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その二

 玄関ホールでモニカ嬢からやっと解放されたラファエルは胸を弾ませ、馬蹄型階段へ向かった。カーブの手すりにもたれかかり、動こうとしない主人に従者のキリルは首をかしげる。


「ラファエル様、どうしたのです? こんなところで立ち止まって……」

「まあいいから……それより待っている間、糞桶女のことを調べてくれたか?」

「ああ……かわいそうな話ですよ。僕が聞き込みをしたのは門番、衛兵、侍女、下男あたりですが……誰もが同情するような話で……」


 キリルは髪と同じ黄金色の目を伏せ、声のトーンを落とした。


 糞桶女の名はルイズという。ヴァルダイ伯爵の妾腹の娘でモニカの妹だ。伯爵の愛人だった母が亡くなったため、引き取られた。最初のうちは令嬢として扱われていたのだが、次第に姉からの嫌がらせが激化していったそう。


「侍女の話だと靴に(びょう)を入れられたり、ドレスを破かれたり、ベッドにサソリを入れられたりと細かい嫌がらせから、食事に下剤を入れられたり殴打されたりという身体的虐待に到るまで、それはもう酷いイジメを受けていたそうです。奥方様も見て見ぬふりで、助けようとすれば明日は我が身ですから誰も手を差し伸べる人はいません。伯爵の耳に入れる人もいたそうなんですが、言いつけた人が首にされてからは誰もなにも言えなくなってしまったんですって」

「気の毒な話だな……あのモニカ嬢が?」

「人は見かけによりませんね。ここからがもっと酷い話なんですよ」


 通常のイジメに飽きたモニカ嬢はルイズを縛り、庭園の芝生に立たせた。そして馬に乗り、両手の自由を奪った状態のルイズを追い掛け回して遊んだという。縛られた状態ではバランスが悪くルイズはつまずき、ゴロゴロ転がった。逃げる術を持たぬルイズをモニカ嬢の乗った馬は容赦なく踏みつけようとする。植え込みのところまで追い詰められたルイズは、すんでのところで身をひるがえし突進する馬をよけた。

 あえなく馬は植え込みに衝突。モニカ嬢は投げ出され、腕と足に全治半年の骨折を負うこととなった。


「ここまでは自業自得な話です。ところが、モニカ嬢はルイズが馬を操って、自分を落馬させたのだと言い張りましてね。彼女を屋敷から追い出してくれと大騒ぎしたそうです。伯爵もうすうす気づいてはいるんでしょうが、奥方までモニカ嬢の味方をしだしたので、やむにやまれず……」

「奥方としては愛人の子は預かりたくないだろうからな……」

「伯爵はルイズの母に少なからず愛情を持っていたようで、亡くなる直前に娘を頼まれていたのもあり、ルイズを追い出せなかったようなんですよ。その結果、下女として雇うということで折り合いをつけました。糞桶の仕事はおそらくモニカ嬢の差し金でしょう。一番嫌がられる汚い仕事を押し付けられているんです」


 いつも冷静沈着なラファエルはキリルの話に動揺していた。お涙頂戴の話に涙を流したことは一度だってない。それなのに胸が締め付けられるのは恋ゆえか……


「モニカ様、美しい方ですけど残念ですね。こんな話を聞いてしまうと、ラファエル様も気持ちが冷められたでしょう? ところで、ここで立ち止まっているのはなんでです?」


 ちょうどその時、階段の下で扉の開く音がした。ラファエルが手すりから身を乗り出すと、いた! 彼女だ! 白いうなじ、三つ編みでまとめ上げた栗毛。フラフラと天秤棒をかつぐその姿は噂の主、ルイズに違いなかった。

 キリルがラファエルの横からのぞきこみ、「あっ!」と声を上げる。ルイズは声に反応してこちらを見た。

 翡翠色の瞳に捉えられ、ラファエルの呼吸は止まった。ルイズの白い頬にはわずかだけ紅が差している。以前見た時、一瞬で脳裏に焼き付いた造形は見れば見るほど美しかった。やや下がった眉と目、目じりのほくろから丸みを帯びた鼻、そう、彼女の鼻はモニカのようにツンと尖ってはなく少し柔らかいのだ。そして唇はふっくらと厚め。雪原に咲く赤い薔薇だ。

 見とれるなんてものではない。魂をがっちりつかまれてしまった。今のラファエルは抜け殻だ。ひとしきり見つめ合ったあと、ルイズは背を向けた。

 キリルのささやき声でラファエルは現実に引き戻される。


「彼女が噂のルイズですか……思っていた以上に綺麗な人でビックリしました」

「なんとか彼女を救うことはできないだろうか?」


 キリルから返答が返ってくるまえにラファエルは階段を駆け下りた。また、彼女を逃してしまう。今度こそは逃してなるものか。それだけの思いでなにも考えず、感情的に動いていた。

 以前、階段を下り切ったところでルイズの姿は消えてしまった。今日はまだいる! ラファエルは弱弱しい背中を追った。

 足音でわかったのだろう。彼女は振り向いた。パッチリ開いた目は少々おびえている。


「君は……ルイズだね?」


 彼女は控えめにうなずいた。しかし、大慌てで追いかけたはいいが、ラファエルはなにを話せばいいかわからなかった。この儚く美しい人をずっと見つめていたい、ただそれだけで動いていたのだ。


「私はラファエル・アンドレイ・ノワイユ・デ・ソワリという。ソワリ地方を所領に持つ。国王の弟だ。夏の間はソワリから出て王都に住んでいる。先日もお会いしたのだが、覚えているだろうか?」


 ラファエルが急遽思いついたのは自己紹介だった。だが、この自己紹介はまずかったようだ。ルイズの目は明らかに怯懦(きょうだ)を宿しており、体まで小刻みに震え出したのだ。

 伯爵邸に引き取られるまでの間、庶民として生活していたのだから、突然王の弟が現れたら驚くだろう。考えが浅かったことをラファエルは後悔した。

 ルイズは頭を振り、背を向けた。ラファエルは慌てて追いかけ、彼女の進行方向に回り込んだ。


「待って! 君の境遇を調べさせてもらった。できることなら力になりたいんだ」


 ルイズは困惑している様子だった。長い睫毛をしきりに上下させ、思考を巡らせているようにも見える。やがて、困惑からいぶかしむ目つきに変わり、それがまた恐怖に満ち始め、ラファエルは気配に気づいた。トントントンと尖ったヒールで階段を打つ音がする。

 ルイズは目を伏せ、進行方向にいたラファエルの横を通り過ぎようとした。その腕をラファエルがつかもうとした時、上から声が聞こえた。


「ラファエル様! そこで少しお待ちくださいな!」


 モニカ嬢だった。ルイズはその隙に歩いていってしまった。待てと言われて無視するわけにもいかず、ラファエルはモニカ嬢が来るまでイライラしながら待つことにした。

 スカートの端をつまみ、石畳を駆けるモニカ嬢の金髪が乱れている。先ほどの甘えた態度とは異なり、鬼気迫る迫力があった。本人もうまく作られた仮面が剥がれかけていることに気づいたのか。ラファエルの近くまで来て表情を和らげた。


 ──と、緩んだとたん、グラリ傾いて転びそうになる。ラファエルはとっさにモニカを支えた。必然的に抱きかかえてしまったような形になる。しかも、モニカは「きゃぁああ!」と派手な叫び声をあげた。


 その声で先を歩いていたルイズが足を止め、こちらをチラッと見た。ラファエルとしてはあまり見られたくない状況だ。しがみついて離れないモニカをなんとか離し、向き直った。


「大丈夫か?」

「ごめんなさい。見苦しいところをお見せしてしまいました」


 モニカは碧眼を潤ませる。髪の乱れはどうしたのか。ラファエルが目を離した一瞬の隙に普段通り戻っていた。


「ラファエル様がルイズと話しているのをお見かけして、追いかけたのです。あの子、わたくしの悪口を言ってなかったでしょうか?」

「私はなにも聞いていないよ。糞桶を若い娘が担いでいたので珍しく思い、声をかけただけだ」


 ラファエルはすっとぼけた。キリルの得た情報だとモニカ嬢はかなりの食わせ者だ。下手に刺激してはルイズがヒドい目に合わせられる。

 モニカ嬢はホッと息をつき、怒涛の勢いで話し始めた。


「ルイズは父が愛人に作らせた娘なのですが、ちょっと頭のおかしい子なのです。糞桶も自分の意志で運んでいるのですよ。まともな服を着せても、すぐ引き裂いてしまうのでみすぼらしい恰好をさせているのです。あげくの果てに虚言癖と盗癖がありまして、わたくしや母の悪口をいらっしゃったお客様に吹き込んだり、男性なら誰彼構わず誘惑したりするんですのよ。わたくし、心配で心配で……」


「大丈夫だ。私はなにも聞いてないよ。おとなしそうな娘でそんな様子は見られなかったけどね」

「それがあの子の手なんです! いかにも弱そうに装って、男の人に色目を使うんです。母親も娼婦だったそうですから、手練手管は見事なものです。ラファエル様、お気をつけくださいね」

「わかった。肝に銘じておこう」

「せっかくなので、馬車までお送りします」

「あいにく馬車ではなく、馬で来た」

「では、厩舎まで」


 ラファエルが騎乗し、従者のキリルを伴って発進させるまで、モニカ嬢はずっとそばを離れなかった。

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