それぞれの役目
「あっ……すみません! 気づかなくて」
「構いませんよ。少しいいですか」
「はい、なんでしょう?」
居住まいをただすと、柳さんは音もなく目の前にやってきた。彼は相変わらず微笑を刻んだまま、私の顔をじっと見つめている。
「あの……?」
美形に見つめられるのは慣れていないので、うまく視線を合わせることができない。沈黙に耐えられず何か言おうと思考をめぐらせていると、ふいに頬に何かが触れた。
「――!」
顔を上げた私の目に、深緋の瞳が映った。
頬に触れた柳さんのてのひらが、ゆっくりと離される。
「付いてきてください」
ふ、と笑んだ彼は踵を返し、カウンターの奥へ向かっていく。私は慌てて立ち上がると、彼のあとを追った。
(今のは何……?)
頬に触れたひんやりとした感触に、速くなる鼓動が止まらなかった。
■
柳さんに付いていった先は、茶器や茶葉が保管してある部屋だった。
「わあ……」
10畳ほどの部屋は、壁一面収納棚で埋まっていた。格子状に分かれた棚のひとつひとつには木箱が収められていて、ラベルが貼られている。
「あ、満月ちゃん来たんだね」
燕さんは作業をしていたようで、大きなすり釜のなかで手を動かし続けている。
「凄いですね……これ、ぜんぶ香月茶の材料ですか?」
「そう。半分くらいは現世のもの。もう半分はここで採れるものだね」
柳さんは食器が収められている少し大きめの棚を示し。
「ここで燕は茶葉を、私は茶器を選んでいます。貴女はまずお客様のご案内と、私たちが選んだものをここから取り出し、配膳することから始めてください」
「わかりました」
「満月ちゃんもそうだったからわかると思うけど、ここに来るお客は戸惑ったり混乱したりしてることが多い。そういうの、気にかけてあげて」
燕さんのアドバイスに頷いてみせる。ちゃんとやれるか不安もあるけれど、ホールスタッフの仕事なら現世でもやっていたし、なんとかなるはず……と思ったところで不思議な気持ちになった。
自分のことは何ひとつ思い出せないのに、燕さんや桐子さんのことはちゃんと覚えていた。今だってアン・レジーナガーデンでいつもやっている手順を、何の問題もなく思い出せているのだから。
「ああ、そうだ。香月の裏に桐子ちゃんが育てている薬草園があるんだよね。そこからこれと同じものを採ってきてくれる?」
燕さんから差し出された植物は見たことがない形をしていた。真円に広がる花びらと、三日月のような形の葉。
「不思議な形だろう? 月影草って言ってね、ハザマにしかない植物なんだ」
「この香り……もしかして、これが香月茶になるんですか?」
「そうそう。他にも色々使うんだけど、これが無いと香月茶は作れない」
彼いわく、香月茶はハザマにしかない植物をベースに、現世の植物を組み合わせて作るのだそうだ。その方が現世の人間には飲みやすく、記憶を引き出しやすいからだという。
「俺も一緒に行けたらいいんだけど、ちょっと手が離せなくて。柳は植物のことはからきしだからさ……この間も薔薇くらいわかるだろうと思って頼んだら、採って来たのがカニなんだよ信じられる?」
「それは……割と重症ですね」
既に植物ですらない。というかこの島カニがいるんだ。
だよねえと遠い目をする燕さんの隣で、柳さんは「役割分担ですよ」と微笑んでいる。
どうやらお茶やハーブの管理は柳さんにまったく任せられないらしく、桐子さんがいない頃は大変だったそうだ。
「そんな状態でよくアン・レジーナガーデンとの掛け持ちをしようと思えましたね……」
「もともと現世と繋がる扉を、管理しなくちゃならなかったしね。それならいっそ、カフェでもやってみようかなって」
そういえば、『朔』の扉を開くのは燕さんの役目だと言っていた。じゃあ『円』の扉を開く柳さんも、向こうで何かしているんだろうか……私はそんなことを考えながら、裏庭へ向かった。
香月の外に出ると、来た時と同じように薄暗い中を青く光る蝶たちが行き交っていた。燕さんいわくこの蝶は『空鏡蝶』といって、月影草の花が好きで集まってくるのだという。
私は裏庭へ回るついでに、おそるおそる下を覗いてみた。
「やっぱり高いなあ……」
香月は周辺の敷地を含めた小さな島になっていて、その島が文字通り中に浮いている。島の端にある螺旋階段が下の陸地と行き来する手段で、私も最初ここを登って来た。
目が回りそうに長い螺旋階段を覗き込んでいると、一瞬人影のようなものが見えた気がした。
「もしかして……お客さん?」
しばらく観察していると、やはりその人影はこちらへ登ってくる。私は急いで香月の扉を開けると、声を張り上げた。
「誰かがここへ登ってきてます。お客さんかもしれません」
奥から姿を見せた柳さんは、そうですかと頷いた。
「では入ってきたら、席へ案内してください」
「あ、私迎えにいってきましょうか。ここの入り口ちょっと分かりづらいですし」
「その必要はありません」
なぜという質問を受け止めるように、柳さんは瞳を細める。
「扉を開けて足を踏み入れるのも、必要な『段階』ですから」
彼の説明はいつも曖昧だけど、おそらく自分の意思で入ってくることも、迷いから抜け出すために必要ということなのだろう。
私は彼に言われた通り、扉の前で待ち続けた。あの人影はここにたどり着けるだろうか、一体どんな人が迷い込んだんだろうか。
私はちゃんと出迎えられるだろうか……
緊張と好奇心で胸をどきどきさせていると、後からやってきていた燕さんが私の頭をぽんとやった。
「大丈夫だよ。満月ちゃんの仕事ぶりは、俺がちゃんと知ってる」
彼の屈託ない笑みは、不思議と気持ちを落ち着かせてくれる。ゆっくりと深呼吸して、よしと気合をいれたとき、店の前を誰かが通った気配がした。
小さな足音が聞こえ、立ち止まる。
そしてりん、と音を立てて扉がゆっくりと扉が開かれた――