81. 湯けむりシンデレラと崖っぷちコンサルタント
『湯けむりシンデレラと崖っぷちコンサルタント』
第一章 月夜の密会? まさかのニアミス露天風呂
ああ、やっちまった。完全に、やっちまった。
目の前には、月明かりに照らされた湯気がもうもうと立ちこめる露天風呂。そして、その湯気の向こうにかすかに見える、しなやかなシルエット。おいおいおい、嘘だろ? 今、この瞬間に限って、そんなラッキースケベ(死語)みたいな展開があるなんて、聞いてないぞ!
俺、高橋健太、三十路ちょいすぎのコンサルタント。目下、この寂れた温泉旅館「月影楼」の再建という、キャリア初の大型案件に一人で挑んでいる。丸一ヶ月、この旅館に泊まり込み、問題点を洗い出し、再生への道筋をつけるのが俺のミッションだ。
今夜は十五夜。煌々(こうこう)と照る月が、古びてはいるが風情のある庭園を幻想的に映し出していた。考えが煮詰まって、気分転換に誰もいないはずの深夜の露天風呂に浸かっていた、まさにその時だった。
「ふぅ……やっぱり、ここのお湯は最高ねぇ……」
鈴を転がすような、しかしどこか芯のある女の声。 間違いない。この声は、若女将の橘美咲さんだ。
俺は反射的に息を止め、石灯籠の影に身を潜めた。心臓が、これ以上ないってくらいバクバクと高鳴っている。見つかったら社会的に終わる。いや、それ以前に人としてどうなんだ。いやいや、そもそも女湯と男湯は別のはず……って、ここは時間帯で男女入れ替え制だった! 今の時間、女湯じゃねぇか! 俺が間違えてる! うわあああ、パニック!
湯気で美咲さんの姿はぼんやりとしか見えないが、彼女が湯船に肩まで浸かり、ふぅーっと長い息を吐いたのが分かった。長い髪を無造作に結い上げているのだろうか、うなじのラインが月光に浮かび上がり、えもいわれぬ色香を漂わせている。
(やばい、やばい、やばい! 見ちゃいけない、でも気になる! いや、気になるな!)
俺は心の中で激しく葛藤しながら、できるだけ音を立てずに後ずさろうとした。しかし、そこはそれ、ドジには定評のある俺である。足元の小石が、チャリ、と乾いた音を立てた。
「……どなたか、いらっしゃるの?」
美咲さんの声が、わずかに緊張を帯びる。 まずい! ここで「はい、変態です」と名乗り出るわけにもいかない。かといって、黙って逃げ出すのはもっと怪しい。
俺は覚悟を決めた。いや、半ばヤケクソだった。 「あ、あの……すみません! 間違えました!」 できるだけ爽やかに、かつ反省の色を前面に押し出して声を張った。いや、張ったつもりだったが、実際は蚊の鳴くような声だったかもしれない。
「え……? あ、高橋さん……ですか?」
驚いたような、それでいてどこか安心したような声。どうやら、俺の声だと気づいてくれたらしい。しかし、次の瞬間、彼女の口から飛び出した言葉は、俺の予想の斜め上を行っていた。
「もしかして……高橋さんも、月光浴ですか? 気持ちいいですよね、こういう夜の露天風呂って」
え? 月光浴? いや、確かに月は綺麗だけど、そういう問題じゃなくて! 俺、男湯と女湯間違えてますから! しかも、あなたが今まさに湯浴みしているその場所に、不法侵入(?)してますから!
しかし、美咲さんは俺の内心のパニックなど露知らず、湯船の縁に肘をつき、空を見上げている。湯気に包まれたその横顔は、昼間の凛とした若女将の顔とは違い、どこか儚げで、そして……めちゃくちゃ綺麗だった。
(あかん、これはあかんやつや……)
俺の脳内で警報が鳴り響く。これは恋とかそういう甘っちょろいものではない。もっと原始的な、男としての本能が何かを訴えかけてきている。三十年間、仕事一筋で色恋沙汰とは無縁だった俺の心の琴線(そんなものが存在したのかも怪しいが)が、今、激しく震えているのを感じた。
これが、俺と若女将・橘美咲さんとの、ちょっと(いや、かなり)刺激的な「初体験」の一幕。そして、波乱万丈な旅館再建と、俺の人生における最大の「初恋」の始まりを告げる、運命のゴングだったのかもしれない。
第二章 崖っぷち旅館と肝っ玉若女将
改めて自己紹介しよう。俺、高橋健太、32歳。都内の中堅コンサルティング会社に勤める、しがないサラリーマンだ。専門は経営再建。これまでいくつかの小さな案件はこなしてきたが、今回のような「一ヶ月住み込み型、丸投げ大型案件」は文字通り「初体験」だった。
「高橋くん、君に白羽の矢が立ったよ」 部長がニヤリと笑いながら辞令を渡してきたとき、俺は一瞬、自分の耳を疑った。相手は、伊豆の山間にある温泉旅館「月影楼」。かつては文人墨客も訪れたという由緒ある宿だが、近年は客足が遠のき、廃業寸前だという。
「正直、うちの会社としてもこれが最後のチャンスかもしれない。君の双肩にかかっている。頼んだぞ」 ……重すぎませんかね、その期待。
そんなわけで、俺は愛用のノートパソコンと一ヶ月分の着替えをボストンバッグに詰め込み、特急列車に揺られて「月影楼」へとやって来たのだ。
旅館の第一印象は、「……思ったより、ヤバい」。 立派な門構えとは裏腹に、館内はどこか薄暗く、活気がない。調度品は古びており、壁紙の隅にはシミが浮き、廊下を歩けば床がミシミシと鳴る。温泉旅館の生命線である大浴場も、どこか寂れた雰囲気が漂っていた。従業員の数も明らかに足りておらず、いる人もどこか覇気がない。
そんな中で、唯一、太陽のように明るく、そして必死にこの旅館を支えようとしている人物がいた。それが、若女将の橘美咲さんだった。
「高橋健太様ですね! お待ちしておりました! 私、若女将の橘美咲と申します。この度は、遠いところをわざわざ……本当にありがとうございます!」
玄関で深々と頭を下げる彼女は、写真で見たよりもずっと若々しく、そして何より、目がキラキラと輝いていた。藍色の地に白い小花を散らした上品な着物姿。きりっとした顔立ちだが、笑うと目尻がふわりと下がり、親しみやすさを感じさせる。推定年齢、20代後半。俺よりいくつか下だろうか。
「いえ、こちらこそお世話になります。一ヶ月間、よろしくお願いします」 俺は少し緊張しながら挨拶を返した。
美咲さんは、この月影楼の先代女将の一人娘。両親を数年前に相次いで亡くし、若くしてこの大きな旅館を一人で切り盛りしているのだという。その細腕のどこにそんな力が、と思わずにはいられない。
「高橋さん、どうか、この月影楼を……父と母が愛したこの場所を、助けてください!」 案内された客室で、美咲さんは改めて俺に頭を下げた。その声は切実で、彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
(うわ、いきなりヘビーなやつ来た……) 俺は内心焦った。泣き落としは勘弁してほしい。だが、彼女の真剣な眼差しを見ていると、軽々しい返事はできなかった。
「……橘さん、俺は魔法使いじゃありません。でも、全力を尽くすことはお約束します。一緒に、頑張りましょう」 気づけば、俺はそんな言葉を口にしていた。自分でも驚くほど、力強い声が出た。
美咲さんの顔が、パッと明るくなる。 「はいっ! よろしくお願いします、先生!」 「……先生、はやめてください。高橋で」 「で、では、高橋……さん」 少し照れたように頬を染める美咲さん。おいおい、可愛すぎるだろ、反則だ。
こうして、俺の月影楼での「初仕事」と、若女将・美咲さんとの奇妙な共同生活が始まった。 冒頭の露天風呂ニアミス事件は、この数日後の出来事である。あの時、俺が間違えて女湯(時間帯)に入ってしまったことを正直に告白すると、美咲さんはきょとんとした顔で、 「あら、そうだったんですか? うっかりしてました、すみません、私がちゃんと確認するべきでしたのに!」 と、なぜか彼女が謝るという謎展開になった。いや、悪いのは100%俺なんだが。
彼女のこの天然っぷりというか、人の良さというか、そういうところに、俺は早くも心を掴まれかけていたのかもしれない。もちろん、そんな素振りは微塵も見せなかったが。なにせ俺は、クールでデキるコンサルタント(のはず)なのだから。
第三章 問題山積み! 再建は前途多難
月影楼に滞在し始めて一週間。俺は旅館の隅々まで見て回り、従業員にヒアリングを行い、過去の経営資料を徹底的に分析した。その結果、見えてきた問題点は……まあ、予想通りというか、予想以上に山積みだった。
まず、集客。ホームページは10年前のデザインでスマホ未対応。SNSアカウントは存在すらしない。旅行サイトのレビューは辛辣なものが多く、返信もなし。これでは新規客が来るはずもない。
次に、サービス。従業員のモチベーションが低く、おもてなしの心が感じられない。料理は昔ながらの会席料理だが、目新しさがなく、ボリュームも中途半端。部屋の清掃も行き届いているとは言いがたい。
そして、コスト。無駄な仕入れが多く、光熱費も垂れ流し状態。古い設備は修繕費がかさむ一方。
「……これは、想像以上に根が深いですね」 俺が分厚い報告書を前にため息をつくと、美咲さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当に……面目ないです。私なりに頑張ってきたつもりだったんですけど……」 「いや、美咲さん一人の責任じゃありませんよ。これは長年の積み重ねです。でも、一つ一つ潰していけば、必ず光は見えます」 俺は彼女を励ますように言った。本心だった。課題が明確になったということは、改善の余地が大きいということでもある。
「まずは、情報発信からテコ入れしましょう。今の時代、SNSは必須です。月影楼の魅力を、もっと積極的にアピールしないと」 「SNS……ですか? 私、あまり詳しくなくて……」 不安げな美咲さんに、俺はニヤリと笑いかける。 「大丈夫です。そこは俺の得意分野ですから。一緒にやりましょう」
こうして、俺と美咲さんの二人三脚での「月影楼再建プロジェクト」が本格的に動き出した。 まずはインスタグラムとツイッターのアカウントを開設。旅館の美しい庭園、源泉かけ流しの温泉、そして美咲さん自身がモデルとなって、旅館の日常を発信し始めた。
最初はぎこちなかった美咲さんも、俺がカメラを向けると、はにかみながらも自然な笑顔を見せるようになった。彼女の着物姿や、一生懸命に庭の手入れをする姿は、思いのほか「映える」ことが判明。フォロワーも少しずつ増え始めた。
料理にもメスを入れた。板長は昔気質の頑固者で、最初は俺の提案に聞く耳を持たなかったが、美咲さんが間に入り、粘り強く説得してくれたおかげで、地元の新鮮な食材を使った新しい創作会席コースを開発することに成功。試食会では、あまりの美味しさに俺も美咲さんも唸った。
「これなら、いけますよ!」 目を輝かせる美咲さん。その笑顔が、俺にとっては最高の報酬だった。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。長年勤めている古参の仲居さんたちからは、「若造のコンサルタントの言うことなんて」と反発も受けた。しかし、美咲さんが一人一人と真摯に向き合い、頭を下げ、時には涙ながらに協力を訴える姿を見ているうちに、少しずつだが、旅館全体の空気が変わり始めたのを感じた。
彼女のひたむきさ、真摯さ、そして何よりも月影楼を愛する気持ちが、頑なだった人々の心を溶かしていったのだろう。
(この人、すごいな……) 俺は、美咲さんに対する尊敬の念を新たにした。そして同時に、彼女と一緒に働く時間が、いつしか俺にとってかけがえのないものになっていることに気づき始めていた。
夜、自室でパソコンに向かいながら、ふと昼間の美咲さんの笑顔を思い出す。胸の奥が、きゅっと締め付けられるような、甘酸っぱいような、そんな不思議な感覚。 (……まさかな) 俺は慌てて首を振る。これは仕事だ。あくまで仕事。恋愛感情なんて挟む余地はない。俺はプロのコンサルタントなのだから。
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、美咲さんの存在が俺の中で大きくなっていくのを感じて、俺は一人、ため息をつくのだった。
第四章 ドキドキ急接近? 湯けむりと恋の予感
再建プロジェクトが軌道に乗り始め、俺と美咲さんの距離も自然と縮まっていった。と言っても、あくまで仕事仲間としての距離感だ。……と、俺は思っていた。少なくとも、表面上は。
ある日の午後、二人で旅館の裏手にある竹林を散策していた時のことだ。ここは昔、宿泊客が散策できるようにと整備された小道があったらしいのだが、今はすっかり荒れ果てていた。
「ここも綺麗にすれば、素敵な散歩コースになると思うんです。朝、鳥の声を聞きながら歩いたら気持ちいいだろうなって」 美咲さんが、夢見るような目で竹林を見上げる。
「確かにそうですね。少し手入れすれば、インスタ映えスポットにもなりそうだ」 俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。 「高橋さん、何でもインスタ映えって言いますね」 「いや、だって重要じゃないですか、今の時代」 「ふふ、そうですね」
そんな他愛ない会話をしながら歩いていると、突然、美咲さんが「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。見ると、足元の木の根に躓いたらしく、バランスを崩してこちらに倒れかかってきた。
「危ないっ!」 俺はとっさに彼女の腕を掴み、ぐいっと引き寄せた。次の瞬間、美咲さんは俺の胸の中にすっぽりと収まっていた。
……時が、止まった。
柔らかな感触。シャンプーの甘い香り。耳元で聞こえる、少し早くなった彼女の鼓動。 俺の心臓も、負けじとドクドクと音を立てている。やばい、これはマジでやばい。
「あ……ご、ごめんなさい!」 先に我に返ったのは美咲さんだった。慌てて俺から離れると、顔を真っ赤にして俯いてしまった。 「い、いや、大丈夫ですか? 怪我は?」 俺もどもりながら尋ねるのが精一杯だった。
「だ、大丈夫です……ありがとうございます、助けていただいて」 顔を上げられないまま、小さな声で礼を言う美咲さん。その姿が、なんだか妙に……可愛くて。
(しっかりしろ、俺! これは事故だ、不可抗力だ!) 心の中で自分を叱咤するが、胸の高鳴りは一向に収まらない。
こんな、少女漫画みたいなベタな展開が、まさか自分の身に起こるなんて。 それ以来、俺は美咲さんと二人きりになると、妙に意識してしまうようになった。彼女のふとした仕草や言葉に、いちいちドキドキしてしまうのだ。三十路男が聞いて呆れる。
またある時は、夜中に旅館の帳場で残務作業をしていた時のこと。俺も自分の部屋で報告書を作成していたのだが、ふと帳場の方を見ると、美咲さんが一人で電卓を叩いているのが見えた。連日の疲れからか、時折こっくりこっくりと船を漕いでいる。
(無理もないよな……昼間は接客やら指示やらで動き回って、夜は事務作業か)
俺はそっと自分の部屋に戻り、保温ポットに入れていたコーヒーをカップに注ぎ、彼女の元へ持って行った。
「橘さん、お疲れ様です。これどうぞ」 「わっ! た、高橋さん……! いつの間に……」 驚いて飛び起きる美咲さん。その拍子に、読んでいたのであろう経理の本が床に落ちた。
「すみません、起こしちゃいました?」 「い、いえ! あの、ありがとうございます……!」 コーヒーを受け取る彼女の手が、少し震えているように見えた。
「あんまり無理しないでくださいね。若女将が倒れたら、元も子もないですから」 「……はい。高橋さんも、毎日遅くまで……本当に感謝しています」 そう言って微笑む彼女の笑顔は、夜目にも美しかった。
その時、ふと彼女の頬に髪が一筋かかっているのに気づいた。俺は、何を思ったか、無意識に手を伸ばし、その髪をそっと耳にかけてやった。
「!」
美咲さんの肩が小さく震えた。俺も、自分の大胆な行動にハッとして、慌てて手を引っ込める。 「あ、いや、その……髪が……」 しどろもどろになる俺。ああ、もう、何やってんだ俺は!
「……ありがとうございます」 美咲さんは、小さな声でそう言うと、また俯いてしまった。耳まで真っ赤になっているのが、薄暗い帳場でも分かった。
沈黙が、重くのしかかる。 気まずい……気まずすぎる!
「そ、それじゃ、俺はこれで……」 逃げるようにその場を後にしようとした俺の背中に、美咲さんがぽつりと言った。 「あの……高橋さん」 「は、はいっ!」 振り返ると、彼女は顔を上げ、じっと俺の目を見ていた。 「明日……もしお時間があったら、なんですけど……」 「……?」 「新しいメニューの試食、一緒にお願いできませんか? 板長も、高橋さんの意見を聞きたいって言ってて……」
それは、仕事の誘いだ。分かっている。でも、彼女の潤んだ瞳に見つめられると、期待するなという方が無理な話だった。 「もちろんです。喜んで」 俺がそう答えると、美咲さんは花が咲くように微笑んだ。
その夜、俺は自分の部屋の布団の中で、なかなか寝付けなかった。 胸のドキドキが止まらない。これは、仕事のプレッシャーからくるものではない。明らかに、別の種類の高揚感だ。
(俺……もしかして、本気で橘さんのこと……)
認めたくないけれど、認めざるを得ない。俺は、若女将・橘美咲に、生まれて初めて本気の恋をしているのかもしれない。三十路にして「初恋」とは、笑わせてくれる。
第五章 ハプニングは突然に! 湯けむり大作戦
月影楼での生活も、残すところあと一週間となった。 俺の提案した改善策は徐々に効果を現し始めていた。SNSでの情報発信は功を奏し、週末には若いカップルや家族連れの姿もちらほら見られるようになった。新しい創作会席も好評で、リピーターになりたいという声も届き始めている。従業員たちの表情も以前より明るくなり、旅館全体に活気が戻ってきた。
「高橋さんのおかげです! 本当に、なんてお礼を言ったら……」 美咲さんは、目に涙を浮かべて何度も俺に感謝の言葉を述べてくれた。 「いや、俺はきっかけを作っただけですよ。実際にここまで持ってきたのは、美咲さんと従業員の皆さんのがんばりです」 そう言うと、彼女は照れたように笑った。その笑顔が眩しい。
そんなある夜、事件は起きた。 その日は、珍しくまとまった雨が降り続き、夜になっても雨脚は衰えなかった。俺が自室で最終報告書の準備をしていると、突然、館内にけたたましいサイレンが鳴り響いた。
「火事!? いや、違う……なんだ!?」 慌てて部屋を飛び出すと、廊下は停電で真っ暗。非常灯だけがぼんやりと灯っている。他の客室からも不安げな声が聞こえてくる。
「高橋さん!」 暗闇の中から、美咲さんの声がした。懐中電灯を片手に、こちらへ走ってくる。 「大丈夫ですか!?」 「俺は大丈夫です! それより、何があったんですか!」 「それが……大雨で、裏山の土砂が少し崩れて……ボイラー室の配管が一部破損したみたいなんです! お湯が出なくなってしまって……!」
なんと! 温泉旅館でお湯が出ないなんて、致命的だ。 「お客様には事情を説明して、お詫びをしています。でも、今夜中に復旧しないと……」 美咲さんの声が震えている。
「とにかく、状況を確認しましょう! ボイラー室はどこですか?」 「こ、こちらです!」 俺たちは懐中電灯の明かりを頼りに、旅館の裏手にあるボイラー室へと急いだ。
ボイラー室は、案の定、ひどい状態だった。壁の一部が崩れ、泥水が流れ込んでいる。そして、太い配管の一部がぐにゃりと曲がり、そこから水が勢いよく噴き出していた。
「これは……ひどいな」 「どうしましょう……業者さんを呼んでも、この雨じゃすぐには来てくれないかもしれないし……」 美咲さんが絶望的な表情を浮かべる。
その時、俺の頭にある考えが閃いた。 「橘さん、この旅館に、昔ながらの五右衛門風呂ってありませんでしたっけ?」 以前、館内を見学した際に、今は使われていない古い釜風呂が倉庫の奥に放置されているのを見た記憶があった。
「え? ああ、ありますけど……もう何年も使っていませんし、使えるかどうか……」 「やってみる価値はあります! 最悪、お客様にはそのお風呂だけでも提供できれば、少しは納得していただけるかもしれない!」
俺の提案に、美咲さんの目にわずかに光が宿った。 「わ、分かりました! やってみましょう!」
そこからの俺たちは、まさに戦場だった。 まず、土砂崩れの影響を受けていない井戸水を確保。幸い、旅館には災害時用の手押しポンプ式の井戸が残っていた。二人で必死にポンプを押し、バケツで水を汲み、五右衛門風呂へと運ぶ。 次に、薪の確保。これも、普段は使わない薪置き場から、雨に濡れていないものを探し出す。
そして、火起こし。湿った薪になかなか火がつかず、煙に巻かれながら悪戦苦闘。美咲さんも顔を煤だらけにしながら、必死にうちわで風を送る。その姿は、いつもの上品な若女将とはかけ離れていたが、妙にたくましく、そして美しかった。
どれくらい時間が経っただろうか。ようやく釜の下で炎が安定し、湯が沸き始めた頃には、俺も美咲さんも汗と泥と煤でぐちゃぐちゃだった。
「や、やりましたね……高橋さん……!」 ぜえぜえと息を切らしながら、美咲さんが俺に微笑みかける。 「ああ……なんとかなったみたいだな……」 俺も、彼女につられて笑った。二人で顔を見合わせ、どちらからともなく、ぷっと吹き出してしまった。
「ふふ……私たち、すごい顔……」 「ははは、お互い様ですよ」
その時だった。 バランスを崩した美咲さんが、俺の腕にしがみつくような形になった。すぐ目の前に、煤で汚れた彼女の顔。でも、その瞳はキラキラと輝いていて、俺は吸い寄せられるように……。
(……いかんいかん! 今はそんな場合じゃない!) 俺は慌てて彼女から体を離した。 「さ、お客様に案内しないと!」
この「五右衛門風呂大作戦」は、結果的に大成功だった。 最初は戸惑っていたお客様も、昔ながらの薪で沸かしたお風呂の珍しさと、旅館側の懸命な対応に心を打たれたのか、文句を言うどころか、「貴重な体験ができた」「かえって楽しかった」と笑顔で言ってくれたのだ。
翌朝、雨は上がり、業者も到着してボイラーも無事に復旧した。 疲れ果てていたが、不思議と気分は晴れやかだった。そして、俺と美咲さんの間には、言葉にしなくても通じ合えるような、確かな絆が生まれていた。
第六章 月影の露天風呂、初めての……
月影楼での滞在も、いよいよ最終日が近づいていた。再建プロジェクトは大きな山場を越え、旅館には確かな活気が戻りつつあった。俺の役目も、もうすぐ終わる。
最後の夜。俺は、あの「ニアミス事件」以来、なんとなく避けていた露天風呂に、一人で浸かっていた。月は出ていないが、満天の星空が広がっている。
(色々あったなぁ……この一ヶ月)
初めて一人で任された大きな仕事。プレッシャーも大きかったが、それ以上にやりがいがあった。そして何より、美咲さんと一緒に過ごした日々が、走馬灯のように蘇る。
彼女の笑顔、涙、真剣な眼差し、そして時折見せるドジなところ。その全てが、俺の胸を締め付ける。 この旅館を去ったら、もう彼女に会うこともなくなるのだろうか。そう思うと、たまらなく寂しかった。
「……高橋さん?」
不意に声をかけられ、俺は心臓が飛び出るほど驚いた。振り返ると、そこにいたのは、湯上がり姿の美咲さんだった。浴衣を少しはだけさせ、濡れた髪をタオルで拭いている。その姿は、恐ろしく艶っぽく、俺は直視できなかった。
「あ、橘さん……どうも」 「やっぱり、ここにいらっしゃったんですね。なんだか、そんな気がして」 そう言って、彼女は俺の隣にちょこんと腰を下ろした。もちろん、湯船の中ではなく、縁にだ。
「……星が綺麗ですね」 美咲さんが、ぽつりと言った。 「ええ……本当に」 俺も、彼女につられて空を見上げる。
しばらく、二人で黙って星空を眺めていた。心地よい沈黙。 やがて、美咲さんが口を開いた。 「高橋さん……明日、帰っちゃうんですよね?」 「……はい。報告書もまとまりましたし、あとは東京の本社に報告するだけです」 「そうですか……」 彼女の声が、少し寂しそうに聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。
「この一ヶ月……本当に、あっという間でした。高橋さんには、感謝してもしきれません。この月影楼も、私も、高橋さんに救われました」 「そんなことないですよ。俺は、ほんの少しお手伝いしただけです」 「ううん、そんなことありません。高橋さんがいなかったら、今頃どうなっていたか……」
美咲さんは、じっと俺の目を見つめてきた。その真剣な眼差しに、俺はたじろいだ。 「高橋さんは……月影楼の、恩人です」 「……」
「あの……もし、よかったらなんですけど……」 美咲さんが、何か言いかけた時だった。
「あ、そうだ! 高橋さん、まだアレ、試してませんよね?」 突然、彼女が何かを思い出したように声を上げた。 「アレ……ですか?」 「例の、新しい創作会席コースの、隠し玉!」 「隠し玉……?」
そういえば、板長が「高橋さんには、最後にぜひ食べてもらいたいものがあるんですよ」とニヤニヤしながら言っていたのを思い出した。
「今から、準備しますね! ちょっと待っててください!」 そう言うと、美咲さんはパタパタと足早にその場を去ってしまった。
(隠し玉……なんだろう?)
しばらくして、美咲さんがお盆を持って戻ってきた。その上には、小さな土鍋と、お猪口が二つ。 「お待たせしました! これ、板長特製の『月見酒蒸し』です! それと、地元で作った限定の日本酒」 土鍋の蓋を開けると、ふわっと湯気と共に、魚介と酒の良い香りが立ち上った。中には、プリプリの白身魚と、大きなハマグリ、そして鮮やかな野菜たち。
「うわ……美味そうだ……」 「どうぞ、召し上がってください。お酒も、高橋さんのために取っておいたんです」
二人で露天風呂の縁に並んで座り、熱々の酒蒸しをハフハフ言いながら食べる。キリッと冷えた日本酒が、火照った体に染み渡る。 最高だった。こんなに美味いものを食べたのは、いつ以来だろうか。
「……美味しいです。本当に」 「よかったぁ」 美咲さんが、心底嬉しそうに微笑む。
酒も手伝ってか、俺は少し饒舌になっていた。 「橘さん、俺……ここに来るまで、仕事人間だったんですよ。趣味もないし、友達も少ないし、もちろん彼女なんて……いたこともない」 「え……」 美咲さんが、少し驚いたように目を見開く。
「でも、この一ヶ月、橘さんと一緒に月影楼のために働いて……すごく楽しかった。大変だったけど、それ以上に充実してました。誰かのために、こんなに一生懸命になれたのは、初めてかもしれない」 俺は、自分の気持ちを素直に言葉にしていた。もう、カッコつける必要なんてないと思った。
「私も……私も、楽しかったです。高橋さんと一緒だったから、頑張れました」 美咲さんの声が、少し震えている。
「橘さん……」 俺は、彼女の方に向き直った。彼女も、俺の目を見つめ返してくる。 星空の下、湯気の向こうで、二人の視線が絡み合う。
次の瞬間、俺は自分でも信じられない行動に出ていた。 そっと、彼女の手に自分の手を重ねたのだ。 美咲さんの肩が、びくりと震えた。しかし、彼女は俺の手を振り払わなかった。それどころか、小さな声で、こう言ったのだ。
「高橋さん……私も、高橋さんのことが……」
その言葉の続きは、聞けなかった。 いや、聞く必要がなかったのかもしれない。 俺は、吸い寄せられるように、彼女の唇に自分の唇を重ねていた。
初めてのキスは、日本酒の香りと、温泉の湯気の味がした。 柔らかくて、温かくて、そして少しだけ、しょっぱかった。それは、彼女の涙の味だったのかもしれない。
これが、俺の「初キス」。三十路にして、あまりにも遅すぎる初体験。 でも、最高の初体験だった。
第七章 再生のファンファーレ、そして別れの朝
あの夜の出来事は、夢だったのではないかと思うほど、甘く、そして切ない記憶として俺の胸に刻まれた。 翌朝、俺は月影楼を後にした。
美咲さんは、旅館の玄関先まで見送りに来てくれた。その目は少し赤く腫れていたけれど、いつものように凛とした笑顔で、俺に深々と頭を下げた。 「高橋さん、本当に、本当にありがとうございました。このご恩は、一生忘れません」 「こちらこそ、お世話になりました。……元気で」 俺は、それ以上気の利いた言葉が出てこなかった。本当は、言いたいことが山ほどあったのに。
バスが角を曲がり、月影楼が見えなくなるまで、美咲さんはずっと手を振り続けていた。俺も、窓から彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り返していた。
東京に戻った俺は、月影楼の再建プロジェクトの成功を会社に報告した。部長は「よくやった!」と手放しで褒めてくれ、俺は少しだけ昇進した。 仕事は忙しくなったが、ふとした瞬間に、月影楼での日々、そして美咲さんのことを思い出してしまう。
彼女との連絡は、あえて取らなかった。 あのキスは、一時の気の迷いだったのかもしれない。彼女に迷惑をかけたくなかったし、俺自身も、仕事とプライベートを混同するべきではないと思っていた。
でも、忘れられなかった。 彼女の笑顔、声、そしてあの夜の露天風呂での出来事。 初めて感じた、胸が締め付けられるような愛おしさ。
(俺は、これからどうしたいんだろう……)
自問自答する日々が続いた。仕事で成功しても、どこか満たされない。まるで、心にぽっかりと穴が空いてしまったかのようだった。
季節は巡り、一年が経った。 月影楼は、すっかり人気の温泉旅館として再生を遂げたという噂を、風の便りに聞いていた。SNSのフォロワー数は驚くほど増え、予約は数ヶ月先まで埋まっているらしい。 美咲さんは、きっと立派に若女将を務めているのだろう。
俺は、ある決意を固めた。 もう一度、あの場所へ行こう。そして、自分の気持ちを正直に伝えよう。 もし、彼女が同じ気持ちでいてくれるなら……。
最終章 おかえりなさい、そして「初めて」の続きを
再び訪れた月影楼は、一年前とは見違えるほど活気に満ち溢れていた。 門構えは変わらないが、手入れの行き届いた庭園、明るく清潔な館内、そして何よりも、笑顔でキビキビと働く従業員たちの姿。そこには、かつての寂れた面影はどこにもなかった。
帳場には、見慣れない若い女性が立っていた。 「いらっしゃいませ! 月影楼へようこそ!」 満面の笑みで迎えられる。
「あの……予約していた高橋ですが」 「高橋様ですね! お待ちしておりました! さあ、どうぞこちらへ」
案内されたのは、以前俺が泊まっていたのと同じ部屋だった。窓からは、あの時と同じように美しい庭園が見渡せる。
しばらくして、部屋の襖が静かに開いた。 そこに立っていたのは、藍色の着物を上品に着こなし、少し大人びた表情になった美咲さんだった。
「……高橋さん」 彼女の声が、わずかに震えている。 「……橘さん。ご無沙汰してます」 俺も、緊張で声が上ずる。
「お元気そうで、何よりです」 「橘さんも……ますます、綺麗になられて」 思わず本音が口をついて出て、俺は顔を赤らめた。美咲さんも、ふっと頬を染める。
「わざわざ……また来てくださったんですね」 「はい。どうしても、橘さんに会いたくて」 俺は、まっすぐに彼女の目を見て言った。もう、ごまかしたりしない。
「この一年、ずっと考えていました。俺にとって、何が一番大切なのか。そして、誰と一緒にいたいのか」 「……」 美咲さんは、黙って俺の言葉を聞いている。
「橘さん。俺は、あなたのことが好きです。もし……もし、あなたも同じ気持ちなら、俺と……」 言い終わる前に、美咲さんの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……遅いですよ、高橋さん」 彼女は、涙声でそう言った。 「え……」 「私……ずっと、ずっと待ってたんですから……!」
次の瞬間、彼女は俺の胸に飛び込んできた。俺は、しっかりと彼女を抱きしめた。 温かくて、柔らかくて、懐かしい感触。
「ごめん……ごめんなさい」 「ううん……いいんです。来てくれたから……」
どれくらいそうしていただろうか。やがて顔を上げた美咲さんは、涙で濡れた顔のまま、最高の笑顔で俺に言った。 「おかえりなさい、高橋さん」
「ただいま、美咲さん」
その夜、俺たちは再び、あの露天風呂にいた。 満天の星空の下、湯気に包まれながら、二人で肩を寄せ合う。
「高橋さん」 「ん?」 「これから……私たちの『初めて』、たくさん作っていきましょうね」 悪戯っぽく笑う美咲さん。
俺は、彼女の言葉に力強く頷いた。 「ああ。もちろんだ」
月影楼の再生は、俺にとって初めての大きな成功体験だった。 そして、橘美咲という女性との出会いは、俺の人生における、最高の「初恋」の始まり。
これから始まる、たくさんの「初めて」の物語。 湯けむりの向こうには、きっと、笑いと胸キュンに満ちた、輝く未来が待っているはずだ。
……とりあえず、明日の朝食は、あの絶品「月見酒蒸し」をリクエストしてみようかな。もちろん、美咲さんと一緒に。
(了)