兄
「おうじょ、さま?」
ウルらしからぬ呼び方に戸惑い、ぼうっとしながら問い返した。彼は、ふうと息を漏らしてかがむと、リナリアの両頬にそっと手を添える。
「困りましたね。もうお忘れになってしまわれたのですか? お会いしたでしょう、あなたの御命日に」
(ゴメイニチ……めい、にち?)
妖しく笑うウルの瞳に酔いそうになり、リナリアはまつ毛を震わせながら瞼を下ろした。
「おやおや、いけませんね王女様。私の瞳を見ていただかなくては……」
「あ、あなたは……どなたなのです……? ウルは、ウルは、どこへ」
「はは」とウルの声が笑った。
「可哀想に、あの子どもは愚かな大人に振り回されて疲れてしまったようですね。しかし、そのおかげでようやく私が代われた」
怖かったけれど、ここで大声を出したらウルが悪者になってしまう。「この人」はそこまで計算してここに連れてきたのだろうか。リナリアは必死で後ずさりしようとしたが、頬に添えられていた手が離れ、肩を強く掴まれて止められてしまう。
「痛っ」
「まだお話は終わっていませんよ。ねえ王女様。どういうからくりを使ったのですか? こんなにお小さくなってしまうくらい時を巻き戻してしまうなんて。困るんですよねぇ、おまえにちょこまかと動き回られるのは……」
「は、離してください」
(クロノ――! クロックノック様――!)
結局、強くクロノに呼びかけるしかできない自分が情けなかった。クロノが来る前に、自分でもなんとかしなくてはいけないと思いながら、混乱していた。いつもと違うウルが怖いのに、目の前にいる人が誰よりも信頼できるような、変な安心感で頭の中がかすむのだ。
耳元に口を寄せられて、びくりと身がすくむ。ウルの姿をした彼がそのまま、そっとささやく。
「何かいいこと、ありましたか?」
「う……え……?」
どこか聞き覚えのある言葉に戸惑う。ふ、と笑う気配がして、やわらかで優しいウルの声が続く。
「思い出しなさい。おまえは誇り高いレガリアの王女ですよ、リナリア。どうして魔法の訓練なんてしているのでしょう? レガリアの王族に魔法の知識なんて必要ありません。魔法のことなんて全部忘れて、国のために生き、国の宝として他国に嫁ぐ、過去の王族たちと同じ道を行くお利口な王女様に戻らないと。お父様もお母様も悲しみますよ」
(かな、しむ……?)
母の泣き顔が頭に浮かんで、リナリアはぎゅっと手を握った。優しいウルの声が耳から頭に沁み込んでくる。
「おまえはレガリアの王女でしょう。王女は国のために生きないといけません。国に殉じなくてはいけません。美味しい食事が食べられるのも、あたたかなベッドで眠れるのも、綺麗なドレスが着られるのも、全ては国のためなのですよ。おまえには才能があります。運命を受け入れて理想的な王女として、あるべき道を歩いていく才能が。今のおまえはおかしい、道から外れていますよ。さあ、目を開けて、ちゃんと私の瞳を見なさい、王女リナリア」
目を開けたくないと心では嫌がっているのに、体が言うことを聞かない。瞼は勝手にゆっくり開いて、ウルの美しい青い瞳を正面からとらえてしまう。
足元がぐらつくような感じがする。立っていられなくて、思わずすぐ目の前にいる彼にしがみついてしまう。彼はそれを優しく抱き止め、片膝をついてリナリアの背に手を回した。ウルの瞳がより近くなる。
(ウルの目だわ)
そう、目の前にあるのは、リナリアの大事な友達である、ウルの目なのだ。腕飾りを作ったときにずっと思っていた色。
怖くなんてない。
「良い子ですね。だんだん眠くなってきたでしょう。ちゃんと部屋まで運んであげますから、そのまま私に身を委ねて。大丈夫、目が覚めたら、ちゃんと正しい王女様に戻っていますから」
この人は疲れてしまったウルに代わって出てきたと言った。黒い夢で会ったバーミリオンは、今のバーミリオンの視界を通して世界を見ていると言っていた。それまで共存していたのなら、ウルもまたこの人がいた場所でこちらの光景を見ることができるかもしれない。
(ウルは、ウルの中にいる)
ウルの胸にしがみついていた手を徐々に横に移し、彼の手首を掴む。そこには、リナリアの腕飾りがある。
「──ウル、起きて……」
リナリアはくらくらしながら、青い目の向こうに呼びかけた。ウルの眉根がグッと寄せられる。
「……何を言っているのでしょうね。さあ、王女様、仕上げですよ」
「ウル、わたくしを、見てください。ウル、負けないで──ウル、帰ってきて。わたくしは、あなたの味方です。血が繋がっていても、そうでなくても、あなたのこと、大事なお友達だと思っています」
「ぐっ……」
ウルの瞳が揺れた気がした。リナリアを支えていた手が緩み、苦しげに目が閉じられる。
ウルは自分から遠ざけるようにリナリアを押し出した。
「……リナリア様、逃げて、ください。僕の目を見ては、だめです。僕は……」
「ウル!」
ほっとしたのも束の間、ウルの目がカッと見開かれる。まるで噛みつくような勢いで顔が近づけられ、リナリアの瞳は至近距離でとらえられてしまった。
「きゃっ」
「違うでしょう、リナリア王女。おまえは、お人形のように、美しく、空っぽで、自分の側にある幸せにも気がつかずに、幸運が天から舞い降りてくるのを待つ、愚かな姫でしょう」
リナリアは唇を噛んで、グッと目に力を入れて青い瞳を睨む。心に浮かぶのは、バーミリオンの優しい笑顔だ。バーミリオンのために、変わると決めたのだ。
「わたくしは、以前のわたくしには戻りません。自分の力で、世界で一番大好きな人を幸せにするために、こうしてここにいるのですから」
ウルの表情が険しくなる。
「おまえは! 敗戦国の姫だろう! 思い出せ、『虜囚の憂き目を――』」
その言葉に背筋がぞくりとしたときだった。
「リナ!! ここー!?」
グラジオの声がして、リナリアの視界がぱっと晴れる。ウルがチッと小さく舌打ちをして、顔を離した。リナリアが声のした方を向くと、ぱたぱたという足音と共にグラジオが駆け寄って来るところだった。
「ああ、いたいた! よかった、追いついて。あのさあ、俺……」
グラジオが近づいてくると、ウルの体がぐらりと大きく傾く。リナリアがあっと思った時には、どさっと倒れてしまった。グラジオが「わあ!」と足を止める。
「えっ、ウル!? どうしたんだ!? ちょ、ちょっとベティーーーー!!」
神殿に響き渡るグラジオの大声に、ベティがすっ飛んできた。リナリアも、緊張された解放された安心からか、だんだん目の前がくらくらしてくる。
「何事ですか、グラジオ王子様!? あれっ、ウルさまーーー!?」
「わ、わかんないけど今倒れちゃって、リナ――」
グラジオは言い終えるより前にリナリアに駆け寄って、倒れそうになったリナリアを体で支えた。
「だ、大丈夫か? なんだ二人して……」
「あ、平気、です……なんだか、ひどく……疲れて……」
「なんか怖いな。一応侍医のとこ行っとくかあ。ほら、おんぶするから頑張って背中乗れ」
体は重かったけれど、しゃがんだグラジオの背中になんとかおぶさる。グラジオは「よっ」と声を出して立ち上がった。リナリアは重くなる瞼を必死で開きながら、弱々しく兄に問いかける。
「お兄さま、どうして、ここに……?」
「あー……」
グラジオはしばし言いづらそうにしていたが、ちらっとリナリアの方を振り返った。
「あの、ファルンのこと……リナは何も悪くないのに、勝手に怒って、デコ弾いてごめんな」
「え……」
意外な言葉に、固まってしまう。グラジオは前を向いて歩きながら、ぽつぽつと言葉を続ける。
「俺、とにかく何とかしたくてさ。リナもリオンも魔法のことよく知ってるし、良いやつだし、みんなで協力したらきっと何とかなるって思ってるよ、今も。でも、リナに良い返事がもらえなかったからって、怒って痛いことしたのは俺が悪かった。リナは困ると動けなくなっちゃうの、知ってるのにな」
兄の優しい声音に心が解けていく。リナリアは兄の肩に置いた手に力を入れた。
「お兄さま……もう怒ってない? リナと仲直りしてくださる?」
グラジオはリナリアを軽く背負い直す。
「……おう! もう怒ってないぞ。仲直りする!」
「お兄さま……」
力強い兄の声の安心感で胸の内があたたかくなって、リナリアはグラジオの首にしがみついた。
「ぐえ、こら。あんまりぎゅってすると苦しいだろ、肩にしろよな」
「あ、ご、ごめんなさい」
「全く、リナは神童って言われてるくせに、母上にも俺にも、急に甘えん坊になるんだもんなあ。そりゃヘレナほどじゃないけどさ」
グラジオの背中は、まだ子供らしい狭さではあるけれど、日々の訓練で筋肉がだいぶ硬くなっているのが伝わってくる。重いかもしれないと思ったけれど、兄の背にもたれるように身を委ねた。優しい揺れが、また眠気を誘う。
うとうとしながら、ここが神殿であることを思い出した。
(ウルが起きたら、元のウルに戻っていますように)
縋る思いでそう祈った頃には、まぶたは落ちていた。
『目が覚めたら、ちゃんと正しい王女様に戻っていますから』
彼の言葉が再び聞こえた気がした。
(……いやだわ)
リナリアはわずかに眉根を寄せる。遠くで、クロノが呼ぶ声が聞こえたような気がした。
(わたくしは……起きても、このままが、いい……)