一話 死を運ぶ封筒
レンガの壁に、影法師が燃えていた。街灯のつくる早足な影は、ある一軒家の前に立ち止まった。
闇が見守る中、彼は難なく室内に侵入する。
そこには、床に伏す老婆だけがいた。がらんとした部屋には、パンの一欠けすら見当たらない。老婆はひだのような目を、ゆっくりと開けた。
「誰だい? そこにいるのは」
光のないはずの一室でも、彼の顔は、老婆からはっきりと見えていた。それは、青白く光る彼の両目のせいだろうか。しかし、大きすぎる郵便屋の帽子の、その輪郭まで浮かび上がって見えるのは不思議だった。帽子がのるのは、成人男性の半分ほどの背丈しかない男の子だ。厚手の制服はその体格を覆い隠すが、袖から覗く手首や足首は折れてしまいそうに細い。暗闇の中でうかがえないその表情には、静謐が満ちていた。
彼女はハッと息をのむと、目を見開いた。しかし、重い体は少しも持ち上がらない。
郵便屋は右手で、老人に手紙を差し出した。白い封筒には金色の装飾が縁どられ、青白い光を頼りにぼんやりとその存在を主張している。
老婆は諦めたような顔でその封を切ると、それきり体を動かすことはなかった。
一軒家の屋根から、黒い大ガラスが一羽、飛び立った。
誰もがグリムのことを恐れていた。誰もがグリムの仕事を忌避していた。
街で彼を目にすると、警官もゴロツキも関係なく背を向けた。そして、己のところへ来ないように祈るのだ。
郵便屋の男児のような風貌であったが、彼の正体を誰もが知っていたからである。
誰もが、彼の肩掛けカバンの中身の宛名に、自分の名前がないことを祈っているのだった。
しかし、何事にも例外はあるものだ。
「ねぇ! グリム!」
呼び止められて、彼は振り返った。
そこには、幼い女の子。柔らかそうな頬はリンゴ色で、そばかすが眩しい。栗色のなめらかな髪は二つにまとめられている。深緑色の洋服はピアノの演奏会にも着ていけそうだが、そのすそはホコリと土にくすんでいる。生意気そうな表情の彼女には、ある意味よく似合っていた。
「ちょっと顔貸しなさいよ」
グリムは苦笑して帽子のツバをくいとあげた。
「僕は忙しいんだ。他を当たってくれ」
「気取っちゃって! せっかく声をかけてやったっていうのに!」
グリムは微笑み返してきびすを返した。
「また今度。可愛い『お嬢さん』」
後ろに振った手をつかもうと駆ける靴音を感じて、グリムは背中の黒い翼をはためかせて空へ逃げた。
彼女は面食らったが、肩をいからせて負け惜しみを吐き捨てるのだった。
見た目に不釣り合いな粗野な言葉に、通りがかりの男性が顔をしかめた。
「可愛らしいじゃあないか。少しくらい付き合ってやればいいのに」
「あまり無責任なことを言わないでください、マスター」
グリムは仕事終わりの一杯を堪能しながら、いつもの雑談に興じていた。
黒炭よりも深い色のカウンターテーブルに、白く厚いカップ。その中には、机よりもさらに濃い色の液体が収まってる。グリムはそこへ角砂糖を一つ、溶かし入れた。彼の鼻と口は、挽いた豆の香りに包まれている。
がらんとした店内には、店主の陽気な声がよく響いた。
「君はお堅いな。土星のようだ。もっと火星のように、己の情動に身を任せてみたらどうだい」
両の手を広げ微笑む店主は、透き通るほど真っ白な髪を揺らた。その両目は髪の毛とは対照的な濁った白。光を失ったはずのそれらは見開かれ、グリムをなめ回すように動いた。
グリムはそんな店主を無視して、熱い液体を体に沁み込ませる。体の芯になだれ込む黒色に押し出されるように、体中の鬱憤が晴れるのが感じられた。
この世と呼ぶには命から遠過ぎるそのカフェは、今日も静かに一人の客を迎えていた。