その五
なんの前触れなく、その時はやって来ました。
わたしは新しく仕立てた翡翠色のドレスを着付けられ、不安を胸に立派な馬車に乗せられました。このドレスは、君の瞳の色と同じがいいとラファエル様が生地を選んでくださったのです。サテンのドレスのスカート部分はフリルが何層にもなっており、大きく膨らまされていました。袖や襟ぐりにレースがこれでもかってぐらい使われていますし、わたしには不釣り合いな豪華なドレスです。それを着て馬車に乗ると、まるでお姫様にでもなったかのようでした。
「ルイズ、安心して。君のために、これまでのケジメをキッチリつけるから」
わたしの手を両手で包み込むラファエル様は、真剣な眼差しでそうおっしゃってくださいました。銀色の髪がユラユラと近づき、わたしの頬に触れました。ラファエル様は包み込んだわたしの手にキスをされたのです。こんなにお近くで顔を見合わせるなんて、恥ずかしくて恥ずかしくて……彼はわたしの手をすぐには解放してくださいません。銀色の睫毛を震わせ、上目でわたしの心を射抜きました。わたしは全身火がついたように熱くなってしまって、うつむくしかありませんでした。きっと茹でダコのごとく真っ赤になっていたにちがいありません。
でも、わたしは彼を、ラファエル様を信じることにしました。
やがて、見覚えのあるお屋敷が見えてきた時、わたしは身体をこわばらせましたが、震えはしませんでした。ギュッと握られたままのラファエル様の手が温かく、勇気をいただいたからです。この人は闇のなか、命がけで悪夢のようなこの屋敷からわたしを連れ出してくれたのです。何人もの男たちに乱暴されそうになっていたわたしを、たった一人で助け出してくださいました。その時は藁にもすがりたい思いでしたけど、今はこの人を信じなければいけないと思いました。わたしは彼のゴツゴツした手を握り返しました。
馬車は門を通り庭園を横切って、屋敷の外壁沿いに停車されました。わたしの心臓は早鐘のスピードで激しく打ち鳴らされています。
「ごめん、ここで従者のキリルと待っていてくれ。キリル、頃合いを見てルイズを連れてくるんだ」
「了解です」
平然と答えるキリルはなんだか楽しそうで、わたしの緊張は少しだけ和らぎました。キリルはわたしと同じくらいの年齢の男の子です。黄金色の髪と目がイタズラっぽい印象を与えますが、話す時は大人びていました。ラファエル様がいつも付き添わせているので、信頼されているのでしょう。私より精神年齢は高いです。
「ルイズお嬢様、すべてうまくいきますよ。ラファエル様を信じましょう」
ニコニコ、余裕の笑みを見せるキリルのおかげで、わたしは気を確かに持つことができました。
数分後、キリルに連れられ大広間の扉の前に来るまで、しっかりと自分の足で歩きました。怖いけれど、向き合わなくては。わたしを助けてくれたラファエル様に報いるためにも……
大広間ではパーティーが開かれているようでした。楽団が音楽を奏で、人々の楽しそうな笑い声や話し声が聞こえます。
「モニカ様、ご婚約おめでとうございます!」とか「お幸せに!」とか「お似合いです!」などといったお祝いの言葉も聞こえました。わたし、我慢できずに扉の隙間からのぞいてしまいました。
広間の中央には父ヴァルダイ伯爵とお継母様、それにラファエル様とモニカお嬢様がいらっしゃいました。モニカお嬢様はラファエル様に腕を絡ませ、満面の笑顔です。華やかな赤と白のドレスを着て、人々に祝福される姿は幸せそうでした。そう、これはラファエル様とモニカお嬢様の婚約御披露目パーティーだったのです。
クラクラめまいがして、わたしは倒れそうになりました。このような場所にわたしの出る幕はありません。いくら、ラファエル様のお情けで救っていただいたとしても、みじめなだけです。わたしはラファエル様を愛してしまったことに気がつきました。なにを夢見ていたのでしょう。わたしのような端女を貴公子のラファエル様が好きになるなんてこと、有り得ないではないですか。わたしは糞桶を担いでいるほうがお似合いの女です。ラファエル様にお似合いなのは美しいモニカお嬢様です。
倒れそうになったわたしの体をキリルが支えてくれました。
「大丈夫ですよ、ルイズ様。ラファエル様はあなたを救おうとされているのです。信じて待ちましょう」
「救おうとされているのはわかっています。でも、わたし……」
「存じておりますよ。ラファエル様がモニカ嬢のモノになってしまうのが耐えられないのでしょう?」
「そ、そんな恐れ多いこと……お似合いのお二人です。わたしの入り込む余地なんて……」
「ラファエル様はあなたのために、この屋敷へ通っていたのですよ。モニカ嬢のお相手をされていたのは致し方なく、です」
「それなら、なぜ?」
「なぜ?と思うのなら、ハッキリと意思表示なさってください。尻込みせず、ラファエル様に気持ちをちゃんと伝えてください。そうでなければ、恋は成就しませんよ?」
臆病なわたしにキリルは発破をかけました。ラファエル様への気持ちを再確認したわたしは、それで吹っ切れたように思います。どのみち、成功率がないに等しい恋です。当たって砕けてもよいではないですか。気持ちを知ったラファエル様がわたしを拒絶し、捨てられても当然なのです。
わたしはキリルの手を借りずにすっくと立ち、広間の様子をうかがいました。
楽隊の音楽が止まり、ラファエル様の声が聞こえてきました。
「今日、皆様にお集まりいただいたのは、他でもない私の婚約報告のためですが、あいにくモニカ嬢との婚約はなかったことにしていただきたい!」
シーンと静まり返ってしまいました。ラファエル様の姿は人々に隠れ、確認することができません。ヒステリックなモニカお嬢様の声が聞こえてきました。
「な、なんでです!? では、このパーティーにいらっしゃったのはどうしてです? わたくしに恥をかかせるおつもりですか!?」
「女性を傷つけたくはないのだが、愛する人のため、私は立場をはっきりさせておきたいのだ」
ラファエル様がパチンと指を鳴らすと、人の波がサァーーと切れてそのお姿が見えました。のぞいていたわたしと目が合ったラファエル様はニッコリ微笑みます。壁際で待機していた使用人たちがラファエル様のほうへ歩いていきました。懐かしい面々です。わたしに優しく声をかけてくれた人、伯爵に訴えてくれた人、解雇された人たちもいました。
「このなかには以前この屋敷で働いていて、不当な理由で解雇された者たちもいる。彼らは道義心から虐げられるルイズ嬢を助けようと主に訴え、解雇された。君たち証言してくれたまえ」
ラファエル様に促され、使用人たちは順番にわたしが受けた虐待の数々を証言しました。わたしは思い出すのもつらく、目から涙が溢れるのを押さえられませんでした。
作ってもらったばかりのドレスをビリビリに引き裂かれたこと、ヒールに切れ目を入れられ、転ばされたこと、枕の下からサソリが出てきたこと、顔に傷がつくとお父様にバレるからと、背中を棒で打たれたこと……気づいた時には、わたしはまたキリルに支えられていました。
「気をしっかり持ってください。おつらいのはわかります。でも、戦わねばなにも変わらないのですよ。あなたのために証言してくれた人たちに報いるためにも、強くなってください」
わたしはキリルの差し出したハンカチで涙を拭うと、もう泣くのをやめました。キリルの言うとおりです。強くならなくては。これからは前を向いて歩いて行こうと思いました。
馬をけしかけられ、殺されそうになったこと……モニカお嬢様に大ケガを負わせたと追い出されそうになり、下女として置いていただくことが決まっても嫌がらせは収まりませんでした。
「私はルイズ嬢が重い糞桶を女の身で担がされている姿を何度も見ている。ヴァルダイ卿にやめさせるよう申し出ても、状況は変わらなかった」
ラファエル様の話を聞いた客人たちはどよめきました。それを受けて、沈黙していた父ヴァルダイ伯爵が初めて口を開きました。
「閣下、糞桶の件はルイズが閣下の気を引くために、わざとしていたことと聞いております。私がやめさせようとしても、本人が拒否したのですよ」
「もしそうだとしても、正午と深夜十二時の二回、ルイズは糞桶を運んでいました。深夜の危ない時間に、若い娘を一人で出歩かせて平気だったのですか?」
「そ、そこまでは把握しておりませんでした。でも、屋敷内です。危険はないでしょう」
ラファエル様は奥の壁にいた男たちへ目配せしました。こともあろうか、彼らは先日わたしに乱暴しようとした者たちでした。わたしは知らず知らずのうちにハンカチを強く握り締めていました。でも、怖くても、今度はしっかり彼らを見据えることができました。
「この者たちはこの屋敷で働く下男たちです。彼らは糞桶を運ぶルイズに襲いかかりました。さあ、申し開きせよ」
男たちはモニカお嬢様の命令でわたしを襲ったことを告白しました。
客人たちのなかには悲鳴を上げて倒れるご婦人もいらっしゃいました。わたしはもう泣かず、ちゃんと立って前を見てられました。
ラファエル様の凛とした声が聞こえてきます。
「ヴァルダイ卿、ご納得いただけただろうか? 腹違いとはいえ、モニカ嬢が実の妹にした仕打ちは酷すぎる。私はそのような方を嫁にもらいたいとは思いません。モニカ嬢とは婚約いたしませんし、縁談の話はなかったことにさせていただきます」
「……しっ、しかしソワリ公、それでは約束がちがうではありませんか? 直前まで私の娘と結婚するとおっしゃるからパーティーを開いたのに、あんまりだ」
「自業自得ですよ。でも、約束はお守りいたしますよ? 約束どおりあなたの娘とは婚約したいと思っております」
「?? どういうことです??」
モニカお嬢様は嗚咽し、お継母様は倒れそうになって侍女たちに支えられています。ラファエル様と伯爵は揉め始めました。
「ルイズ様、そろそろ出番ですよ」
耳元でキリルが囁きます。わたしはうなずいて、愛するあの方の目を見つめました。扉の影から視線を送るわたしにラファエル様は気づかれたようでした。険しい表情から一転、優しい笑顔になりました。
「ルイズ、おいで」
わたしは胸を張って、広間を横切り、中央にいるラファエル様のもとへ歩いていきました。客人たちのざわめきを物ともせず、驚く伯爵やモニカお嬢様の顔をまっすぐに見返し、銀髪銀眼の王子様の所にたどり着きました。わたしはなにも悪いことはしていません。泣いておびえ暮らす必要はもうないのです。
ラファエル様にもわたしの決意が伝わったのでしょうか。少しだけ暗かった目元が明るくなりました。ですが、ラファエル様。ダメです、不意打ちは。
ラファエル様が突然ひざまずいたので、わたしはビックリしてしまいました。
「ルイズ、私と結婚してくれないだろうか?」
愛しい人は胸元から、わたしの目と同じ色のエメラルドの婚約指輪を取り出しました。返事は決まっているではないですか。わたしが一瞬、躊躇したのはモニカお嬢様が怖いわけでも、衆目にさらされ緊張したからでもありませんでした。わたしにだって、うしろめたいことはあるのです。
ラファエル様、お父様、わたしは嘘をついていました。むろん、糞桶の仕事を押しつけられたのは嫌でした。それなのにお父様がやめさせようと働きかけてくださった時、わたしは自分から進んでやっているのだと断ったのです。なぜだか、わかりますか? 糞桶を担いで、歩いていればまたラファエル様にお会いできると思ったからなのですよ。お父様のおっしゃったことは真実でした。
わたし、もう怖がったりしません。手を差し出し、大好きな彼に指輪をはめてもらいました。冷たいプラチナはラファエル様の目と同じ。勝利の感触です。
了