【拾玖】曇天
__今日の空は、朝からずっと灰色だった。
雲は厚く、けれど雨は降らず。
風もなく、音もなく、まるで空気がじっと息を潜めているような一日。
青年は、静かにほうきを動かしていた。
石畳に落ちた花びらは湿っていて、ぱさりと音も立てない。
「……曇りって、どこか落ち着くわね。」
背後から、そう言ってお狐様が近づいてくる。
「暗くて、気が抜ける。」
「でも、こういう日って──
ものの輪郭が、ちょっとはっきりする気がしない?」
青年は掃除の手を止めて、空を見上げる。
確かに、光と影がないぶん、木々の緑や石の白さがやけに鮮明に見えた。
「……なんか、わかる。」
「わたしね、曇りの日は昔のことを思い出すの。」
「神様にも“昔”があるのか。」
「あるわよ、たくさん。」
お狐様は境内のすみに腰をおろして、足を投げ出す。
草の上に寝そべるようにして、ぼんやりと空を眺めはじめた。
「ねえ、あなたも思い出すことってある?」
「……最近は、思い出すより“今”のことで手一杯だな。」
「そっか。
でも、今が“記憶になる日”になるんだとしたら……
こういう曇りの日のことも、忘れないといいわね。」
ふたりはしばらく黙っていた。
ただ、静かに、曇り空の下で呼吸をそろえる。
──空は相変わらず、変わらない。
でも、その曇り空の下で、ふたりの距離はいつもより少しだけ近かった。
そしてその日のことを──
後になってきっと、ふたりともこう思い出すだろう。
「なにもなかった日」ほど、心に残るって。




