歩き出す
ぽつりと呟いた若杉さんに、康太さんは何も言わなかった。
しばらく俯いていた彼女はやがて掠れた声を絞り出した。
「ねえ、なんで私を置いて行っちゃったの?」
押しとどめていた感情が決壊したように、哀しみが溢れ出していく。
「あの日も、美味しかった言ってくれたらよかったのに。そうすれば、私こんなに引きずることもなかった……」
「……ごめん」
目を伏せる康太さんの佇まいは、ひどく静かで悲しそうだ。深い慟哭の中にいる若杉さんとは対照的だけれど、それが残された人と残していった人の違いなのか、私にはわからない。
「私さ、今もあなたの苗字のままにしてるんだよね。あんなに苗字が変わるのが嫌だったのに」
「果歩……」
「一人で食べる朝ごはんは、つまんないよ」
フォークを持つ手が震え、彼女の声が嗚咽に変わる。
「どうやって息をすればいいかわからない……」
今すぐ崩れ落ちてしまいそうな若杉さんを、康太さんはしばらく見つめていた。やがて立ち上がると彼女の傍に行き、慣れない手つきで背中をさする。
「……本当は、帰ったら謝るつもりだった」
のろのろと顔を上げる彼女の前で、ばつが悪そうに眉を下げた。
「前日の夜、果歩に言われたことが堪えてた。確かに俺は、君が好きなものを知ろうとしてなかった。お互い相手の趣味に干渉しない間柄だったし、それでいいと思ってた。でも本当は、ずっと寂しがらせてたんじゃないかって」
それを聞いた若杉さんは、鼻をすすりながら呟いた。
「……やっぱり、あの喧嘩を気にしてたんだね」
康太さんは「そりゃね」とその場にしゃがみこみ、見上げる形で彼女と向き合った。
「どうでもよかったわけじゃないんだ」
「わかってるよ。でも言わなくてもわかってくれるなんてのは、怠慢だよ」
「仰る通りです」
若杉さんはしばらく沈黙していたけど、やがて大きくため息をついた。
「私は康太のことをもっと知りたかった。本当はあなたの趣味だって、一緒にやってみたかったんだよ。……でもそれを言わなかったのも、私の怠慢かな」
「まあ……お互い不器用は性分かな」
顔を合わせた二人は、困ったように小さく笑った。若杉さんは康太さんの手を取り、大きな掌をぺちぺちとやる。
「あーあ。こんなふうにズレと調整を重ねながら、あなたと生きていくつもりだったのに。とんだ誤算だよ」
「俺だって果歩より長く生きるつもりでいたのに」
「そうなの?」
「言ったことなかったっけ?」
そうだっけと笑う若杉さんを見て、康太さんも笑いながら告げる。
「照れくさくて言えなかったけど。俺は君がクロックフレンチを美味しそうに食べるのを見るのが、本当に好きだったんだよ」
「えっ」
虚を突かれたような彼女へ向けたのは、これまでにない優しげなまなざし。
「一緒にいられなくてごめん。愛してる」
まるで時が止まったかのように、若杉さんはただじっと康太さんを見つめていた。
「なによ……生きているときは一度だって言ってくれなかったのに」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を、康太さんの指がぬぐう。彼女は子供のように泣きじゃくりながら、彼の懐に飛び込んだ。
「馬鹿馬鹿馬鹿ほんと馬鹿。なんにも言わずに勝手にいなくなって」
うんうんと頭を撫でる康太さんを、若杉さんはめいいっぱい抱きしめた。
「私だって愛してる。ずっとずっと忘れたくないんだよ」
貴方の大きなてのひらも。何げなく過ごした当たり前の日々も。
きっと本当は、どっちだってよかったのだ。あの日食べたクロックフレンチが、美味しくても。そうでなくても。
彼と一緒に朝ごはんを食べて、感想を言い合うだけでよかった。そんな日常を永遠に失くしてしまったことを、受け止められなかった。
わんわんと泣き続ける若杉さんを見て、私は少し救われる思いがした。
きっと彼女は今まで、感情を吐き出せないでいたのだろう。あまりにも悲しくて向き合うことすらできずに、ただ毎日が過ぎて行って。
気がついたら三年が経っていて、立ち上がり方すらもわからなくなって。
やっと若杉さんは、あの日から歩き出せたんだ――。
康太さんを見送ったあとの若杉さんは、憑き物が落ちたようにすっきりした表情を浮かべていた。
二度目の別れは意外なほどあっけなく、「じゃあまた」とひと言交わしただけ。言葉を尽くした夫婦には、それ以上必要なかったのだろう。
「迷いは晴れましたか?」
「ええ。おかげさまで」
柳さんは満足げに微笑むと、彼女を瑠璃の扉へ案内した。扉の前では既に燕さんが待っていて、内心緊張している私に目配せしてくれる。
扉の説明を終えると、いよいよ選択の時だ。
「ではお客様には、どちらかの扉を選んでいただきます」
幽世へと向かう『円の扉』か。
現世へと戻る『朔の扉』か。
若杉さんは両方の扉をちらりと見やってから、迷いのない口調で言った。
「朔の扉を選ぶわ」
「OK。じゃあこちらにどうぞ」
朔の扉の前に立つ燕さんは、現世で見る姿とそう変わらないはずなのに、なぜだかとても惹きつけられる。
柳さんと対象的な白い衣装も、深山を思わせる瞳も、穏やかに浮かべた笑みも、すべてが柔らかく美しい。
――まるで、天使みたいだ。
死神に対してそう表現することがいいのかどうかわからないけど、私は素直にそう思ってしまった。
彼が手の平をかざし何事か呟いた瞬間、扉が淡く発光しゆっくりと開き始める。
「この扉を進めば元の世界に戻れる。決して振り返らないようにね」
「わかったわ」
若杉さんは私達を見渡し、頭を下げた。
「本当にありがとう」
「お役に立ててよかったです。クロックフレンチ、私も気に入っちゃいました」
「でしょ? 自慢のレシピだもの」
ここへ来た時に感じた寂しげな雰囲気は、彼女の表情から消えている。
最愛の人を亡くした傷が癒えることはたぶん、ないんだろう。それでも生きていくことを選んだ若杉さんは、寂しさを受け入れて歩み始めた。私にはそう思えてならなかった。
朔の扉が閉まる直前、柳さんがいつもの微笑で一礼した。
「ご来店、ありがとうございました」