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新月の晩。闇に覆われた森の中を、一頭の馬が走っていた。背には、一人の女性が乗っている。しかし、たなびく黒髪は暗闇に溶け込み、闇色のローブと相まって、その姿はわからない。蒼い瞳だけが、ローブの隙間から光っている。
馬は一路北を目指して走っていく。森の生き物たちは、皆息をひそめて、この闖入者から身を隠していた。
やがて馬の気配が去っても、森には不気味な静寂が横たわるのみであった。夜明けは遠い。森の生き物は死に絶えたかのように、暗闇と沈黙に身をひそめ続けていた。
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紅糸紬村は、人口三百人余りの小さな村であるが、特産品の紅絹と、豊かな自然の恵みを与えてくれる紅の森で有名だ。季節は初夏。爽やかな日差しがまぶしい。森は野生のレッドカラントやプルーンといった果実で、鮮やかに彩られている。
私も自然の恩恵にあやかりに、バスケットを持ってやって来た。23歳という、こんな田舎では立派な嫁き遅れとなった私でも、ついうきうきしてしまう季節である。まぁ年齢については余り考えないようにしている。きっとこの黒髪に蒼い目という組み合わせが珍しいから敬遠されているのだ、と思うことにする。どちらも単品ならよくあるんだけど。
紅絹の生産者たる蚕の餌である赤楡の葉も、ついでに補充しよう。我等が村の蚕達は桑ではなく赤楡の葉を食すのだ。お昼には、バスケットに入れてきた、バゲットのチキンサンドを湖畔で食べよう。デザートには、早速収穫した艶々の果実を食べるのだ。気分はすっかりピクニックである。
私は完全に浮かれていていた。だからこの後、こんな辺境の田舎には不釣り合いな、豪華できらきらした馬車がやってきたのを、気にも留めなかったのだ。
こんな辺境に豪華な馬車がくる不自然さに気付いて、さっさと身を隠すなり逃げるなりしていれば、これから起こる出来事は避けられたかもしれなかったのに。




