第27話 北風と太陽大作戦
翌朝、私は公爵家のキッチンでクッキーを作っていた。キッチンはザガリーが整理整頓してくれたおかげで、だいぶ使いやすい。今更ながら、田舎に帰すより、公爵家で雇った方が良かったと後悔するぐらいだった。
「ふう、型抜きはできたわ。後で焼くだけね」
型抜きした生地をオーブンに入れ、焼き始めたえると、一旦、キッチンのミニテーブルに向い、椅子に腰かけた。
クッキーが焼けるまでしばらく休憩だ。汚れたボウルなどを洗ってもいいが、意外とクッキーを焼くのも重労働だった。一休みしよう。
「それにしても……」
昨日のマムのことを考える。単なる体調不良で倒れただけだった。何者かに命を狙われたわけでもない。あの後、医者を呼び、注射を打ってもらったら、スヤスヤと休んでいたが、わからない。まだバッドエンド回避ができていなかった気がする。
「ザガリーはもう田舎に帰った。もうマムを殺すのは不可能だけど……」
オーブンから甘い匂いが漂っていたが、何かスッキリしない。脅迫事件も愛人ノートの盗みも何も解決していない。不本意だったが、またクッキーを配りながら、調査をすることにしよう。今日はまず、教会に行ってマムのお見舞いがてら、事情を聞くとしようか。
そんなことを考えていたら、クッキーが焼けたたしい。手にミトンをはめ、オーブンを開けると、バターの甘いいい匂いがする。多少こげている部分をのぞけば、成功といっていい。
「うーん、おいしい!」
少し冷まして味見したが、サクサクとし、甘い。体調不良のマムもこのクッキーぐらいは食べられるといいが。あとフルーツもバスケットに詰めて持っていこう。
「フローラ……」
そこにブラッドリーがやってきた。いつになく、表情が萎んでいた。髪の艶もない。
「焦げたクッキーくれよ」
「いいけど、何で?」
ブラッドリーは茶色く焦げたクッキーを齧りながら、マムが心配だと呟いた。フローラの「感情」はピリピリとしてきたが、今は佐川響子の「自我」が強い。無理矢理フローラの「感情」を追い出すと、ブラッドリーに事情を聞く。
「いや、さすがに罪悪感というか。マムが倒れたって聞いて、不貞した件を後悔してきた」
ごにょごにょと口籠るブラッドリーだが、ようやく不貞の罪悪感に苦しみ始めたらしい。
「いやー、マムにも『一番あなたが好きだよ、いつか結婚しよう』とか言ってたのも、よくなかったかなって」
「へぇ」
「そんなしらけた目で見るなよ! 悪かったって!」
慌てて謝罪するブラッドリー。佐川響子としてはブラッドリーの謝罪などどうでもいいが、このまま離婚まで持っていけないか?
といっても、ブラッドリーが反省し始めたのは大きな一歩だ。ここは慎重にいこう。下手に離婚をせがむより、太陽と北風作戦でいこうではないか。
「ようやく反省してくれたのね。嬉しいわぁ。クッキー食べる?」
「お。おお」
結局、クッキーを食べたブラッドリーはマムにも謝罪しに行きたいという。私もマムに本当にバッドエンド回避できているか事情を聞きたい。
こうして二人でマムに会いに行くことになった。夫婦そろって過去の愛人に会いに行く。客観的に見たら、修羅場なシチュエーションだったが、いまのフローラ・アガターの中身は佐川響子だ。私としては何の違和感もないが、教会までの道のり、ブラッドリーは終始無言で俯いていた。
叱られた子供のようだ。子供だったら可愛らしいが、ブラッドリーは三十歳に近い男だ。自分がしでかした不始末は、自分で処理させるのが一番だろう。私はマムへの謝罪については一切協力しないつもりだった。
そんなことを考えつつ、教会に入ると、鐘の音が響き、庭では子供たちが遊んでいた。おそらく教会にいる孤児だろう。どの子も服はぼろぼろで、痩せていた。
相変わらず、ブラッドリーは下を向いていたが、子供の一人に声をかけ、修道院の前まで案内してもらう。バスケットから今日焼いたクッキーを配ると、子供たちは大はしゃぎだった。
「ねえ、君たち。マムって女性は知ってる?」
「知ってるよ」
子供の一人がクッキーのカスをこぼしながら、頷く。
「今、修道院にいるマムお姉さんでしょ?」
「ええ、そうよ。何か変わったことはない?」
私はさらに子供にクッキーを渡す。もはや賄賂だが、子供は素直だ。
「えっと、何か男の人と話してた。教会の礼拝堂の裏とかで」
「男の人?」
私はさらにクッキーを賄賂として送ると、男の特徴を聞く。それが魔術師エルとそっくりだった。
思わずブラッドリーと顔を見合わせた。
「まさかザガリーの言うように、エルがマムを脅している可能性あるか? 不倫をネタに……」
ブラッドリーの顔は真っ青だ。かつての不倫相手のトラブルだったが、自分にもその責任は少しはあると考えているらしい。今日はきちんとスーツも着ていたが、その表情で台無しだ。
「あなた、それは自分の蒔いた種でしょう?」
「あぁ、ごめん!」
頭を抱えて謝罪している。少々、かわいそうにはなってくるが、ちょうどシスターもやってきた。老女のシスターでアリアという。白い修道着がよく似合い、歳の割には背筋がピンとしている。
それに案内も素早く、私たちもマムのいる部屋に連れて行ってくれた。
二階建ての小規模な修道院だったが、今は身寄りのない女性やマムのような訳アリの女性も多く面倒を見ているそうだ。
「私も長年、この仕事をしていますからね。人間の悪い部分はよく見ているわ」
アリアはわざとらしくブラッドリーを見上げ、口角を上げていた。何でもお見通しという目だ。
「アリア、クッキーはいかが?」
「いや、今は断食中だから、けっこう」
クッキーはキッパリと断ってきたが、アリアはこんな話をしてくれた。
「人の心を動かしたいと思った時、決して正しさを使ってはいけないよ」
その声は優しげ。春の陽だまりのようの優しい。ブラッドリーははっと顔を上げた。
「正しさで人は動かないの。やっぱり、愛だよ、愛。これがわかればあなたたちの問題も解決するわ」
「アリア、つまり北風と太陽ってこと?」
「奥さん、勘がいいね。そういうことさ!」
アリアはウィンクをした。歳の割には可愛らしい仕草で、ブラッドリーも緊張を緩めたらしい。少し笑っていた。
「憎しみや復讐は、度を超えるとろくでもないない結果になるからね。無関係な人を苦しめたりするよ。やり返すより、愛を与えな。善で悪に勝ちなさい。お、もうマムの部屋についた。どうぞ、ごゆっくり」
気づくとアリアの案内も終わり、修道院のマムの部屋の前まで来ていた。
ブラッドリーはなかなか中に入ろうとしない。気まずいのさろうが、このままドアの前にぼーっと立っているわけにもいかない。
教会の鐘の音がよく響く。子供のはしゃぎ声まで聞こえてきたが、私はアリアほど甘くもない。
「さあ、ブラッドリー。自分で蒔いた種は刈り取ってもらいますわ」
「ひぇ、その悪役女優顔で責めないで!」
「まったく、もう。クッキー食べる?」
「う、うぅ……」
こんなブラッドリーにため息しか出ないが、先にマムの部屋へ入ることにした。
部屋は案外広く、ベッドや机だけでなく、ソファも置いてあったが、驚いた。
マムは部屋の隅に体育座りをし、ガタガタと怯えているではないか。しかも顔も真っ青だ。パジャマ姿だったが、鎖骨も浮き出て目立つ。体調不良というのは本当らしいが、こんなに怯えている理由は?
バッドエンド回避できてない?
私は背後で何か言ってるブラッドリーを無視し、マムに駆け寄った。近くで見るマムは余計に不健康そう。悪役にもヒロインにも見えない。ヒロインでも「悲劇」つきの方だったら、合うかも知れない。
「マム、どうしたの? お見舞いに来たの。クッキーとフルーツ食べる? ロン様の推しトークもしよう?」
ここでマムを責めないように、優しく言ったつもりだったが、マムはポロリと涙をこぼしていた。
「た、助けて! 魔術師エルに脅されているの! 殺されるかも!」
悲痛な叫びだった。マムの目はさらに虚ろになり、かつての不倫相手がいることにも気づいてなかった。




