ずるい死神
手を止めた私の前で、柳さんはほんの少し声のトーンを落とした。
「魂の回収者だった頃の私が、唯一狩り損ねたものです。稀に見る、美しい魂でした」
「そうだったんですか……。じゃあそのために、管理者になったんですね」
なんだ、やっぱり私は関係なかったんだ。ほっとするような、でも心のどこかに穴が空いたような、よくわからない感情が私の中を巡っていく。
「すみません、個人的なことを聞いてしまって。ありがとうございました」
立ち上がり部屋を出ようとする私の腕を、彼が引いた。驚いて振り向くと、再び困った微笑。
「今日のあなたは、随分とせっかちですね」
何も言えず、私はただ俯くしかなかった。私は一体何に期待して、何にほっとして、何にがっかりしているのか。
わけのわからない感情の波が苦しくて、一人で舞い上がっていた自分が恥ずかしくて、今すぐこの場から立ち去りたい。
「あの、片付けがまだ残ってますので」
「満月」
名前を呼ばれて顔を上げると、いつになく真剣なまなざしが私を映している。
「あなたの迷いが晴れたとき、知りたいことをすべて話します。私を信じてください」
「柳さんのことは信じています。こんなに気にかけてくれて感謝してもしきれません。でも……だからこそ、苦しいんです」
気がつけば、本音が零れ落ちていた。一度あふれてしまえば堰を切ったように、止まらなくなる。
「なにも決められない私が、中途半端にここで働き続けることが申し訳ないんです。みんな私によくしてくれるのに、記憶は全然戻らないし、気持ちは焦るばかりだし……。あげくのはてに、こうやって柳さんに八つ当たりして迷惑かけて、自分が情けなくて仕方ありません」
「迷惑などと思っていませんよ」
「分かっています。柳さんはそういうひとです。でも私が嫌なんです」
顔を見られたくなくて、背を向けようとした私の身体が、突然包み込まれた。抱き寄せられたのだと自覚すると同時、頭の芯が急に熱くなる。
「あなたに今出ていかれたら、私が困ります」
耳元でささやく柳さんの声は、ひどく優しかった。彼の腕の中は温かくて、甘やかな香りが心地よくて、何もかも委ねてしまいたくなる。
――ああ。なんてずるい死神だろう。
こんなに優しくされたら、たやすく離れられなくなる。でも今はそのときじゃないと、彼の静かな鼓動が熱を冷ます。
私は、私の足元を確かめて、望む道を選び取らなくちゃいけない。
「……お菓子が食べられなくなっちゃいますしね」
ふっと笑う声が聞こえた。見上げる先で、柳さんが私の涙を人差し指でぬぐう。
「もう大丈夫のようですね」
「はい。ありがとうございます」
柳さんは頷くと、どこか懐かしげな気配を目元に漂わせた。
「――強くなりましたね」
その表情を見て、私の中で何かが大きく波打った。焦点の合わない映像がフラッシュバックのように明滅し、一瞬で霧散する。
そうだ。私はどこかでこのひとに会ったことが――……
今度こそ部屋をあとにして階下に降りると、フロアをうろうろしていた彩乃さんが私を見てほっとした表情を浮かべた。
「彩乃さん? どうかしましたか」
「なかなか降りてこないから心配してたんだよ。……って」
ぐいと私の肩を掴んで引き寄せた彼女は、顔を覗き込んでくる。
「……もしかして、泣いてたの?」
「あ……えっと、これは」
慌てて涙の跡をぬぐうと、怒涛の詰問が飛んできた。
「あの店主になんかされたの? セクハラ? パワハラ? 我慢しちゃだめだよ、あたしが文句言ってやるから!」
「違います違います。柳さんは落ち込んでいた私を励ましてくれただけで」
「ほんとに?」
こくこくと頷いてみせると、彩乃さんは疑わしそうにしばらく私を見つめてから、小さくため息を吐く。
「ならいいけど……なんで落ち込んでたの」
私はカウンターへ向かい、彼女にも桂花烏龍茶を淹れながら、曖昧な状態で働き続けることへの悩みを告げた。
「なんかもう自分のことばかりでいっぱいになって、情けなくて」
「情けなくなんかないでしょ。あんためっちゃ頑張ってるし」
「……頑張ってますか?」
きょとんとする私に、彩乃さんは何言ってんの? といった顔になる。
「あんたあたしと同じ迷い魂なんだよ。自分のこと一番に考えて当然じゃん。それなのに客のことまで考えて、そりゃパンクするっての」
「彩乃さん……」
そんな風に考えてくれていたなんて、思いもよらなかった。嬉しくてまた泣きそうになるのを我慢していると、そそくさとお茶を口にした彩乃さんは、気恥ずかしそうに言う。
「ずっと凄いって思ってたし、感謝してる。だからあたしの迷いが晴れるまで……ここにいてよ」
「はい。もちろんです」
頷く私を見て、彼女は安心したように目元を緩めた。
「このお茶、めっちゃいい香りするね。秋の匂いっていうかさ……」
「ああ、そのお茶は金木犀の花が入っているんですよ」
「それそれ! やっとすっきりしたわ~。エッグタルトも、もう一個ちょうだい」
彩乃さんはアオにちょっかいをかけながら、幸せそうにタルトを頬張っている。
そんな彼女を見ているうちに、私の中でひとつの意志が引き結ばれつつあるのを感じていた。
■
翌日は、久しぶりに全員が揃っていた。
庭園の手入れをする桐子さんを彩乃さんが手伝い、柳さんと燕さんは香月茶の試作について話し合っている。
香月茶は二人のコンディションや時期によって、ブレンドや淹れ方を少しずつ変えているそうで、定期的な調整が欠かせないらしい。
私は試作づくりを手伝いながら、香月茶を淹れる練習に励んでいた。彩乃さんの迷いを見届けるために、私ができることはこれしかない。明確な目標ができたおかげで、いつの間にか足元の不安定さも気にならなくなっていた。
「いいですね。だいぶ茶葉があなたに委ね始めています」
柳さんがティーポットをひと撫ですると、茶葉たちが舞い開く。まるで彼の手で咲くのを歓ぶかのように。
「まだまだ柳さんのようにはいかないです。私が淹れても、うまく茶葉が開かないことの方が多いですし……」
「ここまでくれば、あとはあなたと茶葉の相性次第です。あなたに合うものを燕が調整してくれますよ」
そう言って彼は深緋の瞳をゆるやかに細める。
「最も大切なのは、あなた自身を信じることです。あなたの不安や迷いを、香月茶は敏感に感じ取りますから」
「……はい。肝に銘じておきます」
しっかりと頷いてみせると、燕さんが深山色の瞳を穏やかに細めた。
「あんまり気負わないのも大事だよ。大丈夫、俺がちゃんと満月ちゃんの香月茶を見つけるから」
お茶の練習が終わり、休憩に入ったところでちょうど桐子さんと彩乃さんが庭園から戻ってきた。
「二人ともお疲れさま」
「ただいま」
「あー疲れたー」
いつも通りの桐子さんとは対照的に、彩乃さんは少々うんざり顔。
「草むしりとか超久々にやったし。腰痛いんだけど!」
「肉体無いのに腰って痛むんだ」
「……そーゆー嫌味言うのやめてくれる?」
ぶつくさ文句を言いながらも、二人ともなんだか楽しそうだ。私は休憩がてら三人でティータイムを提案すると、彩乃さんの顔がぱっと輝く。
「さんせーい。あたし今日はシフォンケーキ食べたい」
テーブルにケーキを並べ、紅茶を淹れて女子三人で囲む。この光景もすっかり見慣れたものになった。
「ふわっふわでほんと美味しい。あーもうまじでここに住み続けたい」
「ありがとうございます。でもここ住むってことは、柳さんと燕さんと暮らすってことですよ」
「う……それはちょっと嫌かも」
彩乃さんは相変わらず、二人のことが苦手なようだ。最初は彼らが死神だからだと思っていたけれど、おそらく彼女には男性に対する不信感があるのだろう。ここへ来た経緯を考えると、仕方がないことでもある。
黙黙とケーキを食べていた桐子さんが、そういえばと口を開いた。
「この間、作り方教えてもらったかぼちゃプリン。作ってみたら息子が美味しいって」
「……え?」
目が点になっている私と彩乃さんを見て、彼女は少々心外だという気配を漂わせつつ。
「私だってお菓子くらい作るけど」
「いやいやいやそっちじゃないし。ねえ?」
彩乃さんに振り向かれ、私もこくこくと頷いた。
「えっと……桐子さん子どもいたの?」
「あれ、言ってなかったっけ」
まったく聞いてない。子供の話題が出てきたのも今日が初めてだし、彼女からそういった雰囲気を感じ取ったこともなかった。
彩乃さんが目を見開いたまま、食い入るように問いかける。
「というか、あんた何歳で子どもはいくつなのよ?」
「私は26で、息子は5歳」
「やば、あたしより若いし……いやマジで、あんたが既婚子持ちとは思わなかったわ」
「結婚はしてない。あの子の父親とは子供ができたって分かる前に別れたから」
「えっ!?」
同時に声をあげた私たちとは対照的に、桐子さんは顔色ひとつ変わらない。
衝撃の情報が次々に流れ込み、私は目の前がぐるぐるしていた。彩乃さんも同じだったんだろう、口を半開きにしたまま固まっている。




