ダンスと波乱
ダンスの時間の音楽演奏はムジーク家を筆頭にした宮廷音楽隊だと聞いた。おそらく隊長であり指揮棒を執っているのがムジーク伯爵家当主──年齢的にフリッツの祖父だろう。
チューニングが始まってから、会場の整理が始まり中央にダンスが踊れるだけの空間ができる。主役のリナリアとバーミリオンは、案内に従って中央に移動する。
ふと気がつくとパーティーの始めにはいなかった父が母と手をとり、開けた空間の中央に立っていた。大臣が口を開く。
「ご来場の紳士淑女の皆様。これよりダンスのお時間となります。そして、本日お誕生日のリナリア王女のダンス初ご披露の場でもあります。王女のファーストダンスのお相手を務められますのは、隣国アルカディール王国第一王子、バーミリオン・マーリク・アルカディール殿下でございます」
紹介を受け、リナリアとバーミリオンが国王夫妻の前に出て礼をし、また四方に向けて礼をする。一緒にリハーサルをする時間はなかったけれど、バーミリオンの所作はとても優雅で、リナリアとの息も合っていた。お互いに目を合わせて相手の動きに注意していたからかもしれない。
正式な紹介の後、会場はそれなりにざわついた。リナリアのファーストダンスの相手が隣国の王子というのは隠していたことではないので情報通の貴族たちは知っていただろうが、大々的に発表していたわけではないので知らない人も多い。アルカディール王国の王族とレガリアの王族が親しくしているのは昔からの風習であるけれども、リナリアの年齢で兄であるグラジオではなくバーミリオンが相手になるというのは、王室としてもかなり信頼を置いているという証である。
以前の人生ではダンスのレッスンも完璧にこなしてはいたものの、ダンスそのものはさほど好きではなかった。公の場でダンスを踊るのも緊張してしまうので、10歳ごろまでは先生の許可があっても断っており、それ以降も兄や親戚筋の公爵家の子息など、よく顔を合わせる機会のある男性と踊っていた程度である。バーミリオンにダンスを打診するなんてとてもじゃないけれど出来なかったし、バーミリオンが誰かと踊っているのも見たことがない。
今回のダンスも、リナリアが倒れていた影響もあってバーミリオンと合わせる時間が取れなかったので、来る途中で少しダンスの順の確認をしたとはいえ二人で合わせるのは一発本番だ。つまり、リナリアがバーミリオンの踊る姿を見るのも今日が初めてなのだ。
何度も兄と練習したけれど、音楽が鳴り始めて急に緊張してきた。周囲の貴族の耳目が集まっているのもヒシヒシと感じる。
(ええと、まずは向かい合って礼をして、それから肩に手を……)
バーミリオンと向かい合ってスカートをつまみ、できるだけ優雅に見えるように指先まで意識して礼をする。バーミリオンの靴から、水晶のブローチ、それから顔へゆっくりと視線を移動させる。すでに頭を上げていたバーミリオンは優しく微笑んでいて、その表情からは全然緊張した様子は感じられない。見慣れない黒の衣装が、彼の年齢以上の大人っぽさを際立たせていて、記憶の中の、成長した彼の姿にも重なる。
「リナ、手を」
手を差し出されて、自分が彼にすっかり見惚れて固まっていたことに気がついた。焦って、手が震える。バーミリオンはリナリアの背中に手を回し、軽くポンポンと叩いた。
「失敗しても大丈夫。楽しもう」
その言葉に緊張してカチンコチンになっていた体の力が抜け、音楽に合わせて体が動き出した。滑るようにのびのびと、そして優雅に。前の人生でも、今回の人生でもたくさん練習した経験が、リナリアの一歩一歩を支えてくれた。だから、バーミリオンの顔をちゃんと見ることもできる。
バーミリオンは余裕そうに見えていたけれど、よく見るとこめかみや首筋が汗で光っていた。もしかしたら、彼は彼なりに緊張しているのを隠してリナリアの緊張を解きほぐそうとしてくれたのだろうか。リナリアの視線に気がつくと、バーミリオンはニコッと笑ってくれる。大きく踏み出すステップの前や、姿勢を変える前などには「1、2、3」と二人で小さく声を合わせてタイミングを揃える。
グラジオは昔も今も、だんだんリズムに乗ってくると練習中に唐突にアドリブを入れてくるので、習った通りに踊りたいリナリアは対応に苦労した。その点でバーミリオンは教科書通りのお手本のようなダンスをしてくれるので、とても踊りやすかった。
難しいところも息を合わせてクリアしていくうち、踊る前は気になっていた周囲の視線も全然目に入らなかった。バーミリオンと二人で一つになって踊っていることが、ただ楽しくて、近くで見られる彼の顔を一生心に焼き付けておこうと思った。
(願わくば、セカンドダンスも……これから先もまたこうしてリオン様と踊りたい……なんて、わがままかしら)
楽しい時間もやがて終わる。最初の曲が終わり、体を離して礼をした。バーミリオンの頬が少し紅潮している。リナリアも、頬が熱いからきっと同じくらいか、もっと頬が染まっているかもしれない。リナリアたちの周囲で、わっと拍手が巻き起こった。それに驚いて周りを見ると、近くでヨナスが派手に手を叩いていた。
「すばらしいダンスでしたー!! リナリアさま! イテッ」
ヨナスが背後から近づいてきた紳士に叩かれた。髭を生やしているけれど、若く見えるから、彼の兄だろうか。
「こら、ヨナス。あまり目立つんじゃない。全く……いや、でもすばらしい! 公の場で初めてのダンスのご披露とは思えませんね」
近くの淑女が扇で口元を隠しながら、ゆったりと頷く。
「本当に。幼い王女様と王子様とは思えませんでしたわ。大人のダンスを見ているかのよう」
「ファーストダンスを踊られているということは、バーミリオン王子様とリナリア王女様は、特別仲がよろしいのでしょうか。まだご婚約の話は決まっていないと思いましたが、もしや……」
母の狙い通りとはいえ、聞こえるところで婚約の噂まで出ると流石に少し気恥ずかしい。バーミリオンに聞こえていませんように、と思いながらもう一度彼の近くに行く。
「リオンさま。ありがとうございました。最初緊張していたのですけれど、リオンさまに楽しもうと言っていただけたおかげで力が抜けて……とっても楽しかったです」
バーミリオンはハンカチで首元の汗を軽く拭って、微笑んだ。
「こちらこそ。習った通りに踊れてよかった。難しいところも、リナと一緒だったから上手にできたんじゃないかな。とても楽しかったよ」
幸福感と達成感で世界が輝いて見えた。
通常ならば、そのままセカンドダンスに移るのだが、進行役の大臣が再び中央に進み出て大きく咳払いをする。
「セカンドダンスの前に、リナリアさまのご学友、フリッツ・ムジーク伯爵令息によるお祝いの演奏をお聞きいただきます」
さざなみのようにざわめきが広がる。ヨナスが言っていたように、ムジーク家の長男をパーティーの場で見かけないことは貴族の間では元々噂の的だったのだろう。
フリッツはバイオリンを片手に、堂々とダンスのために開けられた広間の中央に来てリナリアに深々と頭を下げた。
「ご紹介に預かりました、フリッツ・ムジークでございます。リナリア王女殿下、本日はお誕生日おめでとうございます。これから演奏するのは短い曲ではございますが、今日王女殿下に捧げるためにワタシが作って参りました」
その言葉に、今度は音楽隊がざわめいた。贈り物として音楽が捧げられるときは、伝統的な曲を選んで演奏されるのが常識である。自作の曲を披露するなどは、よほど名の知られた音楽家のすることである。動揺する音楽隊を見てニヤリとしたのが見えたので、リナリアは思わずクスッと笑う。
「それはありがとうございます、フリッツ。楽しみです。タイトルはなんというのですか?」
フリッツがバイオリンを構えた。
「まだございません。演奏後、リナリア王女殿下にお名づけいただければ光栄です」
そんな挑戦的な言葉の後で、彼は深呼吸をして弦を滑らせる。
小鳥が囀るように曲が始まった。弾むような音や丁寧なビブラートがよく響く明るい曲で、聴いていてワクワクした。あのフリッツがこんな明るい曲が作れるというのが正直意外で、けれど彼の本気を感じた。
最後の音を響かせ終わったフリッツは弦を上げて、大きく息を吐いた。全部で2、3分程の短い曲で、終わってしまったのがもったい無く感じた。関学隊とは別演奏で、間に挟む形になるので早めに演奏をまとめるように言われていたのかもしれない。
しんとした会場に、リナリアが一番に手を叩いた。後ろにいたヨナスがそれに続いて大きく拍手をする。バーミリオンも手を叩いて、周囲の貴族たちもそれに習った。ムジーク家率いる音楽隊だけは何の反応もしなかったけれど、フリッツは満足げに胸を張って額の汗を拭った。
リナリアはフリッツに近づいて礼をする。
「フリッツ、すばらしい演奏でした。小鳥が歌っているような、明るくて楽しい曲でしたね。聴いていてワクワクしました」
「光栄です、王女殿下。実は……」
フリッツが少し身をかがめ、リナリアにだけ聞こえるくらいの声で囁いた。
「リナリアさまをイメージしたら、おとなしい曲にはならなかったもので」
「まあ」
ふふっと笑って顔を上げる。
「……では、お願いされていたタイトルですけれど、『春の始まり』というのはいかがでしょうか。春のイメージがしたのです」
フリッツが大仰に礼をした。
「ありがとうございます、リナリア王女殿下。それではこの曲の題は『春の始まり』として、あなた様にお捧げいたします」
フリッツが退がり、音楽隊はセカンドダンスの曲のために改めてチューニングを始める。
バーミリオンが近くに来て、リナリアに手を差し出した。
「リナ、もしよかったら次のダンスも――」
「リナリアー!!」
そこへ、クローブが大きな声でリナリアを呼びながら割って入ってきた。クローブは自分の服で手を拭いて、乱暴にリナリアの手を掴む。
「きゃっ」
「次は俺と! このために、国でこっちのダンスをすっごい練習させられたんだからな!」
バーミリオンがムッとした顔を隠そうともせずに、クローブの腕を掴んだ。
「クローブ皇子、ダンスを申し込まれた方が手を取るものだよ。リナはまだダンスを受けていないだろ。それに私の方が先に申し込んでいた」
「お前はさっき踊ったばっかだし、別に構わないだろ! なんか知らないうちにお前が先に踊ることになってたけど、本当なら俺の方が先に踊ってもいいくらいだぞ。だって……」
クローブは得意げにニヤリと笑って、リナリアの顔を覗き込む。
「リナリアは俺のコンヤクシャになるんだからな!!」