精霊を使う授業(1)
翌朝の食事の席で、グラジオはリナリアの顔を見てもツンとそっぽを向いてしまって何も話さなかった。昨夜のことをまだ気にしているようだ。その態度があからさまだったので、食事の後に母が心配してリナリアに何があったのか尋ねてきた。
「グラジオと何かあったの? まさか、『あの子』のことで何か……」
母が言うところの「あの子」というのはウルのことだ。リナリアはぶんぶん首を振って、苦笑した。
「大したことではないんです。ちょっと……お兄さまと話しているときに、意見が合わないことがあって……」
「そうなの……? もし、何かあったらなんでも言ってちょうだいね。もうお母さまから『あの子』に直接働きかけることはしないけれど、グラジオやあなたが傷つくようなことがあったら、それを助けるのはお母さまの役目なんだから」
母はリナリアの額にキスをして優しく笑った。
兄と話したかったけれど、今日は魔力実践の授業日で午前も午後も授業がある。リナリアはひとまず朝の祈りのために神殿に向かうことにした。隣にウルがいないのはやはり寂しい。
神殿のステンドグラスを見ると、夢に見た大人のウルのことが浮かぶ。
彼は、リナリアを知っているようだったけれど……リナリアはまだ、彼のことを思い出せないでいる。ステンドグラスから差し込む虹色の光が、あの人の白い神官服を染めていたのがまぶたの裏に浮かんだ。
(あのとき、あの人は確か――)
『王女様は、いつも何をお祈りなさっているのですか?』
その言葉を思い出したとき、胸の奥が嫌な感じに疼く。ヒヤッとして、慌てて考えないようにした。最近は発作も出ないようになっていたのに。少し離れたところにいたクロノが、近くまで来てくれる。
〈リナリア、何かあったか? 魔力が揺らいだようじゃったが〉
(あ、な……なんでも。久しぶりに、少し胸の奥が疼いたような気がいたしましたけれど、すぐに収まりました)
〈……ふうん? なんぞ思い出したんか〉
クロノは怪訝そうに首を傾ける。リナリアは言うべきか迷ったが、静かに首を振った。
(……いえ、大したことではありません。わたくしが……勝手に不安になってしまっただけなんです)
クロノは口を尖らせてリナリアの額を軽く弾いた。
「いたっ」
「ちょっとしたことですぐ落ち込むのは、姫の悪い癖ですよ。さ、切り替えて学舎に移りましょう」
そう言って、クロノはリナリアをひょいと抱き上げてさっさと神殿から出てしまう。
クロノの肩越しに遠ざかっていくステンドグラスを見つめる。その光の先で静かに微笑む大人のウルの幻が見えるような気がした。
『そう、おまえはあの日、そう言ったね。だから、私は――』
(あの人は、あのとき何て言おうとしたのかしら。また、夢で会えるのかしら)
ぼんやりそう思ったけれど、やっぱり会うのも怖い気がして、どうしたら良いのかわからなかった。
午前のシャロンの授業は特に問題なく済んだが、問題は午後である。昨日のグラジオのことも思い出されて、昼食中も気がそぞろになってしまい、コップを倒したりフォークを落としたりしてしまった。
「リナリア様、大丈夫ですか?」
ウルが落としたフォークを拾ってくれる。今日も食事だけ一緒にと約束していたのだ。自分と同じ色の瞳を見つめるのが、今は少し躊躇われた。リナリアは目線を逸らして、フォークを受け取った。
「すみません。もう食べ終わりましたので……」
「何かご心配なことでも? いつも完璧な所作のリナリア様がフォークを落とされるなんて!」
「ヨナスはいちいち大袈裟なのよ。でも、もし体調が悪かったら言ってくださいね。授業お休みなさるなら、私からサイラス先生に言っておきますから」
ティナとヨナスも心配そうにリナリアを見ている。リナリアは首を振って微笑んだ。
「大丈夫。昨日ちょっと……お兄さまと仲違いをしてしまって」
「えっ、リナリア様でも兄弟喧嘩なんてなさるんですか?」
ティナが驚いた顔で口を覆うのを見て、今度はヨナスが「こら」と言った。
「ティナも似たようなもんじゃないか! 兄弟喧嘩の一つや二つあったっておかしくないですよねぇ」
実際のところ、リナリアはグラジオと喧嘩したことはほとんどない。今回も喧嘩というよりはグラジオの機嫌を損ねてしまったと言う方が近いだろう。この間母と仲直りした時は、素直に仲直りしたいと言って解決したけれど、兄もまたそれで機嫌を直してくれるのだろうか。
兄の希望に対して何か具体的な対応ができたら話しやすいかもしれないと思い、リナリアは友達の顔を順に見てからぽつぽつと話し始めた。
「……お兄さまが、学舎の、このお部屋を見たいとおっしゃって……その、うまく、歓迎できなかったと申しますか……お兄さまが学舎に来ても怒られない理由を見つけられなかったのです」
ファルンのことは、一応伏せておいた。ウルが腕組みをする。
「……普通、王族の方は、魔法には関わらないように気をつけられているのでしたよね。リナリア様のお世話係になる前に、そういう説明を受けました。王子様ともなれば、より厳しいのでしょうが……必要性を探すのなら、やはり資料でしょうか。または、建物の構造、歴史、とか……」
「グラジオ王子はまだ幼いながらに、騎士見習いとして相当優秀でいらっしゃると聞きました! 騎士の人たちって合同訓練もするんですよね、その方向で何とかならないですかねぇ。グラジオ様がこの部屋を休憩所としてお使いになるようにするとか!」
ヨナスも真剣な表情でアイデアを出してくれる。
「なるほど、資料と訓練……ですか」
そういえば兄も「いつか合同訓練しよう」と言っていた。そのあたりから糸口が探せないか、リナリアは心に留めておくことにする。
時間になったのでウルと別れ、午後の教室に向かった。教室では同期の皆も昨日のアーキルの授業の影響か、どこかソワソワしているように見えた。
授業時間になると、サイラスは意気揚々と教室に入ってきた。その後ろから、アーキルがファルンと共に入ってくる。昨日とは違い、ファルンの手首は細い縄のようなもので縛られ、その縄の先をアーキルが握っていた。アーキルはサイラスに縄を引き渡すと、ファルンの肩をとん、と軽く叩いて教室から出ていく。
皆、どこか不安そうな顔をして同期の顔をチラチラと見ていた。サイラスは機嫌よく「ごきげんよう!!」と大きな声を出した。
「諸君、昨日はアーキルの授業で精霊についての基礎知識を得たそうだな!! 私の授業では、この精霊を『使って』授業をしていくぞ!! 早速だが、ヨナス!! リナリア王女!!」
「えっ、あ、はいっ!?」
「は、はい」
唐突に指名されたヨナスが慌てて立ち上がる。リナリアもヨナスに続いて立ち上がった。魔力の探知が苦手な二人である。サイラスは二人に満面の笑みで手招きをした。
「前に来て、この精霊に魔力探知をかけてみなさい!!」
「ええっ!? で、でも、昨日アーキル先生は、火属性の人は触っちゃダメだって……」
サイラスは大きく手を振った。
「触る必要などは無い!! まあ良いから私の言う位置に立って手を伸ばすだけで良い! それから、他の者は今いる席から探知をかけてみなさい!! 精霊の方に両手を伸ばして……あ、フリッツは教室のいちばん後ろからでも良いぞ!!」
フリッツはすぐに立ち上がって壁まで下がり、手を挙げた。
リナリアとヨナスはサイラスの指定した場所で立たされ、両手をファルンに向けて伸ばした。ファルンとは人ひとり分ほど離れている。サイラスは教室全体を見渡し、大きく頷いた。
「では一斉に、探知開始!!」
何だか異様な光景だったけれど、各々緊張した面持ちで探知を始めたようだ。リナリアも、伸ばした指の先とファルンに意識を集中してみる。対象がこんなに離れているのは初めてだった。
しかし、手応えはすぐにあった。ファルンと手を繋いで探知したときと同じ、水のイメージがすぐに手の先と頭に流れ込んでくる。あまりにすぐだったので驚いて手のひらを確認してしまった。本当に濡れてしまったのかと思うほどの「水」の気配。ヨナスも同じだったようで、驚いた顔をして自分の両手を見つめていた。振り返れば、各々の席から探知をかけていた他の生徒たちも戸惑いや驚きの表情をしている。
「フリッツ!! そこからでも水の気配は感じられたか!!」
サイラスに声をかけられたフリッツは「ふん」と鼻で笑った。
「もちろんです、先生。それ以前に……探知をかける前から気配は感じていました」
「よろしい!! 諸君、身をもって体験した通り、上級精霊の持つ魔力というのは本当に桁違いである!! 私たちのような現役の検閲官ともなれば、同じフロアにいるだけで探知せずともどこにいるかわかってしまうほどだ! 魔力探知のプロともなれば城内の敷地に探知をかければ場所もわかるだろうな! 無論、精霊側も普通はその魔力を隠しているため、そう簡単にはいかぬが、この精霊は魔法の使い方を知らないで育った個体だからな!!」
サイラスは思った通りにことが運んだためか、ますます機嫌を良くしたようだった。リナリアも内心ほっとしていた。
(このくらいのことなら、心配する必要もなかったかしら……)
「もう少しイキの良い個体だと、君たちよりも上級の生徒の戦闘訓練に使用できるのだがな!! この精霊はおとなしいから、初心者が精霊というものを知るための貴重なサンプルだ! 物理的刺激を与えたらどうなるかも見せたいのだが、あまり手荒にすると魔力が暴発してもいけない!」
安堵も束の間、背筋が冷えた。
(ファルンが魔法を知らない子でよかったです)
サイラスが「さて!」と手を叩く。
「これは本来はシャロンの領分に関わるのだが……応用だ! 今度は精霊から探知した魔力を分析して使用してみよう!!」