【玖】曇り後、晴れ
──ある曇りの日。
雨の前触れのように空気が重い午後。
いつものように神社に現れた青年の足取りは、どこか重かった。
参拝を済ませた後も、お狐様のほうを見ず、境内の端に座り込んだ。
お狐様は近づかず、しばらく遠くから見ていた。
そして、そっと手にしていた箒を置き、青年の隣に座る。
「……何も聞かないよ。」
青年はうっすら笑って、肩をすくめた。
「神様ってのは……察しがいいんだな。」
「ちがうよ。ただ、君の顔を毎日見てるから。
いつもの“君らしい”顔と、今日の顔が、ちがうのが分かるだけ。」
青年は少し目を伏せた。
そして、ぽつりぽつりと話し始める。
「たまに思うんだ。
ここでこうしてることに、何の意味があるんだろうって。
誰かの役に立ってるわけでもないし、
何かを成し遂げてるわけでもない。
……ただ、いて、参って、笑って……それだけでいいのかって。」
お狐様は、青年の横顔を見つめる。
そして、小さくため息をついた。
「じゃあ、言ってあげる。」
青年は視線を上げる。
「君が、毎日ここに来てくれることで、
この神社には“人の気配”がある。
風が通り、音が生まれ、祈りが積もる。
わたしの力が戻ってくるのも、
君がいる“日常”があるから。」
お狐様の声は、静かでやさしかった。
「もし君がいなくなったら──
わたしは、たぶんもう一度、誰からも忘れられた
“ただの狐”に戻るだけ。」
「……そんなにか?」
「うん。君がいるだけで、わたしは“神様”でいられる。」
青年は苦笑した。
「……励ましてるつもりか?」
「励ましじゃないよ。感謝だよ。」
お狐様は立ち上がり、両手を広げた。
「君が“いる”ことに意味がある。
わたしにとって、君がいてくれることは──
ただそれだけで、世界を一つ動かしてることなんだよ。」
青年は、しばらく空を見つめていた。
──そして、ふっと息を吐き、少しだけ笑った。
「……お前、いつも空振りするけど、
たまには、ちゃんと当ててくるんだな。」
「む、ほめてる?」
「たぶんな。」
お狐様は嬉しそうに尻尾をふる。
「じゃあ今日はもう、何もしなくていいよ。
お茶でも淹れるから、のんびりしていきなよ。」
「……じゃあ、甘いのもあると嬉しい。」
「ふふ。任せて、神様は万能だからね。……たぶん。」
──静かな神社に、小さな笑い声がひとつ。