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空中喫茶香月〜あなたの迷い、月香るお茶で紐解きます〜  作者: 久生夕貴
第四章 レモンカードと微睡みアフターヌーンティー
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祈り

 息を飲む私の目の前で、彩乃さんはゆっくりと頷いた。同時に瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていく。

「あたし……馬鹿だった。彼を信じ抜く勇気がなかった」

 頬を涙で濡らし続ける彩乃さんは、ぎゅっと目を瞑り、絞り出すように言葉を漏らす。


「……あいつ、本当は浮気なんてしてなかったの」

 封印されていたのは、彼女が事故に遭ったあとの記憶。

 彼女が浮気現場を見たというのは勘違いで、間もなくそんな事実はなかったことがわかったそうだ。

 早とちりからの自暴自棄で、起きてしまった事故。その時に負った怪我自体は、それほど酷くはなかったけれど。


「でもね……ここに赤ちゃんがいたんだよね」

 お腹に触れる彩乃さんを見て、ああ、と喉から呻きが漏れた。彼女の絶望と後悔を知ってしまったから。


 深く、昏く――認知が歪んでしまうほどに。

 

「あたしが階段から落ちたせいで、ダメになっちゃった」

 顔を覆う彩乃さんは、とても儚く今にも消えてしまいそうで。

「彼は違う、信じてくれって何度も言ってたのに。あたしは耳を貸そうともしなかった。信じてまた裏切られるのが怖かったから」


 肩は震え、涙で掠れた声はやがて嗚咽に変わっていく。

「ちゃんと話を聞いていれば、この子は死なずに済んだのに。あたしが……あたしが殺してしまった……っ!」

「彩乃さんもういい!」

 私は彼女に向き合い、懸命に訴えた。


「あなたはここに来るまでに、何度も何度も自分を責め、後悔してきたはずです。これ以上、自分を追い詰めないでください!」


 取り返しのつかない事実に、どれほど絶望し心を潰されてきただろう。そうでなければ、こんなところまで来ていない。

 お願いだからもう、自分を傷つけないで。ただただ、そう祈りながら痩せ細った手を握りしめる。


 次第に落ち着きを取り戻してきた彩乃さんは、ありがとうと小さく呟いた。化粧っ気のない彼女の泣き顔は、まるで子供のようにたやすく壊れそうな危うさがある。


「……スイートピーはね、彼があたしにプロポーズしてくれたときにくれた花なの」


 妊娠を知り、喜んだ彼が指輪と共に贈ってくれた花。

 もっと早く渡すつもりだったのにと彼が謝るものだから、こういう時は赤い薔薇じゃないの?と照れ隠しで言ったら、この方が彩乃に似合ってるからと笑っていた。


 どうして花束がふたつあるの?と聞いたら、「彩乃と産まれてくる子供のぶん」と嬉しそうにあたしを抱きしめた。


「つわりで食事が取れなくなったあたしに、『レモンがいいらしい』って見よう見まねでレモンカード作ってさ。見事に失敗して、へこんでるのがほんと馬鹿で……大好きだった」


 やっと手に入るはずだった、幸せ。なにもかも、自分の手で壊してしまった。


「手術室で目が覚めた時に見た、あの光が忘れられないんだよね」

 産まれてくる子供が最初に見るはずだった光。小さな世界を明るく照らす光。

 絶望の光。

「こんなことならあの子と一緒に死んでしまえばよかった。そんなことばかり考えてたら……いつの間にかここに来てた」


 涙を拭った彩乃さんは私たちを見渡し、自嘲気味に笑った。

「これがすべての真実。自業自得でほんと笑っちゃうよね」

 私はどうすれば彩乃さんを救えるのか、何をやるべきなのか、必死に考えていた。その一方で、起きてしまったことはどうにもならないという諦観が、同じ速度をもって湧き上がってきてる。

 

 だめだ、飲まれてはいけない。


 絶対に彼女を救わなければならない。でも私だってずっと――……

 苦しんできたのに―――

 そのとき、ずっと黙っていた桐子さんが、口を開いた。


「その後、彼とはどうなったの?」

「……一度も会ってない。面会も全部断ったし」

 彩乃さんはそう言ってから、ぼんやりと瑠璃の扉の方を見やった。


「もう失うものなんてないし。このままあの子がいる幽世に行っちゃおうかな」

「なんで? 彼が待ってるんじゃないの」

「こんなあたしのことなんて、見放してるに決まってる。待ってるわけないよ」

 桐子さんは小さくため息をついてから、にべもなく言い放った。


「また逃げるの?」


「っ……」

 彩乃さんの肩がびくりと震えた。何も言えずこわばった顔へ、躊躇ない言葉が飛んでくる。


「彼の話聞いたわけじゃないんでしょ? それなのに彼の気持ち勝手に決めつけて、やってること同じ。逃げてるだけじゃない」


 次々に畳みかける桐子さんを、私は唖然と見つめるしかなかった。しばらく黙り込んでいた彩乃さんは、悔しそうに唇を噛む。


「あんたに何がわかるのって言いたいところだけど……言い返せないね。図星だし」

「今のままじゃ、どっちの扉を選んでも迷いは晴れないし、柳さんも許してはくれない。自分でもわかってるんでしょ」

「じゃあどうしろっていうの? こんなところまで来て、今さら何をすればいいかわかんないよ」

 途方に暮れる彩乃さんを見ているうちに、私はやっとひとつの道筋が見えたような気がした。


「……それなら、彼に聞いてみせんか」

「え?」

 私の言葉に驚く彼女とは対照的に、桐子さんは「私もそれしかないと思う」と頷いた。


「彩乃さんが扉を選ぶためには、彼の気持ちを確かめるしかないと思うんです」

 私はずっと成り行きを見守っている、双子の死神を振り向いた。


「柳さん燕さん、どうですか」

「そうですね。彼を呼び出すことは可能ですが……今回は見てもらった方が早いかもしれません」

 柳さんの言葉を引き継ぐように、燕さんが彩乃さんに笑いかけた。

「彼が今どうしてるか。気になるだろう?」


「でも……そんなことできんの?」

 不安げな彩乃さんに、柳さんは艶然と頷いた。

「あなたが望みさえすれば」

「彩乃さん、どうします?」


 私の問いかけに、彼女はいったん俯いてから、意を決したように顔を上げた。そして椅子から立ち上がると、私たちを見渡しぺこりと頭を下げる。


「お願い。あたしを助けてください」


 燕さんが持ってきたのは大きな瑠璃色の深皿だった。中には澄んだ水が入っていて、そこに柳さんが銀色の液体を数滴落とすと、水面が鏡のように変化していく。


「さあ、覗いてみてください」

 彩乃さんが恐る恐る覗くと、水面がゆっくりと変化し、やがてどこかの部屋を映した。

 病院らしき室内の中央にはベッドがあり、眠っているのは彩乃さんだった。その傍らに、若い男性が座っている。


「ハル……!」

 彩乃さんが食い入るように見つめる先で、彼のまなざしはまっすぐに、眠る彼女へ向けられている。

 その表情はとても不安そうで、苦しげで。でも彩乃さんを見つめる瞳は、とても優しそうで。

 彼は一瞬視線を伏せたあと、再び彩乃さんを見つめ口を開いた。


『彩乃……ごめん。俺、お前が苦しんでいるのに何もしてやれなかった』

 それを聞いた彩乃さんの表情が、驚愕に満ちていく。

「な、何言ってんの……? 全部あたしが悪いのに」

 彼女の痩せた手を取った彼は、壊れ物を扱うようにそっと握り、肩を震わせた。


『こんなになるまで……一人にしてごめん、俺のせいだ』

「ハルは何も悪くないないよ。あたしが勝手に思い詰めたんだから」

『ずっと傍にいるって約束したのに。幸せにするって約束したのに』

「違うってば、あたしが信じる勇気がなかったから」

『なあ、目覚ましてくれよ。彩乃』

 涙で掠れた声が、室内に響く。


『俺はお前ともう一度――』

「ハル!!!」


 そのとき、水面がぼやけ彼の姿が見えなくなった。半ば取り乱した彩乃さんは、柳さんに懇願する。


「お願い、彼に会わせて! 今すぐ帰らせて!」

「――では、それがあなたの選択でよろしいですね?」

 柳さんの問いかけに、彩乃さんは我に返ったように私たちを振り向いた。


 歩み寄った私は頷き、最後の背を押す。

「さあ、彩乃さん。選んでください」

 

 朔の扉(現世へ)か。

 円の扉(幽世へ)か。


 意を決したように瑠璃の扉へ向かった彩乃さんは、一度深呼吸した。

 そしてまっすぐに前を見すえ、澄み切った声で宣言した。

 

「あたしは、朔の扉を選ぶ」


 燕さんが扉を開く間、彩乃さんは不安そうに柳さんへ問いかけた。

「最後にひとつだけ、教えて。……あの子は、天国にいけた?」

「ええ。心配いりませんよ」

「……そっか」

 呟いた彼女の表情は、これまでにないほど優しく、やわらかなものだった。


「きっとあたしのこと恨んでるよね。馬鹿な女だって」

 苦笑する彩乃さんに向けて、桐子さんがかぶりを振る。

「母親のことが嫌いな赤ちゃんなんていない」

 化粧っ気の無い顔がくしゃりと歪んだ。彼女の痩せた体を、桐子さんは何も言わずに抱きしめる。


「……あたしなんかのところに来てくれたのに」

 産んであげられなくてごめん。

 一緒にいけなくてごめん。


 肩を震わせる彩乃さんに、柳さんが静かに、けれど確信めいた響きで告げた。

「いつかまた、会えますよ」

 顔を上げた彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。


 開いた朔の扉の前に立つ彩乃さんは、今までで一番綺麗に見えた。

「彩乃さん、幸せになってくださいね」

「あんたたちもね」

 迷いが晴れた彼女の笑顔は、まるでスイートピーのように、華やかで柔らかい。きっとこれが、本来の姿なのだろう。


 突然駆け寄ってきた彩乃さんは、私と桐子さんをまとめてぎゅっと抱きしめた。

「満月と桐子に出会えて、あたしほんとよかった」

「私もです」

 彩乃さんは目元をぬぐうと、「もうあたし何回泣くんだろ」と笑う。

「あ、そうだ満月。あの店主、なかなかいい男じゃん。あたし応援してるから」

「……えっ?」

 にやっと私の肩をぽんぽんした彩乃さんは、改めて全員を見渡し。深々とお辞儀してから、少しだけ名残惜しそうに微笑んだ。


「じゃあ、あたしいくね」

 扉の向こうに消えていく彼女を、私はいつまでもいつまでも見送る。

 

「ご来店、ありがとうございました!」


 どうか、どうか幸せに。

 私の小さな祈りが、いつまでも彼女に届きますように。

 そんな願いを、胸いっぱいに乗せて。

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