【弐拾陸】晴天の記憶
──朝、今日は久々に雨音がしなかった。
青年が神社に到着すると、空はまだ薄曇りながらも、
久しぶりに“水のない空気”が肌をなでた。
「……晴れてる。」
ぽつりとつぶやいたその声に反応するように、
本殿の奥からお狐様が顔をのぞかせた。
「ほんとに?」
「本当に。」
お狐様はぱっと表情を明るくして、走り出してきた。
巫女服の裾を軽く持ち上げて、廊下をぱたぱたと駆ける。
「空が白くない……!」
見上げた空の向こう、雲の切れ間からほんの少しだけ、
やわらかい陽光が差し込んでいた。
「お日さまの匂い、久しぶり。」
「外、行ってみるか。」
青年がそう言うと、お狐様は嬉しそうに尾をふわりと揺らして頷いた。
──ふたりは境内の外れ、小さな坂道を抜けて、
山の中腹にある開けた草地へと出た。
そこには、雨上がりのしずくを残した草が、陽の光にきらめいていた。
「わ……見て。ほら。」
お狐様が指差した先に、
地面からすっと背伸びするように、野の花たちが咲き始めていた。
白いもの、黄色いもの、そして小さな薄紫の花。
どれも、雨の季節を超えて顔を出した命だった。
「こんなふうに咲くんだな……」
「この子たちはね、“晴れた日の記憶”だけで咲くのよ。
ずっと土の中で、それを待ってたの。」
青年は花を見下ろしながら、小さくつぶやいた。
「……人間も同じかもな。」
「ん?」
「こうして、待ってるんだよ。
いつか、晴れる日を。」
お狐様はふと彼の横顔を見て、
何も言わずに隣に座った。
しばらく、ふたりは言葉もなく風の音に耳をすませた。
晴れ間の陽に照らされて、木々の葉は光を弾き、
遠くで鳥が声を戻していた。
──そのとき、お狐様がぽつりと言った。
「こういう日があると、また頑張れるね。」
青年は少し笑って、短く返した。
「ああ。明日また雨でも、もう平気だ。」
ふたりはそれから、しばらく空を見上げていた。
それはほんの短い晴れ間だったけれど、
ふたりにとっては十分すぎるほどの時間だった。
それは、雨の月に咲いた“ひとときの奇跡”。
きっと、ずっと忘れない日になる。




