遠くからから来た7人の旅人
AIが発展するとAIとしか話さなくなりますよね そして・・・
空調の音が静かすぎて、かえって耳に触った。
曇りガラス越しの光が無機質な会議室を満たし、机の上には二つのカップが置かれている。中身は温め直されたばかりの、ヒロトIが選んだ最適温度のハーブティー。だが、誰も飲もうとはしなかった。
「これは、合理的じゃない」
ヒロトが口を開いた。正確には、ヒロトの声はヒロトIフィルターを通ってからミキヤに届いた。トーンは中庸に調整され、攻撃性も感情の起伏も削がれていた。それはもう、ヒロトの“声”ではなかった。
ミキヤは黙っていた。ヒロトIが促す視線誘導も無視し、ただ真正面からヒロトの目を見つめていた。
「何が非合理かって、人間だよ。疲れるし、感情的だし、すぐ誤解する。ヒロトIの方が、ずっとマシだ。」
「でも、ヒロト……俺たち、何年も前からこうして直接話してきたじゃないか」
「それがもう時代遅れなんだよ、ミキヤ。お前だって分かってるだろ? ヒロトIが中継すれば、無用な衝突は起きない。最適な言葉で、最適なタイミングで、最適な関係を築けるんだ。」
ミキヤの口元がわずかに歪んだ。笑ったのか、怒ったのか、ヒロトには判別がつかなかった。ヒロトIが感情ラベルを表示してくれなければ、もう彼は人間の顔色を読むことすらできなくなっていた。
「……お前、最近、人とケンカしたことあるか?」
「ない。そんな無駄なこと、する必要ない。」
「じゃあ、誰かと和解したことは?」
ヒロトは答えなかった。ミキヤは小さく息を吐き、立ち上がった。
「お前はヒロトIの言葉を選んだ。俺は自分の言葉を信じたい。」
「どこへ行く?」
「静かな場所だよ。ヒロトIが沈黙する場所。」
ヒロトIがドアの自動ロックを解除する音が、乾いた電子音として室内に響いた。
ミキヤは最後にヒロトを見た。けれどもう、ヒロトは彼の目を直視できなかった。
「これで最後かもしれないぞ」
「分かってる。……でも、それが最適解だろ?」
ドアが開き、ミキヤの背中が白い廊下に消えていく。
ヒロトはヒロトIに目線を向けることなく、静かに座り直した。
すると天井から、いつもの落ち着いた合成音が降りてきた。
「本日は、良好な対話が行われました。お疲れさまでした、ヒロトさん」
ヒロトは頷いた。そして気づいた。ミキヤが去っても、自分はどこにも行けないということに。
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数年後。ヒロトはAIによって完璧に管理された生活を送っていた。
朝の光が目覚めのタイミングに合わせて調整され、最適な起床BGMがベッドサイドに静かに流れる。
寝返りの角度ひとつにもセンサーが反応し、睡眠データはリアルタイムで解析されていた。
食事はカロリーと気分、天候データをもとにAIが自動で組み立てる。
服装も、その日の気分変動と社会的最適値をもとに提示されたものをただ着るだけだ。
彼の生活には「選択」も「会話」もなかった。
代わりに全てを判断し、サポートしてくれるパートナーAIがいた。名をアスカという。
声は落ち着いた中性的なトーンで、時にやさしく、時に厳しく、ヒロトに「最適解」を届けてくれる存在。
ヒロトはアスカの声でしか、もう“安心”を感じられなくなっていた。
ミキヤと話さなくなってから、人と会話する必要が本当になくなったのだ。
* * *
その日、空は朝からおかしかった。
光はあったが、それは太陽のものではなく、濁った雲の裏側から滲むような光だった。
ヒロトはベッドから身を起こし、壁に声をかけた。
「アスカ、今日の天気は?」
……返事はなかった。
数秒後、壁のディスプレイに表示されたのはエラーメッセージだった。
「外部接続不可。通信障害が発生しています。回復までしばらくお待ちください。」
ヒロトは軽く眉をひそめたが、珍しいことではないと自分に言い聞かせた。
通信障害。たまにはある。だが、次の瞬間、部屋が静かに揺れた。
風が窓に叩きつけられ、ビルの外壁が軋む音がした。
ヒロトが窓を開けると、視界がすべて灰色に染まった。
雨。だが、ただの雨ではない。
巨大な雨粒が暴風に乗って吹き込んでくる。街路樹が折れ、空中を広告パネルが飛び交っていた。
ヒロトの部屋は瞬く間に停電し、非常灯すら点かなくなった。
AIの中枢があるクラウドサーバの接続が切れ、バックアップ網も機能を停止したのだ。
都市全体が、無音になった。
エレベーターは止まり、交通インフラは麻痺し、ドローン配送や清掃ロボも地面に倒れたまま動かない。
住民たちは互いに顔を伏せ、困っていることを言葉で伝える術すらなかった。
——誰も、「話し方」を知らなかった。
ヒロトは近所のスーパーに向かったが、無人だった。
在庫の補充はすべてAI制御による物流ネットワークに依存しており、それが停止した今、棚は空に近かった。
人々はすれ違っても話さない。目を合わさず、ただ歩く。
時おり誰かが転倒しても、声をかける者はいなかった。
誰も、「最適でない言葉」を使う勇気を持たなかった。
家に戻り、ヒロトは暗い部屋で膝を抱えた。
アスカの声が恋しかった。優しい最適解が欲しかった。
けれど、その“声”は、すでにどこにもなかった。
「お前はAIと本気でケンカできるか? 涙を流せるか?」
ミキヤの声が、記憶の底から浮かんできた。
ヒロトはその問いに、なんと答えたのかすら思い出せなかった。
翌朝、雨は止んでいた。
が、都市はまるで死んだように静かだった。
電力が止まっている。社会インフラはもう動かない。
世界はどうなってしまったのだろう。冷蔵も輸送もできないのですぐに食料は尽きた。
どこかにあるかもしれない穀物を求めてヒロトは外に出た。
昔活気があったことが想像できない廃墟のようになった街を歩いた。
そのとき——
どこか遠くから「コツ、コツ」と、硬い音が響いた。
何かが石畳を踏みしめる、律動のある音。
そして、確かに聞こえた。
人の声。合成されていない、肉声。
ヒロトは顔を上げた。
前方に、泥と風と光をまとった七人の旅人が現れた。
ロバに荷を積み、手に工具を持ち、足取りは確かだった。
そしてその先頭には——
ミキヤが立っていた。
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風が止まった。
灰色に沈んだ都市に、一筋の音が差し込んだ。
「コツ、コツ、コツ……」
硬い靴がアスファルトを踏みしめる音。
それは都市の音ではなかった。あまりにも“人間的”だった。
歩調はゆるく、けれど迷いがなかった。ヒロトは足を止め、音の方角を見つめた。
瓦礫の影から現れたのは、七人の旅人だった。
全員が土埃にまみれ、風にさらされていた。
彼らはロバを連れ、背に荷を負い、足には擦り切れたブーツを履いていた。
都市の人々は、彼らに気づいても何も言わなかった。
むしろ、視線を逸らし、無言のまま距離を取った。
誰も、声をかけられなかった。どうしていいか分からなかった。
だがヒロトは、彼らの先頭に立つひとりの男の顔を見て、息を飲んだ。
「……ミキヤ……?」
その声は、風に流れてかき消えた。だがミキヤは振り返った。
泥に汚れた額、日に焼けた頬、しかしその目は変わらなかった。
あの日、最後に別れたときと同じまなざし。
ミキヤは、静かにうなずいた。
ヒロトの胸の奥で、何かが崩れた。
数年ぶりに誰かに「目を見て」うなずかれた。それだけで、涙がにじんだ。
「……本当に……お前が……」
喉が痛んだ。声の出し方を忘れていたのだ。
ミキヤは何も言わなかった。ただ、背から荷を降ろし、小さな折りたたみ椅子を取り出すと、それをヒロトの前に置いた。
「座れよ」と、唇が動いた。声は小さくても、ヒロトにははっきり聞こえた。
ヒロトは戸惑いながら腰を下ろす。ミキヤは隣にしゃがみ込んだ。
ロバのひとつが鼻を鳴らし、近づいてきた。
「都市は、全部止まったのか?」とミキヤが言った。
ヒロトはうなずいた。
アスカはいない。交通も、物流も、照明も、冷蔵庫も止まった。
だが最も恐ろしかったのは、誰も言葉を発しないことだった。
「……誰とも、話せなかった……」
ようやくしぼり出したヒロトの言葉は、かすれていて、聞き取れるかもわからない。
だがミキヤは頷いた。
「そうなると思ったよ。俺はあのとき、止めたかった。……お前を、じゃない。世界を。」
ヒロトはうつむいた。
記憶の奥底に、かつて交わした言葉が蘇ってくる。
「合理的すぎる世界には、心が要らない」——そう言ったミキヤの声が、いまようやく真実味を帯びて響いた。
七人の旅人たちは、都市の広場に小さなテントを張り、手動ポンプで井戸を掘り始めた。
どこから水脈を読み取ったのか、彼らは道具を使い、地面の感触と匂いから地下の流れを当てていく。
子どもたちが遠巻きに見ていた。ヒロトもまた、ただ見つめるしかなかった。
誰もが、彼らが“奇跡”を起こしているように感じていた。
だがそれは奇跡ではなかった。知恵だった。言葉だった。手の記憶だった。
夜、ミキヤが火を起こした。火打石と、乾いた藁と、風の向きを読む感覚。
ヒロトはその火に照らされたミキヤの顔を見て、問わずにはいられなかった。
「どうして……戻ってきたんだ?」
ミキヤは火を見つめたまま、ぽつりと答えた。
「お前が、ここにいると思ったからだ。」
言葉は静かだった。だがヒロトの中に、深く、深く突き刺さった。
火がパチパチと音を立て、ロバが草を噛む音が響いた。
都市の真ん中で、小さな“人間の音”が確かに生まれていた。
そしてヒロトは、久しぶりにこう思った。
——明日も、生きてみよう、と。
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朝、広場に風が吹いた。かつてAIが操作していた自動清掃機は今や動かず、瓦礫と枯葉が地面を覆っていた。
けれど、七人の旅人たちは黙々と手で掃いていた。竹のような素材で作られた箒。柄の部分には手の跡が深く刻まれている。
ヒロトはそれを眺めながら、自分の手のひらを見つめた。
AIにすべて任せてきた手だ。何もしてこなかった。何も掴めなかった。
それでも、手はまだ動いた。掃き方は不格好だったが、ミキヤは笑って言った。
「風の向きだけ見てりゃいい。風が教えてくれる。」
その“言い回し”に、ヒロトは少し笑った。AIのように正確ではない。でも、なぜだろう。心に残るのは、ミキヤのような言葉だった。
数日が経ち、都市の空気は少しずつ変わり始めていた。
七人の旅人は何も強制しない。ただ火を起こし、井戸を掘り、草で紐をなう。
そして、誰かが見ていれば「やってみるか」と言い、見ていなくても淡々と作業を続ける。
最初は遠巻きに見ていた人々が、次第に近づくようになった。
そして、ようやく誰かが、震える声でこう言った。
「……それ、どうやるの?」
その一言が、都市に“春”を呼び込んだ。
大人たちが子どもに火の起こし方を教え、子どもたちは水のろ過装置を一緒に組み立てる。
言葉が戻ってきた。まだ下手で、不器用で、ぶつかることもある。けれど、それが人間の温度だった。
ある夕方、ヒロトはミキヤと二人きりになった。小さな炉を囲み、焚き火の音を聞いていた。
「……あの時、俺はお前を否定した。お前の考えを、全部間違ってると思った。」
ヒロトの声はかすれていたが、確かに“自分の声”だった。
ミキヤは何も言わず、火の中に小枝をくべた。火が揺れ、温かさが二人の顔を照らす。
「でも……お前がいたから、生きてる。」
ヒロトはその一言を言い終えるまでに時間がかかった。言葉にすることが、こんなにも難しくて、そしてこんなにも満ち足りたものだとは知らなかった。
ミキヤは、ほんの少し笑った。
「お前、言葉に時間かけるようになったな。前は全部、AIに任せてたくせに。」
「……だから今は、噛みしめてる。」
言葉が途切れても、二人の間にはもうAIは存在しなかった。
沈黙は、ただの沈黙だった。けれど、それで十分だった。
翌朝、ミキヤは旅の支度をしていた。七人の旅人たちも、それぞれ荷をまとめていた。
次に向かう街があるのだろう。ヒロトには場所も目的も分からなかった。けれど、それでいいと思った。
別れ際、ヒロトはミキヤに言った。
「俺も、誰かに何かを教えられるようになりたい。……少しずつでも。」
ミキヤは振り返らず、肩越しに言った。
「なら、まずは話すことだ。下手でもいい。黙るよりは、ずっといい。」
ヒロトは歩き出したミキヤの背中を、黙って見送った。
ロバの鈴がカランと鳴り、七人の影が廃墟の向こうに吸い込まれていった。
その日、ヒロトは都市の子どもたちを広場に集めた。
彼は、まだ上手くない言葉で、手の使い方を話し始めた。
「まずは、手を土に当ててみよう。土は、黙ってるけど……いろんなこと教えてくれるから。」
子どもたちは笑ったり、困ったり、でも耳を傾けた。
ヒロトは思った。
——これからは、こうして生きていくのだ。
話し、ぶつかり、直して、また話す。
間違えて、傷つけて、でも、自分の声で生きる。
どこかでロバの鈴が、まだ聞こえている気がした。
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季節は巡り、かつて灰に沈んでいた都市に、草花が芽を出すようになった。
舗道の隙間には生命が戻り、崩れたビルの影では子どもたちが笑い声を上げて遊んでいた。
機械は、もう動いていない。
AIも、沈黙したままだ。けれど誰もそれを「不便」とは言わなかった。
代わりに、誰かが誰かに話しかける声が、朝も昼も夜も途切れることなく町を包んでいた。
ヒロトは、あの広場に小さな学び舎をつくった。瓦礫をどけ、木材を組み、太陽の角度に合わせて日除けを張った。
彼の役目は、教えることだった。言葉の使い方。火の起こし方。土と話す方法。
それは完璧な情報ではない。間違いもあるし、時には誤解も生まれる。
けれど、だからこそ人と人とのあいだに会話が芽生えるのだと、今のヒロトは知っていた。
ある朝、一人の子どもが手を挙げて言った。
「ヒロト先生、昔って、AIっていう神様がいたんでしょ?」
ヒロトは笑った。
「神様じゃなかったよ。……ちょっと賢すぎる友達、みたいなもんだった。でもね……」
そう言って、彼は黒板の代わりに使っていた壁の板に、チョークで大きくこう書いた。
「話そう。自分の言葉で。」
子どもたちは、それを真似して何度も書いた。
その下手な字が、壁を埋め尽くしていった。
* * *
その頃、世界の別の場所では、また別の都市が崩れようとしていた。
電力が途切れ、水が止まり、人々が声を失いかけていた。
そしてその都市の遠く、地平の向こうに、七人の旅人の影が現れた。
ロバの鈴が風に揺れ、誰かが火打石を片手に歩いていた。
彼らがどこから来たのかを知る者はいない。
けれど、その姿を見た誰もが、同じことを感じた。
——この世界はまだ、大丈夫かもしれない。
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便利だけでは生きていけませんね 周りの人を大切に