第38話 右の頬を打たれたら左の頬をさしだします
白昼夢に現れた文花おばさんのルックスは妙だった。
あの女神コスプレも変だったが、今は真っ黒な全身タイツだ。それに頭にはツノ付きのカチューシャをつけている。私の姿も佐川響子に戻っていたが、文花おばさんの姿に目が離せない。
「文花おばさん、何? まさか悪魔のコスプレ!?」
腹を抱えて笑いそうだ。けっこう似合ってるものだから、口の中を噛み、どうにか噴き出すのは抑えるが、文花おばさんは誘惑してきた。
「響子ちゃん、あなたサレ公爵夫人に転生しただけなのに、脅迫事件に巻き込まれ、不本意な夫の溺愛も受け、挙句元愛人に右頬を叩かれるってどういう気分?」
文花おばさんは私に近づき、ささやく。ねっとりと耳につく声だ。
「どういう気持ちって? いや、今は不倫ドラマみたいでけっこう楽しいよ? これっ修羅場って感じで面白いかも!?」
私は笑顔を向ける。確かに右頬は痛かったが、客観的に見たらけっこう面白い。元愛人が夫を突き落とし、妻と対決中なんで、ドロドロ不倫ドラマみたいじゃないか。あとでこの件をネタにお師匠様のエリサと盛り上がってもいいかもしれないと思う。
「は? あなた、右頬を叩かれたのよ? クロエに憎しみはないの?」
「ないっていうか、この件はブラッドリーの方が一番悪くない? 私はモブキャラだし、どうしても当事者視点にたてないんだよね」
私があまりにも飄々としていたから、文花おばさんは爪をガリガリと噛むと、キツく睨みつけてきた。
「私だったら、クロエにやり返すから。そうよ、愛人が悪い!」
「ふーん」
「響子ちゃんもやり返しなよ。右頬を叩かれたら、左頬をさしだすとか、神じゃないんだからできないでしょ? そうよ、復讐しちゃいなよ」
文花おばさん、さらに近づいて囁いてきたが、悪魔コスプレが似合いすぎる。板につきすぎ。吹き出しそうになる。この文花おばさん、直視できない。
「やり返しなよ。サレ妻の不倫ドラマとか、SNSとかでもみんな復讐しているじゃない? そもそも響子ちゃんは単に異世界転生しただけで何も悪くない。正しいわ。正しさを盾にクロエにやり返したらいいじゃない?」
さらにそそのかしてきたが、そんなことよりモブキャラライフや推し活の方が大事じゃない?
確かに今はフローラの「感情」も文花に同意しかけていたが、私は赤ちゃんじゃない。感情の赴くままに何でも決めていたら、赤ちゃんになってしまう。ありのままで生きていいのは赤ちゃんだけ。もう私は赤ちゃんじゃないはずだ。大人になろう。
私はフローラの「感情」を封じ込め、佐川響子の「自我」を全面に出し、顔を上げて文花おばさんを見つめた。悪魔コスプレの文花おばさんは、どうにも笑ってしまいそうだが、大きな声で言う。
「私はクロエに仕返ししない。復讐しない。ざまぁしない!」
「嘘を言うな!」
文花おばさんの顔は真っ赤だったが、私はさらに大きな声をあげる。
「右の頬を打たれたら、左の頬をさしだすわ!」
なんかキリスト教っぽい台詞を言ったら、予想外のダメージを与えてしまったらしい。文花おばさんはその場に座りこみ、うめいているぐらいだ。
「う、うるさい! もう第二弾描くからね! 第二弾の『毒妻探偵』では愛人も殺しまくって復讐してざまぁするんだからね! そう簡単にハッピーエンドにはさせないから!」
文化おばさん、尻尾をまいて逃げていくが、捨て台詞は忘れない。ギャーギャー騒ぎながら去っていった瞬間、白昼夢は綺麗に終わった。
「あれ? 白昼夢は終わった?」
クロエのアトリエに戻ってきたらしい。相変わらず右頬はじんじんと痛かったが、クロエは全く笑っていない。
むしろ自身の指を見つめ、今にも泣きそう。きっと今のクロエの自己肯定感は最悪だろう。
憎い相手を復讐してもいいケースだってあるかもしれないが、それで本当に自分が好きになれるかわからない。自己肯定感が低い人が犯罪を犯しやすいことを思い出す。同じように復讐したい人も自己肯定感が低いのかもしれない。文花おばさんは自己肯定感云々というよりは単なるメンヘラだとは思うけど。
「クロエ、ブラッドリーや私に仕返しして楽しかった? 自分のことを心から好きになれた? 絵を描いている時と仕返し、どっちが楽しかった?」
クロエは私の質問に答えない。その代わり、ぼろぼろと涙をこぼした。「こんなことしている自分は好きじゃない……」とまで呟いている。
かわいそう。別に私は神様じゃない。今、ここで左の頬をさしだすことは無理だけど、クロエの気持ちはわかる。自分が嫌いだったら、悪いことへのハードルも下がってしまう。それだけはわかる。
「クロエ、私と推し活でもしない?」
「は?」
驚きでクロエの涙が一瞬、止まっていた。
「実は推しのロン様の絵を描ける人が欲しいなって思っていたのよ。クロエ、協力してくれない? あと、この鳥の絵やお花の絵も買える?」
「意味がわからない。元愛人の絵が欲しいって何? あなた、なんか変わってない?」
クロエは心底信じられない様子だ。目をパチクリとさせ、口をポカンとあけている。せっかくの美人が台無しだったが、少し親しみも出てきた。
「いいじゃない。あなたの絵はいいと思ったわ。プライベートと絵の実力は関係ないよ」
クロエは絶句してしまっていたが、前世で不倫した芸能人の仕事まで否定する動きは、さすがにやりすぎだと思っていた。クロエの件も同様だ。私は前世で不倫ゴシップを楽しんではいたが、その人達のキャリアを潰したいと思わない。むしろ、面白いゴシップを提供して続ける為、そこそこ活躍して欲しいと思う。
「クロエ、一緒に推し活しよう!」
「え、ええ?」
結局、クロエも推し活仲間の引き入れ、ブラッドリーの怪我の件も解決してしまった。
ちなみにこの後、クロエも懺悔室へ連れて行ったが、予想通りすぐに改心しもう二度とブラッドリーや私に危害を加えないことも約束してくれた。
それにクロエの描いてくれたロン様の絵は素晴らしい。推しの良さがよく表現されていた。おかげで推し活も捗る。念願のモブキャラライフまで、あと少しだ。そんな確信しかなかった。




