祈り
息を飲む私の目の前で、彩乃さんはゆっくりと頷いた。同時に瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていく。
「あたし……馬鹿だった。彼を信じ抜く勇気がなかった」
頬を涙で濡らし続ける彩乃さんは、ぎゅっと目を瞑り、絞り出すように言葉を漏らす。
「……あいつ、本当は浮気なんてしてなかったの」
封印されていたのは、彼女が事故に遭ったあとの記憶。
彼女が浮気現場を見たというのは勘違いで、間もなくそんな事実はなかったことがわかったそうだ。
早とちりからの自暴自棄で、起きてしまった事故。その時に負った怪我自体は、それほど酷くはなかったけれど。
「でもね……ここに赤ちゃんがいたんだよね」
お腹に触れる彩乃さんを見て、ああ、と喉から呻きが漏れた。彼女の絶望と後悔を知ってしまったから。
深く、昏く――認知が歪んでしまうほどに。
「あたしが階段から落ちたせいで、ダメになっちゃった」
顔を覆う彩乃さんは、とても儚く今にも消えてしまいそうで。
「彼は違う、信じてくれって何度も言ってたのに。あたしは耳を貸そうともしなかった。信じてまた裏切られるのが怖かったから」
肩は震え、涙で掠れた声はやがて嗚咽に変わっていく。
「ちゃんと話を聞いていれば、この子は死なずに済んだのに。あたしが……あたしが殺してしまった……っ!」
「彩乃さんもういい!」
私は彼女に向き合い、懸命に訴えた。
「あなたはここに来るまでに、何度も何度も自分を責め、後悔してきたはずです。これ以上、自分を追い詰めないでください!」
取り返しのつかない事実に、どれほど絶望し心を潰されてきただろう。そうでなければ、こんなところまで来ていない。
お願いだからもう、自分を傷つけないで。ただただ、そう祈りながら痩せ細った手を握りしめる。
次第に落ち着きを取り戻してきた彩乃さんは、ありがとうと小さく呟いた。化粧っ気のない彼女の泣き顔は、まるで子供のようにたやすく壊れそうな危うさがある。
「……スイートピーはね、彼があたしにプロポーズしてくれたときにくれた花なの」
妊娠を知り、喜んだ彼が指輪と共に贈ってくれた花。
もっと早く渡すつもりだったのにと彼が謝るものだから、こういう時は赤い薔薇じゃないの?と照れ隠しで言ったら、この方が彩乃に似合ってるからと笑っていた。
どうして花束がふたつあるの?と聞いたら、「彩乃と産まれてくる子供のぶん」と嬉しそうにあたしを抱きしめた。
「つわりで食事が取れなくなったあたしに、『レモンがいいらしい』って見よう見まねでレモンカード作ってさ。見事に失敗して、へこんでるのがほんと馬鹿で……大好きだった」
やっと手に入るはずだった、幸せ。なにもかも、自分の手で壊してしまった。
「手術室で目が覚めた時に見た、あの光が忘れられないんだよね」
産まれてくる子供が最初に見るはずだった光。小さな世界を明るく照らす光。
絶望の光。
「こんなことならあの子と一緒に死んでしまえばよかった。そんなことばかり考えてたら……いつの間にかここに来てた」
涙を拭った彩乃さんは私たちを見渡し、自嘲気味に笑った。
「これがすべての真実。自業自得でほんと笑っちゃうよね」
私はどうすれば彩乃さんを救えるのか、何をやるべきなのか、必死に考えていた。その一方で、起きてしまったことはどうにもならないという諦観が、同じ速度をもって湧き上がってきてる。
だめだ、飲まれてはいけない。
絶対に彼女を救わなければならない。でも私だってずっと――……
苦しんできたのに―――
そのとき、ずっと黙っていた桐子さんが、口を開いた。
「その後、彼とはどうなったの?」
「……一度も会ってない。面会も全部断ったし」
彩乃さんはそう言ってから、ぼんやりと瑠璃の扉の方を見やった。
「もう失うものなんてないし。このままあの子がいる幽世に行っちゃおうかな」
「なんで? 彼が待ってるんじゃないの」
「こんなあたしのことなんて、見放してるに決まってる。待ってるわけないよ」
桐子さんは小さくため息をついてから、にべもなく言い放った。
「また逃げるの?」
「っ……」
彩乃さんの肩がびくりと震えた。何も言えずこわばった顔へ、躊躇ない言葉が飛んでくる。
「彼の話聞いたわけじゃないんでしょ? それなのに彼の気持ち勝手に決めつけて、やってること同じ。逃げてるだけじゃない」
次々に畳みかける桐子さんを、私は唖然と見つめるしかなかった。しばらく黙り込んでいた彩乃さんは、悔しそうに唇を噛む。
「あんたに何がわかるのって言いたいところだけど……言い返せないね。図星だし」
「今のままじゃ、どっちの扉を選んでも迷いは晴れないし、柳さんも許してはくれない。自分でもわかってるんでしょ」
「じゃあどうしろっていうの? こんなところまで来て、今さら何をすればいいかわかんないよ」
途方に暮れる彩乃さんを見ているうちに、私はやっとひとつの道筋が見えたような気がした。
「……それなら、彼に聞いてみせんか」
「え?」
私の言葉に驚く彼女とは対照的に、桐子さんは「私もそれしかないと思う」と頷いた。
「彩乃さんが扉を選ぶためには、彼の気持ちを確かめるしかないと思うんです」
私はずっと成り行きを見守っている、双子の死神を振り向いた。
「柳さん燕さん、どうですか」
「そうですね。彼を呼び出すことは可能ですが……今回は見てもらった方が早いかもしれません」
柳さんの言葉を引き継ぐように、燕さんが彩乃さんに笑いかけた。
「彼が今どうしてるか。気になるだろう?」
「でも……そんなことできんの?」
不安げな彩乃さんに、柳さんは艶然と頷いた。
「あなたが望みさえすれば」
「彩乃さん、どうします?」
私の問いかけに、彼女はいったん俯いてから、意を決したように顔を上げた。そして椅子から立ち上がると、私たちを見渡しぺこりと頭を下げる。
「お願い。あたしを助けてください」
燕さんが持ってきたのは大きな瑠璃色の深皿だった。中には澄んだ水が入っていて、そこに柳さんが銀色の液体を数滴落とすと、水面が鏡のように変化していく。
「さあ、覗いてみてください」
彩乃さんが恐る恐る覗くと、水面がゆっくりと変化し、やがてどこかの部屋を映した。
病院らしき室内の中央にはベッドがあり、眠っているのは彩乃さんだった。その傍らに、若い男性が座っている。
「ハル……!」
彩乃さんが食い入るように見つめる先で、彼のまなざしはまっすぐに、眠る彼女へ向けられている。
その表情はとても不安そうで、苦しげで。でも彩乃さんを見つめる瞳は、とても優しそうで。
彼は一瞬視線を伏せたあと、再び彩乃さんを見つめ口を開いた。
『彩乃……ごめん。俺、お前が苦しんでいるのに何もしてやれなかった』
それを聞いた彩乃さんの表情が、驚愕に満ちていく。
「な、何言ってんの……? 全部あたしが悪いのに」
彼女の痩せた手を取った彼は、壊れ物を扱うようにそっと握り、肩を震わせた。
『こんなになるまで……一人にしてごめん、俺のせいだ』
「ハルは何も悪くないないよ。あたしが勝手に思い詰めたんだから」
『ずっと傍にいるって約束したのに。幸せにするって約束したのに』
「違うってば、あたしが信じる勇気がなかったから」
『なあ、目覚ましてくれよ。彩乃』
涙で掠れた声が、室内に響く。
『俺はお前ともう一度――』
「ハル!!!」
そのとき、水面がぼやけ彼の姿が見えなくなった。半ば取り乱した彩乃さんは、柳さんに懇願する。
「お願い、彼に会わせて! 今すぐ帰らせて!」
「――では、それがあなたの選択でよろしいですね?」
柳さんの問いかけに、彩乃さんは我に返ったように私たちを振り向いた。
歩み寄った私は頷き、最後の背を押す。
「さあ、彩乃さん。選んでください」
朔の扉か。
円の扉か。
意を決したように瑠璃の扉へ向かった彩乃さんは、一度深呼吸した。
そしてまっすぐに前を見すえ、澄み切った声で宣言した。
「あたしは、朔の扉を選ぶ」
燕さんが扉を開く間、彩乃さんは不安そうに柳さんへ問いかけた。
「最後にひとつだけ、教えて。……あの子は、天国にいけた?」
「ええ。心配いりませんよ」
「……そっか」
呟いた彼女の表情は、これまでにないほど優しく、やわらかなものだった。
「きっとあたしのこと恨んでるよね。馬鹿な女だって」
苦笑する彩乃さんに向けて、桐子さんがかぶりを振る。
「母親のことが嫌いな赤ちゃんなんていない」
化粧っ気の無い顔がくしゃりと歪んだ。彼女の痩せた体を、桐子さんは何も言わずに抱きしめる。
「……あたしなんかのところに来てくれたのに」
産んであげられなくてごめん。
一緒にいけなくてごめん。
肩を震わせる彩乃さんに、柳さんが静かに、けれど確信めいた響きで告げた。
「いつかまた、会えますよ」
顔を上げた彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。
開いた朔の扉の前に立つ彩乃さんは、今までで一番綺麗に見えた。
「彩乃さん、幸せになってくださいね」
「あんたたちもね」
迷いが晴れた彼女の笑顔は、まるでスイートピーのように、華やかで柔らかい。きっとこれが、本来の姿なのだろう。
突然駆け寄ってきた彩乃さんは、私と桐子さんをまとめてぎゅっと抱きしめた。
「満月と桐子に出会えて、あたしほんとよかった」
「私もです」
彩乃さんは目元をぬぐうと、「もうあたし何回泣くんだろ」と笑う。
「あ、そうだ満月。あの店主、なかなかいい男じゃん。あたし応援してるから」
「……えっ?」
にやっと私の肩をぽんぽんした彩乃さんは、改めて全員を見渡し。深々とお辞儀してから、少しだけ名残惜しそうに微笑んだ。
「じゃあ、あたしいくね」
扉の向こうに消えていく彼女を、私はいつまでもいつまでも見送る。
「ご来店、ありがとうございました!」
どうか、どうか幸せに。
私の小さな祈りが、いつまでも彼女に届きますように。
そんな願いを、胸いっぱいに乗せて。




