意外な来客
私の呟きに、男の人がはっとしたように振り向いた。年齢は二十代後半くらいだろうか、優しそうな目元がじっとこちらを伺っている。
「あ……驚かせてしまってごめんなさい。風鈴の音が聞こえてきたもので、気になってしまって」
「……この音が聞こえたの?」
相手は手に持っていた風鈴を、私の前にかざす。赤い金魚が描かれたそれを見て、私は頷いてみせた。
「最初は何の音かわからなかったんですけど……。風鈴の音って案外遠くまで聞こえるものなんですね」
彼は少し目を見開いて沈黙していた。不思議に思い「あの……」と声をかけると、相手は我に返ったように微笑む。
「そうだね、僕も驚いた。ええと……君はどこから来たの?」
「草原にある浮島です」
「ああ香月か……じゃあ君はあそこの客ってことなんだ」
そう呟く彼は、納得したような複雑な表情を浮かべている。
「香月を知っているんですか?」
「ここの住人であそこを知らない人はいないよ」
そうだったんだ……全然知らなかった。そもそも香月以外を知らない私に、ハザマの事情など分かるはずもない。
「どうしてここに来てしまったのか、思い出せていないんだね」
視線を上げると、彼がこちらを見つめていた。なぜだろう……この人の目を見ていると、安心と不安が入り混じるような、変な感覚がする。
「香月茶を淹れてもらったんですけど、だめで……。早く思い出せたらって思うのに、どうすればいいのかもわからなくて」
「そう……」
「あの、コツとか知りませんか?」
「え?」
虚を突かれたように瞬きをする彼に、慌てて手を振る。
「すみません。いきなりこんなこと聞かれても困りますよね」
初対面の相手に何を聞いているんだろう。この人が何者なのかすら知らないのに、自分でも信じられない。
彼は紺碧の水面へ視線を映してから、呟くように言った。
「そうだな……コツは僕にもわからないけど、思い出せない理由ならたぶん分かるよ」
「えっそうなんですか? ぜひ教えてください!」
食い入るように頼む私は、きっと切実さがにじみ出ていたのだろう。彼は苦笑をにじませながら、はっきりと告げた。
「君が思い出したくないと思っているから」
予想外の返答に、私は固まってしまう。冗談かと思ったけれど、彼の静かなまなざしは、ふざけているようにも見えない。
「そ……そんなはずはありません。今だってこんなに必死なのに……」
「うん。その気持ちは本当だと思う。でも君の心が『思い出したくない』と強く感じているのも、嘘じゃないはずだよ。よく考えてみて」
そういわれてみると、記憶の欠片に手が届きそうになったとき、思考がシャットアウトしてしまったのを思い出した。
あの時は深く考えなかったけれど、確かに私は怖いと感じているのかもしれない。
思い出したいけど、知ると何かが壊れてしまいそうで――。
「私、どうすれば……」
縋るように見上げた先で、彼は穏やかに笑んだ。
「大丈夫。向き合う勇気が持てれば、きっと思い出せる」
彼のなだらかな声は不思議と私を安心させた。もっとこの人と話していたい……そう思ったとき、耳元でぷいぷいとアオが鳴いた。
はたと我に返る。
「私そろそろ、帰らなくちゃ。黙って出てきてしまったし」
「ああそれは早く帰ったほうがいいね」
「すみません、話を聞いてくれてありがとうございました。私、満月っていいます」
彼は小さく頷くと、手に持っていた風鈴を差し出した。
「これあげる」
「えっ……いいんですか?」
「僕にはもう必要ないから」
そう言って彼は立ち去る素振りを見せる。
「あの……また会えますか」
「僕が必要なときはその風鈴を鳴らして」
そう告げると、彼はそのまま姿を消した。受け取った風鈴を見つめ、ぽつりと呟く。
「……名前、聞きそびれちゃったな」
でも彼とはまた会える気がする。私はなぜだか、そんな気がしていた。
■
浮島に戻ると、柳さんと燕さんが香月の外でうろうろしていた。
私の姿に気づいた燕さんが、ほっとした様子で駆け寄ってくる。
「ああ満月ちゃん、よかった」
「何かあったんですか?」
「いやいや、満月ちゃんが急にいなくなったから探してたんだよ」
「えっ」
思わず柳さんを見ると、とげとげしい視線とぶつかる。これは……たぶん、怒っている。
「黙って出て行ってすみません。ちょっと浮島の外に出てみたくなって……」
慌てて謝ると、燕さんは苦笑しながら私の頭をぽんぽんとやる。
「まあ柳の神使がついてるから大丈夫だとは思うけどね。念のため、今度からは声をかけてくれると助かるよ」
「はい……気をつけます」
思った以上に、心配をかけてしまったようだ。ずっと黙り込んでいた柳さんが、小さく吐息を吐いた。
「外出は構いませんが、今のあなたは不安定な状態だということを忘れないでください」
それだけいうと、奥に引っ込んでしまう。彼の背を見送りながら、おずおずと燕さんに問いかけた。
「柳さん怒ってましたよね……」
「あー……あれはね。怒っているというより、心配してたんだよ。満月ちゃんの前では見せないけど、さっきまでずっとそわそわしてたし」
「……ええ?」
あの柳さんの落ち着きないところなんて、まったく想像できない。きっと目をまん丸にしていたのだろう、燕さんが私の顔を見てさも可笑しそうに言った。
「ああ見えて、嫉妬深いんだよ兄さんは」
嫉妬……? 燕さんが何を言っているのかわからないけど、今後は黙って外出するのは止めることにしよう……。柳さんのとげとげしい視線は結構堪えるものがある。
「それで、島の外では何か見つかった?」
燕さんの質問に、私は湖であったことを正直に話した。何となく黙っておきたい気もしたけれど、心配かけた以上、ちゃんと報告するのが筋だと思ったから。
話を聞き終えた燕さんの表情は思った以上に硬い。
「満月ちゃん。その男にはもう会わない方がいい」
「えっ……どうしてですか」
「ハザマの住人は、ひと癖ある奴が多い。ここの存在理由を考えると、わかるだろう?」
返す言葉がなかった。
ハザマに存在するのは、私のような迷い魂とそれを管理する死神のみ――そう聞いていても、どこか実感がなかった。でも実際は二人があれほど心配するくらい、危険なことだったのかもしれない。
「そいつがどういう目的で近づいてきたのかもわからないし、警戒するに越したことはないよ」
「……はい」
あの人へ無防備に声をかけたことを、素直に反省した。悪い人には見えなかったけれど……。
それから私は店内の掃除をして、お茶を淹れる練習をして、燕さんとたわいのない話をした。
柳さんは二階にこもりっきりだったので、お茶でも持っていこうかと迷っていると、来客を知らせる音が鳴り響いた。
ゆっくりと開いた扉の向こうに現れた人物を見て、私は一瞬言葉を飲み込む。
(子供……?)
見たところ、12、3歳くらいだろうか。明るい茶色の髪をした、細身の男の子だ。
「ようこそ、空中茶廊香月へ」
声をかけると、相手はびくりと固まった。黒目がちの瞳が不安そうにこちらを見つめている。
「あっあの……僕、どうしてここにいるのかわからなくて」
「大丈夫ですよ。皆さまそうおっしゃいますから」
にこりと微笑みかけると、彼は困惑した様子で沈黙している。
「失礼ですがお名前を伺ってもよろしいですか?」
「あ、えっと……カイ、です。」
「カイ様ですね。苗字はおわかりになりますか?」
「苗字? それはなに?」
きょとんとした表情のカイ君を見て、私は瞬きをした。どうやら冗談で言っているわけではなく、本当に質問の意味がわからないみたいだ。
(もしかしたら記憶が曖昧なのかも)
ここでは珍しいことじゃないし、私もそれ以上尋ねることはせずカイ君を席へ案内する。
しばらく彼は所在なさそうにうろうろしていたけれど、私が香月茶を準備するので待つように伝えると、大人しく椅子に座った。
その様子をこっそり見守りつつ、私はカウンターへと向かう。
(まだ子供なのに……何があったんだろう)
ハザマに迷いこんでしまうほど、悩みがあったんだろうか。もしそうだとしたらやるせない。
もやもやした気持ちを抱きながらカウンターへ入ると、いつの間にか降りてきていた柳さんが、準備を始めている。その奥にいた燕さんが声をかけてきた。
「お疲れ満月ちゃん。あの子、どうだった?」
「自分の名前は憶えていました。でも苗字は覚えていないというか、苗字そのものがわからないみたいで……」
「まあ仕方ないだろうね。犬だし」
「えっ!?」




