種を見つけて芽が出てそして
穀物は偉大な作物なのですがもしかしてこれが原因で現代の負があるのかもと思って
火が揺れていた。小さな集落の中央、石を円く並べた焚き火の中で、薪がぱちぱちと音を立てて崩れ落ちる。暖かな光に照らされて、人々は自然と輪になって座っていた。誰が声をかけたわけでもない。ただ、夜が来れば、皆そこへ集まるのだった。
男も女も、子も年寄りも、互いの顔を見て、静かにうなずく。誰かが焼いた木の実を手渡し、別の誰かがその日仕留めた小さな獲物を火のそばに置く。腹を空かせた者がいれば、分けるのが当たり前だった。見返りを求める者はいなかった。見返りという言葉自体が、まだこの地にはなかった。
輪の端にひときわ背の高い老人が座っていた。白く薄くなった髪を編んで肩にかけ、頬には深く刻まれた皺があった。名は「オロ」。誰も彼を「長」とは呼ばなかったが、困ったとき、人々は自然と彼のところへ集まった。力で従わせることをしなかった。むしろ、よく耳を傾け、よく問い、そして静かに語る男だった。
ある晩、若者のひとりがたずねた。
「オロ、どうして僕たちは、こうして毎晩火を囲むの?」
オロは少し笑って、炎を見つめた。
「火はな、争いのあとに残ったものだったんだ。昔、天から落ちた雷が木に火をつけた。それを奪い合った人間がいた。だけど、火を取り合えば、火はすぐに消える。誰かが持ち去ろうとすれば、風に吹かれて消えてしまう。だから、あるとき、気づいた者がいた。火は、皆で囲むと長く燃えると。」
若者は目を見開いた。「じゃあ、この火は、争わずに分け合った……?」
「そうだ。分け合った心が燃やしてる。誰かひとりのものじゃない。皆のものだ。」
その夜も、火はゆっくりと燃え続けた。子どもが母の膝で眠り、男たちは狩りの話をし、女たちは草の薬や織物についてささやき合った。互いの話を遮る者はいなかった。笑い声は柔らかく、沈黙すら心地よかった。
空には無数の星が光っていた。誰かがぽつりと言った。
「きっと星も、火を囲むように並んでるんだな。」
皆がその言葉に静かにうなずいた。誰もが、そこに真実があるように感じた。
この夜の記憶は、やがて忘れられてゆく。だがこの集落、この世界の始まりには、確かに「分け合う」という火があった。
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時代は進み、人々も増えてきた。
乾いた丘のふもとに、一人の男が立っていた。名を「ナキ」といった。若くはないが、年寄りでもない。鋭い目と静かな手を持ち、言葉数は少ないが、口にしたことは必ず覚えている男だった。
その日、ナキは野を歩いていた。何日も雨が降らず、地面はひび割れていたが、ふと足元に、風にそよぐ黄金色の穂を見つけた。動物に食べられることなく、枯れることもなく、地面にしっかりと根を張っていた。
ナキはしゃがみ込み、穂を一房だけ手折った。指で揉むと、中から小さな粒がいくつも出てきた。それを一粒、口に含む。ざらりとした感触のあと、じんわりと甘味が舌に広がった。彼は立ち上がり、風の向きを確かめた。まだ誰もこの場所を知らない。
ナキは、その粒を持ち帰った。そして、何も言わず、川辺の土の柔らかい場所に埋めた。日々、水をやり、様子を見守った。やがて芽が出て、穂が伸び、再び種が実った。
「野の草が、増える。そして食べ物になる」
それは、魔法のような話だった。人々はナキに尋ねた。どうやったのか、何を見たのか。だが彼は多くを語らず、ただ「やってみればわかる」とだけ言った。
数十年がたち、麦は食の中心になった。狩りに出なくても、飢えずに済む。年寄りや子どもも、食料を得る手伝いができるようになった。日々の不安が少しずつ消えていくにつれ、人々の顔からは緊張が和らいだ。
どこの集落でも麦を栽培し、人々は安心して生活できた。
そして増えていった。
季節は巡り、ある年、雨がまったく降らなかった。土はひび割れ、麦は枯れ、蓄えは底を突いた。
最初に飢えたのは、病気の者たちだった。次に、動けぬ老人。そして、子どもたち。火の輪の集まりは静まり、誰も目を合わせなくなった。持てる者は、持たざる者の視線におびえ、沈黙を貫いた。
ある日、若い男が年寄りの家から盗みを働いた。それが発覚したとき、かつてのように皆が集まって話し合うことはなかった。むしろ、人々は内心でこう思った。
「彼のようにしなければ、生き残れないかもしれない。」
ナキは沈黙した。彼はこの飢饉の直接の原因ではなかったが、人々の口には出されぬ疑いがあった。「麦がなければ、私たちはこんなに依存しなかったのではないか」「自然の気まぐれに、期待しすぎたのではないか」
飢饉が過ぎ去ったとき、集落は確かに生き延びていた。しかし、何かが消えていた。焚き火の輪はまだあったが、その火は、どこか冷たく見えた。分け合う手は、何度も引っ込められ。自分のものは自分のものという意識が広がった。自分の者は他人に渡せない。もはや得たものを皆で分け合う意識はどこかへ行ってしまった。
それが、「影の始まり」だった。
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空は高く、麦はよく実った。
人々は土を耕し、倉を建て、食料を積み上げた。子どもたちは空腹を知らず、老人たちはやすらかに眠る。飢えは遠い記憶となり、もはや恐れるものではないと誰もが思い始めていた。
だが、恐れは形を変えて生き残っていた。
飢饉の年に、ある者はすべてを失い消えてった。ある者はわずかを守り抜き、そして少数の者は多くを持ち家族を増やした。彼らは学んでいた。「持っている」と知られることは、危険だと。
その年の豊作が確定した頃、ひとりの男が倉の前で小さな笑みを浮かべた。誰にも言わず、昼は人並みに畑を耕し、夜になるとこっそりと二つ目の倉に麦を運んでいた。
「これは備えだ。もしまた飢饉が来たら、分けるために取っておく。」
最初はそう思っていた。
だがしばらくして、近所の者がやってきて尋ねた。「おまえの家、やけに立派になったな。倉の数が増えたか?」
男は、ほんの一瞬だけ間を置いたあと、首を横に振った。
「いや、うちもギリギリさ。」
そのとき、嘘が生まれた。
その夜、男は眠れなかった。だが翌朝、何もなかったように畑へ出て、昨日より少しだけ余裕のある顔で笑った。
この嘘は伝染した。周囲の者もまた、同じ問いを投げかけられたとき、同じ沈黙を選んだ。
「ない」と言うことが、賢さになった。
「ある」と言えば、責められ、奪われる。
かつては、正直であることが尊敬される理由だった。今は、正直な者はただの愚か者になった。何かを持っていれば隠すべきだし、何も持っていなくても、あるように見せてはならなかった。彼らはそれを謙遜と呼び美徳とした。
やがて、「分け合う」という言葉が、誰の口からも出なくなった。
ある晩、火を囲む輪の中で、年寄りの女がふとつぶやいた。
「昔は、何かを持っていたら言ったもんだよ。そうしないとね。」
若者の一人が笑った。
「そんなことして、何になる? 自分が困るだけさ。」
女は何も言い返さなかった。ただ、手のひらに残る皺を見つめていた。
火は、まだ灯っていたが、その周囲に座る人々の距離は、少しずつ広がっていた。
それぞれの家に倉がある。中には麦がある。鍵がかかっている。
そして誰も、豊かであることを他人には言わなくなった。
謙遜こそ美徳だ・・・人々は舌をペロッと出して言った。
そうして本当のことを言わないという技を人々は覚え、言葉でうまくやる、つまり嘘が重要な生きる手段になった。
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時代は変わっていった。
かつて皆が火を囲んだ場所には、もう焚き火の跡さえ残っていない。代わりに、石を高く積み上げた建物がいくつも建っていた。門のある家。見張りのいる家。鍵のかかる倉。
かつて「誰のものでもなかったもの」が、今や「誰かのもの」とされ、他者の手が触れるだけで罪になった。
その中でも最も高い場所に、一人の男が住んでいた。
名はハリ。
この時代の者たちは、彼を「上に立つ者」と呼んだ。
ハリは筋骨たくましく、声が大きかった。話すときは誰かを指差し、笑うときは必ず誰かを下に見ていた。集まりがあれば自分の話をし、誰かが話し始めると、それを途中で遮った。
彼の言葉は常に自信に満ち、疑問を挟む隙がなかった。
「この土地は俺が耕した。すべては俺が築いた。だから俺が上にいる。おまえたちは、俺のもとで働け。」
最初、それを聞いた者たちは顔を見合わせた。言葉は傲慢で、態度は尊大だった。
だが、やがて誰もそれを咎めなくなった。
ハリの倉には麦があった。道具があり、土地があり、人が集まっていた。彼の許可がなければ何も動かず、拒まれれば飢え死にするだけだった。
彼の前に跪く者が増えた。
「あなたのやり方は強い。はっきりしていて気持ちがいい。」
「こういう人が、今の時代には必要なんだ。」
誰かが反論しようとすると、笑われた。
「そんなこと言って、どうせおまえも欲しいんだろ? 上の座を。」
そうしてハリの言葉が正義になり、彼の傲慢さが「強さ」と呼ばれ始めた。
ある若者が、勇気を振り絞って言った。
「あなたのやり方は間違っている。皆で決めるべきだ。分け合うべきだ。」
ハリは彼を見下ろして、言った。
「じゃあ、おまえが分けてみろ。今持ってるもの、全部ここに出せ。それが“正しさ”なんだろ?」
若者は言葉に詰まり、その場を離れた。誰も彼を追いかけなかった。
皆、心のどこかで知っていた。
傲慢な者に従えば、生き残れる。
優しさは、弱さに見える。
分け与える必要はない。むしろ何でも自分のものにするのが強さだ。
本当のことを言う必要はない。言葉で強さを表せば、皆が従う。
人々の口数は減り、目線は下を向くようになった。
丘の上では、ハリの家がさらに高く積まれ、新しい門ができた。門には言葉が刻まれていた。
「上に立つ者こそ、正しい」
いつ誰が彫ったのかは、誰も知らない。
だが誰も、その言葉に異を唱えることはなかった。
利己的な、そして嘘つきな、傲慢さが強さであり正しさとなる世が訪れた。
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時代は下り、
彼は、ステージの上に立っていた。
背後には国旗を映し出したスクリーンの列。会場は明るい照明とところどころに風船のかたまり。人々はその光を見上げ、拍手を送り、名前を連呼した。男は、手を振り、民衆を見下ろす。
身につけたスーツは高価で、誰もがそれを知っていた。腕には金の時計、指には大きな宝石の指輪。髪は整いすぎて不自然だったが、それすら彼の「勝者の証」として扱われていた。
スピーカーから、彼の声が流れる。
「見て。この街を。俺の成功の証だ!」
「オレは嘘をつかない。オレはやる。ここに立つ資格があるのは、オレだけだ。一緒に金持ちになろう!」
声は、割れそうなほどの歓声にかき消された。彼の言葉は、ただの音ではなかった。人々にとってそれは、安心であり、期待であり、自分たち自身の代弁だった。陶酔さえした。
彼を疑う者はいた。だが彼を信じる者の声のほうが大きかった。
「口が悪い? 関係ないね。わかりやすい。」
「多少は横暴でもいい。できるんだから当然だ。」
「弱いものは負けるしかない、勝てばいいんだ俺たちみたいに」
思いやり? 分かち合い?
今、それらは空虚な言葉として消費されていた。
正直者は「馬鹿」と呼ばれ、慎ましい者は「冴えない」と言われた。静かな声はかき消され、沈黙は無視された。
巧みに語る者だけが生き残り、派手に動く者だけが注目された。
そのステージ放送を見ながら、ある男がスクリーンの前でひとりつぶやいた。
「彼がここまで来た理由は一つ。嘘を、武器に変えたからだ。」
その言葉を聞いた少女が訊いた。
「じゃあ、ほんとうのことを言う人は、どうなるの?」
男は答えなかった。ただ、熱狂する群衆を見ていた。
ステージの上で、男はなおも語り続けていた。
その声のどこにも、「分け合う」も「正直」も「謙遜」も言葉はなかった。
街は静かに照らされ、空にはもう星は見えなかった。
明かりは多くなったが、誰も空を見上げようとはしなかった。
風だけが通り抜けていった。
火の残り香も、石のぬくもりも、もうどこにもない。
それでも、遠くのどこかで、誰かが小さな火を灯そうとしているかもしれない。
物語はそこで終わる。
あるいは、始まる。
麦がたくさんできるといいはずなんですがそうでない世界を描いてみました