一 世界は全員、敵だから
夜色の雲と、灰色の街。
少女は電車の鉄塔の上を髪を流しながら、楽しげにスキップする。
少年は道路の真ん中で焦点の合わない目のまま、頭を抱えて震える。
むしゃくしゃしていたんだ。
薬を飲んで、手首を切って、それでも眠れなくて、深い夜はいつものように、ざわめく心を煽り立てることしかできない。時計の針が、夜の一時三十分をかすめたところで、二時が足元に投げ出されると、自分でも理解できないくらい不安定。いまや、鏡に向かって、お前は誰だ、と問いかけ、いまや、窓の夜空に向かって、ここはどこだと呟きながら、しかし一方で、現実を、現況を、拭うことなど、逃亡することなど、できやしないんだ、と明日を予感するんだ。あいつらは、ぼくを殺そうとしている。そんなふうに、考えられたら、どんなに許されるだろう。そんなことなくて、むしろ、生殺しにしながら、永遠に搾り取り続けようとしているに違いない。もしも、殺してしまったら、殺人罪に問われるぜ。もう、終わりだ。この事態は改善されません。
気付いたら、街中の歩道橋。
虫が集まる電灯と、白い鉄錆びの手すり。
夜に塗りつぶされた街は、今も起きている。
みんな、不安なのかい。
気付いたら、地下の駐車場。
むきだしのコンクリート、まばらに空いた駐車場。
これ以上いけません、という足止めの小さなコンクリートの間で、頭を抱えて独り震えていた。
妄想しているんだ。
この世界の境界線を。
巨大なコンクリートが、無限に繋がるコンクリートが、空を貫いているのを、地平線を覆い隠しているのを。その絶対に壊すことも乗り越えることもできない、みんな、誰もが心の中に抱えている常識という、良識という、ある意味での正義を。そのコンクリートには隙間があって、その先に見える世界があるんだ。いったい、何があるかはわからない。でも、確かに何かがあるんだ。
ここではないどこか。
アンサー。
いや、ここと変わりませんとも。
すこし、違うように見えるだけ。
気付いたら、誰もいない道路の真ん中にいた。
車は通らない。通らない車に、轢かれることを望む。
望んでいる。
と。
闇を切り裂くバイク音。まるで、カナブンみたいじゃないか。大量の音が積み重なって、街中を裏切っていく。あいつらも、きっと、その常識を嫌っているに違いないと。その音が、近づいてくる。バイクのライトが集約されて、自分を目指していることが分かった。
立ち上がることもできず、頭を抱えている。
目覚めてしまいそうだ。
現実から。
逆光の先にある、不良どもの顔立ちを確認すると、自分の体から濃厚な影が漏れ出していくのが確認された。鋭い目つきと、げひた笑いで、バットをかかげ、角材をぶらさげている。エンジン音は威嚇を含み、闇夜の眼光は殺気を突き刺してくる。徐々に、周りを取り囲んでいく。
こいつらは自分をリンチしようとしている。
「もう、嫌だよ……」
絶望の先にあったのは、さらなる絶望。
背後の影が確かに境界線を越えて、ルールを突き破って、自らの全身を覆い隠していく。なんて、心地いいのだろう。まるで、母親に抱えられている赤子だと、心底思いながら、その闇を、信じていた。
バイクのひとりが、狂ったように突っ込んでくる。
そいつは、目を血走らせて、なかば恐怖と憤怒に駆られている。ブンブンとエンジンを利かせて、スピードをうならせ、突っ込んでくる。やっぱり、こいつらは、自分を虐げるやつらと同じじゃないか。
影が、人差し指から解き放たれる。
ねばりつく風のように。
うめく影が、バイクごとその男を触手のように包み込んでいく。その男は悲鳴をあげて、影をちぎろうと右腕をあげたが、その抵抗はむなしく、埋め尽くされ、真っ黒に染め上げられてしまった。影が、自分のところに戻ると、バイクは勢いよく転倒し、その男は白目をむいて絶命していた。どうやら、生命を奪ってしまうらしい。
最高じゃないか。
人殺しになれて。
意味もなく。
馴染めない。
「世界は全員、敵だから」
無数のバイクが、雄たけびを上げた。
ドイツの戦時下、ある心理学の人体実験があった。ユダヤ人たちに、自分が映る鏡に向かって「お前は誰だ」と言わせ続ける、というシンプルなものだった。精神状態を記録し、観察し続けると二週間足らずで変化が現れるものがいた。判断力が低下し、記憶力が徐々に落ちていったのだ。三ヶ月経つ頃には自分が誰か分からなくなったといい、挙句の果てには発狂してしまった。文字を見続けると、それがいったい何の文字なのか一瞬わからなくなることがある。それがゲシュタルト崩壊のことがであるが、その現象が自分という認識で起こるのである。
発狂したユダヤ人の中には、その実験からどうやって逃亡したのかわからないものが無数に現れた。ある日突然、牢獄から姿を消し、抜け道も確認されなかった。いまだにどうやって逃げたのか確認されていない。
毎年の家出人捜索願受理数は八万人を超える。警察に届けられただけで、これだけの数の人間が行方不明になっている。届けられていないのも含めれば十万人をはるかに超える形で姿を消している。大人から子供まで、老若男女問わずに。
いったいこれだけの人間がどこに消えたのか。
大半の人間が現実に嫌気が差して、逃避するかのように家出をしている。事実、所在確認をすると九割近くの人間が居場所を突き止められている。しかし、一割の人間はまったく見つかっていない。その一割は、警察や探偵でも見つけられない人間たちである。
誘拐? 家出? 夜逃げ?
計画的な、それこそ計画的な何か?
小学四年生の少女でさえも、現状に何一つ不満を持ってそうにない幼稚園児でさえも、どこかに逃げる力も隠れる力のない寝たきりの老人でも、消えてしまうことがある。すべてがすべて、単なる誘拐の一言で片付けられるのだろうか。一万人もの人間が誘拐されたといえるだろうか。夜逃げしたといえるだろうか。家出で説明がつくだろうか。
いや、不可能。
この世界には、歪みがある。それは時計にたとえるなら、時差のようなもの。十二時を回ると、その日の狂いを直すために秒数を刻む針が逆に戻り始める。それと同じようにこの世界の歪みが戻ろうとするとき、それは突如として現れる。
扉だ。
いや、扉と形容するのもふさわしくない穴。
どんな場所でも発生する可能性がある。そして、その穴に落ちたら、どこに行くかもわからない。数千もの世界が、まったく異なる概念、まったく異なる性質をもっていて、存在している。人間だけが、特別の存在ではないということ、それが事実なのだとしたら。
異世界から誰かがこの世界に来ることも、ありえる。
しかし、やはり、そのまま来る可能性は低い。
数千の中からこの世界がランダムに選択される確率は低い。
それに来たとしても大抵は生きていけない。
来るといっても、そのまま来るわけじゃない。
――異世界で死んで。
――この世界に生まれ変わって。
前の世と書いて、前世という。つまり、前の世界という意味。昔の人間は直感的に、それを理解していたり、その純粋さから霊力を信じていた。それがゆえに前世という言葉が生み出された。事実、捉えられる人間も多くいた。今やそれらがすべて否定されて、物質を何より優先した結果、捉えられるものも捉えられない。
すべての人間は前世を忘れている。この世で生きていくために。だから、いつかどこかで異世界で生きていたとしても覚えていない。でも、感じたことがあるはず。この世界は、あまり自分には合わないと。何もかもが、ずれている気がして、どことなく間違っているような違和感。普段は笑い合ってるけど心の底では誰とも馴染めない。他人と関わりたいと思っているけど、でも関わりたくないと思っている自分がいる。
そういう人間は、いつか違う世界で生きていたかもしれない。
この世界を忘れるほどの絶望が、ときに思い出させる。
前世の記憶を。