第37話 ギンロシの大陸の仙人⑪
エヌロクの闘い方は至ってシンプルであった。
取り敢えず、先ず殴る。相手が先制攻撃をしてこようが距離を取ろうとしようが、小賢しい技や罠を使ってこようが何をしてこようが、取り敢えずは先ずは殴った。
それから考えるようにしていた。
──まだ殴るか、もっと殴るか、もっともっと殴るか、たまには蹴るか、相手の頭上のガードがガラ空きなら頭突き見舞うかを。
攻撃が主体の闘い方。ただそれはエヌロクの一撃の破壊力は凄まじく、大体の敵がその最初の一撃目で致命傷かもしくはそれに近いダメージを負ったが故に防御が上達しなかったとも言えた。
天井の山の9号目に君臨していた最強の一角と闘った時がエヌロクにとって初めての好勝負であった。
2メートルを超すエヌロクよりももう少しだけ縦にも横にも大きな巨躯同士の闘い。
エヌロクが渾身の先制攻撃を顔面に喰らわせて、にやりと口角を上げられたのも初めてであった。
反撃の威力も凄まじいもので集中力を僅かにでも切れば即座に意識が飛んでいく事が窺え、故にエヌロクもまた笑うのであった。
正に好敵手。
──と同時に互いが思ったのは、この相手の気聖を奪えばもっと高みに行ける、であった。
ほぼ、地に両足を付けたままの至近距離での殴り合いであった。これは最強の一角の本来の闘い方ではないのだが、エヌロクの方がチャレンジャーだったので敢えて相手の土俵に合わせたようだった。
ドオーン! ドオーン! と拳が相手にぶつかった瞬間に迸る衝撃波だけで大気が戦き木々が激しく揺れるこの闘いの勝者は、最強の一角がこのままでは分が悪いと判断し、一旦仕切り直そうと去ろう(つまりは逃げた)としたその時であった。最強の一角が天井の山の9号目から下へ飛び降りるよりも速くその顔面をエヌロクが拳で捕えてそのまま6号目の地まで叩き付けたのであった。
◇◇◇
エヌロクの思考は至ってシンプルだった。
強い奴を倒したい。
それは物心がついた頃からずっとそうであった。
強い奴を倒したい。
6歳の頃には身長が170センチあった。故に大人相手にも殴り合いの喧嘩で負けた事はなかった。
12歳の頃には魔獣を退治した。それは異例中の異例な出来事で、普通の人間でしかもまだ12歳の子供がたった1人で魔獣を退治したというのは恐らく歴史上で初めての事であった。
規格外の普通の人間。
それは気聖の地で樹海に踏み入った時も、天井の山に入山した時もそうだった。
強い奴と闘いたい。
そして築き上げらた連戦連勝の記録。
故に彼が仙人を行き着くのは当たり前の事であった。
強い奴を倒したい。
──例えそれがこの大陸の多くの人に尊敬され崇められている人物だとしても。例えそれが自分に力を与えてくれた大切な恩人だとしても。それでも彼はそれが強い奴であるならば倒したかったのだ。何故ならエヌロクの思考は至ってシンプルなのだから。
強い奴を倒したい。
そして、彼は遂に天井の山の天上に足を踏み入れた。
◇◇◇
──刹那だった。
そこにほんの一歩、本当に一歩だけ足跡を付けただけで、信じられないくらいの重圧が押し寄せてきた。
2メートルを超す立派な体躯を持ってしても身体が押し戻らされるような、押し潰されそうになるくらい重く強い圧が。
なんだこれは?
──その正体は殺気であった。数十メートル先で待ち構える仙人の、エヌロクだけに向けられた殺気。
そして、やがてそれは問いに変わる。
どうします? まだ進んできますか? ただあなたが一歩前に進む度に威力は増しますよ? 怖いでしょう? どうしますか? 逃げますか? 今ならまだ間に合いますよ。
と。
故にエヌロクは笑った。呼吸も苦しく、目も開けづらく、自慢のライオンヘア─(本当はただの癖毛)もバサバサと煽られてまるで暴風の中にいるようなこの状況に対してエヌロクは確かに笑ったのだ。
無論それは強がりではなかった。まして諦めた訳でも決してない。ただエヌロクは純粋に嬉しかったのだ。
何故なら、
「ああ……ようやくこの力が試せる」
のだから。
9号目で奪った最強の一角の気聖が上乗せされた今の自分の全開を。
次の瞬間、エヌロクの気聖が爆発的な膨張を起こした。
それは既存の概念である新聖気を無慈悲に踏み越えた、到達者のみが纏える未知の輝きであった。溢れ出した気は洗練の極致に至り、混じり気のない銀色の光となって彼の巨躯を包み込んだ。
刹那、その光から放たれた圧力は猛烈な突風と化し、天上の山を真っ向から押し返した。仙人の全身を暴力的な風が吹き抜け、自慢の七三分けも、真っ白な褌も、千切らんばかりにバサバサと激しく煽られる。エヌロクによる、言葉なき「殺気返し」だ。
「ホッホッ」
仙人は、その荒れ狂う銀の嵐の中で楽しげに笑った。
「──なかなか、なかなか。では儂も、もう少し本気の殺気を──」
仙人が指先を微かに動かそうとした、その時だった。五十メートルという距離が、その物理的な意味を消失させたのは。
エヌロクは走ったのではない。銀の閃光と化した彼は、空間そのものを踏み抜いて瞬間移動に等しい速度で仙人の眼前にまで到達していたのだ。見上げるほどの巨躯が視界を塗りつぶし、その迫力にさしもの仙人も言葉を失った。だが、エヌロクは敵の驚愕すらも興味はなかった。
ドォォォォォ――ッ!!
空気を力任せにねじ伏せ、大気を咆哮させる一撃。エヌロクの拳は既にその仕事を終え、仙人の顔面に深くめり込んでいた。
「そういうのはいい。興が冷める」
その台詞は、衝撃が遅れて周囲の木々をなぎ倒し、暴力の残響が山を震わせた後で、静かに告げられた。
◇◇◇
しかし、エヌロクの歓喜は一秒と持たなかった。
顔面にめり込んだ拳から伝わってくるのは、肉の感触ではなく、大地そのもの、あるいは巨大な惑星の核を直接殴りつけたかのような、絶望的なまでの質量だったからだ。
それはすなわち、忘れてはいけない。木は木であり、山は山なのだ。という理屈であった。
エヌロクがどれだけ気聖を洗練しようとも、ロシ仙人の気聖はこの天井の山を丸ごと埋め尽くすほどにでたらめで強大な理そのものなのだから。
──故に放たれた渾身の力は、そのまま大きな拒絶としてエヌロクへと跳ね返ってきた。
抗う間もなかった。エヌロクの強靭な右腕が次の瞬間には逆方向へとへし折られていた。仙人が指一本動かさずとも、山を全力で殴った代償はそのまま全身へと逆流し、巨大な重力に押し潰されるように骨格が悲鳴を上げた。背骨を伝って肋骨が砕け、頭蓋にズドンと衝撃が走る。だが、それでもエヌロクは白目を剥き、意識が遠のきながらも、右拳をさらに一寸、奥へと押し込むのだった。
その執念は、もはや命を燃やす呪いに近い純粋さであった。
その時、仙人の鼻の穴から一筋の赤い線が走った。ツー……と、白い褌に落ちる紅。それは数百年ものあいだ、何が起きても、誰が挑んでも決して揺らがなかった不変が、たった一つの熱に屈した瞬間であった。
「……おや」
仙人の目が初めて細められた。それは獲物を見つけた生物の祖としての鋭い視座。
「その銀色の気聖、美しい輝きです。木が、山を穿ちましたね。では……ならば褒美を与えしょう。数百年ぶりに、儂も生物として拳を振りましょう」
仙人が拳を引く。特別な予備動作はない。ただ、彼が「打撃を与える」という意思を持っただけで、山を包む空気の層が重く沈み、逃げ場のない圧力がエヌロクを包囲した。
それは、パンチではなかった。巨大な山が、空が、そしてこの世界そのものが、エヌロクという一点に向けて倒れ込んできたような、回避不能の事象であった。
◇◇◇
──その直後、天井の山にだけ大雨が降った。
冬のこの時期には珍しい激しい局地的な雨。それは世界がその一撃の熱を冷ますために、あるいは王者の散り際を惜しんで流した、空からの涙のようであった。
「──やはり、またですか」
降り頻る豪雨の中、ロシ仙人は天を仰ぎ、少しだけ呆れたような声を漏らした。
「──恐らくこれは空からの抗言なのでしょうね。儂が誰かを攻撃すれば、必ずこうして降ってくる。頭を冷やせ、という意味なのでしょうね、きっと……」
だが、仙人は頬を伝う冷たい雨粒をどこか愛おしげに受け止めていた。
「──まあ、しかし今回のは空の勘違いですよ。パンチして欲しそうだったのですよ、あの方が。……気を失ってなお、儂には分かりました。あの方は、喰らってみたかったのですよ。儂の、全力の拳を。人が人と闘うというのは、本来そういうものなのですからね。……まあ、所詮は空ですから。儂とあの方の間に通じた心までは分からんのでしょうね」
仙人は視線を足元に落とした。そこには、全身の骨を砕かれ、深い眠りについたエヌロクがいた。生死の境を彷徨いながらも、その巨躯は未だその場に屹立したままであった。
「──……ホッホッ」
仙人は満足げに一つ頷くと、乱れた七三分けを指で整え、ゆっくりと踵を返した。
「──はてさて、お叱りも十分に頂きましたし。冷えた身体でもう一風呂浴びますかね。いでよ、儂のFF軍団!」
仙人はそう言葉を発すると、湯気が立ち込める温泉の淵に水着姿のファファルの顔をした女たちがずらりと並んだ。
「ホッホッ」
仙人は鼻歌まじりに、自慢の白い褌を緩め始めた。
雨の音と、温泉の湧き出る音。
天井の山の天上は、再びいつもの平和で少しだけおかしな静寂に包まれていった。




