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第44話 幕間 その後の天井の山


 天井の山に激震が走ったのは、その日から1年と数ヶ月後の事。


 故に仙人もこの時は「ホッホッ」と穏やかには笑わなかった。ただ、待ち望んでいたかのように嬉しそうな表情はしていた。


「──……800年ぶり……いえ、ぶりではないのかもしれませんね。ずっと待っていましたよ。ラグン・ラグロクト……」



 ラグン・ラグロクト。



 ◇◇◇



 他者に威圧を与える炎のように真っ赤な髪。それは見る者の眼球に焼き付いて離れない呪いの如き劫火の赤。そして左の肩から指先までを光を一切反射しない闇のような黒が不気味に覆っていた。


 ラグン・ラグロクト。


 800年前の世界に絶望を刻みつけた、最恐・最狂・最強の人間。


 ──だが、その顔はミヨクがかつて見た時よりも随分と“人間っぽくあり”、なんというか……どこかに怒りや威圧や迫力といった彼特有の恐ろしさを置き忘れてきたような、そんな空虚を漂わせていた。


 つまりは、えっ? ラグン・ラグロクト? えっ、嘘? 本当に? 的な感じであった。


 だが彼は紛れもなく、ラグン・ラグロクト本人であった。


 彼がこのギンロシの大陸にやってきた理由は今は謎だが、目指しているのは仙人の場所で間違いないようだった。それほど彼の足取りは目的地に向かって迷いがなかったのだから。


 樹海には数多くの気聖使いがいる。だが、誰も彼の行手を阻もうとはしなかった。


 端的に恐ろしかったからだ。


 まるで抗うことのできない天変地異を、ただ呆然と見送るかのようだった。誰もが、この気聖を使えないただの人間が通り過ぎるのを、息を殺し、祈るように見つめていた。


 それは天上の山でも、光景は同じだった。気聖使いの上位である聖上高気ですら、彼に対しては無力であり、ただ、この静かな恐怖が早く通り過ぎてくれることだけを願っていた。

 

 だが、それはあくまでも天井の山の5号目までの事であった。


 何故なら、その上には気聖使いの聖上高気を凌駕した、新聖気が存在しているのだから。


 そして、その1人が6号目でラグン・ラグロクトを待ち構えていた。


 名はハムラ。誰もが息を殺して見送ったその歩みを、彼は心地よい高揚感とともに、今か今かと待ちわびていた。何故なら彼自身もまた、歴とした強者なのだから。


「お前が只者じゃないのは分かる。気聖なしでここまで登ってきてるんだからな。でも、ここから先は別次元。地獄だ。引き返されるつもりも、引き返させるつもりもないが、一応な」


 ハムラはラグン・ラグロクトの姿を確認するや否やそう言葉を発し、言い終えると同時に駆け出し、その速度はラグンの表情に驚きを刻む程に速く、そしてその一撃はその驚きの間に既に打ち込まれていた。


 ゴッ!!!


 新聖気の本気の一撃。それは一国の総力に比肩すると謳われる程に強大で、その威力は不気味な破砕音とともにラグンの顔面を弾き飛ばし、首の骨が砕き、その場に膝を突かせた。ただの一撃でだ。


 だが、次の瞬間だった。


 ──弾かれたラグンの顔がバネのように真正面へと戻ってくる。そして粉砕された骨が1秒に満たぬ刹那であるべき場所へと還っていく。まるで、時間が巻き戻るかのように。


 「……っ、な、なんだ、それ……!?」


 数多の死線を越えてきたハムラでさえ、その光景には思考が停止しかけた。


 だが、ラグン・ラグロクトはただ、愉しげに口角を上げる。


「言ったろ? 新聖気は舐められないって。どうだ、代わるか?」


 それはハムラではなく、どこか空虚な深淵へ問いかけるような言葉だった。


「……また、こんな変な敵かよ」


 ハムラの脳裏に過去の記憶が忌々しく蘇る。が、攻撃の手を緩めることなく次の一撃を叩き込む。


 ──だが、その一撃はラグンの黒い左手によってパシッと情けない音と共に受け止められた。


「──返事がないから強制交代だ。目的を忘れるなよ、“オレ”」


 その瞬間。ラグンを包んでいた空虚が霧散し、世界をひれ伏させるほどの濃密な悪意が膨れ上がった。


 それはかつてエヌロクと対峙した際に味わったあの絶対的な敗北感に似ていて、ハムラは無意識のうちに一歩、後退していた。


「クカカ。別次元? 地獄? クカカ……目的のついでだ。オマエという勘違いも、ここで修正しておいてやる」


 ラグンが嘲笑いながら、半歩、足を踏み出す。ただそれだけの動作で天井の山が悲鳴を上げるように震え、ハムラは熱を帯びた呼気を吐き出し、己の全存在をかけて目の前の怪物を睨み据えた。


 その時、更なる巨大な衝撃が辺りに響いた。


 ドォンッ!!!


 頭上の岩場を豪快に蹴り砕き、一人の男がラグンの目前へと着地した。


 エヌロク。この天井の山の最強の獣。


 彼は状況を理解しようなどとは微塵も思っていなかった。


 ただ、エヌロクの目に映っているのはシンプルに1つだけであった。そこに立っているのが、己の全力をぶつけるに値する極上の獲物かどうか。


 ラグン・ラグロクト。


 その瞬間、エヌロクの口角が、頬が裂けんばかりに吊り上がった。それは歓喜であり、渇望であり、本能の発露。


「……合格だ。お前」


 エヌロクが嬉しそうに喉を鳴らす。新聖気のさらに先を予感させる圧倒的な熱量がラグンの悪意と激突し大気が爆ぜた。


 ラグン・ラグロクトとハムラと、そして、エヌロク──


 その戦いの行方は、まだ今ではないので後ほど。



 ◇◇◇



 ただ、この日──。


 800年もの間、絶えず天井の山を覆っていた仙人の気聖が、それが初めて、霧が晴れるかのように、あまりにも唐突に、この世から消失した。


 山が黙り、空が戸惑い、世界もまた「えっ?」と驚いた瞬間であった。


  ──という追記だけは残したいと思う。


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