夢 〜変化〜(1)
◆ ◆ ◆
目を開けると、久しぶりの真っ黒な世界でした。
「おい」
不機嫌そうな低い声にバッと身を起こすと、赤い革張りのソファーにバーミリオン様がもたれてこちらをご覧になっていました。
「呼んでないぞ」
はっとして自分の手を確認すると、今回は昔の姿のようです。発熱でこちらに来てしまったからでしょうか。床に手をついて頭を下げます。呼ばれていないのにお邪魔してしまい、バーミリオン様はきっとご不快な思いをしていらっしゃるのでしょう。こちらも意図せぬ事態とはいえ、申し訳ないです……。
「申し訳ございません! あ、あの、今回は事故と申しますか……きゃっ」
唐突に、ぐいっと腕が引っ張られました。顔を上げると、眉間の皺を深くしたバーミリオン様がこちらを見下ろしていらっしゃいます。この角度から見上げるのは初めてかもしれません……。
「王女がそのように謝るな。別に、謝罪を求めているわけではない。立て、そして座れ」
バーミリオン様に手を引っ張られて立ち上がります。そのまま一緒にソファに腰掛けて、改めてお顔を見つめると――ルビー色の瞳がわたくしの顔をじっ、と見つめていらっしゃいます。その視線に耐えかねて、つい下を向いてしまいました。
すると、顎に手が添えられてグッと上を向かされてしまいます。改めて至近距離になったお顔に動揺して、目をつぶります。バーミリオン様の舌打ちが聞こえました。
「お前……それでよく私のことを好きだのなんだのと言えたものだな。そんなに私の顔は恐ろしいか」
「まさか! バーミリオン様のお顔はこの世界の至宝ですわ……だからこそ、お近くで拝見するには……わたくしの心の準備が……」
そろりと薄目を開けると、バーミリオン様は僅かに笑っていました。予想外の表情に、胸がきゅっとなります。
「あう……バーミリオン様……」
「……私はただ、何があったのか知りたいだけだ。シェーレの件か? それとも、ガリオ・コンバラリアや、ウンディーネのことなどで襲われたりしてはいないだろうな?」
そう言ってわたくしをご覧になった表情は、少しやわらかく優しくなっているような気がいたします。もしかして……心配、してくださっている、のでしょうか。
「え、ええと、その、今回はもともと風邪で発熱をしていて……ですから、おそらく魔力暴走とは無関係だと思うのですけれども……」
「今回の原因はリナリアじゃなくてクロックノックのせいだヨ~! レオミムに怒っていっぱい魔力放出してたから、リナリアが当てられちゃったカンジ! いわば疑似暴走みたいな感じだネ~! クロックノックったら、おばかさん!」
ハスキーな声がして、思わず飛び上がりました。声のした方を見ると、先ほどお部屋でお会いしたレオミム様が両手を後ろに回してこちらをご覧になっていました。黒い夢の世界は、わたくしとバーミリオン様の二人しかいない世界だと思っておりましたのに……。
バーミリオン様が立ち上がり、わたくしの前に出てレオミム様にゆらゆらと黒い気をまとった剣を向けます。初めてこの世界に来たときに、わたくしも突き付けられたあの剣です。
「貴様、何者だ」
レオミム様は両手を上げてニコニコと笑っていらっしゃいます。
「わー! こわーい! レオミム、王様に会いにきてあげたのに! ずっと一人でヒマだったデショ?」
「お前は……私をこの世界に閉じ込めた元凶か? それとも、その仲間か」
バーミリオン様がじりじりと間合いを詰め始めます。レオミム様は肩をすくめて上げた両手を頭の後ろに回しました。その際に、ブワッと威圧的な冷たい気配が押し寄せてくるような感じがいたしました。バーミリオン様が足を止めます。
「はい、そこまでそこまで。それ以上近づくと、レオミムの超強い闇の魔力で二人の魂がどこかに吹っ飛んじゃうよ? うーーーん、元凶は後ろのお姫サマ……って言ったらカワイソウかァ。元凶はお姫サマに手を貸した、時の神霊クロックノックっていうヒトなんだケド。レオミム、今日すっごい殺気向けられてカナシイ。王様、剣、おろそ? レオミム落ち着いてお話したいナ」
バーミリオン様が舌打ちをなさいました。わたくしは、「魂が吹っ飛んじゃう」という物騒なお言葉に怖くなってしまって、バーミリオン様に駆け寄り、彼のマントを握りしめました。バーミリオン様がわたくしを振り返ります。
「なんだ、今度こそ怯えているのか?」
「だって……バーミリオン様が、どこかに飛んで行ってしまったら困りますもの」
わたくしの言葉にバーミリオン様が二、三度瞬きをして、「クッ」と口の端を吊り上げました。皮肉な笑みがこんなに美しくて、しかも似合ってしまう人が他にいるでしょうか。
「要らん心配をするな。向こうも威嚇だ。大変不愉快だが、魔力だけの世界では圧倒的に精霊に分がある。戦おうとするだけ無駄だ」
レオミム様がパチパチと手を叩きます。
「わー! 良かったァ、レオミムも物騒なコトはしたくないからサ! タリブメティスに釘刺されちゃってるしィ。ダイジョーブダイジョーブ、お話だけしたら、今日はちゃーんとリナリアと一緒に帰ってあげるカラ」
そう言ってわたくしにウインクなさるのを、バーミリオン様が呆れたお顔で眺めます。
「……このノームはお前の知人か?」
「レオミム様は、ノーム、なのですか。ええと、わたくしの恩人のご友人? だと伺っていますが、今日が初対面です。あの、記憶を司る神霊様、とのことで」
おそるおそるバーミリオン様に知っていることをお伝えすると、バーミリオン様は剣を下ろしました。
「子供のように身長が低く、耳鼻が尖っているのはノームの特徴だ。神霊とは、もしや精霊界にいるという、神のごとく強大な力を持つ精霊のことか?」
レオミム様は両手でバーミリオン様を指差します。
「さっすが王様、アルカディール屈指の魔法狂だネ♪ ご名答ー!」
バーミリオン様がパチンと指を鳴らします。すると、目の前に王城で見るようなテーブルと椅子の応接セットが現れました。椅子はテーブルを挟んで一脚と二脚あり、わたくしの分もあるようです。
バーミリオン様が椅子に腰掛け、わたくしに目で隣に座るよう合図をなさったので、わたくしはバーミリオン様とレオミム様に礼をしてから椅子に座らせていただきました。
「バーミリオン様……わたくしがお隣でもよろしいのですか?」
「フン」
バーミリオン様はわたくしの視線から逃れるように、頬杖をついて反対側をご覧になってしまいました。
この間お会いしたときにいつもよりも優しく感じたのは、やはり子供の姿だったからでしょうか……。いえ、でも小さい子にお優しいバーミリオン様はとても素敵ですからね。全然構いません。さびしくなんてないです。
わたくしが一人で自分に色々と言い聞かせておりますと、向かいに座ったレオミム様が「うーん?」と首を傾げます。
「王様、やっぱりコッチに来てから変わったよねェ? 前はリナリアと、そんなに仲良くなかったじゃナイ? さっきも、レオミムが来る前はいちゃいちゃしてたし、レオミムからリナリアを守ろうとしていたしィ」
「えっ」
レオミム様の言葉に、わたくしの胸が高鳴りました。いちゃいちゃ? の方はもちろんレオミム様の勘違いなのですけれど、バーミリオン様はわたくしを守ろうとしてくださったのでしょうか。
思わずバーミリオン様を見つめた眼差しに、期待がこもってしまったのかもしれません。バーミリオン様は目が合ってすぐ、すらりとした指でわたくしのおでこをピシッと弾きました。お兄さまが、わたくしになさるように……。
「いたっ」
「別に、お前のためじゃない。情報を引き出せていないのに、いなくなられるとこちらにとっても不都合だからだ」
「素直じゃないなァ……。ま、それにしても考え方は『あの日』からだいぶ変化しているようだネ。困ったナー」
レオミム様が腕を組むのを、バーミリオン様が睨みつけます。
「まだるっこしいやり取りをする気はない、貴様は一体何の目的で来た。話をするというのなら、早く本題に入らぬか」
「いや〜、レオミムって記憶の神霊じゃナイ? だからね、王様みたいな記憶情報の塊って、レオミムの専門なワケ。王様ダケじゃないヨ。リナリアが塗り替えた世界の、全部の魂の記憶たちとレオミムはコンタクトを取れるンだ〜」
「ぜん、ぶ」
レオミム様の言葉に、わたくしは思わず身をすくめます。レオミム様が体を傾けてわたくしに笑いかけました。
「クロックノックったら、昔っからあんな感じだからほーんと困っちゃうヨ〜! チョットくらい過去に戻る分にはあんまり問題ないんだケド、今回みたいにたーくさん時間を巻き戻しちゃったら、レオミム達みたいな精霊やエルフなんかはともかく、短命な人間への影響がやばいワケ! だから記憶の精霊のレオミムちゃんが大活躍しないといけなくなるんだケド! それはリナリアもわかってるデショ?」
レオミム様はバーミリオン様を指差して、にっこりと口角を上げます。
「だーって、このヒトと『リオンサマ』はもう別のヒトになってきちゃってるんだモンね! リナリアって、王様のコト好きなんデショ? ねェねェ、王様とリオンサマ、どっちが好きなのォ? 自分のわがままなお願いごとのために、たーくさんのヒトたちや、オニイサマやイモウトを見捨てちゃったのはどんな気持ちィ? レオミム気になるゥ」
レオミム様の言葉が全部体に突き刺さってくるような気がして、わたくしは、自分で自分の体を抱きます。
わかっていました。クロックノック様に聞いていましたから。
わたくしの願いで、たくさんの魂と記憶を「あの日」に置いて来てしまった。
レオミム様がおっしゃっていることは、全て尤もで、正しくて……わたくしは、かつていた世界の敵なのです。救われた命がある一方で、生まれなくなってしまった命もあるかもしれません。けれど、それを選択したこと自体は、苦しくても受け入れるつもりでいました。わたくしはきっと、罪の意識を負うべきです。
わかっています。リオン様は、目の前にいる彼とは違う道を歩み始めている。
リオン様が大好き。初めてお会いしたとき、泣いてしまったわたくしにハンカチを差し出してくださったリオン様。わたくしのことを大事に思って下さっているリオン様。
でも、わたくしは、元々、わたくしが幸せにしたいと思ったのは――。
「リナリアってば、もしかして二人とも好き〜トカ言っちゃうノ? そんなのってズルくなーい?」
家族よりも世界よりもバーミリオン様が大好きだった、今でも大好きなのに。ここにいる彼も、リオン様も、両方ともがバーミリオン様だから――どちらかなんてとても選べなくて、苦しくて視界がぼやけます。泣いたってどうにもならないのに。
「リナリア」
バーミリオン様が落ち着いた声でわたくしの名前を呼びました。
わたくしはそれに惹かれて顔を上げました。
お顔を見たくて、ぎゅっと目をつぶって涙を落とします。
バーミリオン様は、一度口を開きかけて閉じ、ため息をついてから苦笑なさいました。
「お前は、私のことが好きなんだろう」
「っ、はい! 好きです!」
わたくしが答えると、バーミリオン様は目を閉じてふっと笑います。少し哀愁を帯びた、切なげな微笑は絵画のようでした。
「――なら、それで良いだろう」