58.植物園にて②
(あ、はしたなかったかしら……?)
僅かばかりに動揺するアイスローズを見て、エドガーは柔らかく目を細めた。そっと、まるで眩しいものを見るかのように。
エドガーは細身サルとアイスローズが満足するまで餌を投げてくれ、餌の投球フォーム(?)も教えてくれた。エドガーの説明がよほど上手かったのか、最終的に子供からおじいさんまで周囲に集まったのは、面白すぎた。
「このサル山では冬、サルたちは温泉に入ることが出来るんじゃよ。あのプールみたいになっている空間が温泉になる。赤ちゃんザルが生まれる時期などは、溺れてしまったらまずいからやっていないがね」
サル山をスケッチしていたおじいさんが教えてくれた。アイスローズは納得する。
「なるほど。だからサル山になっていたんですか。植物園も温泉の熱で温めているから、素晴らしい相互関係ですね。冬になったら、また見に来たいです」
エドガーは思い出したように言った。
「温泉といえば、『夏の遠足』の行き先はローマン・ラグーンだったな。クラスの誰かが以前行ってとても良かったと言っていた」
ローマン・ラグーンとは、色々な温泉だけでなく、スライダー付きプール、サウナ、運動場やレストラン、土産物屋なんかもある一大複合レジャー施設である。
白い棚田のような浴槽に青白い湯が湧く露天風呂や、大理石づくりでモザイクや石柱にぐるりと囲込まれた豪華絢爛な巨大プールが有名だ。
「いいですよね、行ったことはないですが、私も楽しみです! ――、」
(そういえば……「王太子探偵という戯れ」でエドガーがローマン・ラグーンに行くところを読んだような……? あれは、確か)
――通称【水着回】だ。
「王太子探偵という戯れ」は、少年漫画雑誌で連載されていた。だからなのか、毎年夏にはドレスや紳士淑女やらの世界観に反して【水着回】が存在する。
女性陣(令嬢含)も話の都合上か、普段の生活では考えられない大胆な水着……だいたい、ビキニはこの世界の下着よりもよほど露出が多い――……を何故か抵抗なく着用し、ヒロイン・エレーナも抜群のスタイルを披露していた。
そしてエドガーはそんなエレーナを見て、表面上のクールな反応に対し、心の声ではやぶさかでなかったというくだりがあった。
なんてことはない、少年漫画ではお約束の展開なのに。
こんなおかしな世界観を作ったのは作者なのに。
この後の発言を、アイスローズは死ぬほど後悔することになる。
後から振り返っても、勝手に心の中を見る(読む)というプライバシー侵害をした挙句、エドガーを傷つけたと思う。アイスローズの前世と今世が入り乱れた、特殊な価値観のせいで。
「……アイスローズ?」
エドガーはいつもと同じ。変わらない、青緑色の瞳の、大好きな人。
彼は何も悪くない。しかし、アイスローズの口から小さくこぼれた言葉は、二度と取り消せなくて。
「エドガー様の、ヘンタイっ……」
エドガーは表情を変えなかった。
今、何を言われたか理解できていないようだ。おそらく、エドガーから最も遠く、彼の人生で最初で最後に言われたであろう言葉。よりによって令嬢中の令嬢アイスローズに。やがて時が動き出したようかに、彼の顔色が一気に悪くなる。
「――――なんで!?」
エドガーはこれ以上なく目を見開いて、もっとも過ぎるセリフを言った。
✳︎✳︎✳︎
(終わった……全てが終わった)
どうやって帰ってきたのか、記憶がない。
アイスローズはヴァレンタイン邸の自室の床に顔面から倒れていた。あれから急に天気が崩れ、風があまりにひどくなったため、散策を打ち切って帰宅となったのだ。
もうとっくに夜になっている。
(ないわ、いくら何でもあの発言はないわ。あんなに繊細で――高潔でいたい人に)
今日の途中までは、夢のように楽しかったのに。泣きたい衝動に駆られるが、泣きたいのはエドガーだろう。
エドガーの「心」を守りたいのに、こんな……「王太子探偵という戯れ」の事件にすら関係ないところで、まさかの自分がやらかしてしまうなんて。
アイスローズはガバッと起き上がる。
(い、いや、逆に(?)エドガーはあんまり気にしていないとか? 大好きなエレーナに言われた訳じゃないんだし)
が、ギュッとまたうつ伏せになる。側から見たら情緒不安定も過ぎる。
(そういうことじゃないわ。これは人間としての尊厳の問題よ)
――許してもらえるだろうか? それはエドガーが判断することだ。アイスローズに出来るのは、誠意を持って謝罪することだけ。
(明日、学校で会ったらきちんと発言の理由を説明してお詫びをする!! なんだってする!! それだけのことを言ってしまったんだから)
しかし、アイスローズはまだ知らない。
今回の件が「次に起きる事件」に大きな影響を与えることを。アイスローズはその責任をとって奔走することを。
「本当にごめんなさい、エドガー……」
アイスローズの呟きは、部屋の暗がりへ不穏に消えて行った。
✳︎✳︎✳︎
「え、エドガー様はお休みですか?」
翌日、朝一でエドガーのクラスへ向かえば、廊下でジョシュに遭遇した。丁度、彼はエドガーの欠席連絡諸々をしに来たそうだ。
「はい、エドガー殿下は寝込まれています。殿下は元々お身体が強く、また体調管理がお上手ですから、ここ何年もなかったのですが」
「そうですか……」
アイスローズは項垂れる。
(あの発言のせいで免疫力が弱ったとか、まさかそんな、ね)
「たまに起き上がったかと思えば、ひたすらトランプタワーを作られています」
「え、トランプタワーですか? なんでまた」
「幼少期からお辛いことがあると、剣術の稽古に集中することで感情のコントロールをされていました。今は体調的に稽古が無理ですから、おそらくそのように」
「大丈夫なんでしょうか!? エドガー様は!?」
「王城医師の話では身体に異常はなく、精神的なものだそうです。とはいえ、あの動じないメンタルのエドガー殿下ですからね。何があったのか、私には今世紀最大のミステリーです」
かなり心配そうに首を傾げるジョシュ。
「ああ……」
消えて無くなりたいアイスローズ。
「思い返せば、昨日の植物園の帰り道から顔色が悪かったですね。アイスローズ嬢にいいところを見せようと緊張されていたのかもしれませんね」
「いえ、全くそうではなくて……」
(そういえば――トランプって一枚一枚カードに意味があるんだっけ)
ふいに頭の中に情報が湧き上がってくる。
(赤いカードは昼を、黒いカードは夜を表す。四つの絵柄は春夏秋冬を、そのほかにもスペードのマークは死を、ハートは愛を表したり。あれ、私、この知識どこから?)
「っ、――!!」
アイスローズは衝撃のあまり、咄嗟に口を手で押さえる。
【黒いダイヤのジャック事件】だ。
しかも、これはエドガーがいないと詰むやつ。
あれだけ、漫画の事件に関するストーリーを下手に変えないよう、エドガーの動きをいたずらに変えないよう、気をつけてきたのに。
(や、やってしまった――!!)
「!? アイスローズ嬢!?」
ジョシュからの視線も憚らず、アイスローズは頭を抱えながら廊下の中心に膝をついた。
ここまでお付き合いいただき、大変ありがとうございます! 明日3/4の投稿は午後になります。




