行く道は自らの力をもって切りひらけ
我々は、無自覚に多くの事を何かに頼っている。
実■「そりゃそうだろ」という話でしかないのではあるが、ここではつまり現代の物書きが、漢字をちゃんと書けていないのではないか、ということについて触れる。
コンピューター技術の発展で、文字を使ったやり取りというものは、非常にコストが低くなった。例えば、漢字変換。そして、変則的には予測変換。これに頼って文字を記■出来る場合、単に知識として知っていれば、実■にはうろ覚えでも書けてしまうものだ。
だが、それで本当に良いのか。自らの手で筆記出来ない文字を使って書いた文しょうは、果たして「自分が書いた」と言えるのか。
故に、今回はこうだ。書こうとした文章のうち、空で書き方を思い浮かべられない漢字の記■を禁じる。誤りが後から判明した場合は、さかのぼり■■を行う。書けない場合は平仮名なり片仮名なりの表記に逃げる。こういう制限のもとで書くこととする。
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以上、企画としてはそんな感じ。
もちろん、ガチでやるなら原こう用紙に実■に手で書いて精査するのが筋なのではあるが、愛好家の物書きが、必然性もなくそんなものを常びしている訳がないので――それよりも■粋にめんどうくさいので――そんなことはしない。その代わりに発生したペナルティとして、記■が■しかった場合は、モンドウ無用で塗り■し訂正をすることにする。
ふつうに忘れて変換してしまった場合も■む。今まさにやったように。だから、厳密に言うと、必ずしも書けないから塗り潰しになっている、ということでもない。それに、間違った場合はあらためて見直して書けるようになればいいし、そもそも本来なら、現実に文字を筆記する場面では、怪しいやつはジテンで調べながら書けばいいのである。
素の知識量だけが能力というわけではない。あると思います。
ここまでかいてきた感覚としては、意外と悲観していたほど出来ないわけでもないな、という感じだ。
(けっこうサンタンたるありさまでは、と思う人もいるだろうが、正直もっとカタカナとぬりつぶしのオンパレードになると思っていた)
とはいえ、漢字って書くのが面倒なんだよな。実■に筆記するときは、書けても書かないことだってある。それに、文章をかくにあたって、漢字表記を把握しているものは、すべからく漢字で書くのがダトウというわけでもない。
特に、小説の登場人物の、一人称視点の記述に関しては、■んでいる人に伝わるかは別にして、表記は割とセンサイなものだ。頭のよさとか、性格とか、その人の人間性によって、心に浮かぶ文章は変わる。だから、イッペントーに書くのは、たまに違和感を伴う。「この人、本当にそんな感じで思う/話すか?」みたいなやつ。
もちろん、小説のなかのひと(登場人物のほうを指す)のことは、小説のなかのひと(書き手を指す)しか■■を知らんわけで、私の思う、私の想像した誰かというものの人柄が、その認■のとおりのものではないことも多いだろう。なので、書き手がそう表記したなら、それは原則として妥当なのだ。
誤字や脱字は別……ということも、時にはない。人は意外と概■をちゃんと■えてはいないものだ。有名どころでいえば、固定観念を固定ガイネンと認識しているとか、予行演習を予行レンシュウと認識しているとか、そういうのがヒンシュツする。演習と練習のちがいもわからんのか。……ちゃんとは知らんな。ゴイとして違うという事実だけは知ってるけど。
というわけで軽く調べてみたが、■■■いは■似しているものの、演習のほうは実■の状況をソウテイして行うものである、という限定的な意味であるため、予め行う演習のことをして「予行練習」などというのは、まぁなんかちがうよね、となる。単に予行か、あるいは練習か、なんならリハって言えばいい。
そして、リハーサルということばが俗に(というのもおかしいかも知れんが)予行演習を指す言葉であるのをなんとなく把握しているが、ゲンミツにはよく知らんのである。意識すればいくらでも「よく知らないけど運用されている概念」というものはあるものだと思う。
英語表記だとRehearsalとのことで、まぁなんかくりかえし聞かせることとかそんな雰囲気を感じる。リヒアサルとでもいうか。
リハがどういう意味であるか、言葉は正しく使おうとか、そんなことを言っても大して意味はないが、とはいえ何かものを理解して扱えるようにする折、そういう根元の部分を意識するのは、存外有用なことだと言える。
結局のところ、知識というものは連想によってたくわえられるものなので、何か物を覚えるときに、覚えようとしたそれそのものだけを記憶する方法は、逆に効率が悪いまである。記憶に引っかかるサクインと、その概念を構成するヨウ素の組で覚える方が、省力で便利なのである。
だから、多くのことに興味をもっていることが、コウハンな知識を持つことのソヨウであるというのは、たぶん合っている。それだけで必要十分なわけではないにしても、興味ないことなんて知ろうともしないので、そうやって理解をこばむものが多いほど、興味があることを理解する機会や能力が得難くなる。
ユウシュウな人ほど変わり者が多い気がするというのも、そう考えてみると当然なのかもしれない。その知識をもっといいことに役立ててくれよ、と思うような才能の無駄づかいが、そうでなければ知識そのものにつながっていないのかも知れないし、本当に世の中はままならず、都合のいいようにはならないものだ。
どうせなら小難しいことを書いて、より駄目さをきわだたせる方に物を書けばいいのだが、今日は思想関連の方の想起が活発ではないので、やめておく。やっぱりテーマがないと、思想は書けん。今回のように、企画ありきでものを進めると、どうしてもそれ単体で話が終わってしまう。
もちろん、最初からテーマを二つ用■して、それを混ぜ合わせて取り組めばいいだけの話なのだが、今回はそうはしなかった。それだけだ。つまりホンペン部分は完全に、その場のノリだけでなんとなく書かれているのである。ある意味では予想外で、ある意味では予定調和だ。
これらのことから無理にキョウクンを出すなら、ちゃんと物事には目的意識をもって取り組みましょうということになるか。
より良い結果をもとめるために、何が大事な要素なのかを切り出して、思い出して、捉えてつかんではなさないように。ただあるままの言葉だけでなく、それを磨いて輝かせられるように、たくさんの経験と観測と、そして実践を■ってはいけないのだ。