春の寒気
珍しく、目が覚めたのは昼だった。
身を起こすと、ばあやがほっとした顔をして近寄ってきた。
「ああ、おはようございます。姫さま。今日はゆっくりでしたね」
「ばあや、おはよう……おねぼうしてしまったわ」
しゅんとすると、ばあやがリナリアの額に手を置いた。
「お熱も無いようですし、たまにはおねぼうも構いませんよ。ブランチの支度をいたしましょうね。ご希望はございますか?」
「ありがとう、じゃあ……スクランブルエッグが食べたいわ。甘めのがいい」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
ばあやがリナリアを撫でて部屋を出ていく。部屋がシンと静かになった。
(クロノがいない?)
いつもならクロノが朝のうちに起こしてきそうなものなのに。ベッドから降りようとして、枕の辺りに違和感があった。枕をどけてみると、四つ折りの紙が置いてある。手に取ってみると、紙からは光属性の魔力の気配がした。開くと走り書きの字が並んでいる。
『ねぼすけへ。ばあさんに起こすなと釘を刺されたので、暇になった。タリブメティスのところへ行ってくる。くれぐれも単独行動をしないように』
(クロノ、タリブメティスさまに会えて嬉しいのですね。いつもわたくしについてもらっているし、もっとわたくしがしっかりして、クロノの自由時間が多くなるように頑張らなくては……)
リナリアは手紙を机の鍵付きの引き出しにしまい、しばらくはソファに座っておとなしくばあやを待った。(いつもならもうアーキル先生の講義が終わった頃かしら)と思っているとコンコンとノックの音がする。おそらくばあやだろう。リナリアが返事をすると、予想通りばあやが食事の乗ったワゴンを押して入ってきた。ばあやがいったん扉を閉めてから、少し小声で話しかけてくる。
「姫さま。ウルさまとヨナスさま、ティナさまがお見舞いにいらっしゃっていますが、お通ししますか?」
「みなさまが?」
どきんとする。
クロノがいないときにウルと会わないようにと忠告されている。けれど、せっかく来てくれたのに追い返すのも失礼な気がする。もしもウルとシェーレが入れ替わった時にも対処できるようにするならば……。
(クロノ、ウルが訪ねてきてくれました。二人も一緒とのことですし、近くに行かなければだいじょうぶだと思いますから念のため距離を取って対応いたします。早めにお戻りくださいね)
クロノに心の内で話しかけてから、リナリアは少し困った顔を作ってばあやを見上げた。
「ばあや、わたくし念のためベッドに入って応対してもいいかしら。もし途中で体調を崩してしまっては申し訳ないから」
「ええ、もちろんでございます。もし今もご体調がすぐれないようでしたら、お断りなさっても……」
「いえ、せっかく来てくださったんですもの。中にはお通ししてちょうだい」
ウルたちと話したいのは本当だった。最後に会ったときはひどく落ち込んでいたけれど、もう落ち着いたのだろうか。
リナリアがベッドに入って座った頃に、三人がばあやに伴われて中に入ってきた。ウルは前を歩く二人に続いて少しうつむいている。ヨナスがきょろきょろとリナリアの部屋を見回していると、ティナが肘打ちをした。
「ぐぇっ」
「ひと様のお部屋をじろじろ見るのはよくないのよっ」
「うう、はい。すみません、つい……」
ヨナスが肘打ちを食らった脇腹を撫で、ティナがふんっと鼻から息を吐いて背筋を伸ばす。すると、後ろにいたウルがクスッと笑う気配がした。
「ティナ……それは初めてこちらにお邪魔したときに、僕がティナに言ったことじゃないですか」
途端にティナが慌ててウルを振り返った。
「う、ウルってば!? ちょっとそれは内緒……」
「でも、リナリア様もご存じのことだから……」
「えっ!? ちょっと、ティナぁー? 確かになって思ったけどティナもおんなじことやってたの!?」
「や、だ、だからそれはー! ヨナスにも教えてあげようとしたんだってばっ」
わいわいと話をしている三人を見て、リナリアもまたくすくすと笑った。
「……ありがとう。皆さんの顔を見たら元気になってきました」
ティナがちょこちょことベッドに近づいてきてしゃがみ、リナリアを見上げる。
「リナリア様、体調は大丈夫ですか? アーキル先生の授業は、リナリア様のお世話係としてバッチリ記録してありますからご心配なく!」
ヨナスとウルがその少し後ろに立つ。その時、少し寒気がしてリナリアは自分の腕をさすった。
「あれ、リナリア様、寒いですか? 寒気かなあ。一応窓を閉めてきますね」
ヨナスが慌てて窓を閉めに走り、一仕事した顔をして帰ってきた。
それを待ってから、ウルが「ええと」と少し遠慮がちに前に出て、口を開く。
「アーキル先生が、少し気にしているようでした。以前ご自分が熱を出したときにリナリア様がお近くにいらっしゃったから、うつしてしまってはいないかと……。それを言ったら僕も、しばらく体調を崩していたので……」
リナリアはぶんぶんと両手を振った。
「いいえ、そんなことはありません。ちょっと疲れが出てしまったみたいで……ご心配をおかけいたしました。ウルは、もう大丈夫ですか?」
ウルはにこ、と優しく微笑んだ。
「はい。おかげさまで……授業に復帰してから、少し調子が戻ってきたように思います。きっとティナとヨナスのおかげですね」
ティナとヨナスは顔を見合わせるとにまっと笑う。ティナは立ち上がってウルの腕に捕まり、ヨナスも反対側の腕にふざけてくっついた。
「わっ!」
「ウル、教室に復帰してからは学寮に戻してもらったんですよー。やっぱりウルは学寮にいてもらわないとですよねーっ」
「そんなこと言ってぇ、ヨナスはウルに勉強教えてもらいたいからでしょ? バレバレなんだからねっ! あ、そういえば……」
ティナが人差し指を自分の唇に当てた。
「フリッツが学院寮から学寮に引っ越してきたんです。執事さん? も実家に帰しちゃったんですって」
「まあ、フリッツが?」
思わずヨナスの方を見ると、ヨナスは苦笑いをした。
「まさかあの人、本当に『平民』に慣れようとしてるんですかね? 学寮には音楽を練習する場所なんて無いから、この前は先輩とやり合ってましたよ。あいつ夜中にもバイオリン弾くからなあ」
「不貞腐れても反省してないのがフリッツっぽいよね。一応部屋は今のところは一人部屋なんですけど、来月には新入生が入って部屋替えがあるから、ルームメイトになる人はかわいそー……」
ティナがうへぇと舌を出した。それを見てウルが「こらこら」と窘める。
「フリッツも歩み寄ってくれようとしているのは、素晴らしいと思います。異なる世界に一歩踏み出すのは……きっと勇気が必要なことだと思いますから」
そう言うウルの顔が少し寂しそうに見えた。
(ウル、二人にも相談できないのはとても苦しいですよね。ティナとヨナスなら、ウルのことを知っても変わらないと思いますけれど……)
しかし、国王の秘密に関わることを知り得たら二人の身に危険が及ぶ可能性もあるのも事実である。今はまだ慎重に動かないといけないこともわかっているからこそ、もどかしかった。
リナリアはできるだけいつも通り笑おうと口角を上げた。
「フリッツも、独り立ちするために一生懸命なのでしょうね。これからもっと仲良くなれると良いのですけれど……」
「もーっ、リナリア様はお優しいから……あっ、そうだ! リナリア様、これお手紙書いてきたんですっ」
口を尖らせていたティナが、手作りらしいポシェットから花柄の可愛らしい封筒を差し出した。ヨナスも「そうだった!」と懐から手紙を取り出す。そちらの封筒には雪の結晶の模様が描かれている。
「ありがとうございます。綺麗な封筒」
「えへへ、私のはマリーのお店の商品を割安で分けてもらったんです」
「僕のはグラッセン領のものです。パーティーをきっかけにディートリヒ様のところとオシゴトを始めたらしくて色々と……」
「そうだったんですか。ご交流が深まったのなら嬉しいです」
二人の手紙を受け取った後でウルの方をちらと見ると、ウルも手に無地の封筒を持っていた。少し躊躇った様子を見せたが、すっと両手でリナリアに差し出してきた。
「僕は、神殿のものを分けていただきました。おかげさまで、神官見習いの友人によくしてもらっています」
「それは良かったです。ウルも体調が万全では無いでしょうに、ありがとうございます」
目を細めて両手で受け取る。几帳面な字で宛名と差し出し人の名前が書かれていた。リナリアはウル・クロステンという名前を、人差し指と中指ですっとなぞった。ティナがにっこり微笑む。
「あっ、お手紙は私たちが帰ったら読んでくださいねっ。ここだとちょっと恥ずかしいので」
「ふふ。その気持ちはわたくしも分かります。後ほどゆっくり読ませていただきますね」
そのとき、コンコンとノックの音がして、そのままガチャリとドアが開いた。クロノだ。扉近くで待機していたばあやが、腰に両手を当てる。
「まあ、クロノ! 姫さまのお返事を待たずに入ってくるなんて失礼ですよ」
「げっ……じゃなかった。すみません、夫人……。急いで戻ろうとして、つい」
「全く、そのようなことではまだまだ筆頭侍女になるのは遠い話ですね」
怒られるクロノを見て、ティナがこそっとリナリアに耳打ちをしてくる。
「リナリア様の侍女のお姉さん、きれいな人だからいつも緊張しちゃうんですけど、結構親しみやすい感じなんですね」
クロノが褒められると自分のことのように嬉しくて、リナリアは頬が緩んでしまった。
「そうなんです。クロノは頼りになるし、親しみやすい良い侍女なんですよ。ぜひ仲良くしてくださいね」
「はい! 護衛のお姉さんも明るく挨拶してくださって、リナリア様の周りは明るい人が多いんだなあって思いました」
ひとしきり注意されたクロノが大股でのしのしとこちらに歩いてくる。
それまでじっとクロノを黙って見ていたヨナスが、ポンと手を打つ。
「あ、そうだ。リナリア様の侍女さんって、王子様の護衛のめっちゃくちゃ顔が良い騎士さんとお付き合いしてるってほんとですか?」
ヨナスの発言に、ウルとティナが目を丸くした。
クロノが見るからに不快そうに眉根を寄せる。
〈既にこやつの耳に入るほど広まっておるのか? そもそもこやつ貴族専門じゃないのかぁ? 面倒な……〉
(一応クロノは貴族の範囲に入るのかも、しれません……ね。どうしましょう……)
クロノは面倒くさそうに髪をかきあげた。
「まあ、否定は致しませんけれど。個人的なことなのであまり注目されたくは無いですね」
「あっ、そうですよね!? す、すみません。リナリア様周辺のことなので気になっちゃって……それに、あの騎士さんって結構城内で人気があるから、侍女さんたちがよく噂をしてたのでつい! ご無礼しました!」
「も、もー!! ヨナスの失礼なのは今に始まったことじゃないけど、そういうデリケートな噂を口にするのは失礼だわっ」
ティナはヨナスを責めるように言うが、その実、目は輝いていて話が聞きたいという気持ちがとても顔に出ていた。リナリアは思わず苦笑する。
(……二人とも、正直な人ですね)
〈全く、子どものすることじゃから多めに見てやるが……あの阿呆、まさか自ら噂を広めてはおらんじゃろうな……〉
クロノは時計を見てこほんと軽く咳払いをした。
「……姫、そろそろご休憩を挟んだほうがよろしいのでは」
「あっ、そうですか? それは、寂しいですけれど……」
名残惜しく三人を見ると、ティナとヨナスが顔を見合わせて微笑んだ。
「じゃあ、私たちもそろそろ行きますねっ。今日三人でお見舞いに来られただけでも、とってもよかったです。リナリア様、また一緒にご飯が食べられるのをお待ちしていますっ」
「あまり無理をしてはいけませんもんね。なんか、最初から最後までお騒がせしちゃってすみません! 学寮に新入生が入ったら、噂はバッチリ仕入れておきますから」
ウルも控えめに礼をする。
「……お早い回復を女神様にお祈りしています。リナリア様」
「皆さん、本当にありがとうございました。頑張って早く復帰できるように治しますね」
三人が部屋から出ていくのを、リナリアは小さく手を振って見送った。
三人が出て行ってからは、もう寒気もしなくなっていた。
お待たせいたしました! 連載再開しました!
先日活動報告にも書きましたが、8月から9月までは隔日更新になります。
改めてよろしくお願いいたします。
※8/7追記 誤字報告ありがとうございました!修正させていただきました!(誤:嗜める→正:窘める)
こちらの漢字誤記なんですね。勉強になります。