彼の理由
その後、彩乃さんはなんとなく香月にいついていた。
浮島の中を散歩したり、私たちの仕事をぼんやりと眺めたり。桐子さんがいるときは三人でティータイムを取るようにもなっていた。
双子のことは警戒しているようだけど、私と桐子さんは同じ迷い魂(桐子さんは元だけど)だと知り、親近感が湧いたのだろう。最近ではずいぶんくだけた態度に変わってきている。
そして私自身も、同じ立場である彩乃さんを放ってはおけなかった。彼女の中に”迷い”があるのかないのか。私自身も見極めたいと思うようになっていたから。
「やっぱこのレモンカード最高。この体だと、どんだけ食べても太るの心配しなくていいし」
そう言って彩乃さんは、トーストを幸せそうに頬張った。私が作ったレモンカードを随分気に入ってくれたようで、二日に一度は所望されている。
「彩乃さんも作ってみます?」
「いい。あたし料理はてんで駄目だから。食事も彼が作ってくれてたし」
そう言って、ほんの少し寂しそうな目をする。私は足元にいたアオを抱き上げると、彩乃さんの膝に乗せた。
「まふまふしてみてください。癒されますよ」
「いいの? このぷいぷい言ってるやつ、実はずっと気になってたんだよね」
彼女はアオの顔をもふもふしながら、ぷっと噴き出す。
「なにこの眠そうな目。めっちゃ癒されるんですけど」
「可愛いですよね。柳さんの神使なんです」
「しんしって?」
アオの役割について聞いた彩乃さんは、ドン引きといった表情を浮かべた。
「え……それって監視用じゃん。束縛ヤバ」
「だからそういうのではなくて……」
柳さんの名誉のために一生懸命否定してみたけれど、彼女はまったく納得してくれなかった。それどころか「あんたあの死神に囲われてんじゃん」とか言われる始末で、会話が噛み合わないってこういうことなんだと思い知った。
本日3杯目の紅茶を口にした彩乃さんは、しみじみといった様子で呟く。
「それにしても、あんたが迷い魂だって聞いた時は驚いた。てっきり店主子飼いの死神だと思ってたし」
「彩乃さんって、柳さんと燕さん以外の死神に会ったことがあるんですか?」
「え? いや別に会ったことないけどなんで?」
「香月のこと誰かから聞いて来たようでしたし、そうなのかなって」
「あーあれは他の迷い魂から聞いたんだよ。ここって結構有名なんでしょ?」
あからさまに目が泳いでいるのを見て、この人は嘘が苦手なんだと思った。最初はとげとげしいと思っていた振る舞いも、今では可愛く見えてくる。
「そうですか。私もまだ他の死神には会ったことが――」
言いかけて、あの人のことを思い出す。突然口ごもった私を見て、彩乃さんが怪訝そうに眉をひそめた。
「何? 急に黙って」
「あ、ごめんなさい。死神かどうかはわからないんですけど……浮島の外で会った人のことを思い出していて」
そういえば風鈴を鳴らしてみようと思っていたのに、彩乃さんのことですっかり忘れていた。
湖での一件を話して聞かせると、彼女はふうんと頬杖をつく。
「なんか不思議な話だね。迷いを思い出せないのは、自分が思い出したくないから……か」
「そう言われてよく考えてみたら、確かに私、怖いと感じてるって気づいたんですよね。思い出すと、何かが壊れてしまいそうで……」
「……なんか、わかるかも」
彩乃さんはそう言ったきり、黙り込んでしまう。
記憶を失うということは、自分への信頼がゆらぐということだ。今の自分が本当の自分なのかさえもわからず、曖昧な足元を誤魔化しながら歩き続けるしかない。
立ち止まると、不安に飲まれてしまいそうで――
そのとき、足元でぷいぷいとアオが鳴いた。抱き上げると頭を私の胸に押し付けてぐりぐりしている。
「……もしかして、励ましてくれてるの?」
眠そうな目でぷいと返事するアオを見て、私たちは思わず笑ってしまう。
「護る上に励ましてくれるとか、最高じゃん」
彩乃さんに人差し指で頭をこしょこしょされ、アオは満足そうに微睡むのだった。
その日は柳さんの部屋にお菓子を持っていくよう頼まれていたので、私は久しぶりに二階へと上がった。
前回と同じように歩くテーブルと一緒に書斎へ入ると、書き物をしていた彼はいつものように微笑む。
「ありがとうございます。そこに置いておいてください」
言われた通り机の端に桂花烏龍茶とエッグタルトを並べていると、柳さんが纏っている香が、ふわりと鼻孔をくすぐった。
途端に、ティーポットを持つ手がぎこちなくなる。
先日のことがあったせいで、私はちょっと気まずかった。あれから柳さんの態度は特に変わらないし、何かあったわけでもない。
それなのに燕さんや桐子さんに言われたこともあって、意識している自分がいる。仕事中はいつも通りでいられたのに、ここへ来ると、急に落ち着かなくなってしまった。
ちらりと彼がこちらに視線を向けたので、反射的に頭を下げる。
「ではこれで失礼しますね」
そそくさと退出しようとする私の足元で、アオがくるくる回り始めた。うまく進めずもたついていると、柳さんが立ち上がる気配を感じる。恐る恐る振り返ると、彼の顔にはほんの少し困ったような微笑が浮かんでいた。
「少し、話をしましょうか」
「……はい」
客間へ移動した私たちは、二人分の桂花烏龍茶を淹れ、テーブルに向かい合わせで座った。柳さんの顔をまともに見られなくて、どうして自分がこんなにうろたえているのか半ば混乱していると、彼はいつも通りの調子で問いかけた。
「彼女はどうですか」
彩乃さんのことを言っているのだと気づき、私はここ最近の様子を説明する。
「話を聞いた印象でしかないですが……やっぱり彩乃さんには、なにか迷いがあるような気がしていて」
「あなたがそう感じるのなら、そうなのでしょう」
「思い出せるきっかけって、あるんでしょうか。何かしてあげられたらと思うんですが……」
「本人が望まない限り、外から働きかけても難しいでしょうね。ただ、向き合う勇気を与えることはできます」
こちらを見つめる深緋の瞳が、緩やかに細められた。
「あなたにはそれができると思いますよ」
私にそんなことができるだろうか。まったく自信はないけれど、柳さんがそう言ってくれるのなら……やってみる価値はあるのかもしれない。
そう考えたところで、自分の変化に驚く。少し前なら、間違いなく「私にそんな価値はない」と決めつけていたのに。
私の中で、何かが変わってきているのだろうか――そう思いめぐらせたとき、柳さんがふいに口を開いた。
「燕に何か言われましたか」
「え?」
「私のことを、聞いたのでしょう?」
思わず彼の顔を見つめると、見透かすようなまなざしとぶつかった。ここで誤魔化しても仕方ないと思い、私は頷く。
「柳さんは元々、優秀な魂の回収者だったと聞きました。それなのに突然管理者になると言ったから、燕さんは驚いたと……」
「そうですか」
私は逡巡しながらも、この際なのであの質問をぶつけてみる。
「あの……香月を始めた理由に、私が関わってるなんてことありませんよね?」
私を見つめる柳さんの表情に、変化はなかった。おもむろに飲みかけの椀に視線を落とすと、皿の縁を指先で軽く撫でる。
「燕にそう言われたのですね」
「燕さんは、もしかしたらそうかもしれないと考えているようでした。出会ったばかりの私のことをここまで気にかけるのは、不自然だからって……」
しばらく沈黙していた彼の瞳が、再び私を捉えた。跳ねる鼓動をごまかすように蓋椀に手を伸ばすと、静かではっきりとした響きが耳に届く。
「私はここで、ある魂を探しています」




