黄昏の神殿
食事の後、ヘレナがリナリアの後ろにくっついて、ウルを見上げては隠れ、見上げては隠れを繰り返していた。ウルは少し困った顔をしている。グラジオが呆れ顔で「ヘレナぁ」と腕組みをする。
「ウルになんか言いたいことあるなら、隠れずにちゃんと出てこいよ」
「まだ恥ずかしがってるんですよ。ね、ヘレナ」
ヘレナをフォローすると、グラジオを否定するような形になってしまうのが少し、心苦しかった。ヘレナはもじもじと両手を前で組んで、そうっとリナリアの隣に並ぶ。
「あのね……ウルおにいさん、ヘレナのおへやあそびにきてくれる?」
ウルは戸惑った様子でリナリアを見た。リナリアの後ろに控えていたばあやが、にこやかに「あら、それなら……」とヘレナの世話係のエリカをちらりと見やる。
「リナリア姫さまとグラジオさまもご一緒にお遊びになってはいかがでしょう? 最近はご兄弟でお遊びになる機会もあまりございませんでしたし」
「それは確かに良いですわね! リナリアさまに分けていただいた遊戯盤もございますし」
リナリアは兄の表情を伺う。グラジオは「うーん……」と難しい顔をしていたが、隣のウルの顔をちらと見て、両手を頭の後ろに回した。
「仕方ないなぁ。ちっちゃいの二人の相手をさせられるウルが気の毒だから俺も行くよ」
「ヘレナ、まえより、せぇのびたもん!」
ヘレナがぷくっと頬を膨らませてぴょんぴょん飛んだ。ウルがクスッと笑う。
「では、少しだけお邪魔いたします」
少し緊張がほぐれたようなので、リナリアはホッと息を吐いた。隣のヘレナの背中をそっと押す。
「ヘレナ、ウルお兄さんに手を繋いでいただいたら?」
「……うん」
ヘレナはまだ少しもじもじしていたけれど、こてんと首を傾げてウルに手を伸ばした。ウルはにこりと優しく微笑んで、ヘレナの手をそっと握る。ヘレナがにぱっと明るい笑顔になったのを見て、リナリアたち兄妹だけでなく周囲の皆の空気が和んだのを感じる。
二人が歩き出したのを見て、リナリアはちょこちょことグラジオに駆け寄った。グラジオが少し口を尖らせる。
「なんだよぅ」
先に歩き出したグラジオを小走りで追いかけて、くいっと服の裾を握った。
「お兄さま」
「えっ、ん? ほんとに何?」
驚いた顔で振り返るグラジオの顔を上目遣いで見て、またすぐに視線を落とす。なんて言ったら良いのかわからなくて、そのまま黙ってしまった。
グラジオは「はあ」とため息をつき、リナリアの手を服から外してぎゅっと握る。
「……黙ってたらわかんないだろ。ほら、置いてかれるからいっしょに行くぞ」
そう言って、グラジオはリナリアの手を引っぱって少し大股で歩いた。怒っているようではなかった。リナリアは「はい」と小さく返事をして、兄の手をきゅっと握り返した。
グラジオはウルに追いつくと、「ねえねえ」と気軽な調子で話しかける。
「ウルってさー、ふだんどんな遊びするの?」
グラジオに問いかけられて、ウルは「ええと……」と首を傾げた。
「遊び……は、あまり。勉強以外では、絵を描いたり、本を読んだり……」
「げっ、読書かあ……あっ、騎士物語は読む?」
「最近は読んでおりませんが、城に来たばかりの頃は読みました。図書館にある読めそうな本を手当たり次第借りて読んでいましたので……」
「ええっ、手当たり次第って何!? すっご。俺は本読むの嫌いなんだけど、騎士物語だけは読めるんだー。かっこいいもん。ウルは好きな騎士いる?」
兄は兄なりにウルに気を遣っているのかもしれない、と横顔を見ながら思う。父は、子どもだけで勝手に仲良くなると思っているのだろうが、実際はリナリアとグラジオがかなり気を回して、ようやくウルが話せる環境ができるというのが現状なのだ。もし昔のリナリアならヘレナ以上に人見知りをして、きっと部屋に戻ってしまっただろう。
ヘレナは静かに話している二人をじっと見て、ときどきウルと繋いだ手をゆらゆら振って構って欲しそうにしていた。
ヘレナの部屋に到着すると、ここからは自分の番だと言わんばかりに、ヘレナが両手でウルを引っ張って奥に連れて行こうとする。
「ウルおにいさん! ヘレナのおえかきのやつ、みてぇ」
「あっ、ヘレナ、ウルをあんまり引っ張ってはダメよ」
体調は大丈夫だろうか、とウルの顔色を見ると、心なしか少し青い気がする。やはり王族と使用人に囲まれた環境に緊張しているのだろうか。
グラジオがリナリアの手を離し、ウルの背中をポンと叩いた。
「気分悪くなったら言ってくれよな。送ってくから」
「い、いえ、大丈夫です。そのような……お気遣いなく」
ウルは控えめに微笑んでヘレナに招かれるまま中へ入っていく。ヘレナは大きな箱から、今までに描いた絵を並べて説明を始める。リナリアとグラジオも近くに座ってそれを聞いていたが、グラジオはヘレナの絵ではなくウルの横顔を興味深げに眺めていた。昨日はまだ実感が湧かなかったのが、二度目に顔を合わせて思うことも出てきたのかもしれない。そんな兄に自分の都合で話しかけるのが躊躇われ、リナリアは兄から視線を逸らしてヘレナの絵を見ていた。ヘレナの絵に描かれた人たちはいつもニコニコと楽しそうにしている。バーミリオンもときどき登場していて、最近の絵にはサハーラの双子も描かれていた。一通り説明が終わると、ヘレナは同じ箱からスケッチブックを取り出して、ウルに渡した。
「ウルおにいさん、なにかかいてぇ」
「えっ、あ、そう、ですね……」
グラジオがポケットからペンを抜いてウルに渡した。ウルはそれをうやうやしく受け取って、ヘレナに笑いかける。
「じゃあ、ヘレナ様はどんな動物がお好きですか」
「うさぎ! かわいいの!」
「承知しました」と返事をして、ウルはサラサラとスケッチブックに線を描き始める。さほど時をおかずして、本物よりも少し絵本風にデフォルメされたかわいらしいうさぎがスケッチブックに描かれた。ヘレナが「わあ」と目を輝かせた。
「すごい! すごい! かわいい! おにいさん、つぎ、とりさんがいいわ、ことりさん!」
「はい、小鳥ですね」
ウルはヘレナにリクエストされた動物を、どんどんスケッチブックに並べて描いていく。前に「リア」として一緒に勉強していたときに少しだけ見たけれど、やっぱり上手だと思った。あの物置にある父の絵の数々を彷彿として、少し切ない気分になる。
次々描かれる動物を見て、兄もまた目を輝かせ始めた。
「なあなあ、ウル、俺もお願いしたいんだけど」
「はい、なんでしょう」
絵を描いてリラックスしてきたらしいウルが、にこやかにグラジオを振り返った。グラジオは嬉しそうに笑い返す。
「鷹って描ける? 俺、ムートって名前の鷹飼ってるんだ」
それを聞いた瞬間、ウルの目が揺れ、口元が固まった。それは多分いつも一緒にいたリナリアだからわかった微妙な変化で、実際、兄はその表情の変化には気づかなかったらしい。
「鷹、ですか」
「うん! 難しい?」
ウルは、無邪気に笑うグラジオから目を逸らす。顔色が悪い。グラジオはその反応を見て「あー……」と苦笑した。
「確かに、レガリアにはあんまりいないし、見たことないと難しいよな。今度俺の部屋に遊びに来てよ。ウルにも会わせるから! サハーラの友達から誕生日にもらったんだー」
「……はい、すみません、グラジオ様」
リナリアは立ち上がって、ウルの肩をトントンと叩く。
「ウル、そろそろ戻りませんか。途中まで一緒に行きましょう。今日の授業のことでウルに相談したいことがあって」
「あ、リナリア様……ですが、」
ウルがヘレナの方を見る。ヘレナは不満げに「えーっ」と言った。
「もうかえっちゃうのぉ、ウルおにいさんのおえかき、もっとみたいのにぃ」
「次はお姉さまのわがままを聞いてもらう番なのよ。さ、ウル行きましょう」
ウルの手を引っ張って立たせ、そのまま部屋の外まで引いていく。グラジオはそれを黙って見ていたが、ヘレナを促して一緒に片付けを始めた。
部屋を出たところで、リナリアはふうとため息をついた。後ろにはばあやとベティが控えている。
「今日もお父さまの都合で呼び出されたのですよね。ごめんなさい……」
「いえ、とんでもないです。すごく緊張はしましたが、美味しいご飯でびっくりしました」
ウルは健気に微笑んだ。手を繋いだまま、リナリアはゆっくり歩き出す。
「ヘレナ、ウルのことすごく気に入ったみたいです。ウルは優しいですから……きっとヘレナは好きになるだろうなと思っていました。あの子はお絵描きが好きで、よく一人で描いているんです」
「そうなのですね。色彩の使い方が綺麗だなと思っていました。ヘレナ様はきっと、これからもどんどん上達なさると思います」
「そうですか……ありがとうございます」
それから今日のサイラスの授業について話しながら歩いていたが、城の外に出て神殿に差し掛かったとき、ウルがぴたりと足を止めた。
「ウル?」
ウルを少し見上げると、空も一緒に視界に入ってきた。まだほんの少しだけ夕焼けの赤みが残っているものの、すっかり日は落ちて空は昏く、星が輝き始めている。ウルはただ真っ直ぐに神殿を見ていたが、ふとやわらかく微笑み、リナリアの手をきゅっと握り直した。
「リナリア様、少し神殿に寄っても構いませんか」
そう言うウルの横顔は、とても穏やかに見える。自分の生活領域に入って落ち着いたのだろうか、と理解したリナリアはこくりと頷いた。
「ええ、構いません。最近、ウルと隣でお祈りができていなかったので寂しいなと思っておりました」
「ありがとうございます。では参りましょうか」
先ほどまではリナリアに引っ張られるように歩いていたウルが、今度はリナリアの手を引いて神殿に歩き始めた。少し早足だ。リナリアは一生懸命それについていく。
(避難、のようなものなのかもしれないわ。きっと精神的にだいぶ無理をさせてしまったもの)
「ウルさま、ちょーっとリナリア王女様にはペースがお早いのではないかとー!」
ベティが隣に追いついてウルに話しかける。リナリアは「いいのよ」と言ったけれど、ウルがハッとした顔でピタリと止まった。
「申し訳ありません、つい気がはやってしまい……お抱きいたしましょうか」
ウルがそんな提案をするのは珍しい。リナリアは首を振った。
「いいえ、大丈夫です。お疲れでしょうから、お気になさらないで。もうすぐそこですし、このまま行きましょう」
神殿に着くと、いつも朝来るときのようにベティとばあやは外で待機し、リナリアとウルは二人で中に入った。
夜の神殿は静かで、ところどころにロウソクの灯りがほんのりと輝いているくらいだ。リナリアが宿直の神官の部屋に向かおうとすると、ウルがくいっと手を引いてそれを止めた。ウルの青色の目が、リナリアの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「少しだけですから、大丈夫でしょう。祈りの間はいつでも解放されています」
「……そう、でしょうか」
なんだか違和感を覚えて、リナリアは少し不安になった。そういえば、クロノは部屋で待っているのだろうか。
ウルが僅かに目を細め、しかし瞬きをせずにリナリアの瞳を見続ける。
「大丈夫ですよ」
その宝石のような綺麗な目を見つめていたら、本当に大丈夫なように思える。ウルのことを頼もしく思い、リナリアは笑顔で頷いた。
「……そうですね。ウルがそう言うのなら」
ウルは満足そうに微笑んで、リナリアの手を引いて祈りの間に入っていく。
祈りの間は、壁のロウソクに火は灯っておらず、全体的に暗かった。ただし前方の祭壇に置かれた燭台には、大きなロウソクが静かに輝いている。
少し怖い気もしたけれど、それもすぐ平気になった。
(だって、ウルが大丈夫だと言っていたわ)
一番前まで行って、ウルは立ち止まり、そっとリナリアの手を離した。そうされると急に不安になって、リナリアは「あ」と声を漏らす。リナリアの方を見たウルがふっと目を細めて笑った。
祭壇のロウソクの明かりが、二人の顔をぼうっと照らす。いつの間にか、ウルの表情に少年らしさは感じられず、まるであの夢で会った彼のように優しく甘く微笑んでいる。
「ようやく二人になれた。ねえ、王女様」