あの日の答え
「……実はね、あの頃彼とはあまりうまくいってなくって。お互い仕事が忙しくて、すれ違いの生活が続いてたのが原因だったんだけど……。前日の夜も些細なことで喧嘩しちゃったの。そのとき私、つい言っちゃんたんだよね」
――あなたは私の好きなものを知ろうともしてくれない。それはどうでもいいと思っているからよ。
「あの人、何も言い返してこなかった」
そう話す若杉さんの表情はひどく寂しげで、私は胸の奥がずきりと痛む。
そんなことないよ、って言ってほしかったのに。
返って来た沈黙の意味を知るのが怖くて、逃げるように布団にもぐりこんだと彼女は言った。翌朝は休日ではなかったけれど、気がついたらクロックフレンチを作っていたそうだ。
「一番幸せだった頃を思い出したかったのか、彼を試したかったのか……もう思い出せない。ただ気まずさからどうしても一緒に食べる気になれなくてね。彼の分だけ先に作って、なるべく顔を合わせないようにしてた」
「……それで彼がメイプルシロップを使ったのも、どんな顔をして食べていたのかも見られなかったんですね」
私の言葉に、彼女は苦笑しながら「馬鹿よね」と呟いた。
やりとりを見守っていた柳さんは、納得したように微笑んだあと。予想外のことを口にした。
「では、”彼”を呼んできましょう」
「えっそんなことできるんですか?」
いの一番に私が驚いたせいで、若杉さんは目をぱちぱちさせている。きっと何を言われたのか、飲み込めていないのだろう。
「柳ならできるんだよ」
燕さんの返事の意味がわからなくて、私の頭は混乱していた。一方で柳さんは涼しげな表情のまま、若杉さんに「よろしいですか」と確認している。
「え、ええ……そんなことができるのなら……」
若杉さんはぐっと何かを押しとどめるように一瞬黙り込み、絞り出すように呟いた。
「彼に、会いたい」
「承知しました」
どこかへ向かう柳さんを見て、私はようやく理解した。あの先にあるのは『円と朔の扉』だ。幽世へ繋がる円の扉を行き来できる柳さんなら、死者の魂を呼ぶことができるんだろう。
ただ――。
私の中で何かが共鳴したような、不思議な感覚があった。
気がつくと、半ば無意識に柳さんを呼び止めていた。
「待ってください」
追いかけた私を、深緋の瞳が興味深そうに捉えている。
「どうしました?」
「ええと、その……作りませんか。クロックフレンチ」
全員に向けられた視線に焦りつつも、私は自分の中に浮かんだ感覚を、なんとか口にする。
「彼の答えを聞くことが若杉さんの望みなのは、わかっています。でも……本当に必要なのは、二人で一緒に食べることなんじゃないかって」
若杉さんは驚いたように目を見開いてから、少し泣きそうにうつむいた。
燕さんはなるほどね、と隣を見やる。
「どうする? 柳」
柳さんは私に視線をとどめたまま、猫のような瞳を緩やかに細めた。
「迷い魂の迷いを晴らすことが、私たちの役目です。最善を尽くしましょう」
柳さんが幽世に行っている間、私たちはクロックフレンチを作ることになった。
材料はどこからか燕さんが調達してきて、いつの間にか揃っている。
「凄い……いつも私が使っていたパンまである。うちの近くのベーカリーでしか買えないのに」
「せっかく作るんだから、完璧に再現しなきゃね。足りないものがあったら言って」
にこりと微笑む燕さんはなんとなく楽しそう。反対にキッチンに立った若杉さんは、並んだ材料を前に不安げだ。
「久しぶりに作るから、上手くできるといいけど……」
「大丈夫ですよ、なんとかなります」
私はあえて力強く頷いてみせた。それを見た若杉さんもふっと笑う。
「そうね。なんとかなる」
彼女はボウルに卵を割り入れると、手慣れた様子で牛乳を混ぜていく。
滑らかになった卵液に食パンを浸し、染み込ませる間に私は具材の準備に取りかかった。
「本格的なフレンチトーストだと数時間かけて卵液を染み込ませるんだけどね。朝そんな手間かけられないし、柔らか過ぎないパンのほうがこのレシピには合うの」
チーズやハムを丁度いい大きさに切り、フライパンにバターを塗ると卵液が程よく染み込んだパンを並べる。弱火でじっくり焼くのが失敗しないコツだ。
「ある程度焼けたらチーズとハムを乗せて蓋をするの。いい感じにチーズがとけたらできあがり」
フライパンの蓋をあけると、ふわっとバターの香りが広がる。こんがり焼けた黄金色のパンと、とろりと溶けたチーズ。見るからに美味しそうだ。
「わあいい香り……成功ですね!」
「彼が亡くなってから一度も作ってなかったんだけど……案外忘れてないものね」
焼きあがったクロックフレンチを皿に盛りつけたところで、若杉さんが私を振り向いた。
「ね、よかったら食べてみてくれない?」
「えっ……いいんですか?」
「せっかくだから、第三者の感想も聞いてみたいの」
私は受け取ったクロックフレンチにメイプルシロップをかけると、どきどきしながら口にした。
外側はかりっと焼けて香ばしく、中はふわふわのフレンチトーストに思わず顔がほころぶ。そしてとろけたチーズとメイプルシロップが独特の風味を生み出し、予想以上にマッチしている。
「美味しい……! チーズとハムを挟んだフレンチトーストってこんなに合うんですね。ここに加わったメイプルシロップが、絶妙の甘じょっぱさでたまらないです」
感激する私の隣で、燕さんもうんうんと同意する。
「チーズもメイプルシロップも香りにクセがあるから、むしろ合うんだろうな。うちのメニューに取り入れたいくらいだ」
「でしょ? この何とも言えない風味がクセになるのよねえ」
私たちの感想に、若杉さんも満足そうだ。そのとき、燕さんが何かに気づいたように顔を上げた。
「柳が戻って来たな」
カウンターの奥から確認すると、燕さんの言う通り柳さんが現れた。その後ろをついてくる人影を見て、若杉さんの動きが止まる。
「康太……」
素朴で優しそうな雰囲気の男性だった。彼はまだ若杉さんの存在に気づいていないようで、柳さんに促されるまま奥へ案内されていく。
その後キッチンやってきた柳さんに、燕さんが目だけで頷いた。若杉さんと向き合った柳さんは、改めて問いかける。
「彼に会いますか」
こくりと頷く彼女に柳さんは微笑むと、人差し指を立てた。
「彼と話せるのは1時間です。心残りのないように」
「……はい」
クロックフレンチを乗せたを持つ手が、微かに震えている。私はメイプルシロップが入った瓶を、忘れないようトレーに乗せた。
「いつも通り持っていってあげてください。大丈夫、なんとかなります」
若杉さんは一度だけ深呼吸すると、まっすぐに前を見た。
「そうね。きっとなんとかなる」
康太さんは落ち着いた様子で庭を眺めていた。きっとここで何があるのか、まだ知らされていないのだろう。
トレーを運んできた人物に視線を向け、はじかれたように立ち上がる。
「果歩!」
ゆっくりと歩み寄ってくる若杉さんに、康太さんは焦ったように問いかけた。
「なんで君がここに? まさか……」
「大丈夫、死んでないから。ちょっと転んで気を失っただけ」
淡々と答えた彼女は、手にしたトレーを差し出した。
「これ、作ったの。一緒にどう?」
康太さんは一瞬怪訝な表情を浮かべたけれど、差し出されたものに視線を落とし、ふっと目元をやわらげた。
「クロックフレンチか。懐かしいな」
「うん。食べるでしょ?」
「もちろん」
向かい合って座った二人の前には、焼きたてのクロックフレンチ。先に若杉さんがメイプルシロップが入った瓶を手にした。
「やっぱり私はこれが好きなのよね」
すると康太さんも、当たり前のようにメイプルシロップをかけた。その様子を驚いたように見守る若杉さんに、康太さんは笑った。
「どうしたんだよ。食べないのか」
「あ、うん。……じゃあ、いただきます」
「いただきます」
若杉夫婦が食べている間、私たちは邪魔をしないよう少し離れた場所から見守っていた。
いつもの二人がどんな雰囲気なのかはわからないけれど、どことなくぎこちない感じが漂っているのが伝わってくる。
「どう?」
ためらいがちに問いかける若杉さんと、視線をクロックフレンチに留めたままの康太さん。
「美味い。いつもの味だ」
「……そうじゃなくて」
康太さんは顔を上げ、若杉さんを見た。
「美味いよ。メイプルシロップも悪くないな」
それを聞いた若杉さんの瞳が一瞬震え、深く息が吐きだされる。
長年はりつめた糸が、ようやく緩められたように見えた。
「でしょ? だからずっと言ってたのに」
「そうだな。もっと早く試せばよかったよ」
もう二度と、食べられなくなる前に。
二人の間に沈黙が下りた。きっと言うべきことがたくさんあり過ぎて、何から話せばいいのかわからないでいるのだろう。
かけがえのない時間であればあるほど、言葉はすぐに操縦が難しくなる。
私は頃合いを見計らって二人に近づくと、声をかけた。
「よかったらお茶をどうですか? クロックフレンチにぴったりなものがありますので」
「いいの? ここのメニューは香月茶だけって聞いたけど」
「はい、なのでこれはサービスです。もちろんクロックフレンチもサービスですから安心してくださいね」
自信を持って(事前に柳さんに確認しておいた)そう伝えると、若杉さんはおかしそうに康太さんを見た。
「メニューよりサービスが多い店なんて見たことないね」
柳さんとカウンター奥へ行くと、既に燕さんが茶葉を準備してくれていた。若杉さんに声をかける前に、頼んでおいたのだ。
「これなんかいいと思うんだよね。アッサム紅茶にカラメルのフレーバード。優しい香りだから、メイプルシロップともぶつからないと思う」
「なるほど、さすが燕さんです」
「まあこっちはアンレジーナ・ガーデンでの仕事だしね」
私は楽しそうに見守っている柳さんを振り向いた。
「あの、柳さん。このお茶を若杉さんたちにお出ししたいんですが……」
「いいですよ。あなたが淹れてみてください」
「えっ……でも私より柳さんが淹れたほうが美味しいと思いますし」
すると柳さんは少し困ったように微笑した。
「香月茶以外のお茶を私は上手く淹れられないのです」
「ええ……本当に……?」
「嘘だと思うなら、一度兄さんが淹れたお茶を飲んでみるといいよ。すっごく不味いから」
燕さんは笑いながらそう言うと、乳白色のティーポットを取り出した。
「大丈夫だよ、このお茶はさほど難しくないから。俺の言う通りに淹れてみて」
教えてもらいながら私は、なんとか紅茶をティーカップに注いだ。アッサムのコクがある香りの中に、カラメルの甘さが乗る。
テイスティングをした燕さんからオーケーをもらったので、若杉さんたちに持っていった。
「美味しい……こんな香りの紅茶もあるのね」
「いつもコーヒーだったけど、紅茶もいいもんだな」
和らいだ二人の表情に、ほっと胸をなでおろす。
「これはフランスの紅茶だよ」
いつの間にか姿を現していた燕さんが、二人に告げる。
「ウエディングをイメージして作られたフレーバードティーなんだ。きっと気に入ると思ってね」
新婚旅行とクロックムッシュ。二人の思い出が詰まったフランス。顔を見合わせた若杉さんと康太さんは、少し気恥ずかしげに微笑んだ。
しばらくの間、若杉さんと康太さんはクロックフレンチを食べながら他愛のない話をしていた。
きっとこれが二人の日常だったんだろう……そう思えるくらい自然な振る舞いに見える。
「……あの日もこんな風に、一緒に食べればよかった」