双子の死神と香月茶
私の呼びかけに、アン・レジーナガーデンオーナーの燕さんが驚いた表情を浮かべた。
「満月ちゃん? なんでここに……どうりで連絡つかないわけだ」
「あっそうだ。私の名前、満月だった……」
唐突に思い出した自分の名前に、不思議な感覚をおぼえた。どうして今まで忘れていたのか、信じられない。
「燕、それ以上はルール違反ですよ」
いつの間にか戻ってきていた柳さんが、やんわりと遮った。それを聞いた燕さんの整った顔には怪訝な色が浮かぶ。
「ルール違反って……え、ちょっと待って。それじゃまさか柳が言ってた客って……」
再び私を振り返った彼に、私は戸惑い気味に頷いてみせた。
「私、ここの客みたいで……」
「嘘だろう? ここがどういうところか、柳から聞いた?」
唖然となる燕さんに、私はかぶりを振る。彼は柳さんと私を交互に見やってから、大きくため息をついた。
「大事なことはいつも後回しなんだからなあ、兄さんは」
「先に言ってしまうと、つまらないでしょう」
飄々と返す柳さんにやれやれと肩をすくめ、燕さんは「でも一体どうして……」と呟いた。
目の前の彼は普段のマスター姿とは違い、白い衣服を身に着けている。柳さんのとデザインは似ているけど、燕さんの方が全体的に緩いというか、着崩しているというべきか。
そして、さっきから気になって仕方がないのが髪の色だ。
いつもは黒髪のはずなのに、今は白に近い白銀になっている。
「あの……どういうことなんですか? 私さっきから訳の分からないことばかりで」
「その話をするためにも、まずは香月茶を飲んでいただきましょう。燕、茶葉の準備をしてください」
柳さんはそれだけ言うと、手にしていた木製のトレーを私の前に置き、乗せられていたものを並べ始める。見たところ茶器セットのようだ。
その様子を見ていた燕さんは、諦めたように片手を挙げた。
「……わかったよ。ちょっと待ってて」
数分後、燕さんは陶器の入れ物を載せたトレーを持ってきた。
「はい。満月ちゃんの茶葉」
「私の……?」
私の前に置かれた陶器の入れ物は、丸くて瑠璃色をしていた。燕さんが蓋を取ると、中には草の塊のようなものがころりと入っている。
「これが茶葉ですか?」
「うん。あとは柳が淹れてくれるから見てて」
茶葉が入った器を受け取った柳さんは、ティーポットの横に置いた。
「……素敵な茶器ですね」
硝子のティーポットに硝子のカップ。茶海と呼ばれる、淹れたお茶を均一にするためのポットも硝子でできている。
そのどれもが優美な曲線を描き、つい触れたくなるほど繊細で美しい。
「ここでは茶器を”育てる”必要がありませんし、この方が茶葉の美しさを楽しめますから」
柳さんの言葉に、私はそうなんですねと頷きつつ。
陶磁器の茶器には長く使うことで、色艶が増し、淹れるお茶にも深みが出てくるものがある。
硝子だとそういうことはないはずだけど、柳さんのいう「育てる必要がない」というのはどういう意味なのだろう。そんな疑問が顔に出ていたのか、彼は口元の笑みをほんの少し深くした。
「ここは時の流れが曖昧ですからね。年月を重ねなければならないものには向かないのです」
そう言いながら、彼の手は湯をポットに注いで温め、茶葉を取り出していく。その動きはしなやかで無駄がなく、私は思わず見とれてしまう。
一度湯を捨てたポットに茶葉を入れ、再び湯が静かにそそぎこまれる。細い指先が閉じた蓋を撫でた瞬間、まるで眠りから醒めるように茶葉が開き始めた。
「綺麗……」
ゆっくりと、花が咲くように開いた茶葉が、湯を淡い黄金色に染めていく。ティーカップにそそがれた途端、驚くほど芳醇な香りが広がった。
「さあ、どうぞ」
私は差し出されたカップを手にし、香りごと味わうように口に含んでみる。ほのかな甘みと深みのあるコクに、思わずため息が漏れた。
「とても美味しいお茶ですね。それに凄くいい香り……何かフレーバーを使っているんですか?」
「いいえ。香月茶ではそういったものは使用していません」
「じゃあ茶葉だけでこの香りを? 信じられない……」
通常、花や果物の香りがするお茶は、フレーバードティーと呼ばれる。茶葉に花や香料などで香りづけしたもので、一番有名なのはベルガモットの香りを加えたアールグレイだろう。
つまり何かしらの「香りのもと」があるからこそ、豊かな香りが楽しめるはずなのだけど……
そのとき、見守っていた燕さんがふいに問いかけた。
「満月ちゃんのお茶はどんな香りがした?」
「え?」
「香月茶は飲む人によって、味や香りが変わるんだよね。満月ちゃんのお茶がどんなものかは、選んだ俺も、淹れた柳にも分からない」
そんなことがあるだろうか。味覚や嗅覚は個人差があるだろうけど、淹れた人が分からないなんて、聞いたことがない。
けれど二人の表情は、それが真実であると告げているような気がした。
「……甘い花のような、優しい香りがします。なんだかすごく懐かしいような……」
そうだ、私はこの香りを知っている。でもいつどこで知ったのか、何の香りだったのかがどうしても思い出せない。
そんな私の様子を見て、柳さんは静かに頷いた。
「また飲みたくなったら来てください。いつでもこの店は開いていますから」
「あの……お代は?」
「お代は不要です。そういう場所ですので」
ふと、私は店の奥に扉が二つ並んでいるのが見えた。深い瑠璃色をした扉は、向かって右側に『円』、左側には『朔』と書かれている。
「すみません、あの扉は――」
燕さんは柳さんをちらりと見やり「もう話してもいいんだろう?」と確認する。
「ええ。桐子にも来てもらいましょう」
「そうだな。一応あっちで顔見知りのようだし」
呼ばれてやってきた桐子さんは事情を察しているのか、何も言うことはなかった。
燕さんは私に向き直ると、ほんの少し改まった様子で切り出す。
「俺はまどろっこしい説明は苦手だから、単刀直入にいうよ。ここは現世と幽世の”狭間”なんだ」
「……はざま?」
何を言われたのか理解できずにいると、燕さんは「いきなり言われてもわからないよね」と苦笑する。
「生きている人間が住むのが現世。死んだ人間が住むのが幽世。ここまではいい?」
うなずく私を確認しながら、続ける。
「このどちらにも属さないのがハザマの世界。三途の川って聞いたことあるだろう?」
「渡るとあの世にいってしまうという……」
「そうそう。あれもハザマの一部なんだけど、ここに迷い込んだ魂は、いわば『生死の境』にいるんだ」
彼の説明によると、人が何らかの理由で生死を彷徨った場合、通常であればそう時間はかからず「現世」に留まるか「幽世」へ向かうかが決まるのだそうだ。
でも中には迷いや未練を抱くことにより、行き先を見失う魂が出てくる。
このハザマの世界ではそういった”迷い魂”を保護し、”管理者”が現世に戻るか幽世へ向かうかを判断するのだそうだ。
「管理者っていうのは……?」
「生死を司る存在、平たく言うと死神だね」
死神。
絶句した私の耳に、燕さんの穏やかな声が響いた。
「ここに住むのは彷徨う魂と、彼らを管轄する死神だけなんだ」
あまりにも現実味のない話に、頭がくらくらしてくる。なんとか私は話を整理しながら、確認してみる。
「ええとつまり……オーナーの柳さんは死神ってことですか」
「そうだね」
「燕さんも?」
「一応俺もそう。ちなみに桐子ちゃんは例外的に、どちらにも当てはまらない。彼女は現世から出張スタッフしてもらってる”生きた人間”だから」
ちらりと視線を向けた先で、桐子さんが頷いた。
私はどこか楽しそうに見守っている柳さんを伺いつつ、ためらいながらも口を開いた。
「その……お二人が死神だっていう証拠はありますか? 失礼なこと言っているのはわかってるんですけど、やっぱりそう簡単に信じられなくて……」
あんなにも綺麗で美味しいお茶を淹れる人と、死のイメージがどうしても結びつかない。
柳さんの手によって目覚めてゆく茶葉は、むしろ生命の鼓動すら感じさせたから。
「……兄さん、どうする?」
燕さんに声をかけられた柳さんは、猫のような瞳で私をじっと見つめたあと、くすりと笑った。
「まあいいでしょう」
急に空気が冷え、ぴんと張りつめた気がした。
身体の奥からせり上がってくるような重圧を感じた刹那、彼の背後に巨大な鎌が現れる。
ああ。なんてことだろう。
大してファンタジーに詳しくない私でも、わかってしまった。あれが何かと聞くまでもない、まごうことなきデス・サイズ(死神の鎌)だ。