三話 死を恐れない人間
――『大事なもの』
グリムにも、かつてはそう呼べるものがあった。
今では苦い記憶に成り下がってしまったそれは、彼の胸の奥に澱となって残っている。
地球が太陽の周りを千回以上も公転した今になっても、「忘れる」機能のないグリムには彼女の微笑みがありありと思い出せる。それがグリムには、この上ない呪いであった。
熱い国。
太陽は無慈悲の、月は慈愛の象徴とされるような国だった。
丁寧に積んだ石の壁の隙間に、砂ぼこりがたまっている。その宮殿の一室で、彼女は体を休めていた。
亜麻のワンピースを身につけ、この地域特有の濃いアイシャドーを施している。現地人に比べて白い肌と緑色の瞳が、彼女が西からの流れ者であることを示唆していた。
彼女たちの祖先は、時の王に受け入れられ、彼女の代に至るまでこの地で繁栄を収めていたのだった。
彼らが持ち込んだ技術や作物は歓迎され、貴族と呼ばれる地位を手に入れた。しかし、新しいだけのものはいつかはその強みを失う。
だから、彼女に現地の貴族との縁談が持ち込まれたのも、そう驚くようなことではなかった。
「ねぇグリム、あなたならわたくしを殺してくれるんでしょう?」
そう言ってグリムの顔を覗き込んだ彼女の瞳は、多くの感情が混ざり合ったせいか、黒く濁っていた。声は脱力していたが、奥底には張りつめた何かがあった。
これが、グリムが大切なものを失った瞬間だった。
厳密には失ったのではなく、初めから存在していなかったのかもしれない。それまで女がグリムに与えた温もりは全て、このときのためのものだったのだから。
「僕には、あなたを殺すことはできない」
グリムは、青年の姿で女を見下ろしていた。寝台に横たわる女に、グリムの黒い影が落ちる。
「どうして? わたくしのことを想うのならば、その鎌をふるってください。━━わたくしは、死ぬためだけに生きてきたのですから」
半身を起こし、女はグリムの顔を覗き込む。期待と狂気の熱が、女の視線にこもる。
「『死ぬためだけに』?」
「そう! 死のうとしても死ねないなんて、こんな苦しみは他にないわ。わたくしの人生は、あの方と死に別れたときに終わっていたのよ! さぁグリムためらわないで。あなたの愛する大鎌に、わたくしの血をすすらせてください!」
女は寝台の上に膝立ちになった。開かれた両腕は、しかし抱き止めるためにそうされたのではなかった。
「そう、だったのか……。でも、殺せないんだ。僕は、死を届けるだけだ。誰が死ぬかは、主しか決められないんだよ」
グリムは女の態度に面食らいながらも、淡々と事実を伝えた。彼の鎌は魂と現世の繋がりを断つためだけのもの。それでは身体に傷一つ付けることはできないのだ。
女は、グリムのその言葉を受けて、時間が凍りついたように数秒停止した。見開かれた緑色の眼球の奥底が、黒く燃える。グリムはただ痛そうに顔をしかめて、女の返事を待っていた。
「――のに……」
やがて女は震える唇から言葉を絞り出した。それは、一方的ではあるが、命を燃やしたように切実な言葉であった。
「信じてたのに! あなたならわたくしを死なせてくれるって。自殺しようとしても止められて。部屋からは道具を除かれて。使用人にも見張られて……。自殺が罪なんて、一体誰が決めたのですか!」
女は頭をかきむしり、白い肌に赤黒い筋が幾本もできる。そのうちの一本から滴となった血液が這い、目から流れた一玉と、あごの先で合流した。それらは互いに混ざり合い、血でも涙でもなくなってから、シーツに垂れた。
「嘘だって言ってください! 黙っていないで。何度も何度も、あなたは殺したではないですか。うちの使用人を。わたくしではなく、あなたが殺したんです。わたくしはただ食事に混ぜただけですから。手を下したのはあなたです!」
人々に向かって鎌を振り落とすグリムは、大量殺人鬼に見えていたのだ。
白いシーツを汚した液体は、禍々しい紋様を描き出し、染み込む。
「使用人が死ぬ度にあなたとわたくしは会って、お話しして、お友だちになりましたよね。そろそろ、限界なんです。これ以上は、薬を盛るのも……。いえ、あなたを呼ぶのも難しくなってしまうんです! だから、今しかないのです。あなたに、わたくしの命の火を吹き消してほしいのです!」
続いて、シーツに同じような染みがふたつ、みっつ。
早く洗濯しないと汚れが残ってしまう。グリムは逃避するようにそう思った。
「ああ、愛しい人! あなたのいらっしゃるところへわたくしも早く行きたい。そのためなら悪魔とだって手を結ぶ決意なのに。それなのに、その悪魔にすら裏切られる始末です。気の遠くなるような月日が、わたくしの体を端から砂にするのを待たなければならないというの。死の風がようやくこの心臓に届くまで。それまでわたくしはこの苦しみを抱えたままなのですね!」
結局、その日は女の願いをひとつも叶えることができずに、グリムはその屋敷を後にした。
『死』そのものであるグリムに、親しげに接してくれた女。「死ぬことなんて怖くない」とこぼしていた女。そして、異様な頻度で召し使いが命を落とす、女の屋敷。
たった一晩で全てが繋がった。グリムの唇から乾いた笑い声がもれる。彼女は「死」を気にせずにグリムに接してくれたのではなかった。「死」に近づくためだけに、グリムに近づいただけだったのだ。
砂漠に響く笑い声。それに合わせてしゃくりあげるグリムの黒翼は、ただ空を切った。
誰もがグリムのことを恐れていた。誰もがグリムの仕事を忌避していた。
街で彼を目にすると、警官もゴロツキも関係なく背を向けた。そして、己のところへ来ないように祈るのだ。
真っ黒な鎌と翼を持つ彼の正体を、誰もが知っていたからだ。
誰もが、彼を死を同一視していた。
しかし、何事にも例外はあるものだ。
「先輩」
グリムは、その白蛇を見て目を張った。
「どうしたんですか。こんなところに来るなんて」
空白よりも白い蛇は、真っ赤な舌をチロチロと伸ばすと、グリムの方へ頭をもたげた。
グリムは暗い洞窟の壁に腰かけていた。どこかから水が垂れる音が響いている。
いつも間にか蛇は青年の姿をとっていた。グリムよりも背丈は高く、体は薄い。青年のその見た目は、蛇と同じように真っ白であった。衣服や靴だけではなく、肌や頭髪まで。そして、白く濁った瞳には星が浮かんでいた。薄暗いせいもあって、彼は人型のシルエットを持った真っ白な物体のようにも見える。
「やぁ、グリム・リーパー。仕事、捗っていないらしいじゃないか」
「やめてくださいよ、『刈る者』だなんて。鎌を振るわない僕は、今やただのグリムです」
グリムは肩を落として応える。
「いつになく落ち込んでいるようじゃあないか。君に仕事を押し付けた身としては、心が痛むよ。この両目を主につぶされたときよりも、もっとつらい」
白い男は、光のないはずの目でウィンクしてみせた。真剣みのない態度に、グリムの眉根が寄る。しかし、グリムにはそれが単なるポーズであると思えてならなかった。
でなければ、人間との接触を禁じられている中、こうして地球まで自分を訪ねてくるはずがない。グリムはこの考えが単なる思い上がりや思い違いではないと、なぜかそう感じた。
「でも、今の君はもっとつらいのだろうね、グリム。よければ私に、聞かせてはくれないだろうか」
男の差し出した手は白く、確かな熱を帯びていた。
「先輩、今日の先輩の言うことはとてもわかりやすいです」
「フフ、いつもはそんなにわかりにくいかな」
ええ。そう応じる代わりに、グリムは笑みを返した。
「ふむ。大まかな内容はつかめたと思う。つらかったね、グリム」
白い男はグリムに柔らかい視線を向けた。冷たい岩に落とされた腰は微動だにせず、背筋は釣られているように伸びている。
人間でないのだから当然だが、人間離れした佇まいだ。グリムは自らを棚に上げてそう思った。
「ありがとうございます、先輩。話を聞いてくれて」
楽になった気がします。そう言って切り上げようとするグリムの唇に、男の細長い人差し指が触れた。
「せっかちだな。そうあわてないでくれよ」
「ですが、こういうときの先輩、煙に巻いたようなよくわからないことしか言わないですし……」
グリムはフゴフゴ言いながら抗議する。
「言ってくれるじゃあないか。でも、私は単にその女性が君を使い捨てようとしたのが問題の主眼ではないと考えるんだ。これは、もっと根深いものだよ。それは、君もなんとなく感じているのではないかい?」
まあ。不満そうな顔でグリムは男の指を引きはがした。男は気にした風もなく言う。
「『死』と君が同一視されていることこそが、問題の一端だと思う」
高度に専門的な役割を与えられた天使に、よくあることだがね。男はそう続ける。
「ああ、それですか」
「『それ』ということは、他に問題の心当たりがあるのだね。君の答えを聞いてもいいかい」
「はい、僕たちに自我なんていうものがあるのが、そもそもの問題だったんです。『死』が意志のないただの概念であったなら、こんな弊害も起こらなかったのに」
グリムは右手で胸をおさえる。そこからあふれる熱と伝わる鼓動は、本来必要ないはずのものだ。
「君らしい後ろ向きな考え方じゃあないか。それもまた真だね。でも、そこに宿る意志を消すことはできないのだから、解決しようとしても堂々巡りになるだけだよ」
最も、解決しようなんて思ってはいないんだろうけどね。男はそう言って困ったように笑った。
「ええ。僕たちはただの、主の道具ですから。だって、地球は、この銀河すら、人間のためのものであって、僕たちのためのものじゃない」
「それで、いいのかい」
問う男に、グリムは応えられなかった。多分、答えが当たり前すぎたからだ。自分を否定するためだけに生まれてくる意志なんてない。それが、創造主の意志とぶつかろうとも。
洞窟のひやりとした湿り気は、湧き水か、雨水か。それは、壁に寄り掛かるグリムの肩をじんわりと濡らす。
「私にできるのは、対処療法だけだ」
「対処療法、ですか?」
「ああ。寂しがり屋な後輩のために、憩いの場を作ろう。そのために、君の管理しているあれを使わせてくれないかい」
男は、左手で頭上を示す。その先にあるのは、洞窟の天井。だが、男の意図するところは、そのさらに向こう側にある。
「月……ですか。わかりました。でも、何をするんですか」
「それはできてからのお楽しみさ」
男は、再びグリムにウィンクしてみせた。一方的な要求だったが、今のグリムに拒む理由もなかった。
「忘れないでおくれよ。これはあくまで対処療法だ。その間に君は――」
「僕は――?」
「君を『死』とは切り離して見てくれる者と、信頼関係を結ぶんだ。人間の理解者と。それがきっと、君の本当の救いになる」
丁寧に差し向けられた手のひら。
いつになく真剣な男の表情に、グリムは疑わしく思いながらも、ただうなずくしかなかった。