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その一

 氷月公こと、ラファエル・アンドレイ・ノワイユ・デ・ソワリは目を見開いたまま固まっていた。

 ラファエルが氷月公と呼ばれるのには理由がある。銀色の長髪と瞳が寒空に浮かぶ白い月を思わせるからだと。しかし、よく「あなたは冷たい」と評されることが多いので、じつはそれが一番の理由ではないかとラファエルは思っていた。冷たいというのは事実で、いつだって冷静でいられる達観したところがラファエルの個性でもある。


 そのラファエルが見入ってしまったのは糞桶(ふんおけ)を運ぶ一人の端女(はしため)であった。建物の外壁に沿って歩くのが階段の上から見えたのである。

 糞尿桶の処理はだいたい下男の仕事だ。それも末端。身体が不自由だったり、容姿に難のあることが多い。女が糞桶を運ぶのは非常に珍しい。

 痩せた身体で天秤棒を肩で担ぎ、糞桶を運ぶ後ろ姿は哀れだった。ボロボロの衣服をまとっているのに、初雪のような白い肌がまた憐憫を誘う。三つ編みでまとめた暗い栗毛が肌の白さをいっそう引き立てていた。その栗毛がはらり、白いうなじに落ちるさまがゾクッとするほど美しく、ラファエルは釘付けになってしまったのである。

 

 視線に勘づいたのか。女は振り向いた。粉々に砕け散ってしまいそうな翡翠色の瞳に捉えられ、ラファエルは息を呑んだ。伏せられた長い睫毛が魂をがんじがらめにする。


「……もし、ラファエル様? どうなさいましたか?」


 従者の少年キリルに声をかけられなければ、そのままずっとラファエルの時は止まっていただろう。ハッと我に帰り、少年らしいキリルの赤い頬に視線を移した。首を傾げるキリルは図太い性格に反し、可愛らしい外見をしている。西日を反射するキリルの黄金色の髪がまぶしくて、ラファエルは目を細めた。

 その一瞬の間に糞桶女は背を向けてしまった。


(あっああ……行ってしまった……今のは幻だったのか)


「ラファエル様? なにか、忘れ物でもなさいました?」

「うるさい。行くぞ」


 夢から覚めた状態のラファエルは投げやりに言うと邸宅の外階段を降りた。馬車は外壁沿いに待たせてある。糞桶女がいたのは馬車を置いてあるのとは反対方向だ。玄関につながる馬蹄型の二つの階段はカーブを描いていた。女を見たのはカーブが一番キツい部分だったので、階段を降りきると背後になる。振り返ってみても、影も形も見えなかった。


 庭園を横切る馬車の中でも糞桶女のことが頭から離れなかった。ラファエルは、いつになくボーとしていたのだろう。好奇心旺盛な少年の目に気づかなかった。


「ぼんやりなさって……モニカ嬢がよっぽどお気に召されたんですね」


 従者のキリルが言うモニカとは、この屋敷の持ち主ヴァルダイ伯爵の一人娘だ。ラファエルはこの娘とお見合いするために、屋敷を訪れていたのである。

 二十代も後半に入り、そろそろ結婚しろと周囲から言われ、ラファエルはしぶしぶお見合いをすることにした。そこで王妃である母の遠縁を紹介されたのだ。

 キリルのおしゃべりは止まらない。


「いかにも、深窓の令嬢という雰囲気でした。見とれてしまうほどの金髪碧眼(へきがん)で、お優しくって、本当に非の打ち所のない方でしたね!」

「うるさい奴だな。少しは黙れ」


 いつもラファエルはこんなふうにあしらうのだが、キリルはへこたれない。案外、相性良く、ラファエルはこの無邪気な少年を気に入っていた。


 モニカ嬢に関して、ラファエルはなんとも思わなかった。婚約候補として見合いをしただけで、特に心惹かれることもなかったのである。美しいとは思った。ただそれだけで、なんの感情も湧いてはこない。もともとラファエルは、男色家と噂されるぐらい女性に興味がなかった。


(キリルは見てなかったのか……あの糞桶女を……)


 屋敷の玄関から下へ降りる階段の途中だった。馬蹄型の階段の外側にラファエルはおり、内側にいたキリルの角度からは見えていなかったようだ。

 無意識にラファエルは大きなため息をついてしまった。またも、キリルに誤解される。


「氷月公と恐れられるラファエル様が恋に落ちるとは……」

「ちがう、そういうんじゃない」


 だが「恋」という言葉に、ラファエルは引っかかった。このような気持ちは生まれて初めてである。


(もしかして、これが恋というものなのか?)



 自邸に戻ってからも、ラファエルは煩悶し続けた。糞桶女のことを忘れようとしても、どうしてもできない。四六時中、彼女のことが頭に張り付いている状態となった。


(あれは本当に幻だったのかもしれない。実在しない理想が見えてしまったのだ)


 そんなことを思ったりした。


(だとしても、気になってしようがない。また会うことはできないだろうか)


 彼女のことを想うと夜も眠れず、夢にまで現れる。ラファエルは決意し、会いに行くことにした。

 しかし、ヴァルダイ伯爵邸を理由なしに訪れることはできない。モニカ嬢に会うという取って付けたような理由はよくないし……勘違いされても困る。


(そうだ! ヴァルダイ伯爵には骨董品集めという趣味があったではないか!)


 ラファエルは伯爵の収集品を見せてもらいたいという理由で、屋敷を訪ねることにした。ここで注意点が一つ。糞桶女があそこを通る時間に合わせなくてはいけない。たしか夕刻前の西日が強い時間だ。

 ラファエルは伯爵と連絡を取り、細かく時間指定までして約束を取り付けた。


 当日、上機嫌で迎えてくれた伯爵には申し訳ないが、ラファエルは上の空で収集品のウンチクを聞いた。 

 ヴァルダイ伯爵は立派な口ヒゲを蓄えた紳士である。人当たりもよく悪い人間ではなさそうだ。だが、他者感情に希薄というか、一方的にしゃべって相手の反応をまったく気にせず一人で満足していた。ラファエルの苦手なタイプではある。そもそもラファエル自身も他人に興味を持たず、人付き合いが苦手だ。くわえて、釣りや狩猟を好むラファエルは収集などの内向的な趣味には疎い。


 退屈な話の途中、夕刻が近づいてきた。しきりに懐中時計を気にしてみせるラファエルに、伯爵は気づいてくれない。さらには、余計なことまで思いついた。


「閣下がモニカと結婚してくださったなら、収集品の話を朝までしてしまいそうですな。そうそう、モニカが会いたがってましたので、話が終わってから顔を出されてみては?」

「せっかくですが、このあと予定がありまして……ここで失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」


 ラファエルはなんとか切り上げることができた。収集品の話を朝まで?……とんでもない。地獄だ。名残惜しむ伯爵を尻目にラファエルは部屋をあとにした。


 足取りも軽く玄関へと向かう。先日彼女を見た馬蹄型の階段でしばらく待っていよう。ラファエルの鼓動は早くなった。ふたたび彼女に会えるのかと思うと、高揚するのに胸が苦しくなる。ところが、邪魔が入った。


「ラファエル様! 父とのお話は終わったのですね!」


 モニカ嬢と遭遇してしまった。派手な金髪を下ろした令嬢は頬を赤らめ、近づいてくる。


「すまないが、用事が……」

「嬉しい!! 会いにきてくださったのですね!……ふふ、わかってますよ? 父の収集品を見たいだなんて、口実でしょう?」

「えっと……」

「さあ、わたくしの部屋へ参りましょう。お茶菓子を用意させております」


 モニカ嬢はラファエルに腕を絡ませてきた。相手の感情を(おもんぱか)ることができないのは、父親と同じだ。


「モニカ、私は用事がある。これで失礼するよ」


 ラファエルは氷月公の名に恥じぬ冷たさで、モニカの腕から逃れようとした。すると、モニカの眉間に深い皺が刻まれた。碧眼はメラメラ怒を発し、猛々しい顔つきへと変わる。優しい美人の顔が豹変したので、ラファエルは「おや?」と思った。

 だが、それはほんの一瞬で瞬きする間にはもう、いつものモニカに戻っていた。目になみなみと涙をたたえ、


「残念ですわ。せめて、馬車のところまでお送りします」


 絡ませる腕に力を入れられた。これは絶対に離さないという意志表示だろう。思いのほか、押しの強い娘だ。


「玄関までで結構。待たせている従者と公務のことで話したい」


 ラファエルが冷たく言い放つと、絡む腕の力が和らいだ。じつは今までこの冷淡さのせいで、いくつかの縁談が白紙に戻っている。それでも、結婚話が舞い込んでくるのは王の弟、公爵という身分が魅力的なのだろう。


「かしこまりました。では、玄関までで……」


 モニカはおとなしく引き下がった。

 それから、玄関ホールに着くまでの間もモニカは身体をピタッと密着させ、ラファエルを離そうとはしなかった。冷たくされても凹まないこの強さは評価できる。従者のキリルもそうだが、自身にも厳しいラファエルは強い精神性を持つ者と相性がいい。糞桶女のことがなければ、この縁談を受けていたのだろうかとも思った。

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