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仕事を辞めたい死神  作者: カラスムギ
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二話 月の満ち欠け

 男は人生の絶頂だった。

 若くして立ち上げた企業は十余年の時を経て安定。グリーンの製薬会社と言えば、知らぬ者はなかった。

 東洋に伝わる薬を扱うグリーン社は、物珍しさもあってじわじわと市場を広げている。社員にはまだまだ教育が必要なものの、社長のグリーン氏自らが立ち合い、見所がある者を採用していた。厳しい男だという評判であったが、高くそびえる本社は誘蛾灯のように志高い若者たちをおびき寄せる。

 男は、左右にとがる口ひげを揺らしてがなり立てていた。

「どうしてこれくらいのことができないんだ! 今日は終わるまで残っていけ!」

 新入りの指導は社の将来を左右する大事である、というのが男の持論だった。ただ、ムチが多すぎるのが困りもの。二年目の新人はすっかり萎縮してしまっている。

 若者の直属の上司も、横で小さくなるほかにない。これが終われば、次は自分の番だと分かっているのだ。

「俺も眠気覚ましを使ってまで仕事をしているんだ! お前にもできるはずだ!」

 ツバとともに檄を飛ばす男。彼は事務員にがなり立て、売り物の備品から漢方薬を淹れさせた。苦い苦いそれは、夜も元気に仕事に打ち込めるという売り文句の一品である。貴重な商品も、こんな形では喜ばれるはずもない。求められぬ商品はゴミよりもたちが悪い。

「ほら飲め! 一気にだ」

 若者が男からマグカップを受け取るよりも早く、入り口の大扉が音を立てた。コンコン、という透き通った響きは大きくはなかったが、不思議と部屋中の注意を引いた。それは、ある種の生存本能のようなものだった。

 事務員が向かう暇なく開いた扉からは、小さな郵便屋が現れた。大きすぎる帽子は穴よりも暗い影を落としている。それを見て、周囲は一足早く夜になったような錯覚に囚われた。帽子の影の中で、彼の両の目だけが、産業革命の輝きに抗う一番星のように青白い光を放つ。

 従業員は彼を見ると一斉に目をそらし、作業机に向かう。震える手足と眼球、そして本能に逆らってだ。書類を繰る音や筆記具を走らせる音が響くが、今の状態で業務が進むはずもない。蛇に睨まれているような寒気を感じながら、一人の郵便屋の視線がどこに向かっているのかを確かめることができない。注意を向けるべきでないという恐怖が、彼らの関節をこわばらせるのだ。

 しかし、社長だけは違った。郵便屋のカバンに目をやりながら、弱気を振り払うように叫んだのだった。

「仕事の邪魔だ! さっさと出ていけこの悪魔が!」

 上ずってはいるが、力強い。

 男は体の頑丈さには自信があり、自分の順番が回ってきたなどとはとても思えなかったのだ。

「『悪魔』とは心外ですね。では、こちらの仕事を済ませてすぐに失礼します」

 革製のカバンに突っ込まれた手。それが取り出したのは、小振りの便箋であった。

 その場にいる誰もが、それが何であるか知っていた。そして、表面には筆記体で宛名が書かれているのだった。金のインクが、郵便局員の眼光をはね返す。青白い光。赤色の太陽よりも、さらに熱い恒星の色。それが今、対象に向けられた。

「あなた宛てです、グリーン社社長」

 男は言葉の意味を理解するよりも早く、封筒に手を伸ばしていた。抗うような表情であった。しかし、手はもはや男の意思を意に介さない。

 封を切り中身を見た男は、糸が切れたように床に倒れた。死体の他には、唖然とする従業員だけが残されてた。


 赤褐色のレンガ通り。木組みのレンガ家屋も路面も、すべてが赤い街並みだった。

 一羽のカラスは往来を撫でつけるように風に乗る。生ゴミにもガラス玉にも目をくれず。

 大通りに出る直前、それは郵便屋の小僧に変わった。彼の頬は日光の下でも陶器のように病的に白い。帽子のツバで隠れた両目は、次の行き先を真っ直ぐ捉えていた。

「グリムじゃない! いま暇?」

 すると、彼に甲高い声がかかった。

 そこには彼より少しだけ背が高い女の子が、仁王立ちしてる。栗色のまつ毛とそばかすが、イタズラっぽい目元を明るく染めていた。

「見て分からないか? 僕は忙しい」

「そういうフリをしてるだけなんじゃないの! ちょっとくらい余裕あるでしょ」

 そんな言いがかりにも聞こえる言に、彼は口をつぐんだ。

 実のところはそうだった。忙しいのも本当だが、遊びに付き合ってやるくらいは、彼にとって何でもないのだ。もとより、この身一つで回る仕事でもない。

 ――『己の情動に身を任せてみたらどうだい』

 何がそうさせたのか、この日のグリムは女の子の誘いに乗ることにしたのであった。

「あたしの名前はギーゼラ! あんたはグリムでしょ? あたしの手下が言ってたわ!」

「そうだ。それで、何をするんだい?」

 河原の倒木に腰かけて、二人は隣り合う。彼らがこうして腰をすえるのは初めてのことであった。この川はこの国有数の大河の傍流であり、この街にとっては生命線とも言える、そんな場所だった。

「おしゃべりしましょうよ! あたし、グリムに興味あるの。あたしのゲボクになりなさいよ!」

 少女はどうやら、グリムが想像するよりも数段上のおてんばのようだ。彼は小さな左手で女の子を制す。

「残念だが、僕の主人は既に決まっているんだ。ご期待には応えられそうにない」

「それって郵便局のエライ人のこと? でも、あるじは一人じゃなきゃ、なんてルールはないわ」

 彼は早くもこの押しの強い少女に辟易していた。荒れた指先が示す通りに、きっと育ちも悪いのだろうとグリムは思った。しかし、光の方向の違いでなめらかにつやめく深緑のワンピースは、彼女の家が裕福であることを示唆している。そのいびつさが、なぜだかグリムの神経を逆なでした。

「それは『おしゃべり』ではなく『命令』だろう。何かまともな話題を提供してくれ」

「小難しい理屈をこねるのねぇ。じゃあ、あんたどこに住んでるの。ここいらだとよく見るけど」

 雑な返答にも調子を崩さないところを見るに、案外大物なのかもしれない。何かを渇望するように、ギーゼラの瞳はギラギラと輝いている。グリムはその渇いた輝きに何かを見た気がした。

「僕の住処、か。難しい質問だ」

「あんたって、方向音痴?」

 首をひねって眉をひそめるギーゼラに、グリムはどう説明したものかと唇を舌で湿らせる。

「寝泊まりする場所という意味なら、僕に住処はない。ただ、羽休めをする場所という意味なら、『月』がそこに該当するだろう」

「月? それって空の?」

 突飛な発言に、ギーゼラは高い声をさらに高くして聞き返す。ちらりと仰ぎ見る青空には、満月を過ぎた白い月が浮かんでいる。続くグリムの返答はそのまま、平坦だ。

「ああ。友人がいるんだ」

「まともに答える気はないってこと?」

 ギーゼラの瞳に猜疑心がちらつく。

「いや、僕は嘘はつかない。つけない、のかもしれない」

 グリムはあくまで平静さを保とうとする。しかし、確信に欠けた二言目はわずかに伏せた彼の眼を揺らがせた。

「信じられないわ。いるんだよね、あんたみたいな嘘つきって」

「まあ君はまだ知らないんだろうから、こんなことを言っても怪訝に思うだけかもしれないがね」

 非難げなギーゼラに、グリムは伝えることを放棄した。すると、急にこうして話していることすら、グリムには馬鹿らしく思えてくるのだった。

 腰の下の倒木が、ぱきりと音を立てる。

 彼は右ポケットから懐中時計を取り出し、一瞥した。

「ふーん」

 ギーゼラは、怪訝な顔のままに、しかしそれ以上の追求は諦めたようだ。右手で大きめのT字路を示して言う。

「あたしはね、あの通りのつき当たりのおやしきに住んでるの。アルニム家って言ったら、ここいらで一番おっきいんだから」

「ああ」

 グリムはそこを知っていた。確かに、この一帯では一番の豪邸だ。面積にして、並の民家なら千軒はくだらない敷地がある。

「ゲボクになる気になった? どうせそこらへんの団地にでも住んでるんでしょ。郵便局で生活費なんかかせいじゃって」

 得意気なギーゼラ。しかし、彼女の指先を見て、グリムはわずかに目を細めた。

「いや、さっきも言った通り僕の主人は決まっている。残念ながら、ね」


「君がここ以外でまともな会話をするなんて。今日はいつも以上に張りきらないといけないね」

「決して『まともな会話』などではなかったと思いますよ」

 彼らの間に横たわるバーカウンターは、カラスの羽のような光沢を放っていた。グリムの話をどう解釈したのか、マスターは色素の薄い頬をほころばせる。薄く開いたまぶたの奥では、一様に濁った眼球が彼が盲目であることを教えている。紺色の濁りには白い模様が、宇宙のに浮かぶ星のようだ。左目の泣きぼくろは、眼球からこぼれ落ちた流れ星にも見える。

 彼の独特の雰囲気のせいか、店は怪しげな空気で満たされていた。

「それでも、君が仕事以外で人間と言葉を交わしただけでも珍しいことじゃあないか。設計された機能を果たすだけなら、蒸気機関どころか、ばねやゼンマイだけで事足りるよ」

「似たようなものですよ。僕たちは(しゅ)が創った、人形なんですから」

 グリムはふぅとコーヒーに息を吹きかけた。かぶったままの帽子は、グリムの表情に深い影を落とした。

「いつも言っているようにね、グリム。我々が何のために創られたのか、それを推し量ることはできないんだよ。なら、するべきと思ったことをしないとね」

「……なら、与えられた仕事をするだけです」

 グリムは角砂糖を二つ、カップへ沈めると、ぐっと飲み干す。まだ熱かったのか、グリムは顔をしかめると、じゃりじゃりと解け残った砂糖を奥歯ですりつぶした。

 次いで三本足の椅子から床へ飛び降りると、こげ茶の鞄を肩にかけた。

「グリム、君のおかげで私はこの店をひらけている。感謝しているよ」

 扉に手をかけたグリムは、マスターのその言葉には答えない。

「君にはやりたいことがきっとある。だから、(しゅ)にも、自分にも、遠慮することなんて何もないんだ」

 あいまいな返事をして、グリムは出口の取っ手に手をかける。だから、マスターに浮かんだその表情は、ついぞグリムから見られることはなかった。

 月の裏側で、マスターはまた一人になった。

「探すんだ。君の大事なものを」

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