目覚まし
セミが鳴いている、今日も茹だる様に暑い午後、体育館の裏にある駐輪場に、誰かが立っている。俺は自分の自転車が停めてあるその辺りに歩を進める、蜃気楼に浮ぶその人がスタスタ近づいてきて、俺を呼ぶ。
「山田君」名前を呼ぶその人が誰なのか、俺はわかってる。
「どうした?」いつもふざけ合っている同級生に、なぜか声が上ずる。
続けてひとり?って、聞いたけど、見ればわかる不要な言葉。
「待ってた、山田君を」予想が正しければこの後の話の流れはひょっとする。
「ちょっと話しがあって」なんだかやっぱり、ひょっとする?
強い日差しのせいか、彼女の表情がよく見えない。彼女……、あれ?誰だっけ?あれ? 同級生なんだ、ずっと仲良しだったんだ。
じーじーとセミが鳴いている。
頭の中で一段と大きく鳴り響き、何かに繋がりそうな思考が乱れる。
まるで壊れかけの目覚まし時計の音……じーじりりりー……。
思い出せない名前とそれとは違う何かが頭の中をかき混ぜる。
ジリリリリー 目覚まし?
胸の中のポンプが急速に早くなる、夢の中から現実の世界へ潜水艦みたいに海面の明かりに向かって急浮上して、俺は現実の世界を掴み、叩く。
ガチャ!
タオルケットから右手だけを伸ばし、目覚まし時計のアタマを叩く。
7時30分、時計の針はそう告げている。胸のポンプは今も働きすぎだ、ドキドキドキ…。
(…かわさき)心の中で呟いた、夢の中の同級生。目が覚めたのに夢は現実だったみたいに鮮明に瞼に残る。
ないないない、アホか俺は、かわさきなんてないない・・・枕に顔を埋める。
タオルケットをモゾモゾと足で蹴飛ばし、おでこを軸に膝でお尻を持ち上げる。3分くらいこのままの状態を維持して頭に血を送る。段々夢と現実の境がはっきりしてきた俺はあることにやっと気付いた、はて……音がし無い。
そう、クーラーの音、外から聞こえてくるはずのいつもの生活音。いやそんなどころじゃない、何もかもの音がしないんだ。小さい頃に田舎のじっちゃんちで作った雪のかまくらの中、そう、あの中みたいだ、聞こえるのは俺の心臓の鼓動と唇の隙間を通る空気の流れだけ。
急いで制服に着替えるとやや慎重に階段を下りて「おはよう」と台所のドアをゆっくり開けてみる。弁当を作る母親と、新聞紙を広げる親父。一見変わりない朝の風景が、今日はいつもとまるで違う。なぜなら二人は全く動いていないだから。
母は台所で出汁巻き卵を切っている、視線は出汁巻き卵に向いたまま、親父は新聞紙を器用に片手で持ちながら、パンを咥えている、が咥えたまま動かない。
「おはよう?」ともう一度言いながらテレビに視線を向けると、テレビの中のお天気お姉さんも止まっている。そして俺は思わず動かない父親に向かってこう言った。
「何してんの!?」親父はパンを咥えたまま答えない……。
正確にはなぜ止まってるの? とこの3人に聞きたかったのだけど、間抜けな顔でパンを咥えたままの親父に苛ッとしたんだ。もう一度テレビに視線を向ける画面左上の時間は『7:30』と表示されている。
部屋の壁に掛けられている時計を見てみる、7時30分。DVDレコーダーの時計も7:30。ありえない、もっと経っているはずだ。リビングを大股で横切りガラスの引き戸を開けて裸足のまま庭に飛び出す、そこは無音。
あたりに音が無い、空を見上げて俺は固まった。
カラスが、カラスが空の浸みみたいにそこに止まってる。
止まってる……時間が止まってる? そうなのか?
なぜ? なぜ? 俺が何かしたのか? 目覚ましは止めた。
目覚ましを止めたら時間も止まった? そんなアホなことが……。
じゃ、じゃあもう一回アタマのスイッチを押したら時間は動き出すのか? 考えててもしょうがない、とりあえずやってみよう。俺は急いでリビングに引き返した。が、そこでふと思いとどまった、目覚まし時計のスイッチを押したから時間が止まったんだとしたら? そしたらスイッチをまた押せば時間は動き出すんじゃないのか? そうなったらこの止まった世界はもう二度と起こらないんじゃないか? 世界が止まっているなんて事、たぶんイヤ絶対一生ないんじゃないか? これはひょっとすると俺だけに訪れた、とんでもないボーナスタイムなんじゃないのか!!
そう考えると今度はこの止まっている時間がいつ終わるのかが気になりはじめた、スイッチを押さなくても勝手に動き出すということもあるかもしれない、だとしたら急いでこの時間を最大限有効に使わなくてはならないのでないのか?という概念に、俺の頭はいっぱいになった。
そして俺の頭はごく自然に『銀行強盗』というフレーズをあっさり思い浮かべてしまった。こんな奇跡の時を前にして『銀行強盗』だなんて、自分の下品さにはちょっと呆れるけれど、綺麗汚いなんて言っている時間はないのではないか?
お金は汚くても、その汚いお金で綺麗なものを買えるのではないか? イヤそんな思想的な問題よりも現実的に考えて、短時間で将来を変える事が出来るのは、比較的身近にある銀行という資本主義のイデオロギーに脚を運び、そしてそこからフィジカルなお金をもらってくる事ではないのか。それが止まった時間にやるべき、一番現実的で有効的な行為じゃぁないのか。(タイムイズマネーという言葉とチャンピオンが頭で同時にループする)
そこで俺は出汁巻き卵をかじりながら、ざっとしたプランを練った。
プランA:まずは車を借りる。表の通りでめぼしい車を見つける、俺は運転席のドアを開ける。運転なんてしたことないけど、オートマならなんとかなるだろう。そして車がオートマである事を確認した俺は運転席のサラリーマン風のおっさんの脇に頭を入れる。そして引き起こそうとするのだが、全然動かない、どういう訳かおっさんはとてつもなく重い。
仕方なくその車の少し前をいく軽自動車に狙いを代えて運転席のドアを開ける。今度は40歳くらいの少しやせ形のおばさんだった、やれやれ今度こそと引きづりだそうとするのだが、このおばさんも異常なほど重たい、どうやらこの時間が止まった世界では物は重たくなるようだ。それでもなんとかおばさんを歩道まで動かすことに成功した俺は、晴れて人生初の運転席に着席した。
さて、まずはキーを回してエンジンをとキーを握る、しかしそれは既にスタートの位置にある、一度エンジンを切る方向にキーを戻してから、再度スタートに回したのだが、何も起こらない……。時間が止まるとはこういう事なのか、とにかくプランAは早くも難所を迎えた、自転車だ、自転車にしよう。
ずいぶん時間を無駄にしてしまった、急いで目の前の歩道で固まるヘルメット男子中学生の肩を掴んだ。
わかってはいたが半端じゃなく重いたい、それでもなんとかヘルメット君を担いでバス停のベンチに運んで座らせた、両手と右足を上げて座るヘルメット君を見ていると何だかいたずらがしたくなってしまい、もの凄く重たいというのにヘルメット君をベンチの背もたれに両手を、右足をベンチに載せるという状態に反転させた。時間が動いたとき、ヘルメット君は思いっきりベンチを押すのか、それともベンチを飛び越えるのか、想像しただけでにやけてしまう。
しかし、時間は無いのだ。俺は直立したままの自転車に跨ってペダルを踏み下ろした…踏み、下ろした…、イヤ下りない! めちゃめちゃペダルも重いのだ。なんという事だ、こんなことばかりしていられない! プランAの現行強盗的行動の初期は脆くも崩壊し、俺は自分の足で目指すことにした。
しかしかなり時間を無駄にしてしまった俺は、道中走ることにした。運動は得意な方なのだけど、今日はどうもいつもと違う、きっと自分の身体も重たくなっているのだ、100mも走らないうちに汗が噴き出し、呼吸は乱れ、今にも吐いてしまいそうになった俺は、そこからは歩く事にしたのだが、銀行に着いた頃にはもう、フラフラで今にも倒れてしまいそうだった。
そして、俺は知る。
7時30分に開いているドアなど、銀行にはないという事を……。
銀行の建物の周りをぐるりと一周する、時間は止まっていても俺自身がスーパーマンかなんかみたいにパワーアップした訳ではない、むしろパワーダウンしているのだ、そんな俺に開けることの出来るドアなど、無い。
プランB以前の問題で銀行強盗は未然の未遂に終わった。俺はアホ過ぎる、落胆と極度の疲労、それに汗でぐしょぐしょの学生服、いったん家に帰ろう、とにかく着替えよう、例え時間が動き出してしまうと言われても、今の俺には家に帰る以外の体力など残っていない。
そして帰りながら7時30分というこの時間に何ができるか考えよう、そう思いながらトボトボと家を目指す俺に、バス停のヘルメット君は相変わらずの格好でお尻を向けていた、今度は笑えなかった。
7時30分、ようやく家に辿り着いた。階段を上がる足がまるで他人の足のように重い、さっきと変わらない俺の部屋、さっきまで寝ていた俺のベッド、そして俺のベッドにはさっきと変わらない俺の姿……? 顔を枕に埋めて尻だけ天井に突き出す俺の姿……?
しばらく俺は俺を見ていた、枕に埋まる顔色ははっきりとはわからないけど、首筋の色かなんかはなんだかとてもおかしい、手の平もそうだ、なんだか爽やかな青、そうブルーハワイみたいな青だ。
これは死んでんじゃないか? 真剣にそう思う、いやじゃあ今の俺は何だ…。でもあえて答えは知らない方がいい気がしてならない、それなのに思考はこの状況を避けて通ってくれない。
例えば、目覚まし時計のスイッチを押して、時間が動き出したら今の状況はどうなる? ここにある俺は死んだまま死んで。今こうしてるこの俺は? 幽霊が確定? じゃ、じゃあ今のこの俺の状態はなんなんだ? 幽霊候補? 幽霊予備役?
それなら絶対押せないな、押さない。じゃあ押さないで時間が止まったままとして、俺は何が出来る?……。例えお金や何かを手に入れる方法を見つけたとしても、時間を動かさないで一体何を楽しめばいいのか…。
イヤそれでも時間を動かせば、死と幽霊が待っているというのなら、絶対動かすなんてこと出来やしない。とにかく今は時間を稼ごう、7時30分の中で何か策が生まれるかもしれない。
そして俺はスイッチが動いたりしないように、セロハンテープで目覚まし時計をぐるぐる巻きに固めた。
いったいどれくらいの時間そうしていたのか、見ても変わらない7時30分を何度も見ながら、俺はこの先どうして過ごせばいいのか、そもそもなぜこの時間が止まったのか、そんな事をずっと考えていた。
そして目覚まし時計のスイッチを押さなくても、勝手に時間が動き出してしまった時の事を考えた、そうなったら俺は、この止まった時間の中で何の意味も見出せないまま目覚めとともに死ぬ。そう思うとまだ死んでいないこの時間にも何か大切なことをしておきたくなってきた。
かわさきに会いたい、恥ずかしいなんて言ってられない。
あの夢、そして死んだ時間にまだ生きている俺、これはそういう意味の時間じゃないのか。
そう思うと、目覚まし時計を学生鞄に突っ込んで階段を駆け下りた。かわさきは学校のブラスバンド部、朝は大抵朝練をやっている、行くなら学校だ。
俺はさっきよりも必死に走った、この身体がどうなってももうよかった、とにかく俺には時間が無かった、7時30分というこの時間以外に。
大通りの交差点から、俺たちの学校の時計が見えた、最上階の壁に架かる大きな時計。針はまだ、7時30分を指している。
交差点を横切ろうとする俺の視界に、日常からズレものが、辺りに散乱しているのが見えた。
うちの学校の鞄やノートが紺色のアスファルトに散らかって、横断歩道の端では人集りが出来ている。7時30分という時間を止めてまで俺に見せたかったもの……なんだか嫌な予感がして俺は人垣に向かう、石のように固まった人垣に頭を突っ込んで必死に人垣を掻き分ける、馬鹿ほど重たい人間を蹴り倒し、俺はその中心をのぞき込んだ。
そこには頭から血を流して横たわる、かわさきの姿があった。
「オイ! どうした! どうしたんだ!……。 どうしたんだ!」俺はかわさきの耳元で大きな声を出して叫んだ、なんで、なんで、なんで、今朝はどうなってんだ、目頭が熱くなって、かわさきを見ていられない。
瞼を閉じた俺の暗い世界に聞きなれた声がする「山田君?」
この静寂と孤独の世界の中で、俺は自分以外の声を初めて聞いた、それも俺が今一番聞きたかった声を。
「どうしたの? あれ? 私さっき車にぶつかっちゃって…」かわさきはきょとんと俺を見上げてる。
「どうしたの? 何泣いてるの?」一瞬喜びそうになった、でも、彼女の声が俺に聞こえるということの意味に体中の毛が逆立った。イヤイヤイヤそんなこと。
「イヤ、駄目だ! しゃべるな! 俺はお前の声なんか聞きたくない!」聞きたくない、ただ会いたかったんだ……神様、彼女の声なんて聞けなくていい、もういい、早く、早く俺だけ引き上げてくれ。
「わたしね、山田君にずっと話したいことがあったの」やめてくれって! 俺は慌てて目覚まし時計を取り出す。
「わたしずっと山田君の事が……」俺はぐるぐるに巻かれたセロハンテープをもどかしく引き千切って目覚まし時計のスイッチを押した。
「1年の時から……」彼女の声が止まらない。俺は彼女の口を手で塞ぐ。
『神様早く! 押したじゃないか! なんでだよ押したじゃないか早く動かしてくれ! この子はこっちじゃない、頼むよ、早く時を戻してくれ』
かわさきの目から涙が零れる、彼女の口を塞ぐ俺の手に、彼女の唇の動きが伝わった。
俺は目を閉じて強く祈った。強く、強く。
「いい加減にしなさいよ、ほんと」俺を揺らす手がある、早く……。
「何言ってんの、こっちのセリフよ」…やめてくれ。
「はぁ?」今度はその分厚い手が、突き出した俺の尻をバシッと貼った。
「イッテ」思わず枕から顔をあげる、そこには不細工な母がいる。
「あれ?あんた何泣いてんの、おっかしいの、早く顔洗ってきなさいよ」不細工な母は笑っている。目覚まし時計の針が7時50分を指している。
いつもと変わらない朝が、いつもと変わらない音と共にやってきた。
ただ、今朝は、手の平にこそばい感覚を残している。
俺の胸のポンプがまた、活動を開始した。