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「言っている事は正しいがただそれだけ」の先にあるもの

 最近の人気のある書き手の文章の特徴は「言っている事は間違っていないが、内容がない」ではないか、と思う。もっとも、仮に内容があると、それはヒット作になるにはあまりにも重たすぎるものとなるだろう。それは消化器官の弱い人間が重たい食事を無理に口にするようなものだ。

 

 例えば「飲茶」というペンネームの人がいる。この人は「日本で一番売れてる哲学作家」なのだそうだ。まあ、そうなのだろう。

 

 飲茶氏の主張として、哲学は全て白哲学と黒哲学の二種類に分けられる、というものがある。白哲学とは、この世界には確実な真理が存在し、その真理を究明する哲学。一方で黒哲学とは、白哲学を批判するものであり、そのような絶対的な真理を批判するものである。黒哲学の代表はニーチェだと飲茶氏は述べている。

 

 私は飲茶氏が言っている事は間違いだとは思わない。私も哲学には二種類あると考えていて、それはおおまかに「神に頭を垂れる哲学」と「神に反逆する哲学」の二種類と考えている。この場合、前者が飲茶氏の言う白哲学であり、後者が黒哲学という事になるだろう。

 

 こうやって書くと私と飲茶氏の主張は一致しているように見える。実際、この点に関しては一致していると言ってもいいのだが、私は内心そんな事はどうでもいい事だと考えている。一方で飲茶氏はこのように、概念で真っ二つに分けて整理する事を自身の功績のように文章で書いている。

 

 私が近頃思うのは、このように概念でAとBという形で切り分けたからといって、それを理解している、それらはもうすっかり把握してしまって用済みだ、といった人間があまりに多いのではないか、という事だ。そして飲茶氏のようなわかりやすい形で概念を区切って整理する方程式は、物事の内実に深く分け入る事をせず、メタな立場に立って、概念だけを把握して理解したと思いたがる、そうした人々にとっての良い道具として機能しているのではないだろうか。

 

 現代のあれこれを見て私が感じるつまらなさとは大抵、これである。つまり、概念としては正しいが言っている事はつまらない。言っている事は間違っていないが内容空疎で、オリジナリティもなければ情熱もない、そのような状態である。

 

 飲茶氏の言っている事は別に間違っていない。ただそのように「整理」すれば哲学という面倒なものがすっかり理解できてしまう、そのような考え方はおかしいのではないかと思う。

 

 こうした優等生的な人々がジャーナリズムと結託して、物事の深みに入りたがらない大勢の人々に対してわかりやすい概念の見取り図を提供する。こうした図を鵜呑みにした人々は、過去の面倒な哲学や歴史や文学といったものは全て用済み、もう改めて原典を読んで思想的に格闘する必要もなくなると信じる。これは今の時代に実際に起っている事だ(だからこそ飲茶氏は人気作家なのだ)。

 

 こうした見取り図を提供しているのは千葉雅也氏のように、独創性もなく、哲学者としての資質も欠いているが頭だけは良く、過去のあれこれを概念として整理できる、要するに勉強はできるが自分の頭で考える事だけはできない、そうした人達なのだろう。こうした人がリーダーとなって、彼を心から尊敬する人々がその下にずらり並んでいる、そうした事象が今の状態だろう。

 

 しかしこのような人々から真の意味での哲学者は決して生まれないだろう。また、私が思うのは、そもそも自分の頭で考えるとはかなり奇妙な事柄だと言う事だ。人々は学校の勉強ができたその先に天才哲学者がいると考えるのかもしれないが、そうではない。それは天才音楽家がコンクールの一等賞の先にあると考えるようなものだが、そもそも、独創的に考えるとはそのルールも、フィールドも、普通に考えられているものとは違うところに成立している。次にはそのような事例について若干述べてみよう。

 

 ※

 私自身は高校生から二十歳くらいまでの間、吉本隆明という批評家が好きだった。私は吉本の言っている事は(正しいな)と感じていた。

 

 一方で、吉本隆明がライバル視すると同時に批判していた、批評家としての先輩の小林秀雄については、当時全く読む事ができなかった。

 

 小林秀雄に関しては「批評の神様」という事で、名だたる文学者がみな彼を評価している。坂口安吾のように批判している人間も、小林を評価した上で批判している。

 

 当時の私は小林秀雄が全く理解できなかった。何故小林がそんなに凄いのか、さっぱりわからなかった。それで、吉本隆明を読む事でしばらく満足していた。

 

 しかし、ある時、小林秀雄の「ランボオⅠ」という短い文章を読み、(ああ、なんだかわからないがこれは凄い)と感じた。その際、私の導き手になったのは私の「感覚」であり「理性」ではなかった、という事は一言言っておく。

 

 それから私は小林秀雄が読めるようになった。一年くらいは小林秀雄しか読まない日々が続き、小林秀雄の文体を自分の中に日々インストールしているような状態だった。

 

 私が吉本隆明から小林秀雄へと移って、気づいたのは次のような事である。(確かに吉本隆明は妥当で正しい事を言っているが、小林秀雄はそれを越えている) 私はその時に、論理として正しいという以上の事柄が評論という形で語りうるのを発見した。

 

 それでは、小林秀雄はどのような事を言っているだろうか。例えば、有名なモーツァルト論について考えみよう。

 

 モーツァルト論は、ゲーテの引用から始まる。それからヴァレリーや、スタンダールを引っ張ってくる。ゲーテもヴァレリーもスタンダールもみな作家である。音楽を論じるにあたってこれは正しい事だろうか。

 

 この点に対して批判しているレビューをネットで私はみた事がある。モーツァルトを論じてゲーテから始まるとはけしからん、と。それでは何から始めればいいのか。音楽的な技術論を語るのが「正解」なのだろうか。

 

 私は小林秀雄の批評にはまりこんでしまってから、吉本隆明や江藤淳では物足りなくなった。千葉雅也や東浩紀などは読む気にもなれない。私の基準は小林秀雄になった。小林秀雄を読んだ後に読めるのは、福田恆存くらいだろうか。

 

 私が何故そんな風に感じるかと言うと、小林秀雄は、読んだり、鑑賞したりする事を徹底して作品の中に沈潜し、作品の魂としか言えないある抽象物に到達するからである。他の批評家はここに達しない。

 

 小林のランボー論を読むと、一線を越えて、それが小林なのかランボーなのかわからなくなる一瞬がある。その時、その瞬間というのが小林がランボーという一個の無垢な魂に触れた瞬間なのだが、この魂の邂逅そのものは、それ事態として虚無である。魂と私が呼ぶ物は、言葉やイデオロギーや思想風土で染色されていない。

 

 私が吉本隆明の批評に不満を感じる点は、吉本の場合、海外の作家や哲学者を論じる時、明らかに海外の人々に「壁」を感じているという事だ。一方で同じ日本人の場合はやはり、同族のよしみがあり、批判する場合にもある程度同じ感覚をベースとしている。

 

 普通の批評家の場合、「壁」はもっと厚くなる。対象に対して、手袋をはめた手でこわごわと撫でさすり、ある時は自分の権威をでっちあげるため、またある時は原稿用紙の升目を埋める為にいい加減な類推を綴る。読者のご機嫌伺いの時もあるだろう。

 

 小林秀雄が集中して芸術家の作品を理解しようとする時、小林は作品の奥の、作品を形作った作者の魂に遡り、そこに到達する。ちなみに、ここで言う作者の魂とは現実の、実際の作者とは異なっている。

 

 あまり理解されていないようだが、作品から「作者の意図」を読み解くという場合、それが高度になるほどに読み取っている作者は現実の作者とは違うものとなる。なぜなら、作家は自分の全精力で作品を形作っている時、生活者としての彼を一歩抜け出しているからだ。


 作品の奥にいる作者は実際の作者とは違う。また、実際の作者が作品の奥にいる作者を明瞭に自覚しているとも限らない。だからこそ文芸評論は作者の魂に到達するという過程で、作者自身も知らなかった真実に到達する事があるのだ。


 作品とは何らかの形式であるには違いない。しかし、例えばアルチュール・ランボーの詩句の凶暴な言葉の組み合わせは、その可能性の無限を思わせる。

 

 言語そのものは確かに制限された形式に過ぎない。しかしその形式を生んだ魂は、それらの形式を無数に生み出す可能性を持っていた。

 

 ここに、芸術家の魂が虚無であると共に、それが無限の可能性である所以が成立する。

 

 小林秀雄はモーツァルトを論じようとして、ゲーテやヴァレリーやスタンダールに言及する。小林がモーツァルトの音楽を徹底して聴き、それを無私の純粋な魂にまで還元して、そこから彼はその魂をまた言葉に変換し、そこから自分の文章として書いていく、その為に彼には縦横無尽の引用が可能なのだ。

 

 これは資本論的に言えば、あらゆる商品というものを全て交換価値という、透明な抽象物に変換してしまう事に近い。この抽象物は、またあらゆる商品に変換可能である。

 

 小林は作品の源の抽象物に遡る。そこからまた自己の印象に戻ってきて、その印象を構成する上で種々の引用を行う。

 

 このような批評は、徹底して作品と対峙し、小林の魂がうまく相手の魂と共鳴する時のみに可能だった。だから例えば、小林がピカソについて書いた文章は精彩を欠いている。端的に言うと、小林はピカソが好きではなかったのだろう。

 

 小林の文章は創造的な文章である、とはっきり言う事ができる。普通は連結されないような芸術家や哲学者の名前が小林秀雄においては当たり前のように連結される。

 

 ふつうの書き手はこうした連結を概念の類似性で行う。あるいは時代が同じだとか、性格が同じだとか、思想が同じだとか。しかし小林はそれを作品の奥の作者の精神にまで遡り、その精神を自己の魂と同一化して、そこから言葉を繋げていく。

 

 それ故に小林の書いた最上の批評は自己と他者との隔たりを止揚している、と言う事ができるだろう。小林以外の批評家の書いたものを読めば、その違いははっきりしている。普通の批評は褒めようが貶そうが、批評家と対象とがはっきり分割されている。

 

 しかし芸術とは作者の魂が刻印された形式であると考えるなら、形式から魂への遡行は可能であろう。そのような批評形式を最初に打ち立てたのが小林秀雄という人物だった。

 

 ※

 私は小林秀雄の文章に出会って、「批評である同時に創造的な文章」というものが存在し得るのを知った。しかしながら、真の創造とは限りなく誤謬に近いものではないか。私にはそんな風にも思われる。

 

 創造が誤謬に近いのは何故だろうか。そもそも、小林が自由に過去の哲学者や芸術家の名前を引用して、相互に結合させる時、その結合の根拠となるのは、小林という男が作品の奥の精神に近づき、それと同一化し、自己と他者とを止揚した魂としか言えない抽象物に彼が達しているからだ。この場所から彼は様々なもの、人、思想を連結させる。


 逆に言うと、小林という男が握っている、この止揚された一点が消えてしまえば、それは全く意味の繋がらないあやふやなものを好き勝手に連結する誤謬となってしまうだろう。

 

 ここに誤謬と創造との近似的な関係がある。私は実際、誤謬と創造は極めて近しいものだと思っている。新しい真理や新しい作品の形式が、過去の学者や芸術家を誤解した為に生まれたという例は多い。

 

 創造と誤謬が近いという事は、概念としてただ整理するだけの優等生的な仕事は創造という本質性から遠い、という事にもなるのではないか。私は現代の、学歴という権威に寄りかかりながら、大衆に向かって過去のあれこれをわかりやすく説明する哲学者やら学者やらから創造的なものが生まれてくるとは思えない。

 

 創造というのは奇妙なものであり、偏執的なものであり、誤謬と近しい、病的なものだ。病的なものを一切排除した現代のジャーナリズムに生息する人々が創造が可能だとは私には思えない。

 

 しかしそもそも何故創造する事が必要なのだろうか。創造とはそもそも自己を否定する行為であり、単なる自分自身では満足できないから、自分を超えるものに達しようともがく事に他ならない。

 

 「あなたのままでいい」とポップソングが絶叫するこの社会においては、自己自身を抜け出そうとする病的な努力としての創造は決して理解される事はないだろう。大衆にあらゆる知識を概念で小分けにしてわかりやすく与える人々は一千年経とうが二千年経とうが、彼らが本当に「哲学者」になる事はまずないだろう。


 私にはそうした人々には興味がない。それよりも、自己を否定し、破壊する必然性を持った人間に期待したい。そうした人間はいずれ自分を抜け出し、「どこか」へ行くのかもしれない。

 

 おそらくこの「どこか」をまた後の人々はまた一つの形式と理解し、それについてまた表面的な技工や形について云々するのだろうが、大切なのは人が自己を抜け出しどこかへ行こうとする精神、その連続性なのだ。


 だがこの運動していく精神というものをほとんどの人は捉える事ができない。人々にみえるのは形式でしかないから。


 それ故にこうした人々は連続していく精神について言及する人間を「あいつは理解できていない、常識も知らない」と揶揄する事だろう。いつの時代でも。彼らには止まった絵だけが見えていて、その絵が何に向かおうとしているか、それが見える事は決してない。そこに創造はない。


 創造はあらゆる形式を脱した虚無から生まれるが、創造が形式の有意味性だと考えている人々は真の意味での創造を行う事はできない。形式は概念として整理する事が可能だろう。しかしそれによって過去の哲学者の思索的な創造を全て片付けてしまう事はできない。というのは、過去の哲学者が偉大なのはそのような形式を創造した、その精神に価値がある為なのだから。

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