One night in SHANGHAI
「明日から向こうに行って。独り身だから、用意も簡単だろう?」
「…はい」
僕は小さく答えて、デスクに戻った。急な出張を命じられたのだ。情けない話だが、それからしばらく仕事が手につかなくなってしまう。一人で海外に行くのが怖いという訳ではない、ただ…。そっと課長の様子を伺ってみたら、何があったか知らないが電話口で一生懸命謝っている。チャンスだ。僕は急いで総務に向かった。
「明日のチケット、現物で貰えますか?」
「あ、はい。後でお届けしますね」
「内線で呼んでください。なるべく早いうちに」
普段、ろくに口も利いたことのない女子社員に頼み込む。だいたい僕が、こんなに他人と話すことすら珍しい。自分で言うのも何だけど。そしてまた、仕事に戻った。
運良く昼前にチケットは受け取れ、休み時間に用事は済んだ。明日に備えろ、と、課長は定時で帰らせてくれる。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
彼女はいつものように、本を読んでいた。ページの間に指を挟んで立ち上がり、持ったまま迎えに出てくれる。
「ごめん。読書の邪魔しちゃったね。連絡もせずに、早く帰ってきたから」
「いいえ、本はいつでも読めるわ。すぐ、食事の支度をします」
「話があるんだ」
「なあに?」
「明日から、上海に出張になった。一週間くらい」
「…そうなの」
僕はいつも帰りが遅くて、部屋には寝に帰るだけ。朝もギリギリまで寝ていて、大急ぎで飛び出していく。だから、ろくに話もできない。
週末だけ、ブランチを外で取り、街をぶらつく。何か美味しそうなものを買い込んで、夜は部屋でゆっくりと過ごす。そんなささやかな贅沢が、今週は出来そうもない。
彼女はいつも、ここで一人ぼっちなのに。
「それでね」
「ええ」
「君も、一緒に行かない?」
「え?」
「今回は、僕だけだから。仕事だからやっぱり、昼間は寂しいかも知れないけど…。少しだけ、旅行気分で。どう?」
「いいの?」
「うん。出して貰ったチケットをキャンセルして、新しく二枚取ってきた。会社には内緒だよ?」
「…」
彼女の瞳が、濡れて光っている。何事かと、僕は動揺した。
「どうしたの…」
「嬉しくって」
泣き笑いに似た表情を見ていられず、僕は目を逸らす。嬉し泣きを見慣れていれば…、って、そんな奴はいないか。せめてそれにすぐ気づけば、泣くほど嫌なのかとか、詰まらない冗談も言えたのに。
「…良かった。じゃあ、急いで食事して、明日の準備だ。朝は早いから」
仕方なく、普通に話を変えた。
「ごめんね。こんなので。もっと贅沢な…」
二人で、旅に出たかった。君を、どこかへ連れて行ってあげたいんだ…、そう言いたいけど、口下手な僕には、なかなか言い出せない。
「ううん。ありがとう…本当に嬉しい…。夢みたいだわ」
俯いて目元を押さえると、彼女は顔を上げて笑顔を作った。僕にはそれが、とても眩しかった。
僕達はいつの間にか、一緒に暮らしていた。何の約束も、した訳じゃない。
彼女は、親友の妹だった。僕は、ずっとずっと前から、彼女のことを心から愛していた。でも、それに気づいたのは…、他の男のもとにいってしまってからだった…。
「何で言わなかったんだよ。知ってたら、俺…、」
彼は僕をなじった。でも、お前だって、困っただろう?一方的に僕だけが彼女を好きなのに。いくら親友だからって、そいつと付き合えなんて、兄貴が言えないじゃないか…、僕は黙ったまま、心の中でそう答えた。
それにあいつも、そりゃ、兄としてだろうけれど、彼女のことを愛していたはず。だから…逆に、どうしようもない男と結婚したいと言い出しても、好きにさせていたんだ。いつか目が覚めて、自分の所に帰ってくると、分かっていたんじゃないか…?少しひねくれた愛情表現で、それはきっと嫉妬の裏返しで…、いや、邪推は止めておこう。
きっと、僕自身が、そう思っているだけだろうから。だからきっと、何の根拠も無く、あいつが僕たちのことを認めないと決め付けて、黙っていたのだろう。
親友はよく、宿題に困ると僕を呼びつけた。僕は宿題を渡してそのまま写させ、ずっと彼女と二人で、読んだ本の話をしていた。他の友達にからかわれると恥かしいから、いちいち挨拶はしなかったけど、図書館で顔を合わせることも多かったので、話題には事欠かなかった。
「何だよ、お前たち。色気も何も無いな」
「兄さんは、ちっとも分かってないんだから」
「うん、そうだね」
僕は、曖昧に頷く。内心では、お前は大人しく宿題やってろ、こっちの邪魔するな、といつも思っていた。
「これは読みましたか?」
彼女は少し首を傾げて、ノートの次の行を指差す。読んだ本のタイトルが書いてある。兄の友達だしよく会う相手だけど、一つでも歳が上だから、子供らしく微妙な丁寧語で…、だけど、話を始めるときの、首を傾げる可愛い癖が、忘れられない。僕には、本の内容なんかどうでも良かった。僕が自分と同じ本を読んだことを喜んで、楽しそうに話す彼女の顔を見ているだけで、良かった。
それでもだんだん大人になって、いつの間にか、会うこともなくなった。卒業して仕事に就いた後は、親友と連絡は取り合っていたが、家に訪ねて行くことも少なくなった。
そんな僕には、遠くへ行ってしまった彼女を、どうこう言う資格などない。
だが、急ぎすぎた恋は不幸な結果に終わり、彼女は一回りも痩せて戻ってきた。目ばかりが大きく、顔色が悪くて、僕は悲しかった。
「たまに、会ってやってくれよ。昔みたいに、本の話とかして。俺には何もしてやれない」
「あ、うん…」
できそうにもないことで、僕は生返事をする。彼女にどう接すればいいのか、分からないのだ。
「お前と一緒になれば、よかったのにな」
本音なのか、ただの愛想なのか。親友の言葉は寂しそうだったが、僕は短く答える。
「そんなこと、言っちゃ駄目だ」
「悪かった。もうあいつは、出戻りだからな」
たとえ身内でも、冗談でも、言っていいことと悪いことがある。僕は頭に血が上って、大きな声を出した。
「そうじゃない!」
「…そんなに、怒るなよ。今度、部屋の掃除にでも行かせるから」
「何だよそれ?…まあ、本当に来てくれるんなら、バイト代払うよ」
僕のもとに、ある日、彼女がやってきた。
「お邪魔します」
「あ、ごめん。こんなところに…」
「ううん。久しぶり」
散らかった部屋を手際よく片付けると、冷蔵庫を覗いて、首を傾げる。
「何も入っていないのね」
「うん…、部屋には寝に帰るだけだから」
「じゃ、今日だけ食べられるくらい、作りますね」
一緒に買い物に行き、作ってもらうのは悪いからと、デリカテッセンで何品も買い込んだ。夕食を付き合ってもらい、片付けを手伝う。嘘みたいな幸せに、僕は少し酔っていたようだ。
「そろそろ、帰ります」
「あの…」
立ち上がった彼女は、また首を傾げる。昔と同じ、少し考えるときの仕草が、一気に時を戻す。
「…また、来ますね」
「待って。帰らないで」
僕は急いで、腕を掴んだ。彼女は驚いて、一瞬、顔がこわばる。
「ごめん、力が強かったね」
「…分かりました」
そう言うと少し悲しそうな顔をして、小さなソファに戻った。
「ここで、いいかしら?」
俯いて、胸のボタンを一つずつ外していく。
「止めてくれ!何を考えてるんだ!」
「…」
「違う…、僕は、そんなつもりじゃ…」
「…ごめんなさい」
「いや…大きな声を出して、悪かった。僕は…、僕は…」
言いたいことが、上手く言葉にならない。彼女も戸惑ったのか、身じろぎもせずに僕を見つめたままだ。
「ここに…、ずっといて…」
「…」
「何も、しなくていい。勿論、僕は君には手を触れない。ただ…ここにいて欲しい。そして、読んだ本の話をしてくれないか」
必死に言った、拙い言葉が通じたのか、そのときから彼女は、僕の部屋にいる。僕はずっとソファで寝る羽目になった。だが、誰かが待ってくれている幸せには、代えられない。
彼女の気持ちを確かめることが、別離を招くような気がして、敢えて何も問わずにいる。僕が彼女に惹かれている気持ちだけは、本物だと思う。思うけれど…怖くて、次の一歩が踏み出せなかった。だからこんな、ぬるま湯に浸かったような、危うい幸せの中にいる。ここから抜け出したくはない。だが、これ以上踏み込むのも、怖い。
空港から街に入り、予約していた清代からの古い飯店へと向かう。名前は飯店だが、ホテルだ。老舗の料理店の上階が、宿泊施設になっている。
「面白いのね」
「食事が別だから、意外と安いんだよ」
本当は財布に無理をして取ったスイートの部屋に落ち着き、夜は街に出た。通りを歩いて、雑誌で見つけていた店に入る。シルクの専門店で、チャイナドレスのオーダーも可能のはずだが…。
「あいにく、八日以上のお日にちをいただきます」
その前には、仕事を終えて戻らなくてはならない。何とかならないかと交渉したけれど、無理な相談だった。
「いいのよ。ありがとう」
「君に、似合うと思ったのに…」
「優しいのね、本当に」
「だって、普段何もしてあげていないから。こんな時こそ、と思ったんだ」
高くつくかも知れないけれど、僕が選んだ生地を身につけた姿を見たかった。両手を開いて首を振る店員を前に、僕ががっかりしていると、彼女が明るい声で呼ぶ。
「ねえ、これが欲しいわ」
店先のウィンドウの、小さなバッグを指差していた。細かな刺繍がしてあるが、ドレスとは比べ物にならない安物だ。
「とても綺麗よ」
「おお、お目が高い。そちらは、大変良い生地を使っております」
本当かどうか怪しいが、金銀とビーズで彩どられたバッグは、やがて彼女の腕に下がった。シンプルな黒いワンピースに、よく似合う。通りかかる人々が、振り返って見ているような気がする。僕は少し機嫌を直し、次は、ちゃんと予約していたジャズクラブに向かった。租界地であった頃に流れ込んできた西洋文化が、ここではずっと息づいている。
「古き良き時代の、上海ジャズが聴けると思う」
「楽しみだわ」
大きなドアをくぐり、古い石貼りの廊下を通って、店に入った。新しく入ってきた客が、満席で断られ、残念そうに踵を返していく。
「良かった…」
「うふふふ」
ボーイに案内されて席に着くと、『オールド・ジャズ・バンド』の名の通り、年配のジャズメンたちが演奏をしていた。
「往年の若者達だね。何かリクエストをしようか?」
「ううん。ジャズは分からないから…でも、楽しいわ」
だが、一曲が終わると、聞き覚えのあるメロディが始まった。
「『さくらさくら』…?」
「日本の方とお見受けしましたので」
ボーイが話しかけてくる。ここは、観光客が多いので、慣れているのだろう。
「見て、わかるものなの?」
「お客様はすぐ、分かります。お連れ様は…」
「うん」
「日本の方も、わが国の女性と同じくらいお美しいのですけれど…」
「それで?」
「バッグを腕にかけていらしたので。日本の方と」
「まあ」
「へえ…」
「わが国で、美人を見かけたときは…。脚の綺麗なのが中国の女性で、バッグを持たずに腕を通して肘にかけているのが日本の女性です」
「何だ、それ」
「とりあえず、褒められたと思っていいのかしら」
そうだな。僕はどうでも、彼女が美人だと言われたのだから。
僕は、ムーディなジャズと、思わず過ごした酒と、幸せに酔い、やっとホテルに戻った。
「ふう…。ごめん…」
「どうしたの」
「飲みすぎた。だらしないな」
「うふふふ」
彼女が笑っているのをいいことに、僕はベッドに並んで座る。肩に手を掛けて、抱き寄せた…かったが、臆病さか、律儀さかが押し止めた。くらくらと目が回り、そのまま横になって、眠ってしまった…と思う…。
明け方か。ふと、気がつくと…。僕は彼女を抱いて、一つのベッドに横たわっていた。くそっ、なんてこった。慌てて起き上がろうとすると、黒い大きな瞳が僕を見つめている。
「ごめん。酔っ払って、とんでもないことを…、僕は、最低な男だ…」
「いいのよ。それより…、外の様子が変だわ」
何故か、彼女は大して気にもしていない様子で、違う話をしだした。
「外って…?」
僕はローブをはおり、窓際に立って外を覗いてみる。
何かが、違う…?この古いホテルはそのままだが、周りの建物が妙だ。言葉は悪いけれど、雨後の筍のように林立していた高層ビルが見えないのだ。
「勘違いかな。ビルがもっとあったと思うんだけれど…」
強いて言えば、全てが、古臭い。古い映画を見ているようだ。
「ねえ、見て」
彼女がドアの下から差し込まれていた新聞を拾い、差し出す。それは薄くて印刷も悪く、いや、何より…。
「何だ、この日付。1934年って…」
「時間が、ずれたのかしら」
「…」
信じられないことを、気軽に言う。いつも読んでいる本の世界では良くあることで、あまり問題ではないのだろうか。
「とりあえず、状況を把握しましょう。今はいつなのかしら。私たち、どうしていればいいのか…」
「この新聞の日付によれば、西洋の租界地だったころだね」
魔都と呼ばれたこの都市に、身一つでいきなり放り込まれたって…。
「大丈夫よ。私たちには、史実という知恵があるわ」
僕達は着替えると、街に出る支度を始めた。この時代にも日本人はいて、色々と商売をしていたはず。何とか伝手を得て、相場でも始めればいいと言う。景気の大体の流れは知っているから、そうそう外しはしないだろう。
「それに、いざとなったら…」
「何だい」
「女には、最後にまだ、売るものがあるわ」
「冗談じゃない!」
「怒らないで。言ってみただけよ」
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
そりゃ、昔、この時代を舞台にした本を読んで、夢想したことはあるけれど…。待てよ、誰の、何て題名だっただろうか…。確か…彼女が持ってきた本だ…。
「横光の、『上海』か?」
「え?」
今の僕たち。この地に根を生やしているわけでもない日本人。そして、親友の妹である最愛の女。終わりは…、結末は、どうだっただろう。よく覚えていないけれど、ハッピーエンドではなかった。読後感が、余り良くなかったことだけは、記憶している。
「嫌だ、嫌だ…、そんなの…」
「落ち着いて?」
頭を抱えてしまった僕を、彼女は腕を回して支えてくれる。何かに縋りたくて、僕は言葉を続けた。
「お願いだ…、側にいて。頭が、おかしくなりそうだ」
「いつもと違うわ、変よ」
変、って。落ち着いている君の方が、変だ。そっと見上げてみる。本当に、彼女なんだろうか。だが、穏やかな表情で微笑む姿はいつも通りだ。それが逆に、何だか恐ろしくって…、でも心細くて、やっぱり、しがみついた。
「どこにも行かないで、お願いだから」
「ええ、ここにいるわ」
腕に縋って、背を抱いてもらっているのに、心配でたまらない。目の前にいるのに、ずっと、ずっと遠く感じられる。
「僕の、側にいて…」
悪い予感の通り、急に彼女の姿は消える。僕は驚いて腕を伸ばした。だが、指先にはその身体は触れない。どこに、どこにいるのだろう?周りは闇に包まれ、僕は、パニックに陥りそうになった。身もだえしつつ、腕を伸ばしてあちこちを探る。そしてとうとう、何かに触れた。柔らかな手だ。ぐっと掴むと、引き寄せようとした…。
「どうしたの?うなされていたので覗き込んだら、急に暴れだして…」
目を開けると、彼女が僕の顔を見下ろしていた。
「あ、ああ…、良かった…」
そのまま、しがみつく。確かに、温かい身体を抱いていると感じられて、ほっと息をついた。
「うん?」
「君が、遠くに行ってしまった夢を見ていた。七十年も昔に、一人で放り出されて」
「ええっ?」
「夢想癖は、君だけじゃないんだな」
「酷いわ。酔って、変な夢を見たのね」
「そうかも知れない…」
ふと、彼女を抱いたままの自分を思い出し、慌てて腕を放そうとしたが、甘えたい気持ちが言葉になって、口をついて出ていく。
「ねえ、もう少し、このままでいてもいい?気持ちが、落ち着くまで」
「…いいわよ」
優しく答えてくれて、僕は安らかな気持ちになる。そのまま眠れるはずだった。でも、もう少し話したいこともある。
「心配してくれたの?」
「ええ、驚いたわ」
「本を放り出して、来てくれてた」
もう一つのベッドの上に、読みかけの本がひっくり返っている。彼女はいつも、読んでいるページに指を挟んだままか、しおりを挟んでから置くかして、僕のところに来るのに。
「嫌だわ。私だって、そんな、不人情じゃないのよ」
「ありがとう。大好きだよ」
「もう…。まだ、酔っているのね…」
「うん。そうだよ、もうずっと前から、君といる幸せに酔ってるんだ」
「はいはい。続きは、素面の時に聞くわ」
すっかり、酔っ払い扱いだ。くそっ…。だが今、言わなかったら、いつ言うんだ。
「だから、これからも、ずっと側にいて。死ぬまで」
「…」
「君が嫌だと言っても、離さないから。帰ったら、あいつの所に申し込みに行ってくる。
いきなり、『義兄さん』って言ってやる」
彼女の笑顔がゆがんで、泣きそうになった。洒落てはいないが、例の冗談でも言ってみようと思う。
「ごめん。泣くほど嫌なら、止めるよ」
「馬鹿ね…」
「ああ、馬鹿だよ。今まで何年も、言えなかったんだから」
「ええ、大馬鹿だわ。あなたも、私も」
陳腐な表現だけれど、幸せは、きっと身近にある。青い鳥のお話のように。
僕はとうとう、約束を破った。
あの悪い夢と同じように、明け方には、彼女を抱いてベッドにいた。でも、それは夢じゃなくて、僕の宝物は、腕の中で小さな寝息を立てて、眠っていた。
「帰ったら、引越ししなくちゃならないな。ちゃんと、二人で暮らせる部屋に」
低く、独り言を呟いてみる。その言葉はじんわりと、心にしみた。
お読みいただき、ありがとうございました。