変わっていく 世を継ぐ者たち
なんで今のような社会ができちゃったのという疑問から書いています
昔々、世界はまだ若く、空は青く、風は澄み渡っていた。太陽は穏やかに地を照らし、夜は星々が語りかけるように瞬いていた。
人々は争うよりも語り合うことを選び、声を重ねることで道を見出していた。どの部族にも境はあれど心には壁がなく、訪れた者には水と火が与えられ、旅人は歓迎され、他者を思いやることが何よりの誇りとされていた。
言葉には力があり、その力は人を傷つけるためではなく、癒し、導くために使われた。歌は歴史を紡ぎ、語り部は未来を守る者として尊ばれた。
戦が全くなかったわけではない。獣との戦い、大地との戦い、人の心の揺らぎもあった。しかしそれらは決してすべてを壊すものではなく、再び手を取り合うための試練のようにさえ思われていた。
そんな世界に、ひとつの小さな亀裂が生まれる。
それは辺境の地――厳しい寒さと痩せた大地にしがみつくようにして生きる、名もなき小部族「ノーグ」から始まった。彼らは恵まれた地を持たず、獣の通り道すらまばらな山間に暮らし、短い夏と長い飢えの冬に耐える日々を繰り返していた。
だがその厳しさが、心を削り、言葉の意味を変えていく。
ノーグの者たちはこう呟くようになる。
「思いやりは腹を満たしてくれるのか?」
この問いこそが、後に語られるすべての始まりだった。
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ノーグの地では、数年にわたる凶作が続いた。風は冷たく、根雪は残り、家畜は痩せこけてしまった。村を囲む森は静まり返り、獲物の足跡も見つからない。焚き火の煙も細くなり、人々の目から光が失われていった。
最初に消えたのは、分かち合う心だった。
かつては獲った獲物を村全体で分け、老いた者には最も柔らかい肉が与えられた。だが今、肉は隠され、水は惜しまれ、家族以外の命は見捨てられるようになった。「まず自分の家族を守れ」――それが新しい掟となった。
飢えが人の形を変えていく。
ある晩、飢えに耐えかねた若者が、隣人の乾燥肉を盗んだ。見つかり、殴られ、縛られ、氷の川に放り込まれた。以前なら長老が割って入り、話し合いが行われていたはずだ。だが今は違う。誰も止めず、誰も泣かない。
強き者が声を持ち、弱き者は沈黙させられる時代が始まった。
長老のひとり、ソルは夜の集会でこう言った。「力が理となるなら、我らは獣に戻る」と。
だがその言葉に耳を傾ける者は少なかった。若い戦士たちは笑い飛ばし、火のそばで槍を手に掲げた。「獣ならば、獣のように狩ればいい」と。
そしてノーグは他部族への襲撃を決めた。標的となったのは、南の谷に暮らす平穏な部族、リェナだった。
リェナは戦を知らなかった。畑を耕し、歌で暦を伝え、薬草で命をつなぐ部族だった。彼らにとって槍とは、あくまで狩りの道具でしかなかった。
ある月夜、ノーグの戦士たちは谷に降りた。火が放たれ、家々が焼かれ、叫びが空に吸い込まれていった。語り部は斬られ、楽器は踏み砕かれた。
その混乱の中、小さな子がひとり、瓦礫の影に隠れて震えていた。煙にまみれ、すすに汚れ、名前を呼ぶ声もなく、その存在は誰にも気づかれなかった。
だが今はまだ、ただの名もなき幼子。
世界は、その小さな命に気づかぬまま、確かに何かを失い始めていた。
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朝が来ても、リェナの谷には太陽が届かなかった。白い灰が空を覆い、焦げた木々は黒い槍のように地から突き出していた。火に焼かれた土は蒸気を吐き出し、煙の残り香が鼻を刺す。
谷を見下ろす丘に、ノーグの戦士たちは立っていた。勝利を喜ぶ者、物を漁る者、沈黙する者。それぞれの胸には異なる炎が燃えていた。だが共通していたのは、罪悪感の欠片もないことだった。
村の中央には、リェナ族の遺したものが散らばっていた。割れた壺、破れた織物、炭と化した書板。その中に混じって、ひとつの木箱が転がっていた。何かに引かれるように、ひとりの少年がそれを拾った。ノーグの者でありながら、他と違って目に光を失っていない若者だった。
箱の中には、異国の言葉で書かれた古びた巻物と数冊の書が納められていた。その字はノーグの誰にも読めないはずだった。だが彼はなぜか、それを見て震えた。意味ではなく、意志を感じ取ったのだ時が流れた。
その夜、ノーグの陣営で彼は火のそばに一人座り、巻物を開いた。書かれていたのは、力と統治、群衆と恐怖についての思想だった。
――力は正義に似て非なる。だが正義と呼ばれれば、それは正義と同じにになる。
ページをめくるごとに、彼の心の中に何かが芽を出していった。赤く、冷たく、静かなものが。
一方で、生き残ったリェナ族は山中へと逃れ、深い洞窟の中で震えていた。負傷者の呻き声、子どものすすり泣き、燃えた村の記憶が、彼らを静かに押し潰していた。
誰もが語ることをやめた。ただ、ひとつだけ、母が子に囁いた言葉があった。
「忘れないで。歌を。言葉を。あなたが最後の語り部になるかもしれないから――」
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時は流れた。ノーグの旗の下に、多くの小部族が膝を屈した。だが力で得た支配は、繁栄をもたらすものではなかった。戦士たちは疲弊し、耕す者、狩りをする者は足りず、治めるはずの地は次第に荒れ果てていった。
ここで、ノーグの指導者層が新たな道を選ぶ。
「戦うための能力の高いものを募る。よい働きをした者には、良いほうび、より上の地位、価値ある仕事をした証を授ける。我らは、皆の仕事ぶりを神に報告し、神の言葉を皆に伝える」
事実上、支配に専念するという宣言だった。こうして、戦いは職業となり、部族は傭兵を雇うようになった。金と食糧で他部族の若者を集め、戦士として育て、訓練し、戦地へと送り出す仕組みが作られた。
強者の社と呼ばれた訓練所には、鋭い眼をした教官と、感情を捨てる訓練を受ける少年たちがいた。そこでは「戦う方法」、「相手を陥れる方法」、「恐怖を操る技術」や「従わせる言葉」が教えられ、刃よりも言葉の鋭さが重んじられた。
その中に、一人の特別な教官がいた。顔を仮面で覆い、本名を語らず、ただ“導師”と呼ばれていた男。彼は若き傭兵たちにこう囁いた。
「民は考えたがらない。だから、代わりに命じてやれ」
誰もがその言葉に疑問を抱かなかった。だが、かつてリェナの谷で生き延びた幼子――今や青年となった彼だけは、その教えに冷たい違和感を覚えていた。
彼は偽名を使い、訓練所の雑用として働きながら、目と耳で真実を集めていた。戦士たちの無感情なまなざし。教官たちの無慈悲な笑い。そして“導師”の口から漏れる、聞き覚えのある言葉の数々。
――力は、正義と呼ばれたときに最も恐ろしい。
そう、あの書の言葉だった。
彼は確信する。この“導師”こそ、あの夜、書を拾ったノーグの少年だ。
その名は、ヴァス。
青年の胸に、小さな炎が灯った。過去の亡霊が姿を現す前に、自らの手でその正体を暴かねばならない。
だがそのとき、彼はまだ知らなかった。ヴァスがすでに、次なる舞台を準備しつつあることを――
言葉で国を染め上げる、大規模な“祭り”を。
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それは、あまりにも華やかな集会だった。中央広場に色とりどりの布が張られ、火の輪が灯り、民衆は飢えと労苦を忘れたかのように歓声を上げていた。
街の中心に立つ壇上、ひとりの男が姿を現す。
仮面も外套も捨て、堂々と顔を晒したその男こそ、ヴァス。
かつてノーグの戦火の中で書を拾い、教官として言葉を教え、今や民衆を導く扇動者。
彼の声は滑らかで、力強く、そしてよく響いた。人々の心の奥底にあるもの――怒り、不安、誇り、恐れ、憧れ――を巧みにすくい上げ、言葉という刃で操っていく。
「この地には敵がいる。かつて我らを嘲笑い、奪い、見下した者たちがな」
「弱者を許すな。思い出せ。飢えた日々を。苦しみを。あれは誰のせいだったのか?」
「今こそ、我らが一つとなるとき。我らの怒りは、我らの誇りなのだ!」
群衆は沸いた。拳を突き上げ、叫び、涙し、隣人と肩を組んで「我らこそ正義」と唱和する。
その中心に立つヴァスの目は、冷たい光を宿していた。
その群衆の隅に、青年は立っていた。
リェナの生き残り。かつての炎の中で名前を失った者。今は偽名で生き、ヴァスの言葉の波を受けていた。
彼の耳に、かつて洞窟の中で母が囁いた言葉が蘇る。
「忘れないで。歌を。言葉を。あなたが最後の語り部になるかもしれないから――」
あの優しい歌や言葉に比べ、今聞こえているのは、何か津波のように襲ってくるもののように感じた。
青年は震えていた。怒りではなく、絶望でもなく、恐怖に近い何かだった。民は操られているのではない。自ら進んで、思考を手放しているのだ。
「これはもう演説ではない。洗脳の一種だ……」
彼はつぶやいた。
だが、つぶやきは誰にも届かない。ヴァスの声がすべてを支配していた。
「敵がいる限り、我らは一つになれる。滅ぼす先に、真の秩序がある。」
群衆は再び叫ぶ。「滅ぼせ! 滅ぼせ!」
その言葉の奔流の中、青年はひとり立ち尽くしていた。
祭りは続く。だが、その祭りが終わるころには、何かが、決定的に変わっていることを彼は理解していた。
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ヴァスの言葉は、炎よりも速く世界を飲み込んだ。広場での演説は遠征の兵に伝えられ、旅人の口を通じて山を越え、谷を越え、各地に拡がった。
「混乱に秩序を。無力に強さを。我らは一つだ」
敵を名指しし、恐怖を与え、救済を約束するその語りは、やがて祭事となり、儀式となり、支配の柱になっていった。
ヴァスは民衆の手で王へと押し上げられた。彼の名前を刻んだ旗が掲げられ、古き象徴が作り替えられた。
王国は生まれた。剣でなく、言葉で築かれた王国だった。
王の命が法律となり、その言葉は子どもたちが暗唱すべきものとして歌われた。逆らう声は消され、語り部は沈黙を強いられた。
かつてリェナの谷から生き延びた者たちも、洞窟の奥で声を潜めるしかなかった。あの青年もまた、何もすることができなかった。
彼らの声は届かず、言葉は伝わらず、伝えた者は捕らえられ、消された。
もう人のことは構っていられない、自分で考えるのも危険だ、ただ王の言葉に熱狂していれば満足だった。
当時の人々はそれを幸せと呼んだ。
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長い時が流れ、王国は歴史の中に消滅し、文明は進化した。
人々は、自由で、平等で、おもいやりのある平和な暮らしを謳歌した。
そんな毎日が当たり前で月日がたっていった。
ある年、ひとりの男が、大国の頂点に立つ。
彼は怒りと不安を煽り、敵をでっちあげ、民の目を現実からそらさせることで支持を集めた。
無慈悲で、無責任で、そして扇動の名手だった。
その演説は、かつての王ヴァスの言葉と似ていたことをもはや知る者はいない。
言葉がなければ生きていけないが、信じすぎてもあぶないよというお話