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空中喫茶香月〜あなたの迷い、月香るお茶で紐解きます〜  作者: 久生夕貴
最終章 蜜柑花のハチミツと再会のカンノーリ
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解放

 それまで黙っていた聞いていた兄が、申し訳なさそうに口を開いた。

「すみません。僕からここへ来られたらよかったんですけど……。死神から逃げて来た手前、どうしても近づくことができませんでした。そのうち自分が何をしようとしていたのか、わからなくなってきて……」

「この世界に長くとどまっていた影響で、存在が曖昧になってきたんだろうね。ただでさえハザマに迷いこんだ魂は、記憶を失くしていることが多いし」

 燕さんの言葉に、兄は苦々しげにうなずく。


「ぼんやりしていく意識のなか、ずっと持っていたあの風鈴だけが、僕の存在理由に思えました。だからこの世界を彷徨いながら、あれを鳴らし続けて……」

 そしてあの日、初めて音に反応する人物と出会った。私を見つめた彼は、嬉しそうに笑む。


「音が聞こえたと満月が言ったとき、僕はやっと、誰のためにこれを鳴らしていたのか思い出したんだ」

「そうだったんだ……。でもそれならあの時、言ってくれたらよかったのに」

「言おうとしたんだけどね。満月が香月の客だと聞いて、どうしてここに来てしまったのか気になったから」

 話をするなかで、妹の魂が不安定な状態であることにも気づいた。


「満月が僕のことを忘れている以上、今は言うべきじゃないと思ったんだ」

「その選択は正しかったと思いますよ。記憶を無理に思い出させると、より状況は悪くなっていたでしょうし」


 柳さんの言葉に、兄はほっとしたように目元をやわらげる。それと同時に、なぜ私の外出に柳さんがあれほど気を遣っていたのかが分かった気がした。


「……じゃあお兄ちゃんはずっと、私にあの言葉を伝えるためにハザマで彷徨ってたんだよね」

「途中で忘れちゃってたけどね」

 苦笑する兄を見て、私は胸が苦しくなった。

「なんで、私なんかのために……」


 たった一人で、20年も。

 経過した時間の重さが、ただただ残酷に思えてならなかった。兄は静かにかぶりを振ると、きっぱりと言い切る。


「違うよ満月。自分のためなんだ」

「でも……!」

「あの日、意識を失いながら僕は思った。きっと満月は自分のせいだと思うに違いないって。……本当は僕が招いたことなのに」


 そう呟いた彼の表情は、いつの間にか苦しげなものに変わっている。


「僕はあの日、母さんに頼んでおいたんだ。蜜柑花のハチミツを使ったお菓子を作って欲しい。でも僕が帰るまで絶対に食べちゃだめだよって」


 それは別におかしなことではないし、母もそのようなことを言っていた。どういう意味かわからず戸惑っていると、兄は俯きながら消え入りそうな声で言った。


「そうすれば、満月がしびれを切らして僕を迎えに来るんじゃないかって」

「えっ……」

「満月は覚えていないだろうけど、前にも同じことがあったんだ。だからちょっとしたゲームのつもりで、食いしん坊の妹が、学校まで来るかもしれないって思ったらわくわくして……。あの日まさか、一人で来るとは思ってなかった」


 校門前で手を振っていた兄の顔が、記憶の中でちらつく。あの時彼は確かに、嬉しそうな顔と驚きを同時に浮かべていたようにも思う。


「だから、満月はなんにも悪くない」

「で、でも……私が勝手に行かなければこんなことには」

 兄はかぶりを振ると、切実さのこもった表情で告げた。

「あのとき満月が死んでたら、僕はきっと耐えられなかった。だから庇ったことは全然後悔してないんだよ」


 でもその結果、妹をずっと苦しませることになってしまった。兄はそう言って今にも泣き出しそうな顔で、俯いている。

 そんな彼に何か言わなければと思いながらも、私は感情の落としどころを見つけられないでいた。この20年、ずっと引きずってきた「自分のせい」という罪悪感は、そう簡単に消え去るものじゃない。


「……私、ずっと自分が死ぬべきだったって思ってた」


 その言葉に、兄ははっと顔を上げた。私は心の奥でずっと抱えて来た、呪いにも似た思いを口にする。

「きっとお兄ちゃんは私を恨んでる。お父さんとお母さんも、私だったら良かったのにって思ってるって」


 昔、母とちょっとしたことで言い争いになったことがある。

 そのとき母がはずみで言った「名月ならこんなことはなかったのに」という言葉が頭から離れなかった。


 お兄ちゃんなら。

 あのとき、私だったら。


 言霊は強く心を縛り、呪詛となって私に囁き続けた。

 

 私は生きていては、いけないんじゃないか。


「満月ちゃんの自己評価の低さは、ここから来てたんだね」

 燕さんの言葉に、私は頷きながら目を伏せた。

「何をしていても、私なんかという思いが消えなくて……」


 兄を不幸にした自分が、幸せになっていいはずがない。深く根差した心の枷が、事故をきっかけにハザマに迷いこませてしまったのだろう。


「でも、それを兄のせいだとは思っていないし、思いたくないんです」

「満月……」

「お兄ちゃんの話を聞いても、この気持ちは変わらないよ」

 きっぱりと言い切る私を見て、燕さんもそうだねと頷いた。彼は私たちを見渡しながら、穏やかに切り出す。


「ひとつだけ言えるのは、誰のせいでもないってこと。運命は残酷だけど、二人が柳の元に導かれてきたのも運命だろう? 満月ちゃんも名月くんも、……それから兄さんも。そろそろ自分を、許してあげてくれないかな」


 私たちは互いの顔色を伺いながら、沈黙していた。進むべき方向は見えているはずなのに、誰が何を言うべきなのかわからないでいる。

 そのとき、ずっと黙って聞いていた桐子さんが、口を開いた。


「満月はお兄さんと柳さんに、これ以上苦しんでほしい?」

 強くかぶりを振る。

「それだけは嫌」

「うん。それってお兄さんと柳さんも同じでしょ」


 返す言葉が無かった。

 私は兄と柳さんに、これ以上絶対に苦しんでほしくない。でもそれは、私だけではないのだと気づかされた。

 まあ要するに、と桐子さんは皆を見渡しながら言い切る。


「三人とも愛のベクトルが大き過ぎたってことで、いいんじゃないでしょうか」


「桐子ちゃん、ズバッというね……」

 苦笑する燕さんに、「ということは、燕さんもそう思ってたってことですか……」と私が言うと、兄が「まあ否定はできないよね……」と呟く。

 柳さんに至っては「ベクトルの方向について詳しく聞いてみたいですね……」とか言うものだから、笑ってしまった。

 張り詰めていた空気が、ハーブティーの湯気とともに緩んでいく。


 そうか。

 私は、生きていていいんだ。


「お兄ちゃんと、ここで出会ったひとたちのおかげだよ」


 だからもう、大丈夫。

 ほっとしたように微笑む兄へ、めいっぱいの想いを伝える。


「ずっと一人にしてごめんね。本当に……本当に、ありがとう」

 いつだって、私のことを気にかけてくれて。わがままにつき合ってくれて。


 幸せを、願ってくれて。

 

「お兄ちゃんはずっと、私の自慢だよ」


 それを聞いた兄の瞳が微かに震え、宝石のような涙がひとしずく零れ落ちた。

 長かった旅路が、ようやく終わる。そんな安堵を得た兄の表情は、安らぎに満ちたものに見えて。

 私は深呼吸してから立ち上がると、柳さんを振り向いた。


「今からお菓子を作ってもいいですか? どうしても食べてもらいたいものがあるんです」

「ええ、もちろんですよ」

 少し面食らったような彼に頷き、私は燕さんと桐子さんに手伝いを頼む。

「お兄ちゃんも、一緒に作らない?」

「僕ほとんど料理したことないけどいいの?」

「大丈夫!」


 私たちはキッチンへ向かうと、作業に取りかかった。まずは燕さんに材料を準備してもらう。

 薄力粉、きび糖、塩、卵、オリーブオイル。私はそれぞれの分量を量りながら、あるものを取りだす。

「これを使うと本格的になるんです」

 マルサラ酒と呼ばれる、イタリアのシチリア地方で作られる甘口ワイン。独特の風味が特徴で、手に入らないときはブランデーで代用できるけれど、燕さんなら揃えてくれるので甘えることにした。


「何を作るの?」

 桐子さんの問いに「出来上がってからのお楽しみ」と微笑む。

「じゃあまずは、生地を作りますね」


 ふるった薄力粉にきび糖と塩を加え、よく混ぜる。そこに卵とマルサラ酒、オリーブオイルを加え、ひとまとまりになるまでしっかりこねていく。

 しばらく寝かせた生地を麺棒で薄く伸ばすと、正方形にカットした。


「これをさらに伸ばして、この筒に巻いていきます」

 ステンレスコロネと呼ばれる、筒状の型。名前のとおりコロネパンを作る時によく使われるものだ。桐子さんや兄が生地を巻いてくれている間に、私は中に詰めるクリームを準備し始める。


 水気を切ったリコッタチーズに粉砂糖を加え、よく混ぜておく。オレンジピールとピスタチオを細かく刻み、さくらんぼの砂糖漬けを取り出していると、燕さんが何かに気づいた様子を見せた。


「もしかしてこれ……」

「これに合うお茶を、選んでもらえますか」

 にっこりと笑んでみせると、彼は納得した様子で「もちろん、任せて」と目配せした。

 巻き終わった生地は、型ごと180度の油で色よく揚げていく。一度取り出し型を外してから、二度挙げしてかりっとさせる。筒状になった生地を見て、兄が楽しそうに言った。


「ここにリコッタチーズを詰めるんだね」

「そう。好きなトッピングもしてね」

 絞り袋に入れたリコッタチーズを、冷ました生地にめいっぱいつめ込んでいく。両端のチーズがはみ出た部分をオレンジピールなどのトッピングで飾り、お皿に並べて完成だ。


 出来上がったお菓子が乗った皿を差し出すと、柳さんは目を見開いた。

「これは……」

 言葉を失う彼の代わりに、燕さんが反応する。

「カンノーリだよ。懐かしいね」

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