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その四

 いったいどうして、わたしは暖かい部屋で湯浴みさせられ、清潔な服を着せられているのでしょう。いつも自分でキツくまとめ上げていた栗毛は、サイドだけ緩く結われ垂らされています。モニカ様ほど派手ではないけれど、色鮮やかな桃色のドレスを身にまとい、晩餐の席に座りました。


 わたしが座ったのは長テーブルの端。反対側の上座にはソワリ公……ラファエル様が座ってらっしゃいます。銀色の双眸がわたしに向けられていました。彼の瞳は寒い夜に輝く月を思わせます。


「新しい屋敷には慣れてくれたかい?」


 穏やかな問いに対し、わたしは今日も、うなずくことしかできませんでした。あの恐ろしい伯爵家から逃れ、数日が経ちました。だいぶ慣れてきたとはいえ、まだ緊張は解けていないのです。

 銀髪銀眼の美麗な公爵閣下と糞桶を担いでいた端女のわたしとでは、天と地ほどの差があります。彼が私に愛想を尽かして放り出すのは、時間の問題でしょう。わたしは愉悦の時が長く続いてほしいと願いつつ、捨てられる恐怖におののく毎日が早く終わってほしいとも考えていました。どうせ、つらい終焉を迎えるのなら、さっさと来てしまったほうがいいのです。幸せな時が長ければ長いほど、あとで訪れる絶望は凄まじいでしょうから。

 

 だから、わたしはいくら優しくされても、反応薄く過ごしていました。ラファエル様が悲しいお顔をされるのは胸が痛むけれど、わたしは期待にお答えすることができません。男性が恐ろしいという気持ちもあります。無能で醜いわたしに情けをかけてくれたラファエル様であっても、そばに来られると身体が震えてしまうのです。


 無償で衣食住を用意していただき、一人のレディとして扱っていただける。こんなことは生まれて初めての経験でした。いえ、伯爵家に初めて迎え入れられた時もそうでしたでしょうか。天蓋つきベッドにお洒落な鏡台が置かれた暖かくて広い部屋。毎日ドレスを着せられ、おめかしさせられて、夢のような生活が始まったのだと思いました。それまではボロを着て、母と一緒に物売りをしていたのですから。


 亡くなった母は方々で仕入れた古物を路上で売ったり、占いをして生計を立てていました。家はなく、たまに実家の農村に帰るか、知り合いの宿屋に泊めてもらう生活です。わたしはいつも宿屋の子供たちと寝ていました。母はわたしのそばにはおらず、どなたか男性の相手をするのが常でした。わたしの父、ヴァルダイ伯爵とは路上で古物を売っている時に知り合ったといいます。

 このような生まれですから、わたしもいずれは母のような生き方をするものだと思っていました。伯爵邸に来たばかりのころは、浮かれていたのだと思います。身分不相応な扱いをされ、調子にも乗っていました。腹違いの姉であるモニカお嬢様が、わたしを嫌悪されたのも当然だったと思います。


 意地悪をされるようになり、わたしは身の程を思い知りました。やはり蛙の子は蛙。もといた沼に帰るべきだったのです。馬をけしかけられた時、避けずに死んでしまえばよかった。そうすれば、お父様……伯爵様にもご迷惑をおかけしなかったのに……。

 下女としてお屋敷にとどまることを許されたのは、逆に不幸なことでした。労働は苦じゃありませんが、ケガをさせてしまったモニカお嬢様からの報復は耐え難いものでした。

 打たれるくらいなら、いいのです。食事をいただけないのも我慢できます。糞尿桶を運ぶ仕事はしんどくても、慣れれば平気です。


 つらかったのは、華やかな装いをし、家族からも大事にされ、日々遊び暮らすモニカお嬢様を間近に見ることでした。どうして血のつながった姉妹なのに、こうまでちがうのか。ですが、それも二、三日で慣れました。

 最初、嫌だと思ったことでも、何度も繰り返していくうちに耐性ができてきます。キツい仕事も殴打も罵倒も……慣れるものなのですよ。わたしはすべての感情を殺して、日々をただ過ごしていました。生ける屍です。しかし、そんな生ける屍にまた起き上がって苦しめと、揺さぶりをかける方が現れるとは。


 ラファエル様にお会いした時、わたしのささやかな平穏は崩れ落ちてしまいました。その銀色の瞳で見つめられると、身体中の血が暴れ出し、胸が苦しくなってしまうのです。あなたがこわい。どうしてあなたは、ふたたびわたしを高みへ連れて行って、突き落とそうとするのですか──わたしはラファエル様を憎み呪いました。ラファエル様はモニカお嬢様の婚約者です。わたしなんかが、なにをしたって到底手の届かないお方なのですよ。


 転びそうになったモニカお嬢様を抱きかかえるラファエル様を見て、わたしは唇を血がにじむほど噛みました。仲むつまじく歩くお二人を柱の影から見て、嫉妬の炎を燃やしました。お部屋に入って、二人きりで何を話されているんだろう? 想像するだけで悔しくて惨めで、石の壁に囲まれた汚い自分の部屋で一人、地団駄を踏みました。

 こんなにも醜いわたしは、誰からも愛される資格などないのです。



 ラファエル様のお屋敷には大きな沼があります。屋敷の外を通る川とつながっており、多少なりとも魚が出入りしておりました。時に、ラファエル様はそこで釣りを楽しまれることがありました。


 庭園を自由に行き来していいと言われていたわたしは、彼の姿をのぞき見ては胸をときめかせていました。

 それだから、派手な水音がバシャァンとした時、即座に駆け寄ることができたのです。大物にひきずられ、足をすべらせて落ちてしまったのでしょうか。わたしはブクブクとあぶくを立てて沈んでいくラファエル様の銀髪を見て、戦慄しました。


「ラファエル様!!」


 祖父母が生きていたころ、川沿いの農村で寝泊まりすることもありました。泳ぎには自信があります。わたしは考えもなしに飛び込んでしまいました。


 水中で腕をガシッとつかまれ、わたしとラファエル様は浮上しました。わざと自分から飛び込んだ?……ラファエル様は溺れてはいませんでした。

 水中に上がったラファエル様は目を丸くされ「なぜ?」と問われました。


「どうして飛び込んだりしたのだ? 無茶なことを……」

「なぜ、水に落ちたのですか?」


 わたしはつい尋ねてしまいました。ラファエル様はさらに驚かれ、すぐに返事は返ってきませんでした。ややあって、


「すべてがどうでもよくなったのだ。沼に飛び込めば、頭を冷やせると思ったのだよ」


 そうお答えになりました。ラファエル様のように完璧な方でもそのようなお気持ちになるものなのかと、わたしは驚くとともに親近感を抱きました。また、彼を身近に感じたことで、言葉はスッと出てきました。


「いけません。そんな危ないことをされては」

「君だって、同じじゃないか」


 わたしたちはずぶ濡れの自分たちの姿を見て、笑いました。髪も服もペッタリと身体に張り付き、上等な服に藻がくっついているのを見て、なんだかどうでもよくなってしまったのです。屋敷のほうから、大慌てで駆けてくる使用人たちが見えました。


「初めて目を見て、しゃべってくれたね。とても、かわいらしい声だ」


 ラファエル様がそう言って銀の目を瞬かせるものですから、わたしは恥ずかしくなって下を向いてしまいました。


 その日をきっかけに、わたしたちは少しずつ話すようになりました。一緒に釣りをしたり、乗馬を教えていただいたり、穏やかで楽しい時が過ぎていきました。

 ふと、このままでずっといられたら、どんなに幸せだろうと思うこともありました。身の程知らずな願いです。わたしはまた断崖から突き落とされるぐらいなら、幸せなまま死んでしまいたいとすら思いました。

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