん」

 どこからか現れたセナも、冷ややかな目でアグネスを見つめている。しかしアグネスの勢いは一向に止まる気配を見せなかった。

「そんなことはない! キミたちにもやがてわかる日が来る。お金の素晴らしさをね! お金があれば何でもできるという名言は君たちもよく知っているだろう!」

「だけどやっぱりだますのはダメっ!」

 またしてもマリィが反論した。

「ふん、そんなキミもやがては金の魅力に堕ちていくのさ……」アグネスはにやりと笑った。それに対してマリィとセナがまた反論する――。

 

 そんな風にみんなが楽しげな口げんかをしているのを見て、僕はずいぶんと、ずいぶんと久しぶりに――幸福な気持ちに、なっていた。それは今まで――ここに来てから一か月間ずっと――かちかちに凍っていた僕の心をじっくりと温め、やわらかに溶かしだすような類の幸せだった。そもそも、ここ一か月間誰とも喋らずに雨の中一人でこの街をうろついていたのだ。旅をしている間僕は人間一人でも生きていけるものだなとずっと思っていたし、その考えの半分くらいはまだ変わっていない。

だけど――他人と交わることも、悪くないな、と思った。

人は一人では生きていけないんじゃない。生きていく限り、他人と関わらざるを得ないのだ。そうしてかかわり、仲良くなって幸福を手にしてしまう。ほんの少しでも、相手に対する好意が芽生えてしまう。それは、今の僕のように。じんわりと僕の全身を幸福感に包み、このままずっとこうしていたらいいのに、と珍しくも僕は願った。『個性』も『過去』も『好き』も持たない僕が持った願い。そんな――不完全な人間の願いだったからかもしれない。こんな僕だから――どこかに見落としていたのかもしれない。


 すぐそこに水たまりは在って、僕はそれに気づかずに、あっさりと足を取られる。


 レインコートを着ていてなお、俯かなければ歩くことができないほどの大雨だった。僕は、コートの中にある食材を持ちなおすようにきゅっと抱いた。勢いの激しい雨粒が打ち付けるように僕の服を叩き、僕の背中を叩いた。道行く人々は、無表情に足を急がせ雨の届かない屋内へと入っていった。僕は例によって怪しげな裏路地に入り込み、今では僕の宿泊先でもある占い師の家を目指した。遠くの方で雷が重く轟き、カラスがバサバサと音を立てて飛んで行った。空は暗雲に包まれていて、その雲は世界の果てまで続いているように見えた。冷ややかで温もりの欠けた、この街の日常だった。

「ただいま」

 僕がドアを開けて入ると、応接室にアグネスの姿はなかった。中は明かりもついておらず、埃が積もって閑散としていた。そこで僕は、今朝アグネスが具合を悪そうにしていたのを思い出した。買ってきた食材を食卓の上に置いて、僕はアグネスの部屋を目指す。

「……?」

 古いドアが軋むような音を立てて開き、僕はその中をのぞいたが、そこには誰もいなかった。僕は首をかしげ、声を上げた。

「アグネスー」

 返事はない。聞こえるのはザアザアと激しく降り続く雨の音だけだ。僕は何だか嫌な予感がして、他の開いている部屋を乱雑に開けていく。しかし、どの部屋にもアグネスはいなかった。僕は最後に、僕の部屋のドアを開け放った――ようやくそこに、アグネスの姿はあった。

 僕は息を飲む。彼女は、文字通り死んだように眠っていたからだ。

 顔はうつぶせになっていて、その表情を見ることは出来ない。ベッドからはみ出た左手は力なくぶら下がっていて、作り物かと思うくらいに生気がない。微かに背中が上下していることから、ようやく眠っているのがわかるくらいだった。

「アグネス……どうしてこんなところで寝てるんだ。自分のベッドで寝ろっていつも――」

 僕はアグネスの身体を起こして揺さぶった。こうすれば起きるだろうと思ったが、アグネスは目覚めなかった。ただ、僕の揺さぶりに応じて髪の毛がだらしなく流れ、ふらふらと頭が揺れるだけだった。頭を上げる事もなかった。

「……?」

 僕は不審に思い、アグネスの身体の脇腹を何度もつついた。彼女はこうすると必ず起きるのだ。突くたびにいつも全身をびくんと震わせるのがアグネスの特徴だ――。

 だが、僕が何度もアグネスをつついても、彼女は微動だにしなかった。

 冷や汗が流れた。僕はきょろきょろと周囲を見回す。僕はそこであるものを発見する。机の上にある水の入ったグラス、空っぽのビン――

 僕は立ち上がってビンのラベルを確認する。『イソミタール』睡眠薬だった。

「……!」

 すぐさま僕はアグネスの小さな体を抱え、トイレへと直行した。乱暴にアグネスの口の中に指を突っ込み、胃の内容物を吐かせる。大量の錠剤が吐き出され、アグネスは目をつむったまま苦しそうに何度も咳をした。僕は何度も彼女の小さな背中を叩いた。アグネスはゼェゼェと荒い息を繰り返した。





 アグネスを自身のベッドに寝かせ、僕はかねて彼女自身が言っていた緊急用の医者に電話をかけ、すぐ来てくれるように言った。白髪のその医者はすぐ駆けつてくれたが、その表情に驚きの表情はなく、呆れの色が浮かんでいた。彼がアグネスに対し簡易な診療を行った後、僕は、彼女はこういうことがよくあるのかと問うた。すると、月に一度ほどのペースで、と彼は答えた。

「入院の必要は?」

 僕が問うと、医者はあくまで淡々と答えた。

「ない。君の処置は十分だ。多分その内目を覚ますだろう」

「……よかった」

「では、私は帰るよ。体調には気を付けるよう言っておいてくれ」

 そう言って医者は黒いレインコートを羽織り、土砂降りの中外へ出ていった。それはあまりにも淡々としていたから、僕は心中怒りを覚えずにはいられなかった。いったいどうしてアグネスがそんなぞんざいに扱われなきゃならないんだ?

 僕はベッドに横たわり、すうすうと寝息を立てるアグネスの姿を見つめた。この時ほど彼女が小さく、幼く見えたことはなかった。彼女は誰かの小さな悪意によって儚く消えてしまう気がした。僕には何もわからなかったし、これ以上出来ることもなかった。だから僕は考えた。どうしてアグネスは死のうとしたんだ、と。彼女が起きればすぐにそんなことはわかるというのは僕にもわかっていたが、けれども考えずにはいられなかった。こんな小さな身体を何が苦しめているのだと僕は思った。

 アグネスが目を覚ましたのは、その日の真夜中だった。その時にも相変わらず雨は降り続いていた。

「……クリア」

 ぼそり、か細い声でアグネスはつぶやいた。慎重に耳を澄まさねば聞こえないほど小さな声だった。

「起きたのか」

 見ると、アグネスの顔はやつれ、目の下に大きな隈が出来ていた。

「……ボクは、またやってしまったのかい」

「……」僕は返事をしなかった。

「キミには……話していなかったね。ボク自身の特異体質、いや……これは、ただの呪いだろうね」

 アグネスはぼそぼそと話す。

「僕がいなかった時は、誰が君を止めていたんだ?」

 僕が尋ねると、アグネスは自嘲気味に笑った。いやに弱々しい笑いだった。

「もう、忘れてしまったよ……キミが来る前、ここには確かに誰かが泊まっていたんだ。そして、出ていった。だけどね、もう名前も思い出せないし、男なのか女なのかもわからない。この街にいると、なんでも忘れていってしまう……。その人は、ボクが死のうとするたびに、ボクを止めてくれた。そして、その人がいなくなった最近は、とても危なかったんだよ」

 僕は驚いた。

「だから、僕にここへ泊まるように言ったのかい」

 アグネスは首を横に振る。

「もちろん、キミ自身に対する興味もあった。……だけど、どうか気を悪くしないでくれ。ずっと伝えずにいたことは謝ろう。だが僕も、今のような幸福な日々が続けば発作は起きないだろうと思っていたんだ……キミと、マリィと、セナがいる日々なら、とね。だが、結果はこのザマだ……迷惑をかけてしまって、すまない。本当に……すまない」

 アグネスはそっと、僕の背中に寄りかかった。

「怖いんだ……ある朝起きたらボクがいなくなってるんじゃないかって……っ!」

「……」

 僕はむせび泣くアグネスの声を背中から聞いていた。その間僕は何も喋らなかったし、何も聞かなかった。雨は無機質に窓を叩いていたが、雷はもうやんでいた。僕はぼんやりとした気分になって、腰に回された子供みたいな細い腕を考え、そして自身の境遇について思いを馳せた。アグネスという少女は、僕が思っていた何倍も、脆かった。それは、力を抜けばすぐにでも崩れ去ってしまうほどに。だからこそ、彼女は自身を世界につなぎとめる何かを必死に求めていたのだ。痛切に、激しく、自身の存在の意味を問うて、誰よりも満たされたがっていたのだ。幸福を、求めていたのだ。だからこそ彼女は弱い。


「クリア……頼みがあるんだ、聞いてくれるかい」

 アグネスは僕の隣に座って、上目づかいで問いかける。僕は無言で頷いた。





 僕らは土砂降りの中外へ出た。辺りはもう真っ暗で、さみしげな街灯がぽつんと街路を照らしているだけだった。聞こえてくるのは雨の音と僕らの硬い足音だけで、まるで僕らだけが世界から隔絶されているような風だった。一か月ほど前、僕が一人でこの街をさまよっていた時、よく思った感覚だった。

「僕らはどこに向かっているんだ?」

 僕がアグネスにそう問いかけると、アグネスはこちらを見て曖昧に笑った。どこか悟ったようなその笑みに、僕は困惑する。そんな僕を勇気づけるかのように、彼女はきゅっと僕の手を握った。小さくて、ほんの少しだけ温かい手だった。

 アグネスは、この街の更に古びれたところへと向かっているようだった。周囲には枯れ果てた廃屋が立ち並び、コンクリートが腐って崩落した教会なんかがかろうじて目に入った。周囲の空気をどれだけ手繰り寄せても、それが人の気に触れることはまるでなかった。それこそ、死の区画という表現が最もそれらしい、闇と泥で出来た場所だった。僕の中には積み重ねるように疑問が溜まっていったが、僕はそれを敢えて聞かなかった。決して聞いてはいけないような気がしたからだ。だから、僕らは一言も会話を交わさなかった。


「……着いたよ」

 アグネスは呟いた。そこは、この街の端っこ――隣町を隔てる丁度境界その直前だった。だが、そこの風景は――文字通り、異常だった。

「これは……!」

 僕は目を見開く。そこにはおおよそ現実世界だとは思えぬ光景が広がっていた。

 廃屋、ほったらかしの道路、ちかちかと点灯する電灯。ここまでは何の変哲もなかった。明確な異常、それが見受けられたのはただこの一点、この街を囲う塀だった。そのあまりの異質さに僕は呆然とする。――塀それ自体がまるで水銀みたいにぬらりと揺らめき、ぼこぼことのたうっていた。鏡のような様相を呈するそれは、ぐにゃりと歪んだ僕らの姿を映しだしていた。絶えず流動的に動き続けるその液体の壁は、僕に立ってはいれないほどのめまいを起こした。

「やはり、キミにも見えるのか」

 僕の動揺をアグネスは全く意に介さずに、淡々と言った。

「……君にも?」

 僕はふらふらとしながらこめかみに手を当てて、がくりと膝をつく。

「……キミが見ているこの幻惑のような何かはね、どうやら一般人には見えないらしいんだ」

「どうして、そんなことがわかるんだ?」

「……ボクが何年この街にいると思っているんだい。と言ってもね、ボクやキミ、そしてマリィくんだけがこんな風にこの壁を見えるわけじゃないんだ。……そうだね、この街に住んでいる人間の約半数はこの壁を見ることができるだろう。でも、見ようとすら思わないのが九割だ」

 突然話を始めたアグネスに、僕は当惑する。

「何を言おうとしているんだ?」

 僕が問うと、アグネスはまた笑った。さっき見せた、曖昧などこか悟った笑いだった。僕はその笑顔を見て、何故か悲しい気持ちになる。

「簡単な話だよ。……この街は異常なんだ」

「雨が、やまない事がかい?」

 アグネスは、何かを諦めたように首を横に振った。彼女の赤毛から滴が垂れている。

「……それだけじゃない。ありとあらゆる点において、この街は異常なんだ。それはつまりね、キミの存在にも表れているし、マリィくんの存在にも表れている。そして当然……ボク自身にもね。ボクらはどこか欠けているんだ。人格形成における大事なパーツを、生きていく過程の内に落っことしてしまったんだよ。それが、結果としてキミやマリィくんの体質を生み出してしまった。この街の持つ、魔力によって。だからキミにもマリィくんにもセナにも各々の、トラウマがある。心の奥底に沈められてしまったトラウマが、ね。キミの場合はわかりやすく扉の向こうだ。他の二人は……自身が気づけないほどの深みにしまいこんでいるんだろう」

 アグネスの言葉に、僕は目を開いた。僕と、セナと、マリィのトラウマ。

「そしてもちろん、そのトラウマはボクにもあった。ボクの場合はもう思い出しているのだけどね。でも今、その話をするつもりはない。大して意味のない話だし、ボク自身あまり話したくないんだ。

 ボクは生きることに疲れてこの街にやってきた。いつだって死んだって構わないと思っていた。ああ、今日はひどく天気が悪い、雷がボクの家を直撃すればあっさりと死ねるのに、とか、仕事がうまく行かないから死のうか、もしくは死神か何かがボクを眠っている間に痛みなくボクの首を切り落としてはくれないだろうか、なんてね。そんな日々の中、ある人がボクを生かすように強く説得した。それは……確かボクの友人だったように思う。だけどね、ボクは最初その人が喋るのを聞いてますます死にたくなった。生きていたって何かいいことがあるわけじゃない。ボクが今死んだって死ぬのが四十年だか五十年だか早まるだけじゃないか、そんな無為な人生を過ごしてなんの意味がある? ないだろう、無いに決まっている、ってね。

 だけどね、その人はまるで諦めなかった。その人は沈んでいるボクをしょっちゅう構った。ある日は散歩に誘い、雑談に誘い、食事に誘った。自殺志願者であるボクを説得しようとする奴は少なくなかったが、その人はその中でも飛びぬけてしつこかった。そんなその人の熱にほだされて……段々とボクも、少しは生きてみようかな、なんて思ったんだ。それはね、ボクが本当に久しぶりに手に入れた希望だったんだ。でも、すぐに突き落とされた。

その時になって、ボクの体質は具現化した。最初の発作の時はね、ガスコンロをつけっぱなしにした状態で、首を吊ったんだ。運よくその人が丁度ボクの家を訪れて死ぬことはなかったが、こっぴどく怒られたよ。ボクが死ぬつもりはなかったと言うと、その人はそんな危険な精神状態では危ない、と言ってボクの家に住み始めた……これが、キミが今いる部屋に、前いた人物のことだよ。……何か質問はあるかい?」

 僕がない、と答えると、アグネスはふう、と息をついた。そして僕を見る。その視線はさっきよりしっかりとしていて、僕は少し安堵する。

「……ここまで語っておいて、ボクがキミに言わなければならないこと。それはね、ボクがその人の事をもう――ほとんど忘れてしまっている、ということなんだ。あれだけボクによくしてくれたのに、ボクはその人の顔はおろか、声も性別も名前も何も思い出せない。どんな風に喋り、どんなものを好み、どんな風にボクと接してくれたのか――何もかも、思い出せないんだ。ボクはそれを申し訳なく思う。……とても。

だけど、ボクはこれ以上キミにヒントを与えることは出来ない――それはね、どうしても出来ないんだ。それにボクは、ここをなんとかして出たいと思っている。この異常な街から」

アグネスはそう言って、鋼色の液体で出来上がった壁を眺めた。

「……」

 アグネスは一歩ずつゆっくりと踏み込み、壁にそっと手を触れた。銀色の液体の中にアグネスの細い指が呑みこまれる。そのままそっと腕を埋めていく――

「やっぱり、ダメか」

 アグネスは舌打ちをした。銀色の壁の丁度右側から、小さな人の腕が生えていた。僕はぎょっとする。

「……そう驚くことはない。ここから出る資格のない者はこんな風に突っぱねられるんだ」

 アグネスは銀色の壁に体を沈み込ませ、同時に右側から姿を現す。ここを突き抜けようとすると、全く同じ場所に戻ってしまうらしいのは、今のを見れば明らかだった。

「これは、いったい……」

 僕は呆然として呟いた。

「ボクにも、わからないよ。本当に何も……わからない事だらけだ。少しでもわかるのは、正常な人間には、これが見えないという事。見える者は、ここから出られないという事だけだ」

「僕も、ここから出られないのか?」

 僕が問うと、アグネスはこちらを見る。そのあまりの表情の真剣さに僕は息を飲む。

「それも……わからない。だから……これが、最後の頼みだ。次はない。キミへの、最後の頼み――繰り返すが、次はない」

 アグネスは、僕に近づいてそっと手を取った。アグネスは僕を見上げる。雨粒がいくつも彼女の大きな紅い瞳に零れ落ちる。だけど彼女は瞬きもせずにじっと僕を見ている。恐ろしいほどに真摯な瞳だった。

「……一緒に、来てくれないか。キミがいれば、ここから出ることができるような、そんな気がするんだ。だからボクと一緒に……この鋼ののたうつ壁を、ともに歩んでくれないか?」

 アグネスは僕の右手を両手でつかんで、静かに頼んだ。何故だか僕は、泣きそうになる。

言うまでもなく、僕にとってアグネスは恩人だった。彼女は、冷え切ったどこにでも落ちている石ころのような僕に、彼女はしっかりと抱いて温かみを与えたのだから。僕はアグネスに対して心の絆のようなものを少なからずに感じていたし、それは彼女も同じだったに違いない。なら、断る理由なんてなかった。

「……構わないよ」

 僕が答えると、アグネスは嬉しそうにぱあっと笑った。花が咲いたようだった。

「じゃあ、行こう」

 アグネスはぎゅっと強く僕の手を握った。その手は緊張からか、静かに震えていたが、あたたかかった。

 一歩、一歩ずつアグネスが水銀の壁に接近していく。そして、人差し指が水銀の壁に触れる――壁に小さな水面が出来る。アグネスは手を押し込んでいく――

「……やった! 手が、押し返されない!」

 僕はすぐに右側を見た。そこには誰の手もない。アグネスは、この壁を通ることに成功したのだ。――アグネスは喜色満面になった。目をキラキラと輝かせ、こらえきれずに笑みをこぼした。アグネスは水銀の壁に今度は顔を突っ込んだ。そして、がばっと戻って僕を嬉しそうに言う。

「すごい! 向こう側は雨が降っていないんだ! やっと……やっと、太陽を見れる日が来るんだよ! やっとだ! ついにボクはこの街を出ることができるんだ。……あの人に、会いに行くことができるんだ!」

 と言って、彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねた。

「さぁ行こうクリア。こんなところ早く飛び出してしまうんだ――」

 アグネスはぐいぐいと僕を引っ張り、自身と共に水銀の壁の中に腕を入れようとする。僕の右腕が壁の中に入った、丁度、その時。アグネスの表情が真っ青になった。彼女は、あるものを見てしまったから。それは、水銀の壁から飛び出ている一本の腕。そう、それは紛れもなく、僕の腕だった。

 はじけ飛ぶようにアグネスは後方に吹っ飛んだ。

「アグネス!」

 僕はアグネスに駆け寄って、倒れるその小さな身体を抱き起こす。

「おい! 大丈夫か!」

 僕がアグネスの身体をさする。体が揺れるばかりで、反応が無い。眠ったまま動かなかったアグネスを思い出し、嫌な予感が体中を駆け巡る――が、アグネスは生きていた。右手でレインコートのフードを深くかぶり、表情を隠したのだ。桜色の唇だけが動いて、言葉を紡ごうとする。声のトーンは暗闇に小石を落としたように虚無的だった。

「……そう、かい。…………………………そう、なのか」

 そしてアグネスは――あろうことか、そこで、ひっく、ひっくと笑いだした。肩が激しく上下し、右手で自身の顔を抑えている。

「……分かっていたんだ。こうなる確率が高いことだって、ボクにははっきりとわかっていた……だけどさっきも言ったように、これはボクの最後の頼みなんだ。もう…………ボクは疲れ切ってしまった。気力なんてこれっぽっちも湧かないくらいに……。帰ろう、クリア、無理を言ってすまなかった。家に……帰ろう?」

 そう言って、アグネスは僕を見た。フードがはらりと零れ、彼女の美しい素顔が露わになった。僕ははっとする。アグネスは笑いながら――目の端に小さな涙を溜めていた。

「ほら……帰るよクリア。仕方ないさ、君が出られないんじゃ意味がない」

 だが、それは一瞬の事だった。だからそれは僕の幻想だったのかもしれないし、もしかしたら雨の中で見た僕の錯覚だったのかもしれない。そんなことは永久にわからない。ただ、アグネスはさっきまでの動揺ぶりがまるでなかったことであるかのように、落ち着いた様子で僕にそう言うのだった。

「……ああ」

 僕も、少し反応が遅れる。だから、アグネスは笑う。屈託なく、にっこりと。

「なに、キミが気にすることじゃない。元はと言えばボクのワガママが発端なんだ。ボクのワガママさにはキミだってよく知っている事だろう? ふん、キミを無理やり家に泊めたりキミの布団に入ったり散々したが、そんなことは当たり前だと思ってくれたまえ。なんて言ったってボクは占い師なんだからな! そのくらいは保証されてしかるべきだろう? それにねクリア――」

 そうやってアグネスは唐突に喋りはじめた。心配するな、大丈夫だ、ボクはこんなことでめげやしない。キミに心配されるなんてもってのほかだ――僕は最初、彼女がついにおかしくなったんじゃないかと疑って、何度も彼女の顔をじろじろと見た。だけど僕は、そこに強がりや虚栄心のようなものを微塵にも見つけることは出来なかった。彼女はこうして僕と喋れる瞬間をとても楽しそうに、優しくなでるみたいに愛おしそうに過ごすのだ。そこに先ほど彼女を襲った悲哀の情はすっかりと姿を消して、逆に何かを悟ったかのように安心して笑うのだ。僕はアグネスの話に相槌を打ちながら思わずにはいられなかった。おい、どうしてそんなに楽しそうに笑うんだ。街の外に出られなくて悲しくないのか? “あの人”に会わなくてもいいのか? どれだけ疑問に思ってアグネスの表情を見ても、彼女はあまりに落ち着いて、まるで悩みなんかまるでないみたいに笑うのだった。……君は、いったい何を思っているんだ?

 アグネスはそれから家に帰るまでずっと、何かを埋め合わせるみたいに喋りつづけた。

 翌日の昼。家に客人が来た。占い師は、今日は休業になっていた。

「こんにちはー……あれ、今日は休業なのかしら? アグネスさんは?」

 僕の返事を待たずにドアから顔をのぞかせるのは金髪のロングヘア、コバルトブルーの瞳、マリィだった。その後ろには黒髪のセナもこちらを見ているのがわかる。僕は昨日のアグネスの話を思い出す。彼女たちにも抱えているトラウマが、あるのだろうか。

「ああ、ちょっとアグネス、体調を崩したんだ……」

 僕は言いよどむ。彼女たちに事の次第を伝えてもいいものか。

「あら、大変じゃない。お見舞いしましょ、セナ」

 マリィの言葉に、後ろで「うんっ」と返事をする声が聞こえる。

「あー、すまないけど……少し散歩をしないか」

 僕はマリィ達を外に誘い、アグネスの話をすることにした。なんとなく彼女たちにも伝えておくべきだと思ったし、僕一人で抱え込むには少々荷が重すぎた。

 僕は黒いレインコートを着て、マリィとセナと街の中を歩き回った。そして昨夜起こった出来事をかいつまんで説明した。といってもすべてを話したわけではなかった。アグネスがこの街を出ようとしたこと、それに伴って僕に伝えた彼女の過去は、アグネスの許可なく伝えてはいけないと思い、結局僕はアグネスの自殺衝動について、そしてそれが昨日発作となったという事を告げた。二人は驚いた。

「アグネスさんがそんな体質だったなんて、知らなかったわ……」とマリィ。

「あれ、それじゃ一人にしておくのはまずかったんじゃないですか?」

セナが僕に尋ねる。セナは僕と少し会話する程度には、心を開いてはくれていた。けれどもそれは決して関係が友好であるという事を表すわけではない。

「いや、なんだか日記をつける、って言っててな。絶対に入るんじゃないぞと、強く念を押されたんだ」

「ふーん……日記、ねぇ」

 マリィは顎に手を当てて、意味ありげな呟きを漏らす。

「日記がどうかしたのか?」

「こないだね、本屋さんに行った時に見たのよ」

「アグネスをか」

「違うわ。アグネスの――書いた本を、見たのよ。アグネス・フロイントって背表紙に書いてあったから、びっくりしちゃって。調べたわよ、そりゃもう」

「アグネスが書いた本が、売ってた!?」

 僕は驚いてマリィの顔を見つめた。

「そうよ。何十冊も小説を出しててね、特に新人の頃はよく売れたんだって。最初に出した本はめちゃくちゃ売れて、重版、重版を繰り返して大ヒットのベストセラー。それに続く二作目も飛ぶように売れて――でもね、気づいたら、売れなくなったんだって。本屋の人に聞いたらね、その人も疑問に思ってアグネスの本を読んだそうなの。そしたら、彼女の後に出た本はどんどん初めの頃にあった勢いを失っているようだ、って言ってたわ。……ねぇ、これってきっとアグネスさんのその自殺衝動と関連があると思うんだけど、そうは思わない?」

 マリィの言葉に、しばし僕は呆然とする。アグネスの自殺衝動と、その理由。アグネスが抱えていた、僕に話したくないと言った、トラウマのその根源。

「そう……だな、そうかもしれない」

 僕がぼうっと溶けるようにそう答えると、マリィはじっと僕の目を覗き込んだ。

「……ねぇ、クリア」

 僕が目をそらそうとすると、マリィは僕の頬を両手で持って、ぐいと目線を合わせてくる。

「私を見なさい。美しいこの私を」

「君はな……」

僕は呆れて言いかけて、息を飲んだ。彼女の沈み込むような深い蒼の瞳が、僕を釘つけにする。その目はまるで僕の胸の内側をじっとのぞいているかのようだった。薄いピンク色の唇が動いた。

「……元気、出しなさいよ。アグネスがそんな風になってクリアが辛いのは、私だってよくわかるわ。だって、話を聞いただけでこんなに気分が落ち込むんだもの。アグネスさんがそんな状態だなんて、私だっていても立ってもいられなくなる……でもね」

 彼女はもう一度僕を見る。僕の心をわしづかみにするような真摯な瞳だった。

「一番つらいのはね、間違いなくアグネス自身よ」

 言葉。僕の胸の内に響く。マリィの言葉が、僕を揺さぶる。

「だから、あなたはどれだけ辛くても笑いなさい。気丈に、陽気に、頼りがいがあるように――間違っても今みたいな陰鬱な表情をしてはいけないわ。アグネスの心配の種が増えるだけよ。それは結果的に、事態の悪化を招くことに他ならない」

 マリィの厳しい指摘に、僕は胸の奥底をつつかれたような気分になる。

「そう……か、そう、だな」

 マリィの言葉を聞いて、真っ先に思い出したのは昨日のアグネスの様子だった。気丈に、陽気に、心配いらないぞという風に笑うアグネス――僕じゃなくてアグネスが一番頑張っていたのかもしれない。でも、あれは気を張っているというよりは、むしろ何かを諦観したような笑いだった――ハッとする。目前のマリィを見る。心配したような顔をしている。僕は難しい顔をして、またマリィに心配をかけてしまっている。こんな自分が情けなく思った。だから僕は口角をあげて笑った。

「うん……これからは気を付けるよ。アグネスに心配をかけないように」

「……うん」

 マリィはにこりと微笑み、両手を僕の頬から離す。その途端、さっきまで傍観していたセナががばっとマリィに抱きついた。薄目でじっとこちらを睨んでいる。セナは、僕がマリィと仲良くしているとすぐ嫉妬する。そんなセナを見てマリィはごめんなさいね、と唇の形だけで謝った。だから、セナの僕への敵意もその時は笑って見過ごすことができた。





 アグネスの家に戻ると、彼女は応接用のソファにちょこんと座っていた。紫色の上品なワンピースを着ていて、普通の人が着ると派手になりすぎて見れたものじゃないその服も、アグネスが着ると彼女の髪の色とぴったりとマッチングして、とってもきれいに見えるのだった。彼女はカバーをこちらに向けて本を読んでいて、それは随分大きく立派な革表紙の本だったので僕はそれに興味を持った。

「何を読んでいるんだ?」と僕が本をのぞきこもうとして近寄ると、アグネスはさっと身を引いた。

「聖書だよ。世界で一番読み込まれた書物だ。人の読書を覗き見るとはキミもいい趣味をしているね」

「なんでそんなに言われなきゃいけないんだ……それにしても、ずいぶん敬虔なクリスチャンなんだな」

「違うよ。ボクはクリスチャンじゃない。ただ教養として読んでいるだけなんだ」

「ふうん……ところで、日記とやらはもういいのか?」

 僕はそう尋ねたが、一瞬アグネスの表情は何の反応も見せなかった。だが気づいた時、そこには柔らかな笑みがあった。それはとても自然で、心からの安堵を促す類の笑みだった。

「うん、終わったとも。もう、十分ね」

「そうか」

 だから僕も笑って答えた。なんだ、僕が演技する必要もないくらいアグネスは落ち着いているじゃないか、と僕も安堵した。

「ねぇ、マリィくんにセナ。クリアを借りていってもいいかい?」

 アグネスが言うとマリィがきょとんと立ち尽くす。セナは驚いた様子で、

「いつの間にか呼び捨てになってる……!」とつぶやいた。

 マリィも遅れながらに反応する。

「ええ、構わないわよ。まだその男は私の虜になっていないようだし」

「今後もなる予定ないけどな……」

「ふふ、キミたちは仲が良いな。羨ましい限りだよ。マリィとセナは適当に時間をつぶしておいてくれ、一時間から二時間ほどで戻ると思う。その後は、久しぶりにみんなであのレストランに行こう。この間マリィくんがいっぱい稼いでくれたからね、大奮発だ」

 その言葉に最初に反応したのはセナだった。

「ホントですか……! ありがとうございますっ!」

 情感たっぷりと、とっても嬉しそうにセナは言った。どうにも彼女、食べものの事になると目がないらしい。

「分かりました。ピアノでも弾いて待っていますよ」

「うんっ! セナもお絵かきしときます!」

「うんうん。すまないね」

 アグネスはそう言うと、コレを片づけてくる、と言って高級そうな聖書を持って僕たちの部屋がある方へと歩いていった。数分して彼女が帰ってくると、

「行こうか」

 と言った。

 アグネスと僕は、レインコートを着て外に出た。まだ陽が落ちていないのか、空は白んでいた。雨はさっきと変わらず小降りだった。

「ところで、マリィやセナは芸術が好きなんだな」

 僕が何気なく呟く。

「ああ、キミは知らなかったのか。セナとマリィはね、芸術推薦でこの近くの高校に通っているんだよ。……確かね」

 アグネスの表情は少し虚ろになった。

「そうなのか。……幼馴染でそのままずっと同じ学校、というのも奇妙な縁だな」

 僕が言うとアグネスは、空を埋め尽くす白い雲を見つめながら答える。

「そう……だね。確かに、奇妙な縁だ」

 アグネスはこちらに向き直り、にやりと笑う。

「さてクリア、今からビリヤードをやりに行こう。キミはビリヤードをやったことがあるかい?」

「いや、ない」

「そうか、なら手取り足取り教えてあげる」

 そう言って、アグネスはにっこりと微笑んだ。僕はそんなアグネスの様子を見て、昨夜彼女を襲った憂鬱の波は少なくとも今時点で引いているのだ、と思った。彼女がいつ絶望の波に飲み込まれても、僕は気丈にいられるだろうか。それが、マリィが僕に求めたこと。きっと大丈夫だと自分を奮い立たせる。僕は、アグネスの心の支えになりたいと思う。

だが、その時僕は奇妙な感触を覚えていた。そうやって穏やかに微笑むアグネスを見ていると、そんな心配が微塵にも存在しないのではないかと思えてくるのだ。つまり、昨日の今日でアグネスは自身の鬱々とした暗闇すべてを飲み込んでしまったのではないか、という疑問だ。そんなわけがない、と僕は思った。どれだけ立ち直りが早かったって、あれほどのショックを受けたのだ。夜に眠ってハイおしまい、というわけにはいかないだろう。――でも、そんな理性の声を加味してあまりあるほどに、アグネスの様子は穏やかで、落ち着いていて、それこそ慈悲をつかさどる女神みたいに――柔和に微笑むのだ。だから僕は当惑してしまった。彼女の表情には、一つまみほどの悲しみすら見受けることができなかったから。彼女はもう、何かを理解して、悟ってしまったのだろうか。





 アグネスに連れられて行ったのは照明が暗く、どことなく怪しげな感じがするビリヤード場だった。品の良いジャズミュージックが、小さな音で流れていた。客は僕らのほかに数人いて皆がワインを片手に、楽しそうにビリヤードをやっていた。僕らはレインコートを脱いでハンガーにかけた。サイズは違えど、どちらも同じく黒色のレインコートだった。

「マスター。奥の一台を使わせてもらうよ」

 アグネスは瞼の重そうな店主にそう言って、僕を部屋の奥の台まで連れて行った。台の端に理路整然と置かれた球を手に取り、てきぱきと真ん中に並べてひしがたの形を作る。余った球は下の穴のようなところに入れていた。

「とりあえず、ナイン・ボウルをやろう。ルールはわかるかい?」

「わからない」

「簡単だよ。テーブル上にあるナンバーの一番小さい球を最初に当てて、9のボールを入れることができたら勝ちだ。ほら、打ってごらん」

 アグネスはそう言って、白い球を手に取りテーブルの真ん中に置いた。壁に立てかけてあるキューを一本取り出し、僕に手渡す。

「キミは右利きだね。なら左手の人差し指と親指でわっかを作るんだ。その穴にキューを通す。動きを安定させようと力をかけすぎるのは逆効果だ。ふわっと優しく固定する程度でいい」

 アグネスはそう言って、僕に打ち方の指導を始めた。「違うそうじゃない。キューはもっと奥の方を持った方がいい」「姿勢が悪いな、もっと左手をピンと伸ばしたまえ」などと言って僕の背中にくっついて、右腕の動きを指南する。アグネスの胸が僕の背中に当たっていて、僕はほんの少しだけ動揺する。「うん、なかなか筋がいい。僕も参戦しよう」彼女もキューを取って、チョークでその先をキュッキュと擦る。シックな紫色のドレスを着た赤毛の美人のその格好はなかなか様になっていて、このうらさびれたビリヤード場のこの台だけ、どこかのパーティ会場の一角のように見えた。アグネスは華やかな黒いシュシュで髪をくりんとまとめて、真剣な面持ちでショットを打った。彼女はビリヤードがかなり上手で、しかも球を何個も連続で入れていく様はなかなか見ていて気持ちが良かった。

「すごく上手いんだな」

 僕は素直に賞賛した。

「この街に来て七年……することがなかったんだよ。だから、こんなことばかり上手くなってしまった」

 アグネスの自嘲じみた呟き。コン、と球を弾く音が聞こえて緑色の球がポケットに入る。

「……本を、書かなくなったからか」

 僕の言葉に、アグネスは目を見開く。だが、すぐに目を細めて、皮肉っぽく笑う。

「……ずいぶんと、懐かしい話を持ち出すんだな、キミは」

「マリィから聞いたんだ。それが君の……自殺衝動の、根源にあるのか」

 僕の言葉に、アグネスは次の球を狙いながら答える。目線が合う事はない。

「それは、もうわからない。……かなり昔の話だからね。忘れてしまったよ。きっと昔壮絶なトラウマがあって、導かれるようにしてボクはこの街にやってきた。少しでも憶えているのは、昔何冊も本を出したこと。はじめの頃はとても売れたが、後続の作品になればなるほど売れなくなって行き、評価されなくなっていったこと。本当に、それくらいのものさ」

 僕はアグネスの言葉にどう返していいかわからず、沈黙する。二つ横の台でビリヤードをやっている黒人達の楽しげな談笑が聞こえてくる。

「僕はね、スティーブン・キングが好きなんだ。彼の描くホラー小説はね、日常に潜在的に存在する闇を描き出しているのがとても興味深い。そして、色んな作品が映画となって世に送り出されている。その中でもボクが一番好きなスティーブン・キング原作の映画はね、ホラー作品じゃないんだ。『ショーシャンクの空に』有名作だね。ボクはあれが一番好きなんだ。キミも見たことあるんじゃないか?」

「……多分、あると思う。確か銀行員が冤罪で刑務所につかまって、希望を捨てずに脱獄する話、だったか」

「そうだよ。彼は最後には脱出できたが――」

「できたが?」

 僕は続きを見据えて聞いた。

「――ボクにはできない」

 アグネスは笑った。それは、僕が最近何度も見た、何かを悟ったような笑い。

「……諦めたのか」

 僕は問うた。アグネスは球を弾く手を止めて、ぼんやりと遠くを眺めるように言う。

「諦めたんじゃない。ただ、疲れたんだね、きっと。ボクはもうマリィと仲良くなりすぎてしまっているんだ。だから、これから必ず起こるであろういさかいに関しても、そのシナリオを想像するだけで幻滅するし、自己嫌悪もする――だからね、もう疲れたんだ。一時はさきがけをしようと思ったんだけど、それも儚く散ってしまった。もう取り戻すことは出来ない」

 アグネスの言葉にはいろんな意味が含まれているんだろうと思ったが、僕にとってそのほとんどは理解することができなかった。だから一番簡単な疑問を問う。

「……何故マリィの名前が出てくるんだ?」

 僕が尋ねると、アグネスは落ち着いた笑みを浮かべる。

「キミにもそのうちわかるさ。マリィは、キミの事をそれなりに気に入っているようだ」

「そうなのか?」

 僕はいささか驚いて答えた。

「おそらくはね。マリィは気軽に話せる異性としてキミの事が好きだろうし、だから仲良くなりたいとも思っているよ。……キミはまだ彼女たちに壁を作っていないかい? そして、ボクに対しても」

 突然の問いかけに僕はたじろぐ。

「それは…………それは、わからない。なんたって、僕には過去がないんだから。それに壁を作っている、と言うのは悪いことなのか。誰にも、踏み込まれたくない領域が自身の内にあってしかるべきだ」

「そうかもしれない。だけどね、それを互いにひけらかしてこそ真の仲と言うものじゃないかい? そうすることでお互いがより理解できる、それは素晴らしいことじゃないか。それに君がいつまでもそんな他人を突き放したような喋り方をしていては、新たにできた関係もすぐに壊れてしまう」

 突然のアグネスの指摘に、僕は驚く。

「話し方……か。考えたこともなかった。僕の喋り方はそんなにもぶっきらぼうか? 最近はそうでもないと思うんだが」

「確かに前よりは多少マシにはなったよ。でもね、まだまだ冷たいと思うことは多い。……なんならボクの喋り方を真似したらどうだい?」

 にやりと笑ってアグネスがそう言った。だから、僕も笑って答える。

「遠慮する」

「つれないなぁ」

「君みたいな喋り方をしたら変人か、もしくは占い師だと思われてしまうからな」

「キミも占い師になればいいじゃないか」

「遠慮する」

「つれないなぁ」

 僕らは顔を見合わせて笑った。僕はキューを持って、白球を弾く姿勢を取る。狙いのナンバーは8。僕は球を打つと同時に、アグネスへ重要な質問を尋ねる。

「それで、いったいどうして僕をビリヤードになんか誘ったんだ? まさか、ただビリヤードがやりたかっただけなわけがないだろう」

 僕が言うと、アグネスは椅子に座ったまま、じっと僕を見つめる。その紅い瞳はどこまでも落ち着いている。僕は黙って言葉を待つ。

「ねぇ、クリア。キミは、人がモノを忘れてしまうことについて、どう思う?」

 唐突な質問だった。だから、僕はその意味を探ってしまう。

「……アグネスの言う、あの人、の事か?」

 僕の言葉に、アグネスは首を横に振る。

「違うよ。今は関係ない。ボクはただ単純に、聞いているんだ。忘れるのは良いことか、それとも悪いことなのか、とね」

 僕はしばし考えて、答える。

「良いことか悪いことかなんて、ないだろう。人間は辛いことや悲しいことを抱え続けたまま生きていくことなんてできない。だから、忘れるしかない」

 僕の言葉に、アグネスは少しの間沈黙する。

「つまり……キミは、忘れるという事に対して肯定的な立場をとるんだね」

「……そうだ。だってそうだろう? いつまでも過去の恥や悔恨の念を持ったまま生きていたら、きっと自殺してしまう。だから僕たちは忘れる。そしてたまに思い出して、身もだえするに違いない」

「じゃあ……キミは過去にあった悲しい出来事を、忘れることを是とするんだね?」

 アグネスの堂々巡りのようなその質問に、僕は幾分辟易する。

「……そうだと言ってる」

 アグネスは薄く笑い、次の言葉を口にする。

「じゃあ、キミがもう忘れてしまったたくさんの悲しい過去に、もしキミの大事な人が含まれていたとしたら?」

 僕は逡巡する。

「……それも仕方がない、と僕は思う」

「キミにとって昔大事だった人だよ? そんな簡単に忘れてしまっていいのかい?」

「……僕は忘れたことに気づかない。ならば、それは何も忘れてない事と同じだとは言えないか?」

 僕の言葉にアグネスは目を開いて、すぐさま元の大きさに戻す。黙ったまま僕を見つめた。僕は続ける。

「それに、僕にとってそれはどうしようもないトラウマだったんだろう。それも、忘れなければどうしようもないほどの、な。だから、どれほど大事な人だって忘れてしまったのは、僕の心の安定を保つためにしょうがなかった――と言える。それに、そんなことで忘れてしまえる人なんて、僕にとって本当に大事な人だったのか疑わしい」

 僕がそう言い切ると、アグネスは僕を見つめる。恐ろしく感情のない瞳だった。そして、悲しげに睫毛を伏せる。

「そう、か……それは残念だな」

 アグネスはそう言って、僕に向き直る。

「クリア。キミが扉を開けたいと望むという事はね、それはつまりそういう事なんだよ」

 僕はアグネスが何を言おうとしているのか分からず、首をかしげる。

「キミは過去にとんでもないトラウマを抱えているに違いないんだ。扉を開けるという事は、キミ自身がそのトラウマと向き合うことに他ならない。いくらでも逃げることは出来る。少なくともこの街に居続ければ、キミはそれから逃げるという選択肢は常に与えられ続ける。でもキミはその扉の先を見たいという。そうだね?」

「……ああ」

 どんなトラウマが潜んでいるのか分からない。でも、当然興味はある。

「キミは矛盾しているよ。忘れてしまうことを是としているのに、やっぱり取り戻したいだなんて。……でも、それが人間と言うものかもしれないな」

 アグネスはそこまで言い、言葉を切った。そして少し考えるようなそぶりを見せ、言葉を継ぎ足していく。

「……だったら、今キミが持っているものをもっと大事にするべきだ。それは新たに手にした人間関係であり、マリィとセナの事だ。もちろん、ボクも大事にしてくれたまえよ?」

 アグネスはにやっと笑う。

「構わない」

 僕は笑いながら答える。

「うんうん、大事にしてくれたまえ。……とってもね」

 そう言って、アグネスは意味ありげな笑みを僕に送った。そしてくるっと回って、こそりと呟く。

「今日はね……記念日なんだ」

 意味を取りかねるアグネスの言葉に、僕は首をかしげる。

「……? なんのだ?」

 アグネスは笑う。穏やかで温かい、何かを諦めてしまった笑い。

「それはじきにわかる」

「またそれか」

 僕の言葉を無視して、アグネスは喋り出す。

「……すまないね。こんな方法になってしまったのが、残念で仕方がない。だけどね、これはどうしようもない類の事なんだ」

 アグネスは寂しげな表情でそう言う。

「何がだ? なにが言いたい?」

 アグネスは悟ったように笑う。

「……それもじきにわかる」

「……そうか」

「疲れてしまったんだよ。もう、僕はね。絶望にはこりごりだし、醜い対立だってもう関わりたくなんかない。だから、望みを託すんだ」

「……?」

「クリア。マリィとセナはとってもいい子だ。確かにマリィは少し自意識過剰で、唯我独尊なところがあるが、その内側はあたたかな思いやりで満ちている。セナだって確かに子供っぽくてマリィにくっついてばかりだが、純真さゆえの優しさがある。……どちらも愛するにふさわしい素敵な女の子たちだ」

 アグネスはふう、と息を吐いて、にこりと笑う。

「キミは、忘れてしまうのは仕方がない、と言ったね。人もモノも、悲しいことは忘れてしまうのは仕方がないことなんだと。だけどそれはね、とても悲しいことだ。なにより、ボクが最も悲しい。だってそれだと――」

 アグネスはそこまで言って、目を閉じて首を振った。そして言う。

「いや……いい。さぁ、戻ろう」

 アグネスは目を開き、僕を見て温かく笑った。それは彼女が今まで僕に見せた中で、一番印象に残る綺麗で可愛らしい微笑みだった。そこから立ち上る数多の哀惜が、透明な背景を作り出して彼女の美しさをより効果的に印象づけていた。僕はその象徴的なアグネスの微笑みを、シャッターを切るかのように、鮮烈に記憶した。

「レストランに行ってから、『ショーシャンクの空に』でも見ようじゃないか」

 アグネスは明るい声で、そう言った。それは本心からの明るさのように思えた。――少なくとも、僕には。





 アグネスはその明るい調子のまま家に帰り、セナとマリィを連れてまた外に出た。そして僕らが行ったのはそれなりに高級そうなレストランで、既に四人で予約がとってあった。慌てた様子で給仕がやってきて本当に四人ですかと聞き、僕が本当に四人ですと答えると、彼は驚いた様子で厨房へと駆けていった。僕らは笑った。

 食事中も、アグネスはずっと楽しげに冗談を言い、笑い、僕やマリィやセナをおちょくった。丁寧にサーモンを盛り付けられたサラダがあり、綺麗なかたちのテリーヌに、メインディッシュの牛肉のソテーがあった。どれもこれも一番おいしそうに食べていたのはセナだった。アグネスが伝票にサインしてカードを渡し、僕らはレインコートを着て外に出た。その時雨は小降りだった。帰り道を歩いている時もアグネスは穏やかに笑っていて、ずっと変わらぬ調子で冗談を言い、僕らを笑わせた。だが、ある程度家が近づき複雑な路地に入り込むと、アグネスはピタリと喋るのをやめた。そして真剣な表情で、僕たち三人を見つめた。その口元にもう笑みはなかった。僕は彼女の瞳を見つめた。

「……キミたちに、どうしても伝えなきゃいけないことがある」

 小降りだった雨がほんの少しだけ、強まる。僕らは不思議な顔をして、黙ってアグネスの次の言葉を待つ。

「クリアはもう知っているけどね。ボクたちは、この街から出ることができない」

 僕は昨夜の事を思い出す。水銀の壁、僕らを阻む不気味な何か。マリィとセナは驚いた表情だった。というよりは、いったい何を言っているのか分からない、というところだろうか。

「……この街から出る方法を、ボクは見つけたんだ。ボクはキミたちに、それを伝えたい」

 雨が、より一層強まる。パチパチとレインコートを打つ音がやけに耳へ入り込んでくる。

「……どうやったら、出ることができるんだ」

 僕は問うた。アグネスは僕を見上げる。そしてゆっくりと口を開く。

「この街に出る方法、それはね」

 僕は彼女の唇の動きを目で追う。

「簡単なことだったんだ、それはね。ボクら自身が――」

 アグネスが言いかけた、その時だった。耳をつんざくような悲鳴が頭に響く。とっさにそちらを見るとセナが不自然な格好で口元を塞がれている。薄暗い街灯の中で見分けるのは難しいが、黒い服の男がセナの首に腕を回し、口を塞いでいる。反対の手に持っているのは――黒光りする合金、銃だった。

「動くな」

 どこまでも冷たい声色。体の動きが止まってしまうほど感情のない機械みたいな声だ。次いでコツ、コツと聞こえる足音。振り向くとアグネスの目の前に立つ大きな人影、黒いコート。長身の男。先ほどの男と全く同じ、感情という色合いを持たない声。

「アグネスさん……忠告したはずでしょう。それに、忠告は一度きりだと言ったはずだ……あんた、どうなるかわかってんのか」

 アグネスはそれに対して、笑った。

「知っているとも。ああ、知ってるとも」

 対する黒服の男は――拳銃をアグネスの額に構える。男の親指が撃鉄を下ろす。カチリ、というやけに軽い音が、激しい雨の中でもはっきりと聞こえる。

「じゃあ、死んでくれ」

 男が引き金を引こうとしたまさにその瞬間――僕は地面を蹴っていた。体中の筋肉を全力で使って、男に急接近する。体を思い切りひねり、顔面に強烈な殴打を浴びせかける。男は大きくのけぞって数メートル先へと飛んでいく。僕はすぐさま体を翻し、セナをとらえている男の背中に回りこんで、後頭部に膝蹴りを叩きこんだ。男の首がゆらゆらと揺れ、ばたりと倒れこむ。僕はふらっと倒れかけるセナの身体を支える。僕は、他人から認識されない。

「怪我はないか? セナ」

 僕が問うと、セナは僕の顔をじっと見て呆然と呟く。

「……うん、大丈夫、です」

 セナの身体を支えて立たせると、アグネスに銃を向けた方の男が立ちあがろうとしているのが見える。口の端が歪んでいる。

「――面白いことをやってくれるじゃないか」

 僕はまたしても、男へと走っていく。取り落とした銃を蹴り飛ばそうと――その時、僕は愕然とする。

 周囲に、同じ服装の男が何人も、いる。

 いや、何人というほどの話ではない。文字通り、視界が埋まるほどの黒いコートの男たちの群れ。数にしておそらく、三十人を優に超えている。狭い路地裏を埋め尽くすほどの、人、人、人。

「……どうなっているんだ」

 僕は唖然として呟いた。だが間違いなく今僕らは危険な状況にいる。何とかして突破しなくてはならない。三十人だってなんだって――僕は手近にいた男に殴りかかろうとする。

「やめたまえ」

 僕を硬い声で止めたのは、アグネスだった。僕は驚いて振り向いた。彼女は、笑っていた。幾度となく見せた、何かを悟って諦めた表情。

「……キミたち」

 アグネスは、目の前にいた男に喋りかける。男はアグネスの方を向く。アグネスはレインコートのフードを脱ぐ。彼女の紅い美しい髪が街灯に反射している。

「……ボクを殺してしまうのは、もう確定事項なのかい」

 男は感情のない瞳でつぶやく。「そうだ」

 アグネスはぼんやりと、雨の降ってくる先を眺めた。「……やっぱりか」やっぱりってなんだよ、知ってたのか? なにを知ってたんだ? 何で言ってくれなかった?

「……じゃあ、銃を貸してくれ。自分でやる」

 アグネスはそう言った。自分でやる、っていったいなんだ? おい、いったい何をやるつもりなんだ? なあ、答えろよ、答えろよ――だけど、僕の口から言葉は出ない。

「……反撃することが無駄なのは、もうわかっているんだな」

 男の一人はそう言うと、アグネスに拳銃を投げた。アグネスはそれを受け取る。

「この引き金を引けば、いいのかい?」

 アグネスは男に問う。

「ああ。それで死ねる。おすすめは頭に撃つことだ。痛みが少ないからな」

 男の淡々とした声。僕の思考は置いてけぼりで、彼らの言葉を理解することができない。

「嫌だね。脳漿が飛び散るじゃないか。そんなグロテスクなのは、ごめんだよ」

 アグネスはにやりと笑って言う。おい、なんで笑ってるんだ……?

 そこから急に、すべての映像がスローになった。

 アグネスは受け取った銃をゆっくりと胸にあてがう。彼女は空を見上げる。土砂降りの雨は今もなお降り続いている。彼女のその、すべてを理解したかのような表情に言いようもない情動がこみ上げてくる。僕の胸を詰まらせる思いの塊。

「なんでそんな顔するんだよ……?」

 ようやく出た、言葉。絞り出すようにこぼれた、言葉。だけどそれは、彼女には届かない。あるいは届いているのかもしれないけれど、彼女には響かない。

「クリア」

 アグネスは僕を見る。

「言っただろう……もう疲れた、とね」

 アグネスは拳銃の引き金に指をかける。そして力を込める――


「強く生きるんだ。きっちり過去と向き合ってね。それしかない。クリア、キミにはね――」


 タン、とあまりにも軽すぎる音。飛び散る鮮血。薬莢が響かせる空虚な金属音、崩れ落ちる小さな身体。僕はとっさにアグネスの身体を支えた。

「おい、アグネス、おい、アグネス!」

 激しい雨が、降っている。アグネスは、目を閉じ口を閉じ笑っている。

「おい! おい――」

 僕は雨の中叫んだ。アグネスの身体はどこまでもどこまでも小さかった。そんな小さな身体から出た血はどんどん大きな赤い水たまりを作っていったが、それらは全て激しい雨の中、灰色の排水溝へと流されていった。まるで彼女がこの世界にいた痕跡もろとも、洗い流しているかのようだった。アグネスはその小さな手を弱々しく震わせ、僕の手を握った。そして背中に腕を回した。生の灯がもう消えようとしているのがありありとわかる、儚い力だった。アグネスは僕の耳に最後の力を振り絞って呟いた。

「……この、まち、から……出るんだ」



アグネスが息を引き取った時、男の姿はもうどこにも見当たらなくなっていた。冷たくなった彼女の肌が僕の全身を弛緩させ、ところ構わず喚き散らしたい衝動を起こした。僕はそれに、ぎりぎりと歯を食いしばってこらえた。アグネスは文字通り、綺麗な人形のように死んでしまっていた。幾千もの激烈な感情が、僕の体内をほとばしっていた。ありとあらゆる疑問、絶望、憤怒、寂寞――僕はそれらの波に、はぁはぁと息を吐き、悔しくなって、硬くごつごつしたレンガ張りの地面を何度も何度も殴りつけた。次第に血が滲んで、手の甲がぐしゃぐしゃになっていったが、僕はそれでもやめなかった。見かねたマリィが僕の腕を止めて、黙って首を横に振った。雨は、ずっと土砂降りのままだった。





 葬儀は数日後に行われた。そこに集まったのは僕たち三人のほかに、アグネスの占い屋を懇意にしていたほんの数人の客だけだった。彼女が墓場に埋葬されるその瞬間にも雨は降り続いていて、僕は自身の内にぽっかりと開いてしまった巨大な空洞を埋めるために、ずっと空を眺めていた。白とグレーの中間くらいの空色だった。


 アグネスは、死んでしまった。


 その事実が、ほんのりと僕を浸していく。

 彼女はもう笑わないし、喋らない。年齢のわからない理知的なあの態度も、少し偉そうな言葉づかいも、朝起きた時に彼女が子猫みたいに毛布の上に乗っかっているという事も、もう二度と、起こらない。永久に、彼女の妖しげな笑みを見る機会もない。それらすべては、二度と起こりえないのだ。何故なら彼女は、もう死んでしまったのだから。柔らかな温かみを失い、無機物のように冷たくなってしまったのだから。

 ひっく、ひっくとすすり泣く声が聞こえる。両手を顔に押し当てて、セナが泣いている。隣のマリィがぎゅっとセナを抱いて、彼女の頭を撫でている。目を閉じて、彼女もまた涙を流している。僕はマリィの背中をそっとさする。

「……なんで、あなたは泣かないの」

 嗚咽しながら、マリィが僕に問いかける。

「君が……言ったんだろう。どんな時でも、気丈にいろと」

 僕は雨雲を見ながら、答える。雨粒が目に入った。マリィは泣きはらした瞳で僕を見た。

「……悲しくないの?」

「悲しいに決まっているだろう!」僕は思わず語調が強くなる。

 僕の言葉にマリィは目を伏せる。「ごめんなさい。そうよね、悲しいわよね……」

 そうしてまた瞳を手で覆って、マリィは声を出さずに泣き始める。僕は立ち上がって、鈍色の空を見上げる。灰色の雲はどこまでも続いている。遠く、遠く。その向こう側に、アグネスはいるのだろうか。

膝が笑っている。当たり前だ。悲しいに決まっている。起こった出来事が理不尽すぎて、泣いて泣いて泣きまくってしまいたい。何日も寝込んで、枕を涙で濡らしてしまいたい。一人暗い部屋の中、アグネスの事を考えながら涙を流したい。そんな日々を続けて――ゆっくりと、ゆっくりと、傷を癒すことができたらどれほどいいだろう。でも、

「……泣かないよ、僕は。マリィに気丈にいろと言われてしまったし、それに、アグネスにも、強く生きろ、と言われてしまったから。だから僕は――絶対に泣くわけには、いかない」

 雨は降り続いている。僕は手を広げ口を開き、雨粒を口の中へ吸い込んでいく。


「出るよ。アグネス、僕はこの街から必ず――出てみせる」



 その日から、僕の喋り方は少しだけアグネスに似るようになった。


















                                     第一章 了


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