【拾陸】忘れじの花
__神社の裏手、普段はあまり人が立ち入らない苔むした石垣のそば。
掃除をしていた青年が、ふと何かに気づいた。
「……あれ?」
「なに?」
お狐様が、袖を軽く払って彼のもとに近づいてくる。
青年はしゃがみ込み、指先でそっと草をかきわけた。
「これ、見てみろ。」
そこには──
ほんのひとつ、小さな白い花が咲いていた。
葉陰に隠れるようにして、けれど確かに凛として咲くその姿は、
雨上がりの陽を浴びて、透けるように輝いていた。
「……これは、“一輪草”じゃない?」
「知ってるのか?」
「うん。この山ではもう咲かないって言われてた花。
たぶん……ずっと前に、誰かが植えたんだと思う。」
ふたりはしばらく黙って見つめていた。
風が吹くたびに、花は小さく揺れて、
まるで言葉の代わりに「ここにいるよ」と伝えてくるようだった。
「……忘れられてたけど、生きてたんだな。」
「うん。まるでこの神社みたい。」
お狐様はそっと微笑んで、花のそばにしゃがみ込む。
「君が来てくれて、信仰をくれて。
こうしてまた、何かが芽吹くようになって……
もしかしたら、わたしたちの“日常”って、
こういう小さな奇跡の積み重ねなのかもね。」
青年は何も言わずに、うなずいた。
その表情には、どこか安堵のような、やさしさが滲んでいた。
──それから、ふたりはその花の周りを少し整え、
目印の小石をそっと並べた。
特別な祭りでもない。
大きな出来事でもない。
けれど、その日ふたりは確かに「ひとつの命の灯」に出会い、
それを分かち合えた。
それは、春の終わりかけに見つけた、小さな発見だった。
「この花…少し君に似ているな。」
「えっ…なんで?」
「たとえ、皆に忘れられても…ここに立ってるだろ。」
「ふふ…なにそれ。」
お狐様は尻尾を回しながら、とても可笑しそうな顔をした。普段彼はあまりそういう事を言わないから。
青年は真っ直ぐに一輪草を見つめていた。
その眼差しはとても暖かくて、優しくて。
「そんなに似てる?」
「あぁ、とってもな。」
「どんなところ?」
「ちっちゃいとこ。」
「…バカ。」
ムッとしつつ、身体は自然と揺れていた。
特別なことは何もない森、何もない神社。
それは今日のふたりにも同じ事。
だけれど、それはとってもうれしくて、とてもあたたかい、ひとときだった。




