1.最初の事件
事の発端は、数ヶ月前の春だった。
王都近郊のグリーンアップル邸。空は青く澄み渡り、庭では王太子主催のガーデンパーティーが開かれている。エレミア王国の王太子は現在15歳、招待された令息令嬢も同世代であり、目的は貴族間交流と未来の有力者たちからの支持集めである。グリーンアップル家は王家の親戚筋にあたる。
アイスローズ・ヴァレンタイン(15歳)も招かれた令嬢の一人だ。公爵令嬢であるアイスローズの、磨き上げられた美貌や隙のない所作は別格だった。歩くたびに令息令嬢どちらともなく視線が集まるが、彼女には余裕がある。
(頑張ってきた甲斐があったわね。それも全ては王太子殿下、ただ一人のために)
アイスローズはこの日のために「完璧な淑女」であろうと血の滲むような努力をしてきたのだ。可愛らしく編み上げられているヴァレンタイン家特有の白銀の髪、紅い瞳を有するアイスローズは、5年前に一度会ったきりの王太子に再会できる今日を心待ちにしていた。
今回のパーティー会場である庭はとても広い。真っ白いクロスが掛かった長テーブルには、いくつものケーキや焼き菓子、フルーツが並んでいる。脇を見れば、グリーンアップル家の象徴でもあるリンゴの花が見事に咲き乱れていた。木の下には自由に休めるよう、国花エレミアン・ローズで飾られたベンチが設置されている。小さなオーケストラの演奏も行われていて、それらは全て、この王国が永らく豊かなことを示している。
中でも一際目を惹くのは、金髪碧眼に一切の無駄がない容姿、紺の正装に浅葱色のネクタイを締めている……エレミア王国の王太子だ。彼は何をやらせても優秀で、チェスの腕は国有数とも言われていた。
王太子はホストとして振る舞い、流れ作業のように卒なく令息令嬢に挨拶していく。
「……いよいよね」
やがてアイスローズの順番になり、ついに彼が目の前にやって来た。王族に対しての挨拶時にはいくつかルールがある。王太子に許可されたとき以外、失礼にあたるため低頭姿勢をキープしなければならない。
アイスローズの存在をアピールする最大のチャンス。5年間育てた「恋心」の全てを込め、ボリュームのある水色のスカートを摘み頭を下げる。
そう、この王太子の名前は、エドガー・エレメージェバイト。
「……――エドガー・エレメージェバイトですって!?」
「!」
王太子を呼び捨てしたうえ、思いっきり頭を上げてしまった。少しだけ大きく開かれたエドガーの瞳に、血の気が引いているアイスローズがバッチリ映る。側にいたエドガーの若い従者と令息令嬢たちは、ギョッとしたようにこちらを見た。
(い、いや! まさか、ありえないでしょう!? このタイミングで思い出してしまうなんて!?)
途端に、しどろもどろになるアイスローズ。
頭の中に大量の記憶が流れ込み、止まらない。
間もなく、この世界はアイスローズが前世で読んでいた推理漫画「王太子少年の事件日和」であり、自分は転生者であるのだと理解した……。
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「王太子少年の事件日和」は、元々週刊漫画雑誌で連載されていた「王太子探偵という戯れ」の人気を受け、別冊で【派生連載】されたものである。
「王太子探偵という戯れ」の主人公は、16歳の王太子エドガー・エレメージェバイトだ。彼が王城や騎士団訓練場で聞きつけた事件を華麗に解決していくストーリーである。推理の途中で城下に降りるエドガーは様々な変装をしたりもする。劇中のヒロインは、エドガーの幼馴染で騎士団員の娘エレーナ・シライシだ。
そして、そのエドガーが16歳の年になるまでの少年時代を描いているのが、「王太子少年の事件日和」なのである。
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アイスローズはしばらく呆然と棒立ちしていた。王太子に対しての不敬行為と咎められておかしくなかったが、エドガーは直ぐに何ごともなかったような無難なお辞儀を返し、別グループの令息令嬢へ挨拶に向かった。
……ヒー・イズ・ソー・クール。
そんな表現が正しいのか知らないが、「丁寧な無視」された気がする。
王太子以上でも王太子以下でもない振る舞い。まあ王太子なのだし王太子とはそういうものなのでしょう……王太子言いすぎてゲシュタルト崩壊が起きそう。
(でも、まさか、生きているエドガーを拝見できるとは。昔からの知り合いにあったような気分)
アイスローズが両頬に手を当てると、明らかに興奮しているようで熱い。
「アイスローズ嬢、顔が赤いわ。体調が悪いのかしら?」
はっ、と声がした方へ顔を上げれば、豊かな茶髪をボブスタイルにした快活そうな女性が、アイスローズを心配そうに見つめていた。
「バーサ・グリーンアップル……様!」
今度は何とか敬称をつけられた。
慌ててお辞儀をする。
(そうか。この人はグリーンアップル家の未亡人であり、この邸の女主人であり、「王太子少年の事件日和」【最初の事件】回の登場人物だったわ。いつもグリーンのドレスを着ているのが、印象的だった)
記念すべき連載第一回目の【最初の事件】は、エドガーが止められなかった事件であり、通称「トラウマ回」だからよく覚えている。
……と、ここに来て一つ疑問がわく。
アイスローズは頭を下げたまま、ゴクリと喉を鳴らす。
(あ、あれ、これってまさか、漫画の事件は現実におきるの? だとしたら、とても)
身体中の毛穴からブワッと汗が滲む。
(いや。まだそうと決まったわけではないわ)
穏やかではない予感を散らしたくて、首を振る。とりあえず、目の前にいるバーサに聞いてみよう。バーサは人が良さそうで、話しかけやすそうだ。
「このグリーンアップル邸の近隣に、『カーライル伯爵邸』はありますか?」
「あるわ。アイスローズ嬢、この辺りの地域に詳しいのね」
「……カーライル家至宝の半冠、金色トパーズのティアラが有名ですから」
「『ティアラ・カーライル』のことね。二ヶ月前の盗難事件が残念でならないわ。あ、でも、怖がらないで。犯人はカーライル家の女使用人で、すでに逮捕されているわ。肝心のティアラの行方は、まだ自供してないみたいだけど」
アイスローズは続ける。
「最近、バーサ様は『書斎でインクをこぼされませんでしたか』?」
「あら、何で知っているの? いやね、誰か使用人が話したのね。書斎には亡き主人が気に入っていた異国の絨毯があったから慌てたわ。シミが残るかと思ったけど、執事のユースタスに掃除させたら時間をかけて綺麗に消してくれて……ってアイスローズ嬢、ますます具合が悪そうだけど、貴方、本当に大丈夫?」
耐えろ、アイスローズ。
頭がぐらりとして身体を仰け反った時、視界の端にエドガーが見えた。彼はこちらを見たような気がしたが、思い違いだったかもしれない。
(まだよ、この目で見るまでは確証はない。ただ、)
信じたくない。
信じたくないのだが、あらゆる状況が【最初の事件】が起きているのだと告げている。
(今日だ。……今夜、この人は殺されるかもしれない)