クロックムッシュとフレンチトースト
入って来たのは、小柄な女性だった。年齢的には30代半ばくらいだろうか……素朴でこざっぱりとした雰囲気だけれど、どこか寂し気な表情が気になる。
「ようこそ、空中茶廊香月へ」
柳さんに声をかけられ、大きめの眼鏡の奥で瞳が瞬く。きっと私が来た時と同じように、彼女も自分がどうしてここにいるのかわからないでいるのだろう。
「……ここは?」
「あ、茶廊っていうのはティーラウンジのことです。空中なのは浮島にあるからで……」
とっさに出た私の説明に彼女は黙り込んだまま、店内をゆっくり見渡した。その表情は心ここにあらずといった感じで、何かを探しているようにも見える。
「あの……お名前を伺ってもいいですか」
おずおずと声をかけると、相手は私の顔を見てから十秒くらい考え。
「若杉、果歩です」
(この人は自分の名前を憶えてた……)
私はいまだに、自分の名字すら思い出せないというのに。小さな羨望を感じながらも、なんとか平静を装う。
「では若杉さま、こちらの席へどうぞ」
そう言って奥のテーブルに案内すると、若杉さんは素直についてきた。私は当店のメニューは香月茶だけで、今から準備してくることを告げ席を離れる。
カウンターで見守っていた燕さんが、感心したように迎えてくれた。
「さすがは満月ちゃん。接客も手慣れたものだね」
「……あのお客様、ここについて何も聞かなかったですよね。普通に考えたらあり得ないことばかりなのに……」
燕さんは茶葉の選定に入りながら、ああと頷いた。
「結構あるんだよ。覚醒具合は人によるから」
「覚醒?」
「ここくる迷い魂は、何らかの理由で肉体から魂が抜けているだろう? その時のショックで前後の記憶が抜けたり、夢と現が混同したりするんだ」
確かに夢を見ているときは、どんなおかしなことが起きても疑問に思わない。
「でも若杉さんは自分の名前をちゃんと覚えてましたよね。私よりも、記憶がちゃんとしてた……」
「それほど迷いが深くないのかもしれないね。あるいは……」
燕さんのあとを引き継ぐように、柳さんが答えた。
「忘れたくなかったか」
茶器を準備する傍らで、私は茶葉を選定する様子を見守っていた。燕さんは棚をしばらく眺めていたけれど、やがて小さく頷いてからいくつかの木箱を開け、中から薬草や茶葉を取り出していく。
そして一番大きな木箱から取り出したのは、香月茶に欠かせない月影草だ。
「選定の基準とかあるんですか?」
「んーあるにはあるんだけど、満月ちゃんに説明するのは難しいかな。俺たちから見た魂の性質が関わってくるしね」
選び終わった茶葉を瑠璃色の器に入れ、燕さんはその上で手をかざした。深山色の淡い光が器を包みこみ、思わず見入ってしまう。
「はい、出来上がり」
手渡された器の中には、私のときと同じように、塊になった茶葉がころんと入っていた。これを柳さんが淹れることで、花のように開いていくのだ。
「どんなお茶になるのか楽しみですね」
「俺たちには味も香りもわからないけどね。毎回お客さんが飲む瞬間は、やっぱり緊張するよ」
ひと通り揃えた茶器を柳さんに確認してもらい、いよいよお客さんに出すときがやってくる。木彫りの装飾が施されたティーワゴンに必要な物をすべて乗せると、傍らに立つ柳さんが艶やかに微笑んだ。
「さあ、行きましょう」
柳さんが淹れるお茶を見て、若杉さんの頬がほわあと上気した。
「綺麗……こんなお茶があるのね」
彼女はそっとティーカップを持ちあげ、ゆっくりと口に含む。見守る私たちの前で、虚ろげだったまなざしが醒めるように澄んでいくのがわかった。
「美味しい。この香り……なんだっけ」
思い出そうとする若杉さんを見ていると、胸がどきどきしてくる。
はっと表情が変わり、大事なものが溢れたかのように言葉がこぼれ落ちた。
「――メイプルシロップだ」
一瞬、彼女の頬が震えただろうか。柳さんは頷くと、導くように問いかける。
「ここへ来てしまった理由を、思い出せましたか?」
「……私、どうしても彼に聞きたかったことがあるの」
若杉さんは私たちを見上げ、意を決したように口を開いた。
「私の夫です。三年前に、亡くなった」
亡くなったという言葉に、私は思わず言葉を飲み込んだ。聞けば彼女の夫はある日突然、交通事故で帰らぬ人となったそうだ。
「フレンチトーストって食べたことある?」
「あ、はい。好きなので時々作ります」
私の返事に、彼女はふふっと笑みを漏らす。
「私もよ。じゃあクロックムッシュは?」
今度はかぶりを振った。聞いたことのない料理名で、どんな食べ物かすらわからない。すると隣にいた燕さんが口を開いた。
「フランスでよく食べられている軽食だよね。チーズとハムを挟んだパンに、ベシャメルソースを塗って焼く……だったかな」
「そうそう。新婚旅行でフランスに行ったときに食べてね。美味しかったから、自分たちでも作るようになったんだ」
確かに燕さんの説明を聞くだけで、美味しそうだ。若杉さんは当時を懐かしむような気配を目元に漂わせる。
「しばらく経ったころ、彼が『フレンチトーストとクロックムッシュを合わせたら美味いんじゃないか』って言いだしてね」
「合わせる、ですか」
私はフレンチトーストの作り方を思い出してみた。溶きほぐした卵に牛乳と砂糖を混ぜ、そこに浸したパンをバターを塗ったフライパンで焼いたものだ。
トッピングは粉砂糖だったり、メイプルシロップだったり、生クリームだったりと、基本的には甘い食べ物だけれど……。
「あっ……もしかして、クロックムッシュのパンをフレンチトーストにしたとか?」
「正解。甘さ控えめのフレンチトーストを作って、チーズとハムをトッピングしてみたの」
「なるほど。確かに美味しいかも!」
ふわふわのフレンチトーストにチーズやハムを合わせたら、きっと美味しい。食べたことはないけど、なんとなく想像はつく。
「私たちフレンチトーストもクロックムッシュも好きだから、両方の要素が入ったこの料理を凄く気に入ってね。クロックフレンチなんて名付けて我が家の定番メニューになったの」
休日の朝になると、若杉さんがクロックフレンチを作り、彼が美味しいコーヒーを淹れてくれていたそうだ。
「彼はいつもベシャメルソースをかけて食べたんだけど、私はフレンチトースト寄りにしてみたくって。試しにメイプルシロップをかけて食べてみたら思いのほか美味しかったのよ。だから彼にも勧めてみたんだけど……チーズとシロップの組み合わせなんて想像できないって断られちゃった」
それを聞いた燕さんが、小首を傾げる。
「ハチミツとチーズなんかは相性がいいしね。悪くないと思うんだけどな」
「ええ。少なくとも私は気に入ったから、クロックフレンチを作る時はいつもメイプルシロップをかけてたわ。彼に無理強いするつもりもなかったし、何年もの間お互い好きなように食べていたんだけど――」
若杉さんは一度言葉を切ってから、呟くように言った。
「あの日は、そうじゃなかった」
「……彼が事故に遭った日ですね?」
柳さんを見上げた彼女は静かにうなずいた。
「私達はなるべく一緒に朝ごはんを食べるようにしてたんだけど、あの日はたまたま、早く出る彼だけが先に食べてね」
若杉さんが気がついたときには、彼は既に朝食を終え、出かけていたそうだ。
「ふと下げられたお皿を見たら、ベシャメルソースじゃなくて、メイプルシロップを使った跡があってね。ついに彼は私の食べ方を試したんだと思って、なんだかどきどきしちゃって」
美味しかったのだろうか、そうでもなかったのだろうか。
気になった彼女は彼にメッセージを送ったけれど、その返事を聞くことはなかった。
「あのひと普段からメッセージ送ってもなかなか見てくれないから、返事がなくてもいつものことだって思ってたのに……まさか二度と聞けなくなるなんてね」
自嘲気味に苦笑する若杉さんをみて、かける言葉が見つからなかった。何気ない日常の始まりが永遠の別れになるなんて、その落差に耐えられる気がしない。
それになんだか私は、この途方も無い絶望を知っているような気がして――
「――つまりあなたは彼の返事を聞くために、ここへ来てしまったのですね」
柳さんの紅い瞳が、何かを見透かすようにじっと若杉さんを捉えていた。彼女も柳さんを見返したまま、はっきりと頷く。
「あの人にとって、最後の食事になってしまったんだもの。気になるじゃない」
最後に食べた朝ごはんは、美味しかったのだろうか。満足して出かけたのだろうか。どうしても知りたかったのだと彼女は告げた。
それを聞いた柳さんの口元に刻まれたが微笑が、さらに深くなったように見えた。
「ところでなぜ彼はその日に限って、メイプルシロップを試そうとしたのでしょうね?」
「……え?」
びくりと顔をこわばらせた若杉さんを見て、思わず柳さんを振り向く。
「それって……どういう意味ですか?」
「何年も試そうとしなかった食べ方を、なぜ急にやろうと思ったのか不思議じゃありませんか?」
「俺もそれが気になってた。そもそもせっかく試すんなら、なんで彼女と一緒に食べられる日を選ばなかったんだって」
柳さんと燕さんの意見を聞いて、私もやっと思い至った。
今まで彼が亡くなったことばかりに目が向いていたけど、確かに不自然だ。いくら一緒に食べていなかったとはいえ、感想も言わず家を出て行ってしまったのもおかしいし……。
若杉さんは小さくため息をつくと、「やっぱり隠せないよね」って目を伏せた。