レモンカードと曖昧な記憶
いつものように燕さんに材料を揃えてもらい、まずレモンカードを作ることにした。今日は桐子さんも手伝ってくれるので、作業スピードも速い。
「私、レモンカードって食べたことない。どういう食べ物なの?」
「イギリスでよく食べられている定番スプレッドのひとつ。ジャムとかクリームみたいなものと思ってもらえたら」
材料は卵、砂糖、無塩バター。
「そしてレモン。しぼり汁とすりおろした皮を両方使うのが一般的かな」
「なるほど。それでおろし金が必要なわけね」
柑橘類は表皮に一番、香りの成分が含まれている。白い部分は苦みがあるので、すりおろすときは表面だけにするのがコツだ。
桐子さんがレモンを絞ってくれている間に、私はボウルに卵を割り入れて、泡立て器で丁寧に溶きほぐす。砂糖を加えて混ぜたらレモン汁を入れ、最後に小さく切ったバターを入れる。
「ここからが、ちょっとだけコツがいるの」
大きめの鍋にお湯をはり、そのうえでボウルを湯煎しながらバターを溶かしていく。温度はだいたい、70度前後。高すぎるとバターが分離してしまうし、低すぎると固まるまでに時間がかかり過ぎてレモンの香りが飛んでしまう。
ちょうどいい温度で十分くらい混ぜていると、全体的に綺麗な山吹色になりとろりとしてくる。そうすれば、最後におろしたレモンの皮を混ぜて出来上がりだ。
「皮を入れるタイミングはレシピによって違うんだけど、最後に入れる方法が一番フレッシュな香りが感じられて好きなんです」
出来立てのレモンカードを味見した桐子さんと燕さんが、確かにと頷いた。
「レモンの香りとバターの風味がしっかり立ってる」
「いいね。スコーンやトーストに塗ったら美味そうだ」
「少し伸ばしてヨーグルトやアイスにかけても美味しいし、お菓子を作る時に入れても美味しいんですよ」
ジャムともクリームとも違う濃厚かつ爽やかな風味が、クセになる。こんなにも美味しいのに、日本ではあまり知られていないのが不思議なくらいで。
桐子さんがトーストを焼いている間に、私は燕さんに準備してもらったお茶を教えてもらっていた。
「今回はレモンカードの風味を大事にしたいから、シンプルだけど味わい深い紅茶を選んでみたよ」
彼によると、ダージリンとアッサムのブレンドで、アフターヌーンティー用に作られたブレンドだそうだ。甘いお菓子と一緒に飲むため、ストレートでも飲みやすいようマイルドな風味が特徴なんだとか。
「マイルドと言ってもただ軽いわけじゃなくて、程よい渋みやコクも感じられるいい茶葉だよ」
今回はストレートで飲むことを想定して、抽出時間は短めにし、鮮やかな水色が楽しめるようなカップを選んだ。
「彩乃さん、喜んでくれるといいな……」
つい口に出た言葉を聞いた燕さんが、ふっと笑った。
「満月ちゃんもすっかり、香月の頼もしいスタッフだね」
お菓子とお茶を乗せたワゴンを持っていくと、彩乃さんはぼんやり庭を眺めていた。
「庭、お好きですか?」
「別に。暇だからなんとなく眺めてただけ」
「ここのお庭、私好きなんです。控えめだけど幻想的で、見ていると心が落ち着く気がして」
彩乃さんはちらりと私を見やってから、そっけなく言った。
「お菓子できたんなら早く食べさせてよ」
「すぐ準備しますね」
テーブルにスコーンや焼きたてのトーストを並べ、レモンカードがたっぷり入った陶器皿を置き、紅茶を淹れる。
「お好きなものに塗って食べてみてください」
彩乃さんはレモンカードをスプーンですくうと、匂いをかいでからそのまま口にした。ひとしきり味わうと今度はトーストにたっぷり塗り、黙々と食べる。
薄めのトーストを彼女が口にするたび、さくりという小気味よい音が聞こえてきて、香ばしいパンとレモンの爽やかな香りが目に見えるようで。
「あの……どうでしょうか」
「え?」
「レモンカード、美味しくできたか気になってしまって」
「まあまあなんじゃない? あたしも初めて食べたからよくわかんないけど」
「あっそうなんですね。てっきりお好きなのかと」
二枚目のトーストをたいらげた彩乃さんは紅茶を口にしてから、困ったように首を傾げた。
「よくわかんないんだよね。なんとなく頭に浮かんだから頼んだんだけど……食べてみたら知ってるような、でも初めて食べたような感じがして」
「なるほど……どこで知ったのか、思い出せないんですね」
もしかしたら、ここに『迷い』の記憶があるのかもしれない。私は思い切って、彩乃さんに事情を尋ねてみることにした。
「あの……私でよければ、お話聞かせてくれませんか。私にできることは大してないかもしれませんが、同じ迷い魂としてわかることもあると思うので」
「え、あんた人間なの?」
「はい。彩乃さんと同じ、ハザマに迷いこんだ魂です」
彼女は驚いた様子で私を見つめたあと、やや不審げに問う。
「じゃあなんでこんなところで働いてんの。迷い魂ってどっちかの世界にいかないといけないんでしょ?」
「そうしたいんですけど……戻らないんです。記憶が」
「えっ……」
「早くなんとかしなくちゃって思ってるんですけど、全然駄目で……。途方に暮れていたら、柳さんがここで働いてみたらどうかって言ってくださったんです」
私はここへ来た時のことや、これまでの経緯を正直に話した。あまり自分のことを語るのは好きじゃないけれど、相手のプライベートを聞き出そうとしている以上、そうすることが誠意だと思ったから。
彩乃さんはそうだったんだ、と呟いてからしばらく黙り込んでいた。やがて向かいの席を見やり。
「座ったら。立ったままの相手に話すのダルイし」
「あ……じゃあ失礼します」
「あとこれ。結構美味しかったから、あんたも食べなよ」
気恥ずかしそうにレモンカードを差し出す姿に、思わず笑みが零れてしまった。
「あたしね、もうすぐ結婚する予定だったんだ」
ティーカップを両手で包み込んだ彩乃さんは、ぽつりぽつりと語り始めた。話によると、彼女には付き合って二年になる恋人がいて、先日プロポーズされたのだそうだ。
「凄く嬉しかった。あたし男運なくてさ。今までロクな奴と付き合ってこなかったから、やっと信じられる相手ができたんだって」
そんな矢先、彼女は不慮の事故に遭ってしまったのだという。どこかで聞いた話だ……と思いつつ、私は疑問に思ったことを問いかけてみた。
「殺されたというのは、どういう意味なんでしょう」
「あいつ、浮気してた」
大きな瞳が暗い色に染まる。聞けば恋人の浮気現場と遭遇した彼女は、その場から走り去ろうとして階段を踏み外してしまったらしい。
「あいつだけは違うって、信じてたのに……。頭真っ白になって、気がついたら階段から落ちてた」
握り締めた拳が、白く震える。
「あいつがあたしを裏切ったから、こんなことになったんだ。あいつに殺されたようなもんだよ!」
そう叫んだ彩乃さんの顔は、ひどく青ざめて見えた。私は彼女の興奮が落ち着くまで、背中をそっとさする。
「辛いことを話させてすみません」
「……別に。どのみち話さなきゃ始まんないし」
確かに、彼が浮気などしなければ彩乃さんは事故に遭うこともなかっただろう。
彼女が許せないと思うのも、復讐したいと思うのも不自然なことじゃない。ただ……本当にそれだけなら、燕さんの言う通り香月にくる必要はないはずだ。
「ハザマへ迷いこんだときのことは覚えていますか?」
「……はっきりとは覚えてない。どうしようもない絶望で頭がぐちゃぐちゃになって、気がついたら知らない場所に立ってた」
「そうですか……彼に復讐したいと思ったから、ここに迷いこんだんですよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
彩乃さんは少し苛立ったように髪をかきあげた。
「最初はわけわかんなかったけど、あいつのせいで階段落ちたことは覚えてて、ああそうだ復讐しなくちゃって」
どうにも記憶が曖昧で、私は違和感を持った。やっぱり彩乃さんの中にはまだ、思い出せていない何かがあるんじゃないだろうか……。もしそうなら、ここへ来た理由も伝えるべきことも見えてくる。
「彩乃さん。私も同じ立場なので焦る気持ちは本当に、痛いほどわかります。でも……今の状況では、彩乃さんの中にある望みは叶わないんじゃないかって思うんです」
「だからあいつに復讐できれば、叶うっていってんじゃん」
気色ばむ彼女をやんわりとなだめる。
「本当にそれだけなら、香月に来る必要はないんです。ここはどうにもならない迷いを抱えた方が、たどり着く場所ですから。それに……」
「何?」
「彩乃さんは、何か迷いを抱えていらっしゃるんじゃないかって。私にはそう思えるんです」
彼女は目を見開き、私の顔をまじまじと眺めた。
「なんでそんなこと、あんたがわかるの」
「確信はありません。彩乃さんのお話を聞いて、私がそう感じただけなので……だから、やっぱり信じられないというのであれば、仕方ないとは思います」
「なにそれ……。結局何もわかってないってことじゃん」
ため息をついた彩乃さんは、ふてくされたように長い髪をいじっていた。このまま出ていかれても仕方がない……そう思い始めたとき、突然彼女は立ち上がった。
何を言えばよいかわからず黙っていると、むすりとした声。
「トイレどこ? 化粧直したいんだけど」
「あっこちらです」
慌てて立ち上がり案内すると、彩乃さんはまるでひとりごとのように呟いた。
「これからどうすればいいの」
「え?」
「もしあたしに迷いがあるんだとしたら、何をすればいいのかってこと」
視線を落としたままの彼女は、不安を感じているように見えた。ここへ来た時の私と、同じように。
「正直言うと、私もわからないんです。その時が来たら自然と思い出せるそうなんですけど、やっぱり焦る気持ちはありますし……。でも香月はそういう人たちのためにありますから、いつでも、何度でも来てください。またお菓子も一緒に食べましょう」
彩乃さんは俯いたまましばらく黙っていたけれど、やがて化粧室への扉を開いた。
「とりあえず、あんたの言うこと信じてみる」
扉の向こうに消えた彼女の背を、私はほっとした気持ちで見送った。
ひとまず、ひとりにさせずに済んでよかった。ハザマの世界で彷徨い続けるなんたことは、絶対にさせたくなかったから。




