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空中喫茶香月〜あなたの迷い、月香るお茶で紐解きます〜  作者: 久生夕貴
第二章 クロックムッシュ×フレンチトーストのウエディングフレーバード
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歩き出す

 ぽつりと呟いた若杉さんに、康太さんは何も言わなかった。

 しばらく俯いていた彼女はやがて掠れた声を絞り出した。

 

「ねえ、なんで私を置いて行っちゃったの?」


 押しとどめていた感情が決壊したように、哀しみが溢れ出していく。


「あの日も、美味しかった言ってくれたらよかったのに。そうすれば、私こんなに引きずることもなかった……」

「……ごめん」


 目を伏せる康太さんの佇まいは、ひどく静かで悲しそうだ。深い慟哭の中にいる若杉さんとは対照的だけれど、それが残された人と残していった人の違いなのか、私にはわからない。


「私さ、今もあなたの苗字のままにしてるんだよね。あんなに苗字が変わるのが嫌だったのに」

「果歩……」

「一人で食べる朝ごはんは、つまんないよ」


 フォークを持つ手が震え、彼女の声が嗚咽に変わる。


「どうやって息をすればいいかわからない……」


 今すぐ崩れ落ちてしまいそうな若杉さんを、康太さんはしばらく見つめていた。やがて立ち上がると彼女の傍に行き、慣れない手つきで背中をさする。


「……本当は、帰ったら謝るつもりだった」


 のろのろと顔を上げる彼女の前で、ばつが悪そうに眉を下げた。


「前日の夜、果歩に言われたことが堪えてた。確かに俺は、君が好きなものを知ろうとしてなかった。お互い相手の趣味に干渉しない間柄だったし、それでいいと思ってた。でも本当は、ずっと寂しがらせてたんじゃないかって」


 それを聞いた若杉さんは、鼻をすすりながら呟いた。


「……やっぱり、あの喧嘩を気にしてたんだね」

 康太さんは「そりゃね」とその場にしゃがみこみ、見上げる形で彼女と向き合った。

「どうでもよかったわけじゃないんだ」

「わかってるよ。でも言わなくてもわかってくれるなんてのは、怠慢だよ」

「仰る通りです」


 若杉さんはしばらく沈黙していたけど、やがて大きくため息をついた。


「私は康太のことをもっと知りたかった。本当はあなたの趣味だって、一緒にやってみたかったんだよ。……でもそれを言わなかったのも、私の怠慢かな」

「まあ……お互い不器用は性分かな」


 顔を合わせた二人は、困ったように小さく笑った。若杉さんは康太さんの手を取り、大きな掌をぺちぺちとやる。


「あーあ。こんなふうにズレと調整を重ねながら、あなたと生きていくつもりだったのに。とんだ誤算だよ」

「俺だって果歩より長く生きるつもりでいたのに」

「そうなの?」

「言ったことなかったっけ?」


 そうだっけと笑う若杉さんを見て、康太さんも笑いながら告げる。


「照れくさくて言えなかったけど。俺は君がクロックフレンチを美味しそうに食べるのを見るのが、本当に好きだったんだよ」

「えっ」


 虚を突かれたような彼女へ向けたのは、これまでにない優しげなまなざし。

 

「一緒にいられなくてごめん。愛してる」


 まるで時が止まったかのように、若杉さんはただじっと康太さんを見つめていた。

「なによ……生きているときは一度だって言ってくれなかったのに」


 ぽろぽろと零れ落ちる涙を、康太さんの指がぬぐう。彼女は子供のように泣きじゃくりながら、彼の懐に飛び込んだ。


「馬鹿馬鹿馬鹿ほんと馬鹿。なんにも言わずに勝手にいなくなって」

 うんうんと頭を撫でる康太さんを、若杉さんはめいいっぱい抱きしめた。

 

「私だって愛してる。ずっとずっと忘れたくないんだよ」


 貴方の大きなてのひらも。何げなく過ごした当たり前の日々も。

 きっと本当は、どっちだってよかったのだ。あの日食べたクロックフレンチが、美味しくても。そうでなくても。

 彼と一緒に朝ごはんを食べて、感想を言い合うだけでよかった。そんな日常を永遠に失くしてしまったことを、受け止められなかった。


 わんわんと泣き続ける若杉さんを見て、私は少し救われる思いがした。

 きっと彼女は今まで、感情を吐き出せないでいたのだろう。あまりにも悲しくて向き合うことすらできずに、ただ毎日が過ぎて行って。

 気がついたら三年が経っていて、立ち上がり方すらもわからなくなって。

 やっと若杉さんは、あの日から歩き出せたんだ――。


 康太さんを見送ったあとの若杉さんは、憑き物が落ちたようにすっきりした表情を浮かべていた。

 二度目の別れは意外なほどあっけなく、「じゃあまた」とひと言交わしただけ。言葉を尽くした夫婦には、それ以上必要なかったのだろう。


「迷いは晴れましたか?」

「ええ。おかげさまで」


 柳さんは満足げに微笑むと、彼女を瑠璃の扉へ案内した。扉の前では既に燕さんが待っていて、内心緊張している私に目配せしてくれる。

 扉の説明を終えると、いよいよ選択の時だ。


「ではお客様には、どちらかの扉を選んでいただきます」


 幽世へと向かう『円の扉』か。

 現世へと戻る『朔の扉』か。


 若杉さんは両方の扉をちらりと見やってから、迷いのない口調で言った。

 

「朔の扉を選ぶわ」


「OK。じゃあこちらにどうぞ」

 朔の扉の前に立つ燕さんは、現世で見る姿とそう変わらないはずなのに、なぜだかとても惹きつけられる。

 柳さんと対象的な白い衣装も、深山を思わせる瞳も、穏やかに浮かべた笑みも、すべてが柔らかく美しい。


 ――まるで、天使みたいだ。


 死神に対してそう表現することがいいのかどうかわからないけど、私は素直にそう思ってしまった。

 彼が手の平をかざし何事か呟いた瞬間、扉が淡く発光しゆっくりと開き始める。


「この扉を進めば元の世界に戻れる。決して振り返らないようにね」

「わかったわ」


 若杉さんは私達を見渡し、頭を下げた。


「本当にありがとう」


「お役に立ててよかったです。クロックフレンチ、私も気に入っちゃいました」

「でしょ? 自慢のレシピだもの」


 ここへ来た時に感じた寂しげな雰囲気は、彼女の表情から消えている。

 最愛の人を亡くした傷が癒えることはたぶん、ないんだろう。それでも生きていくことを選んだ若杉さんは、寂しさを受け入れて歩み始めた。私にはそう思えてならなかった。

 朔の扉が閉まる直前、柳さんがいつもの微笑で一礼した。


「ご来店、ありがとうございました」

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