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山の向こうのサルたち

昔々のお話です。平穏に暮らしていた人々が野生の生き物に住む場所を追いやられる話です。

風は、記憶のように静かに谷をなでていた。

岩肌に刻まれた年月は、声を持たぬ者たちの祈りのように、ただそこに在った。


まだ、言葉というものが世界に根を下ろしていなかったころ。

音は、意思ではなく、風や水や炎のかたちを真似るものに過ぎなかった。

それでも彼らは生きていた。

目で見て、匂いを嗅ぎ、手で触れて、心で受け取った。

沈黙は、死ではなく理解だった。


彼らは名を持たなかった。だが、その暮らしには秩序があり、誇りがあった。

体は大きく丈夫で、賢明で思いやりがあり、冷静で静謐を愛した。

人は少なく、獣は多く、果実は豊富だった。


道具は手に馴染むかたちであれば十分で、狩りも、果実の採集も、一人でできた。

彼らの骨は重く、腕は太く、瞳は深く、視線の奥には静かな焔が宿っていた。

彼らは人のはじまりの、もう一つの形だった。


彼らは、言葉を使わずに話し、物を残さずに記憶し、声なき方法で知を伝えた。

風が変われば季節を知り、鹿の群れが向きを変えれば、大地の異変を察した。

それは知恵と呼ぶにはあまりにも自然で、文明と呼ぶにはあまりにも無垢だった。


やがて、彼らは山を越える。

そこに何があるのか、誰も知らなかった。

けれど、夜の静けさの中で、遠くにかすかに響いた奇妙な声――

そのざわめきが、まだ見ぬ変化の影をまとって、風とともに彼らの背中を押していた。


この物語は、声を持たぬ人々が残したひとつの足跡の話である。

そして、いつしか忘れられたその痕跡が、何万年もののち、光の中で見つかることになる。


----------


炎は、獣の脂に濡れた木を舐めながら、ゆるやかにゆれていた。

その周りに、人影が五つ、六つ。誰も言葉を発さず、火の揺れと肉の焼ける音だけが、洞の天井に低くこだました。


この谷は、風が優しい。

冬も深くはならず、獲物は多く、果実も甘い。

だから彼らは、ここに留まっていた。森と川と岩が守るこの地で、数えるほどの者たちと暮らしていた。


彼らは、仲間というより、身体の一部のようだった。

目で合図を交わし、狩りのときは誰がどこに立つか、音もなく決まった。

誰もが、自分の役割を知っていたし、他の者を煩わせることもなかった。


老いた者は知恵を蓄え、若き者は骨を削り、火を守り、走った。

子どもは少なかったが、だからこそ一人一人を大切にし、育てた。

死は身近なものであり、土に還すそのときも、

語ることなく、皆で集まり、祈りを捧げ、土の中に見送った。


この夜も、変わらない火が、変わらぬ闇を照らしていた。


だが、変わらぬものなど、世界にはひとつとしてない。


最初に異変に気づいたのは、狩りから戻った青年だった。

その背に獣の皮をくくりつけ、歩みを止めたまま、じっと森の向こうを見つめていた。

仲間のひとりがそっと近づくと、青年はただ、ゆっくりと首を振った。


「音がした」


その目は語っていた。聞きなれない、ざわめきのようなもの。

獣でも、風でもない。もっと小さく、だが途切れず、やかましく、川の上流から響いてくる。


それは、世界の隅に置き忘れられていた静けさが、どこかで崩れ始めた音だった。


火のまわりにいた者たちは、目を合わせることなく、同時に視線を上げた。

その火は、これまでと同じようにゆれていた。だが、何かが違っていた。


夜が、少しだけ遠くなった気がした。

闇が、わずかに色を変えていた。


彼らはまだ知らなかった。

それが、終わりのはじまりの、最初の一歩だったことを。


----------


翌朝、霧は深く谷を覆い、木々の枝先がぬるりと濡れていた。

鳥の声もせず、風さえ音を立てない。

彼らの一人が岩場に立ち、遠くを見つめた。眼は鋭く、獣の影を追う狩人のそれだった。だがこの朝、獲物の気配はなかった。


代わりに――風が、奇妙な音を運んできた。


それは、聞きなれぬ“声”だった。

だが言葉ではなかった。

まるで、いくつもの小さな獣が一斉に叫び、鳴き、騒いでいるような――サル山の朝のような騒ぎだった。


「ペチャ、キー……キャキャキャッ……」


音は遠いが、絶え間なく続く。風にのって、谷の反対側、山のふもとから届いてくる。

その方角には、獣も少なく、仲間も近づかない。

だが音は、そこに生き物が集まり、火でも起こしているような気配を帯びていた。


ひとりの女が、苛立ちと不安の混じった目で火を見つめていた。

彼女の腕に抱かれた小さな子が、まだ知らぬ音にびくつきながら、母の胸にしがみついた。


その夜、男たちは高台へ登った。

月の光が山の影を濡らし、遠くに揺れる明かりが見えた。

点々と並んだ火の群れ――それは、多すぎる命の光だった。


火の数を見た瞬間、誰もが理解した。

そこにいるのは、獣ではない。

風ではない。

そして、自分たちと同じではない何かだ。


小さく、やかましく、集まりたがり、意味もなく動き、飾り立てたものを身につける。

女も、子も、男も――あまりに多すぎた。


「なぜ、あんなに群れる?」


火を見ながら、年長の者がかすかに頭を傾ける。

誰も答えなかった。

答えられるはずがない。

彼らは、そんな生き方を知らない。


数日が過ぎても、騒音は消えなかった。

それどころか、川の水が少し濁りはじめ、いつも現れる獣たちの足跡が減ってきた。


彼らはまだ、接触を持たなかった。

それでも確信しはじめていた。


あの毛のないサルたちは、この土地に根を張るつもりだ。


そして、それは静けさを失うことを意味していた。


----------


木々の葉が早く黄ばんだ。

果実は熟す前に落ち、獲物となる獣たちは姿を見せなくなった。

川の流れも痩せ、岩の間に白く泡立つことが増えた。


彼らは、静かにそれを受け入れた。

自然の気まぐれは、咎めるべきものではない。

季節はめぐる。獣も還る。

そう思っていた。


だが、川を渡ったある日、一人が帰ってきてこう伝えた。

向こうの谷は、荒れていたと。


木は倒れ、地面は踏み荒らされ、獣の骨と焦げた果皮が無造作に散らばっていた。

煙の匂いが染みつき、空気に動物の気配がなかった。


そして、そこに毛のないサルたちがいた。


彼らは群れ、騒ぎ、走り、地を掘り、木を切り、火を絶やさずにいた。

子どもは多く、女たちはやせ細り、男たちは怒りやすく、顔を赤くしていた。

意味のない飾りを身にまとい、甲高い声を交わしながら動き続けていた。

体も華奢で、やってることは子供じみている。

ただ集まってキーキー騒いでいるかと思うと食べ物を奪い合っている。


「食い尽くしている」――

そう、誰かが岩の上で、火に向かってつぶやいた。

数の多い彼らは多くの食料が必要なのだろう。

だからといって手当たり次第に食べていいというわけではない。


彼らのせいで静けさがなくなっていた。

狩るべき獣が減り、採るべき実が消え、川はにごり、空は乾いていた。

獣は彼らが食い尽くし、果実も彼らが食い尽くした。


強く、賢く、気高い我々にとって

あの、弱々しく、やかましく、なんでも食い散らかす毛のないサルの

隣人でいることは耐えがたくなってきた。


その夜、彼らのあいだに言葉はなかった。

それでも、目を見ればわかった。

ここを離れるしかないと。

住みよい土地は毛のないサルが壊してしまった。


だが、どこへ?


年長の男が洞の奥の壁に手を置いた。

岩の感触を確かめるように、静かに指をすべらせた。

そして、上を見た。


山々がある。頂に白い雪が見える。

高く、冷たく、白い息を吐くあの壁の向こう――

風が変わる場所に、まだ誰の手も届いていない地がある。知恵はそう教えている。


火のそばにいた若い者たちが立ち上がった。

老いた者はうなずいた。

女たちは、小さな子をしっかりと抱きしめた。


次の日の朝、まだ陽の射さぬうちに、選ばれた者たちが出発した。

背には毛皮と石の道具、そして塩漬けの肉。

山の風は冷たかったが、空は広く、彼らの瞳には恐れよりも先に、静けさの残響が映っていた。


ここにはもう、沈黙の居場所がなかった。

ならば、まだ眠っている静けさを探しに行くしかない。


のちにツールリエロとも呼ばれる山を越える風に向かって、

彼らは力強く歩み始めた。


----------


山は、ただそこに在った。

白い雪をかぶり、裂けた岩を抱え、風を跳ね返しながら、あらゆるものを黙って見下ろしていた。

彼らは、その沈黙に身を委ねながら、山の腹を這うように登った。

口数は少なく、足取りは確かだった。


吹きつける風が指の関節を刺し、骨に冷気が染みる夜もあった。

それでも彼らは歩いた。

ただ、そうすべきだと、彼らの知恵が言っていた。


そしてある朝、霧が晴れた先に、それは現れた。


谷――

大地がゆるやかにたわみ、川が銀の糸のように走り、木々がうねるように広がる場所。

鳥の声があった。

獣の足音が戻ってきた。

果実の香りが、風の中に混じっていた。


彼らは、ようやく静謐の土地にたどり着いたのだった。


谷の奥、岩のあいだから黒く口をあけた洞を見つけたとき、誰もが直感した。

そこは、眠るのにふさわしい場所だった。

火を灯し、石を並べ、乾いた萱を敷いて、彼らは新たな暮らしを始めた。


日々の営みは、かつての静けさを取り戻していくかのようだった。

狩りは成功し、果実は豊かに実り、子どもたちの目にも安堵の光が差しはじめた。


だが、ときおり、谷のかなたから変わった風が来ることがあった。


夜、火を囲む沈黙のなかで、ふいに誰かが顔を上げる。

耳を澄ませても、何も聞こえない。

だが、なにかが通り過ぎた気配だけが、皮膚にかすかに残っている。


風が、過去の音を運んでくる。

毛のないサルたちの甲高い声が、霧の向こうでかすかに鳴いているような、そんな錯覚。

それは夢か、記憶か、あるいは……


谷は、しばしのあいだ、彼らを受け入れてくれた。

風は穏やかで、火は静かに燃え、子どもは笑った。


けれど、誰かが言った。

「また、風が変わるかもしれない。」


そのとき、まだ誰も知らなかった。

静けさには限りがあるということを。


----------


谷は、ある日を境に、わずかずつ沈黙を減らしていった。

最初は小さな違和だった。

水音の中に混じる、金属のような響き。

風が運ぶ、焼け焦げた獣皮のにおい。

聞き覚えのある――だが、思い出したくない音。


毛のないサルたちが、再び近くに現れたのだ。


彼らは変わっていなかった。

やかましく、無意味に群れ、飾りをつけ、火を絶やさず、絶えず何かを壊し続ける。

その足音は、森の奥の獣たちを散らし、川を濁らせ、空を濁らせた。


彼らは、静けさの敵だった。


夜、洞の奥にこもった火が揺れ、男たちはひとつ、またひとつと石を積み上げていた。

子を抱いた女たちは目を合わせず、ただ風の流れに耳を澄ませていた。

言葉はない。

けれど、すでに皆が決めていた。


――ここを、離れる。


再び旅が始まる。

北へ向かう。

この谷の先、まだ誰も知らぬ森と岩の彼方へ。

もう一度、静けさを探しに行く。


だが今度は、去る前にひとつのことをした。


洞に、絵を描いた。


火を灯し、壁の奥に赤と黒の色を重ね、彼らが見た獣たちを、枝のような線で描いた。

角を持つもの、群れを成すもの、走るもの、飛ぶもの。

子どもたちは、手のひらに土を混ぜた染料を塗り、壁に押し当てた。

その跡は、まるで時間のかけらのようだった。

そして、絵の端に毛のないサルもひとつだけ描いた。


記すためではなかった。

見せるためでもなかった。

生きていたことを、ここに置くためだった。


翌朝、彼らは静かに谷を後にした。

誰も振り返らなかった。

だが、誰も忘れなかった。


風が、壁の絵をなぞるように吹いていた。

やがてそれは、闇とともに閉ざされ、眠るように忘れられていく。


だが、何万年ののち――

その眠りは、ふたたび光の中で目を覚ますことになる。


----------


そして・・・

光が岩肌をなぞった。

人の手が持つランプの明かりが、太古の闇を初めて照らした。


岩の内側に、動物たちの姿が眠っていた。


角を持つもの。

跳ねるもの。

駆けるもの。

そして、小さな手のひらの跡。


それらは、色を持っていた。赤と黒、そしてわずかな黄。

岩のしわに沿って、描く者の指先が、迷いなく動いていたことがわかる。

獲物の動き、風の流れ、命のかたちが、静かにそこに在った。


学者たちは、言葉を持ってそれを記録した。

測定し、分析し、比較し、論じた。


「これは人類最古の芸術かもしれない」と。

「ここには意図がある、象徴がある、文明の始まりがある」と。


だが、誰も描いたその手を知らなかった。

言葉を持たず、名を持たず、ただ静けさのなかで火を囲み、獣と語らい、

風とともに生きた者たちのことを――。


そしてそのとき、若い研究者が、ふと声を上げた。


「……ちょっと、これ見てください。隅のほう……人間みたいな――」


皆が一斉にライトを向けた。


壁画の端、薄く残った赤い線。

他の獣たちとは異なる形――二足で立ち、腕を大きく広げた姿。

顔には目と裂けたような口が描かれていた。

周囲の動物とはまるで異なる線質。だが、確かに、そこにあった。


「なにこれ……猿?」


「いや、これ……もしかして、人間? 彼ら、自分たちを描いたのかな――」

「なんで自分をこんな隅におまけのように書いたんだろう?」


あれこれと推論が飛び交い、誰もが興奮し、声を上げ、身を乗り出した。

まるでその場に獲物でもいるかのように。


そしてその騒ぐ様は、あの“毛のないサル”のようだった。


いかがだったでしょうか、人々とはネアンデルタール人、そして彼らを追い出した動物は現生人類という枠組みです。実際には共存していたようですが、ちょっとした物語にしました。

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