あなたで、よかった
「……私、思い出したことがあるんです。高校に入ったばかりの頃、オープンしたばかりのアン・レジーナガーデンに行きました」
当時、オープン記念にイタリアの珍しいお菓子が売られていた。そのお菓子目当てに多くの人が訪れ、連日行列ができていたことを覚えている。
「あの日もすごく混んでたから諦めて帰ろうとしたら、知らない男の人に呼び止められて……」
その人は帽子を深く被っていたせいで顔はよく見えなかったけれど、涼しげな声が印象的だったことを覚えている。
「私にカンノーリをくれたんです。『買いすぎてしまったから、よかったらどうぞ』って」
普段なら知らない相手を警戒するのに、あの時は不思議とすんなり受け取った。
一瞬覗いた彼の目が、どこか懐かしい気がしたから。
「去り際、その人が言ったんです」
――あなたの幸せを、願っています。
その瞳はまるで、別れを告げているかのようで。私は目の前に座っている、あの時の男性へ告げた。
「柳さんだったんですね」
言葉にならない想いが、花弁に溜まった雨露のようにこぼれ落ちてゆく。彼は懐かしそうにカンノーリを見つめてから、ゆっくりと頷いた。
「あの日を最後に、二度とあなたには会わないつもりでした」
たとえ名月の魂を見つけたとしても、もう会わないことがお互いのためになる。そう結論付けたからこそ、現世を去る日、あの少女に別れを告げに行った。
そうして彼は管理者となり、ハザマにとどまり続けた。この世界で自分の役目を果たしていくうちに、死神としての自分も変化していったそうだ。
「回収者の時には無かったやりがいというものを、ここに来て初めて感じるようになりました。このまま香月のオーナーであり続けたいと思い始めた矢先……あなたがここへ来たのです」
その時の衝撃は、どんな言葉を以てしても表すことはできないだろう。
なぜ。どうして。
そんな疑問と共に、一度は別れた少女の魂が、再び自分に救いを求めて来たことに、途方もない歓喜と罪悪感が同時に湧き上がって来た。
「あなたがここの客だと知ったとき、これは私の業なのだと思いました。そうであるならば、どんな犠牲を払ってでもあなたを救うつもりで、手元に置くことにしたのですが――」
大人になった少女の魂が日に日に美しさを取り戻していくうちに、離れがたい感情がより強くなっていくのを感じた。この情動を何と呼ぶべきものなのか分かり始めたとき、彼女が攫われてしまった。
「あのとき、我を忘れるということを初めて経験しました」
私を見る彼の表情に、ばつの悪そうな色が乗る。
「結果的に、あなたを不安にさせてしまったことは申し訳ないと思っています」
「ほんと、柳は満月ちゃんのことになると後先考えないからなあ」
「燕さんもひとのことは言えないと思いますが」
「ハイ……」
桐子さんの鋭いつっこみに、燕さんは居住まいを正す。やりとりを見守っていた兄が、にこにこと告げた。
「ねえ先にお菓子を食べない? 出来立てが一番おいしいって満月言ってたし」
「あ、そうだね。すぐお茶も淹れるから」
私は燕さんが選んでくれた茶葉を、いそいそとティーポットに淹れて湯を注いだ。
「今回はね、蜜柑の花の季節にふさわしいお茶にしてみたよ」
爽やかで香り豊かなダージリンファーストフラッシュ。五月に咲く蜜柑の花と、春摘み茶の季節を合わせたのだそうだ。
「普通の紅茶と違って、少し低温で淹れるのがコツだね。せっかくだから、ハチミツも加えて飲んでみてよ」
カップに注ぐと、黄金色の水色が美しい。花のような香りと優しい味わいは、自然と幸せな気持ちにさせてくれる。
私は皿に盛ったカンノーリを取り分けると、皆を見渡した。
「ぜひこうやって、食べてみてください」
ミルクポットに入れた蜜柑花のハチミツを、たっぷりとかける。あの時食べたカンノーリにはなかった、私なりのアレンジだ。
柳さんはハチミツのかかったカンノーリを手に取ると、大事そうに口にした。ざくっと小気味よい音がして、深緋の瞳を細める。
「美味しいですね。あのときより、ずっと」
「兄さんは満月ちゃんが作ったのなら、なんでも至高だろう。でもこれは本当に美味いね」
リコッタチーズとハチミツの、こっくりとした甘さ。
「蜜柑の花って、こんなに甘くて優しい香りがするんですね」
「果実とはまた違うよね。これで香水も作られているんだっけ」
桐子さんと燕さんが感想を言い合う隣で、兄はただただ、幸せそうにカンノーリを頬張っている。
「このお菓子は初めて食べたけど、すごく美味しいね。満月凄いな」
「お母さんもお菓子作りが好きだったからかな。これだけはずっと続けてたの」
今思えば失くしたものを埋めようとして、必死だったのかもしれない。けれどいまこうして皆に喜んでもらえているのだから、続けてきてよかったと思う。
楽しそうなみんなの姿を眺めながら、私は柳さんに切り出した。
「……私、柳さんがお兄ちゃんを連れにきたとき、怖かったけど逃げようとは思わなかったんです」
こちらを振り向く彼の表情は、あの時とは随分違う。けれど本質的なものは、今も昔も変わっていないと信じているから。
「きっとこのひとは、私を助けてくれる。なぜだか、そんな気がして……」
10年後に再会したときも、懐かしいという感情だけが私の中を通り過ぎた。だからこそハザマに迷いこんだときも、香月にたどり着いたのだと確信できる。
私は深緋の瞳をまっすぐに見つめ、万感の想いで告げた。
「あのときお兄ちゃんを連れに来たのが、柳さんでよかったです」
あなたで、よかった。
あなたじゃなきゃ、ダメだった。
しばらくの間、柳さんは何ひとつ言葉を発しなかった。その瞳にさまざまな感情が宿るのを、私たちはただ静かに見守っている。
やがてゆっくりとまなざしを上げた彼は、これまでに見たことがないほど、満ち足りた微笑みを浮かべた。
「あなたが香月を選んでくれて、よかった」
〇
賑やかで幸せなティータイムが終われば、旅立ちのときが訪れる。
円の扉の前に立つ兄は、嬉しそうに、けれどほんの少し寂しげに、私を見上げた。
「満月はすっかり大人になったんだね」
そして柳さんを振り向くと、にっこりと念を押した。
「妹を泣かせたら、僕が許しませんから」
「お、お兄ちゃん……」
顔を赤くする私の隣で、柳さんは「肝に銘じておきます」と涼やかに答える。
扉が開くまでのあいだ、私は兄の姿を焼きつけておこうと、視線を逸らさずにいた。
優しくて、賢くて、あんなに遠かった兄が、今は繊細な無邪気さを持った少年なのだとわかる。
「じゃあまたね、満月」
止まっていた兄の時間が、動き始める。
柳さんをちらりと見やると、彼は微笑みながらうなずいた。
「兄をよろしくお願いします」
二人が扉の向こうに消えていくのを、私はいつまでも手を振りながら見送っていた。
いつかまた、会える日まで。
兄が救ってくれたこの命を、せいいっぱい生きると誓って――
「お兄ちゃん、大好き!」
最後に振り向いた表情は、やっぱり優しい笑顔だった。




