教育係
父に話を促され、リナリアはその場で一礼した。
「はい。ウルのことです。昨日、お兄さまと一緒にお見舞いに行きました。ウルはまた衰弱していて、わたくしたちの顔を見るとひどく動揺もしていました。やはりまだ、頻繁にお食事にお誘いするのは、早いのではないかと思います」
「……そうか」
父は視線を逸らし、少し傷ついたような顔をした。
(天涯孤独のウルに家族として接したいお父様のお気持ちも理解できますけれど、ここで優先されるべきはウルの気持ちだわ)
意識的に、リナリアは背筋を伸ばした。
「……来月のあの子の誕生日に、内外に向けて正式に親族として発表しようと思って準備をしていたのだが……」
「確かに、ウルの誕生日は来月ですが、それは偶然そうであるだけですから……。急ぐ必要は無いと思います。その代わり、もう少し段階的に……新しい生活に慣れていただく方が良いのではないかと……」
母がコホン、と咳払いをする。
「……まずは、貴族としての基礎を自然にお教えしてはいかがでしょう。リナリアやヘレナと一緒に、というのは流石に複雑かもしれませんから……昨日、侍従頭にも相談して意見を聞いて参りました。貴族出身の侍従を付け、その者から教えてもらう形を取るのはいかがでしょうか」
「ああ、そうか……身内だけだから多少のことは構わないと思っていたが……ふむ。それは、一理あるか」
母の提案に、リナリアは納得もする反面少し不安になった。ウルはただでさえ貴族と相性が悪い。貴族出身の侍従となると、また虐められたりしないだろうか。
リナリアはおそるおそる「あの……」と口を挟んだ。
「もし、ウルに侍従を付けるなら……ヨナスにご紹介していただきたいと思うのですが……。ウルはずっと平民だったのですし、貴族としては新しいおうちの方の視点から推薦していただいたほうが……」
リナリアの提案に、母が少し眉をひそめた。
「王族に連なる者になるのですし、事情が事情ですから……私の実家、公爵家の関係者から選ぼうかと思っていたわ。お友達とはいえ、彼にあの子の出生について事情を説明しても大丈夫だという保証はあるの? 男爵家なら尚更荷が重いのではないかしら」
すん、と大人しくしていたグラジオが、パッと顔を上げる。
「俺、ウルに教えてあげるよ?」
「あなたはあなたのお勉強が忙しいハズでしょう、グラジオ? 算術の先生から、この間抜け出した分の補講が終わっていないと聞いているわよ?」
「帝王学の講師も私に直々に相談してきたな」
両親から笑顔で攻められて兄は「う」と言葉に詰まったが、それからすぐに「じゃ、じゃあさ」と声を上げた。
「ディルに侍従になってもらえば良いじゃん! そうしたら、ディルも城に住んで一緒に遊べるし」
「グラジオ、あなたの遊び相手を選んでいるのではないのよ」
母にたしなめられてグラジオは再びシュンとする。父は腕を組んで頭を捻った。
「グラッセンも悪くはないが、ディートリヒにはグラジオの近衛騎士を目指してほしいからな……お前の侍従にするならまだしも、ウルの侍従となると……」
グラジオがちらとリナリアを見る。
「フリッツは? 確か伯爵家だったけど、ダメなの?」
「フリッツは……」
フリッツといえば、ウルと相性が悪そうなうちの一人だ。ウル自身がさほど気にしている様子がなかったので無害寄りだが、侍従とその主人の関係になったらフリッツが怒るのが目に見えていると思った。
「わたくしは最初から特殊でしたけれど、すでに関係ができている友人の中から主従に変化するのは、あまり気が進みません。特にフリッツとは、これまで立場が逆でしたから軋轢が生まれてしまうかもしれません」
グラジオは「うーん」と唸ってから振り返った。
「それなら、いっそばあやとかアンドリューが教えてあげたら?」
ばあやとアンドリューが顔を見合わせる。
「我々が、ですか?」
「だって、二人は俺たちが小さい頃からあれこれ色々教えてくれてるし。しかも、リナにはクロノがいるし、俺にはソティスがいるだろ? ちょっとくらいならウルの方に行っても問題なくない?」
父が「ふむ」と顎の髭を撫でてアンドリューを見る。
「……確かに、アンドリューは公爵家の出身だな」
アンドリューが目を閉じてため息をついた。
「まだソティスに筆頭護衛を譲るつもりはないのですが」
「その立場はそのままで良い。周囲の目もあるからな。お前がウルについてくれるなら、その間は護衛としても期待できると思っているところはある。エンデ夫人の方はどうだ? 空き時間は作れそうか」
ばあやは少し困った顔をした。
「そうでございますね……クロノも最近は仕事を覚えてまいりましたが、姫さまはご体調の方が心配でございます。姫さまのことを幼い頃から知っている者がそばにいた方が良い場面もあるかと思いますので……」
「うん、それはその通りだな。リナリアは油断するとすぐに倒れるから、エンデ夫人にはついていてもらった方がありがたいだろう……では、アンドリュー、改めてどうだろうか」
父が期待に満ちた目でアンドリューを見る。アンドリューはふう、と諦めたように息を吐いた。
「もとより、ウルさまの教育係になること自体に困っている訳ではありません。エンデ夫人と同じく、グラジオ様から離れるのが心配なだけでございます。しょっちゅう姿をくらませてしまう王子様を置いて参りますのは……」
「だ、大丈夫だよ。これからは逃げないって……ちゃんと王子の勉強も頑張るから、ソティスを正式に俺の護衛にしてよー」
「申し上げましたが、筆頭護衛はお譲りいたしません」
アンドリューがにっこりと優しげな笑みで威圧する。
アンドリューよりはばあやの方がウルも慣れているとは思うけれど、アンドリューは怖い人ではないし、おそらく父の過去のことを知っている。もしかしたらウルの母についても何か知っているのかもしれないし、ウルにとってはそんなに悪くない人選なのかもしれない。
リナリアはストンと椅子に座った。
「……わたくしも、同年代の侍従や正式な貴族の教師よりもアンドリューが良いと思います。ばあやも時々は行って差し上げてほしいです。わたくしも、できるだけ倒れないように体調管理を頑張りますから」
後ろを振り返ると、ばあやがにこりと微笑んだ。
「そうですね。姫さまのことに支障がない範囲でなら、もちろんお手伝いいたしましょう。私も、まだまだクロノに筆頭侍女を譲るつもりはございませんからね」
アンドリューとばあやはチラリとお互いの目を見て、僅かに笑ったように見えた。互いに王子と王女の筆頭という立場に誇りを持っているのだろう。母と父もまた顔を見合わせて苦笑する。
「では、アンドリューはソティスの謹慎期間が終了次第、ウルの教育係としての業務も兼任してもらうことになる。グラジオに付き従う時間は少なくなるが、筆頭護衛の任は解かない。時と場合によってはソティスと交代すること。ウルの教育係につくことは内々に留め、ウルの元へ行くときはリナリアの護衛も兼ねている体にするのが良いか……長い朝食時間になった。しかし、有意義だった」
「私も、あの子が落ち着いたらゆっくり話してみたいですわ。まだ早いと思っているのですけれど……今回の教育係の話については、陛下がお一人でご面会なさってお伝えした方が良いかもしれません。いつも窓口がリナリアでは、いつまで経っても親子の距離が縮まりませんわよ」
「ああ。苦労をかけるな」
母が立ち上がる。
「それはアンドリューとばあやにおっしゃってくださいな。私はお先に失礼します。ヘレナの顔を見に行ってやらないと」
カツカツとヒールの音をさせて母が食事の間から出て行った。父は咳払いをして、パンをちぎって口に運ぶ。
「お前たちの成長は、私が考えているよりもずっと早かった。さあ、二人とも。完全に冷え切ってしまう前に食事の続きを」
グラジオは「はい」と返事をして、父をじっと見ながら食べ始めた。その視線にはまだ物言いたげな含みがあったが、父はグラジオとリナリアにそれ以上何か話すことはなく、手早く食事を完食して行ってしまった。
「納得いかねー!」
グラジオは部屋に戻る間も不機嫌だった。ウルについての話し合いの時は親身になって考えてくれていたが、内心ではまだファルンの件がくすぶっていたようだ。アンドリューがぽんとグラジオの肩に手を置く。
「アンドリューが申し上げた通りでしたでしょう」
「……絶対変だよ、こんなの……」
兄は悔しそうに唇を噛む。もう人目がある場所であるため、グラジオもはっきりと言えないことは理解しているようだ。アンドリューが軽く咳払いをした。
「変だ、と思うのであればそれを変える方法はございます」
「えっ!? な、何!? どうしたらいいの?」
グラジオがアンドリューに取り付くようにして見上げる。アンドリューはニヤリと悪戯に笑った。
「グラジオ様が御即位なさってから、改革すれば良いのです」
「なーんだ……そんなことか。何十年後の話だよぉ」
グラジオはガッカリした顔でアンドリューを睨んだ。アンドリューは人差し指を立てる。
「そんなこと、ではございません。良いですか。伝統的に続いてきたことを打ち破るためには、綿密な準備と勉強が必要なのです。何かを変えようとすれば、それに反対する勢力が必ず現れます。その者たちを納得させることなく、無理に圧力をかければ反乱の芽が生まれ、国家の危機にも繋がってしまいます」
(……それは、その通りだわ)
リナリアの胸にも刺さる話だった。アンドリューの言う例は、レガリアよりもバーミリオンがレガリアを滅亡させた後に無理矢理統制した新しいアルカディールのことを言っているようだ。
実際にバーミリオンは、旧レガリアの国民たちの恨みを買って反乱を起こされ、殺されてしまっている。
(でも、アンドリューが言っていることを、賢いバーミリオン様が思い付かないようには思えない……。どうして、レガリアを滅亡させることを急いだのかしら。もっと時間をかけて話し合いをして……それこそ、お兄様が即位なさってからゆっくり手を取り合って行くという道の方が穏健で、バーミリオン様自身にもリスクがないはず……あのタイミングで強行したのは……)
そんなことを考えていたら、アンドリューの顔が目の前に現れた。
「きゃ」
驚いたのでつい声を上げてしまったがリナリアの目線に合わせてしゃがんでくれたようだ。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。リナリア様も、何やら難しいお顔をされていたので。陛下もおっしゃっていましたが、例の件が始まりましたら、しばらくはリナリア様の護衛ということになりますので、よろしくお願いいたします。検閲官の内部に関しては不勉強ですので、改めてお教えいただけると幸いです」
「は、はい。こちらこそ……頼もしく思っています」
アンドリューはにこりと柔らかく笑う。グラジオは「結局勉強かあ……」と肩を落としていた。
「じゃあ、どう頑張っても俺、立派な王様にならないとダメってことー?」
「そうですね。リナリア様とヘレナ様、兄妹のお三方で助け合ってこの国をよりよくされますよう、アンドリューは願っておりますよ」
ばあやも頷いた。
「ばあやも、それを願っております。けれど、ご体調を第一にお考えくださりませ。王子様、姫さま方が健やかにいらっしゃることが、ばあやの一番の願いでございます」
リナリアは兄と顔を見合わせて、笑い合う。
「……しょーがないな! 俺は兄さんだから、リナより立派にならないと」
「ふふ、では、わたくしはお兄様の手が届きにくいところを補佐できるように頑張らないといけませんね。お勉強、頑張りましょう、お兄様」
「おう!」
グラジオがリナリアの頭を撫でて、笑った。
リナリアは、前の人生で見ることのなかった兄の戴冠姿を想像し、熱くなってきた目にまぶたを下ろした。